1954年幼稚園に入った年の夏、私は初めて昆虫の標本造りを行った。それまでに昆虫採集や捕まえて殺した虫をピンで刺して標本にすることは、ガキ大将に連れられて行った近所の上級生の家で、彼が小学校の夏休みの課題のためワイシャツの空箱を標本箱にして、虫ピンで蝶や蜻蛉を箱に止めて並べているのを見ていたから昆虫採集と標本について多少の知識は持っていた。
私が昆虫標本を作ってみようと思い立ったのは、家で家族相手に上級生の虫の標本の話をしていたところ、なんと家の物置の中から、戦前に私の父親が使っていたらしい、昆虫採集の古めかしい道具一式が出てきたことによる。
柄の短いスチール枠の捕虫網( 残念なことに網はなかった )・円筒形のブリキ製の毒壺・殺虫用の注射器と注射針の入ったクローム引きの金属ケース・桐でできた標本箱( ガラスは 割れてしまっていた) それに植物採集用の大きなブリキの胴乱まであった。
我が家のめぼしい家財は敗戦直前の津市大空襲の折、家財の疎開先が空襲に会いみな焼けてしまったのだが、無価値で持ち出さなかったこんなものだけがが残っていたようだ。
補虫網はもはや使えず、ブリキの毒壺はいかにも古めかしくて持ち運ぶ気にならなかったが、注射器と注射針は使うことが出来た。標本箱もガラスを入れ替えれば使えそうだったが、まずは上級生に習い、私もワイシャツの箱で代用した。当時ワイシャツの箱は中蓋の表面にセロハン紙が貼られていて中身を隅々まで見ることが出来、底に厚紙を敷いて針が立つようにすれば子供用の標本箱として十分使えるものだった。
これらの道具を父親がなんの目的で所持していたのか、今では大変に興味が湧くのだが、愚かなことに当時はそんな疑問も起こらず、その後も聞くことを忘れて、気づけば何時しか答えてくれる両親共に亡くなってしまった。父親は戦前から県庁勤めで様々な職域を経験した人だったから、或いは農事関連の職務についた折仕事の必要から所持していたのかもしれない。
或いは旧制中学時代の理科の一環で揃えたのかも、しかし父は戦前からバイオリンを習ったり、馬術やテニスをやったりロッククライミングで熊野の獅子岩に登ったりするほど多芸な人だったから一時の趣味心で昆虫採集や植物採集を楽しんだのかもしれないが、今では真相は当時の道具ともどもに忘却の彼方に消える。
私は家からこれらの品が出てきたことに気を良くして早速自分でも虫の標本作りを始めた。殺虫用の薬液はアルコールを使えばよいとのことで、母親が染み抜き用のアルコールを小瓶に分けてくれた。虫ピンもなかったが、これも裁縫用のまち針をもらって代用した。ワイシャツ標本箱は底の紙が薄いので、母親に裁縫の型紙用の台紙をもらって箱の底に貼り付けた。
道具が揃ったの早速意気込んで、昆虫採集と称し家の周りの田畑や草むらに出かけて虫を捕えては、次々にアルコールを注射して殺しピンで箱に止め始めた。
今思うとなんとも残酷で人でなしの所業に思うのだが、当時は生き物の命の重さなどこれっぼっちも分からず感じずに、面白がって虫を殺しては喜んでいたものだ。
実際にやってみると、虫の種類によって上手く標本にできないものが色々ある。体の柔らかいバッタなど針で刺して標本箱に止めるとすぐ体が曲がってしまうし、直に体色が変わって体も腐り始める。
蝶や蜻蛉も翅や尻尾が垂れ下がって見栄えの良い標本にはならない。それでもまずは細かいことなど気にせずに捉えた虫をせっせと殺しては箱にピン止めしてその数が増えてゆくのを楽しんでいた。
昆虫採集は暑い盛りの真夏に突然私の生活に降ってわいた、子供ながら全精力を傾けて熱中することのできた楽しみであったのだ。
当時6才だったが、私は既に熱中して行う「趣味」を幾つかもっていた。家からあまり出たことがなかった私は、鉛筆が握れるようになるとすぐ絵を描くことを覚え、辺りにある紙や壁やスリガラスへ手当たり次第に絵を書いては面白がった。
描いたものがなるべく実物に近くなるように次々に絵を描きまくり、描きあがったものの形が、すこしづつ自分の思いどうりになると本当に嬉しく、飽きることなしに絵をかいていた。このため当時6歳の私の写実能力は、多分小学生高学年の域にも達していただろう。
もうひとつは画用紙に平面展開した家や車の絵を書いて切り抜き、糊代を乗りで張り合わせて家や車の立体模型を作ることだった。確か当時の森永キャラメルの箱の付録として、小さな車の展開模型図が載っていたのだが、私はこれを造ってみて、大抵の立体的な模型が同じやり方で作れることに気づき、家にあったありあわせの厚紙の上にフリーハンドで色々な車の展開図を書いては切り抜いて張り合わせているうちに、よほど特殊な形をしていなければ大抵の立体が、紙の上に書いた展開図を組み立てればできることを理解した。
