かに

三十年近く前にこの芸濃町に越してきてからと云うもの、私は家の周りでカニを見かけることが殆どなくなってしまった。我が家の前には中ノ川が流れ、その景観もこの辺りでは、かなり自然を残しているので川の周辺にも多少はカニが住み着いていても不思議ではない。と思うのだが河川の中に住むモクズガニと山の湧き水に住むサワガニ以外は、殆どカニを見ない。

サワガニなら、山際のきれいな湧水のある辺りを探せば簡単に見つかる。完全に淡水に適応しているサワガニは、産卵もの淡水中で行なうようだが一般の陸カニがどこまで淡水に適応できるのか、その生態について深い知識のない私には詳しく分からない。

日本経済が安定成長に入り、多くの日本人がこの国の未来に対してかなり楽天的な思いを持っていた昭和55年に、私はここに越してきたのだが、それ以来、家の庭の石組みの隙間で数回カニを見た記憶がある以外、散歩していてもサワガニとモクズガニ以外のカニを目にした憶えがない。

私の散歩道は、水田と里山に囲まれた農道が主体で、今でもかなりの種類の生き物を観察することができる。30年前と比べれば周りの道路も舗装され、水路もみなU字溝に変わってしまつて生き物の数はめっきり減ってしまったけれど、まだマムシやシマヘビ、アオダイショウの類にも時折出会うし、散歩中の石亀にぶつかる事もある。だのになんで普通のカニがいないのだろうとよく思うのである。

私が幼いころ住んでいた辺は、満潮時に安濃川の水が逆流する汽水域で、周りは水田と人家が混在する市街地だった。

家の周囲には当たり前のようにカニがいて、5、6月の雨上がりの後などに古バケツに火バサミをもって自宅前のミゾや畑の脇の石垣を探せば大小様々なカニを取ることが出来た。カニなどいくらでもいたから、いて当たり前の生き物としか見ていなかった。

種類は赤テガニ、ベンケイガニ、クロベンケイガニまれにミゾの土管から藻屑ガニが顔を見せる。周りに山が無かったのでサワガニはいなかったが、それ以外のカニなら子供のカニ取りの相手として無尽蔵にいたものだ。

梅雨時には、湿気を好む彼らが、一斉に石垣や溝の巣穴から這い出し餌を漁るので、火バサミさえあれば幼稚園児でも楽々大きなカニを捕まえることが出来た。ことに大きな赤テガニは、惚れ惚れするほど見栄えがした。

その姿から「ババガニ」と呼んでいたクロベンケイガニは一番の大物で、溝の泥に開けた巣穴に潜み、なかなか姿を現さない奴の中には、藻屑ガニの小ぶりな奴と変わらないほどに巨大なのがいた。

何とか巣穴から這い出したところを捕まえたいと、朝起きると毎日家の窓から前を流れる溝の土手の菖蒲の陰にある巨大な巣穴を見ていた記憶がある。

ところが、そんな当たり前のカニがここ芸濃町ではまるで見られない。たしかに生物の本を読むと赤テガニやベンケイガニ等の淡水ガニの生息地は、河口付近の低湿地と書かれており、芸濃町のように河口から十数キロ隔たった土地柄では無理なのだろうか。

サワガニ以外は淡水性のカニでも海と深いつながりを持っており、産卵は海で行うという。子供のころ栄町の市街地で当たり前のように見ていたカニ達も、産卵時期になるとひそかに海に下り海中に産卵していたのだろう。

子供のころ捕まえた雌ガニはよく腹に卵を一杯抱えているものがいたが、彼らが私の知らない間に海水の中に産卵していたのかと思うと不思議な気がする。河口近くの低湿地以外は生息できないとはそう云った意味らしい。

しかし藻屑ガニは前の中ノ川にも沢山いる。彼らも産卵は海に下っておこなうのなら、それ以外の蟹が住んでいておかしくないのではと思うのだけれど、やはり藻屑ガニほどでかくないから、ここまで登ってくる移動力がないのだろうか。

「中ノ川における魚の呼び名」という調査報告書を見ると、中ノ川流域のモクズガニの分布は河川全域となっている。河口からこの辺りでも15km以上はある筈だ。魚のように自由に水中を泳げない子供の蟹が、河床づたいに海からここまで辿りつくのだってさぞかし大変なことだろう。

ことに昨今は堰やら水門が関所のように行く手を阻むからなおさらだ。そう考えると、モクズガニがこの辺りにまで、生息していること自体がありがたい事のように思えてくる。

美味で有名な上海ガニは、ここいらにいる藻屑ガニと同じ種類だと云う。実際、数年前天津で食べたけれど茹だって赤くなっただけで姿かたちは全く同じだった。

上海陽澄湖の蟹養殖場のサイトより http://www.dazhaxie88.info/

そんな藻屑ガニが、前の中の川には最近まで沢山住んでいて、夏場になると毎年県外から男たちが車で乗り付けて、魚のアラを入れたカニ籠を沈めては蟹捕りに精を出していたものだが、ここ数年下流河川の堰の状態でも変わったのかあまり蟹を見かけなくなった。

地元の者も昔は蟹捕りゃら鰻捕りやらやって川からさまざまな食料を得ていた様だか、今では周辺に多数のゴルフ場が出来て除草剤や農薬を大量散布した雨水が流れ込むため、地元の者は訝しがって誰も川漁などやらない。

捕りに来るのは商売気にたけた県外からの怪しげな人物ばかりだったが、蟹が減ったせいか昨年(2010年)は彼らの姿もあまり見かけなくなった。

さて今年の夏はどんな様子だろう。蟹が絶えないことを願うばかりだ。