技術発展と社会

戦後技術と戦前技術

技術史家の星野芳郎氏によれば戦後の日本技術の発展を可能にした要因のうちでも最も重要な要素として以下の三点をあげています。

1.欧米先進技術の全面的な技術導入

2.科学者、技術者に自由な精神活動を許容したこと

3.企業に対する労働組合の絶えざる賃上げ圧力

1は技術的後進国が短期間で先進諸国の技術レベルに追いつくためには必要不可欠とも思える事で、後進国が国内に先進国の技術によって工場や研究設備をつくり、その時点で最新の技術を身近に見て習得してゆくものです。

これは戦後の日本を問わず1970年以降の韓国、台湾、中国、アセアン諸国が日本を始めとする先進技術を国内に導入して、短期間で先進国に並び立つ技術力を得るに至った過程とも一致します。

しかしただ単に最新技術を導入しただけではより新しい技術の開発は困難です。これを可能にするのが2の科学者、技術者に対する自由な精神活動の許容であり、彼らが様々な角度から新たな技術開発の目を見出しそれを育てることを自由に行えるようにしてゆきます。

戦前の日本では、天皇制に依って軍部を中心とした軍事独裁政権が国を支配し、国民の精神的自由は大幅に制限されました。軍の意向に反する発言は軍部によって排除され、それに従わない人々は非国民や赤のレッテルを張られて投獄されたり社会から追われました。

日本の若者は武士道や忠君愛国の精神を叩きこまれ、欧米の書物、ことに英語の書物は敵性言語として教えることさえ憚られるといった状態が出現して自由な精神活動など全く考えられない時代となったのです。

更に連合国の海上封鎖によって海外からの技術文献の流入がストップしてしまい、海外文献に頼って学者風を吹かせていた大学の学者達には、新たな発想や原理による海外の新技術を模倣することがかないません。

正にこの時代こそ、日本国内における科学技術の歩みが、まるで時計が止まってしまったかのように停止した技術の暗黒時代で、戦後に至って欧米諸国の最新技術が国内に流入してくると、彼我の技術的格差は目も眩む程のレベルとなり(このような状況は特に電気制御や電子工学の分野において著しく)国内の技術者を愕然とさせたものでした。

敗戦後、一気に国内に流入した欧米の圧倒的な科学技術を目の前にした日本の技術者は、彼らのレベルに追いつくため必死の努力をして技術を吸収しますが、その過程で国内の社会環境の変化が彼らの大きな助けとなります。

戦前の軍部独裁による暗黒政治は占領軍(GHQ)によって退けられ、それに変わってGHQの指導でアメリカ流の民主主義が導入されました。

日本にとって誠に幸せであったことは、GHQの民政官の中に、アメリカ本国のレッドバージで国を追われた社会主義的傾向の強い人々が結構含まれていたことです。

彼らはアメリカ本国で果たし得なかった社会民主主義的な世界をこの極東の小国の中で実現したいと考え、当時のアメリカでさえも及び得ない先進的な憲法想起を日本の学者に委ねます。

彼らの意思は戦後の平和憲法に結実するのですが、日本国憲法が

天皇制の封建的体質が軍部の独裁と侵略戦争を引き起こしたとの観点から、国民の右傾化を抑える意味からも労働運動が擁護されGHQの指導で多くの労働組合がつくられました。

戦後における国内のあらゆる科学技術分野における急速な発展は、戦後占領軍に依ってもたらされた民主主義によって、それまで閉塞状況に置かれていた国内の科学技術の各分野で戦前の封建的な学閥体制を打ち破り、各研究者や技術者達が戦前では考えられない自由で開放的な雰囲気で活動することが可能になったことが最大の要因であると言われます。

国民の自由な精神活動を許容することこそ、現代社会において国家を発展させる鍵であることは、近年の中国、韓国、台湾、マレーシア等ASEAN諸国の発展ぶりを見ればよく理解できます。

ことに、人口13億を擁する中国の現代史を見れば、国民に許された精神的自由が如何に華々しく国家の発展に結びついたかがよく分かります。

1949年毛沢東の中国共産党が内戦を集結させ、国家を統一して共産主義的理想に基づく新国家建設に乗り出します。国内体制も落ち着き、社会主義による教育体制も整備されて経済発展の下地が整ったかに見えた1959年、毛沢東は資本主義国に追いつくため、大躍進政策を発動します。

短期間に欧米に追いつき追い越すことを掲げて13億の国民に大号令し一大経済建設に乗り出しますが、農業、工業共に思うに任せず計画は頓挫し数千万人と言われる死者を出すに至ります。

建国の理想もあり、膨大な人的資源もあり、資金もそれなりに確保できたはずですから、科学や技術の発展が、定められたある目標に向かって人的資源と資金を投入することによって実現するものであるなら、この計画は毛沢東の意図した様に華々しい成果を生み出してもおかしくなかったのですが、決して指導部の思うようにはならなかったのです。

大躍進政策失敗の問題点は、様々な面から明らかにされており

これ以降毛沢東は驚くべき精神革命・文化大革命を発動して権力の維持と国家の再構築を図りますが、国内を大混乱に導き、経済文化とも停滞した状態で失意の中に命を終わります。

この様な社会主義中国の低迷に歯止めを掛け混乱と低成長の悪循環を断ち切って中国経済躍進の鍵となったのは、四つの近代化を掲げた鄧小平による解放改革路線でした。

彼はそれまでの社会主義による中央集権的経済政策を改め、各個人にある程度の経済活動の自由を許すことによって戦後の日本が成し得たような短期間での経済成長が可能であると確信していた様です。

個人に経済活動の自由を許すことは、個人の活動に対して国や地方の権力が無闇に介入することを控えねばなりません。それまでの共産党政権下で、党や国や地方の意向に沿わない個人の動きはたちまち規制され、党や政府にたいする陰口を叩くのすらはばかられた毛沢東の時代と比べて、個人の精神的な自由度は大きく改善され、各自が許された枠内にせよ、自発的な意志で様々な個人的活動を行えるようになります。

鄧小平による1980年代から1990年台にかけての解放改革政策の推進と1992年以降の社会主義市場経済の導入によるさらなる解放改革を経て、中国は現在ではアジアで最大の経済規模と最高水準の科学技術を有する国家へと成長します。

これらの発展の原動力が、まさに個人の精神的自由度を大幅に認めたことによるものであったのは、もはや疑問の余地がないと言えましょう。社会主義国家政策による個人活動に対する制約は存在するものの、国内企業の新規事業開拓に対する自由度は大きく、近年は国家施策を高度経済成長政策より安定経済成長政策へと大幅に舵をきって、従来の「世界の製造業請負国家」より高付加価値産業への急速な転換を模索しています。

殊に環境問題を先取りして都市部からガソリン車を締め出し、短期間に電気自動車と電動バイクの普及を図る大胆な政策は、中国を今や世界一の電動車とバッテリーの開発・生産国へと押し上げました。電動バイクなど年間1000万台以上の生産を誇り、低速度仕様とは言え国内では日本の五分の一から十分の一程度の価格で売られ、相手国の仕様に合わせて全世界にも輸出されているようですから、早晩この国が全世界の電動車両市場で圧倒的優位に立つことは間違いないところでしょう。