これは当時の私の年齢からみると極めて異常な能力であったようでその後周りの大人たちの大変な驚きを呼び覚ました。当時から私はおもちゃなどみなバラバラに壊してしまってもすぐ元どうりにでき、物つくりの能力が飛びぬけていたが、なにより絵を描く能力が発達していて、見た物の形を極めて正確に紙の上に再現できたからこのような子供じみた能力が身に着いたようだ。
幼稚園から帰ると一月ほどは紙を切り抜いて、様々な形の車や機関車、電車、家、動物などをこしらえて部屋中に並べては面白がっていたが夏休みが近づくころにはだんだん飽きがきて、野外に出て虫取りに興じることが多くなっていたから、突然新たに出現した昆虫標本づくりにはたちまち嵌ってしまった。
私が本格的に昆虫標本づくりに取り組み始めたのは、小3の春以降で、この頃までに何度も広明町の県立博物館の標本展示を見ていたから、小2の夏までに拵えていたような雑然とした標本、蝶も蜻蛉もバッタも甲虫もなにもかも一つの箱に入れてしまうのではなしに、博物館展示にあるように同ような種類のものだけを集めた標本を作ろうと決めた。
なにより蝶や蜻蛉は標本にするにも、針を刺して直ぐ標本箱に収めると翅や胴が垂れ下がってしまい満足な標本にならない。このため別の台紙の上で羽や体を展翅して暫く乾燥させてからでないと標本箱に収めることが出来ず、手間も時間もかかって面倒なうえ待ちくたびれる。
体が柔らかいバッタの類も、標本にするには腹を切り裂いて腐りやすい内臓を取り出し中に綿を詰めたうえで展翅して体を固めねばならず、蝶にもまして厄介な上、生きているときは見事な緑色の体色も、しばらく置くと変色てしてまことに汚らしい色の標本にしかならない。
これに対して外殻の硬い黄金虫・カミキリムシ・クワガタムシ・ハムシなど甲虫類は、針を刺して直ぐに標本箱に止めても大して見場が悪くはならない。もちろん足は下を向いて曲がってしまうので、きれいに足を広げて伸ばした博物館にある標本の様な訳にはゆかないけれど子供の昆虫標本としては十分満足できる程度にはなってくれる。
幼稚園から小2までの標本づくりからそこそこ経験を積んだ結果、小3になった春からは、作る標本は全て作業が楽な甲虫の標本にしようと決めてしまった。
博物館で見る綺麗に展翅されたアゲハやタテハの標本には絶えず心を惹かれたが、気の短い自分の気性からあの手の標本を仕上げるのは到底無理だと子供ながらに思いそのつど諦めたものだ。
新たな標本の第一号は確かベニカミキリであったと思う。つぎが近くの四天王寺で運良く捉えた細身で針を刺しにくいが美しいミドリカミキリ、さらにウバタマムシと続いたとおもう。この年からの標本づくりで私は家の周りに甲虫の仲間が結構沢山いることを知った。
例えばそれまで黄金虫の仲間は、梅雨時の草で見つかる綺麗な緑の金属光沢をもつコガネムシと、そのガラの悪い相棒のような茶色で見栄えの悪いドウガネ、あとは真夏の草に見つかるゴミの様なマメコガネくらいしか知らなかったが、甲虫を意識して採集しだすと草の葉っぱ以外にも、花に来るハナムグリやトラフコガネ、樹液を好むカナブンの仲間など、また誘蛾灯の光には普段見つからない様々な色艶をもった黄金虫が引き寄せられてその年にはコガネムシだけでも30種類以上を集めることが出来た。
なにより3年になってからは採集のための移動距離も5km、10km当たり前になり、早朝の5時には起きて自転車でめぼしい場所を走り回るようになった。誘蛾灯のある場所にはまず最初に出かけて行き採集したし、近くの23号線の街灯には夜分に出かけて行って灯火採集する。
誘蛾灯や街灯での灯火採集はコガネムシの仲間には極めて有効で、コガネムシの半数以上はそうやって大した労力も使わずに集めたように思う。ただし灯火採集では彼らが普段どんな環境で生活しているのか全く分からない。
だから目新しい種を採集したものの、採集場所が街の目抜き通りだったりすると、ほんとなら彼らがいる場所ではないから、採集地を記入するのに何とも後ろめたい気持ちになったものだ。
標本づくりのためにはまず捕まえた虫の名前を知らねばならない。学校の図書室にあった昆虫図鑑や子供向けの粗末な昆虫図鑑に載っていない種は、時折見に行く博物館の標本で見比べたりしたものだが名前の分からないものも結構あった。