光と闇

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光と闇の思い出

先日、自宅前に残っていたこの辺りでは最後の蛍光灯式の防犯灯がLED照明に取り替えられました。昨今の省エネブームで、4年ほど前から役場の音頭取りで自治会が管理している防犯灯をLEDに替えると、役場よりLED化に必要な工事費用額の2/3を役場が負担してくれるという有り難いお達しを得て、多数の防犯灯を抱えてその電気代負担が馬鹿にならないと感じていた近隣自治体が皆、我先にとこの補助に飛びつき、防犯灯のLEDを推進してきた成果の一つなのです。

この件について私に少し詳しい知識があるのは、役場から防犯灯LED化に伴う補助金が出た最初の年に私がこの地区の自治会長を仰せつかっていたため、自治会所有の防犯灯LED化に対する最初の補助金申請を行ったからです。

LED照明の電気料金は、蛍光灯に比べて70%程、その寿命は3倍程に伸びるそうですから、器具交換が安く済むなら当然交換するに越したことはないわけですが、電柱に取り付けてある器具を交換するとなると、自宅の電球のように自分で手軽にやるという訳にもゆかず、中電指定の電気工事業者に工事を頼む必要があって器具代を含めた工事代金は、それなりの出費を伴います。

それでもLED照明に魅力を感じるのは、省エネブームという以上に蛍光灯切れの際に業者を煩わして交換する手間や経費等を考えると、役場が金をくれると云うなら早い時期にそれに乗っかって交換しておいたほうが賢いとどの自治体も判断したからで、その結果は各自治体がまるで競争でもするかのように防犯灯を取り替えたからにほかなりません。

最も補助金と言っても所詮は私達市民の税金をばらまいて、電器メーカーや設備業者の利益となるよう便宜を図っている訳だから、いっそ全額役場負担で新品に変えてくれても良さそうなものですが、そこは役場の常道の受益者負担分とやらで費用の1/3は自治会負担です。

防犯灯などその存在からして道路照明の一種、道路同様本来公共施設であり、その設置は云うに及ばす維持管理に必要な電気料金や修理費も税金で処置するのが本来の姿ではなかろうかなどど考えてしまいますが、今の政治ではどうにもならない様子です。

さて、そんな訳で今や余程に辺鄙で人通りのない道でもない限り、防犯灯等の路上照明がない場所はなくなってしまったのですが、私が未だ子供の時分、今から60年以上も前には、津市の中心部でも繁華街から路地一つ入ると防犯灯など付いている道のほうが遥かに少なくて、月のない夜ともなれば人家の窓明りがないと、家の周りは真っ暗闇が当たり前でした。

月も星もない夜に人家の明かりや外灯のない寂しい道を歩くなどど言うことは、何も見えない闇の奥に吸い込まれに行くようなもので、小学校の上級生でもそれは恐ろしい危険な行為でしたから、まず家人が子供を外には出してくれませんでした。殊に日の短い冬の宵などは、明かりのある家の中から一歩外へ出ようものなら、目の前は何一つ物の形の判別できない真っ暗がりの奈落に放り出されたようなもの、一歩進むのさえ恐ろしげで、冬の寒さも相まって外へ出るのは少なからず勇気がいったものです。

星が出ている夜であれば、暫くして闇に目が慣れて、星明かりに夜目が利くようになると周りの陰影が判断できるようになって、明かりなしでも何とか道を歩くこともできるのですが、足元の暗さはいかんともしがたく、下手をすると躓いたり、ものにぶっかったりして結構危険な状態でした。

闇夜に使う懐中電灯はすでにありましたが、現在使われている製品のように明るいものではなく、おまけに当時の電池は消耗が早くてじきに暗くなくなってしまいます。ですからたとえ持って出て歩いても、暫らく闇夜を進んでいると徐々に明かりが心細くなってきますから、何とか早くに外灯や窓明かりのある道へ行き着くことを願ったものです。

当時の外灯は、60W程度の裸電球でその寿命も短く、中には球が切れたまま放置されていたりします。殊に他地区の悪ガキ共が遠征に来る道沿いの外灯は、彼らが面白がって電球に石をぶっつけて割ったりするので、自治会でも早々度々に同じ場所の球を替えるわけにも行かず、暫く放置されたままでした。 現在のように人家の周りの道路が一定の間隔で明るく照らされている環境が徐々に実現されていったのは、東京オリンピックを迎えた1960年代、高度経済成長以降のことであったように思います。

それでも、ほとんど光のない暗闇の彼方に、たった一つ灯っている電灯の光は、時として不思議な美しさをもつことがありました。殊に梅雨時の蒸し暑い宵、辺りに湿気が満ちて、目にも見えない無数の霧粒が大気を満たしている闇の彼方に灯る外灯の光は、滲んだ星を思わせる裸電球の光点の周囲に放射状の淡い虹彩が広がり、同心円状の眩暈となって闇の中に溶け込み消えてゆきます。

そんな淡い光に心を奪われて、闇の彼方をじっと見つめていると、電灯と自分を隔てる光と闇の空間が徐々に奥行きを失い、なにか別世界のように感じられたものです。しかし時がたつに連れてかつては暗闇であった空間にも光源の数が増し、光も電球から蛍光灯や水銀灯の明るいものへと変わるに及んで、光が放つ圧倒的な存在感が夜の闇に取って代わるようになりました。

当時のように闇が日常的に身の回りにあった頃を知る者にとって、暗闇の中で目にする光の有り難さは、格別のものであった訳ですが現今のように光が巷に満ち溢れた時代では、子どもたちが物の形さえ判別できない闇を経験することも稀ですから、私の子供時代に感じたような、ほの暗く闇を照らす黄色い電球にたいする思いも最早過去のものとなってしまったのでしょう。

梶井基次郎の「闇の絵巻」は、彼が療養先の温泉地の夜道で出会う闇と光についての心象風景を描いたものですが、後になって高校の教科書でこの文章に出会ったとき、私が子供時代に経験した闇と光の印象が様々に思い返され、この作家の感性と表現力に驚嘆したものです。

電球の赤みを帯びた光は温かみがあるとよく言われますが、幼少期を電球の薄暗い光の中で夜を過ごした私には、家庭の光源としての電球には、温かみよりも暗く陰気な印象のほうが強くついて回ります。もっとも例外もあり、子供の頃に買ってもらった幻灯機や映写機はどちらも映すためには家で使っている電球をソケットから外して器具にセットして用いました。

壁に投影された光は薄暗くてお世辞にも見やすいものではなかったのですが、映し出される写真や短い漫画映画(冒険ダン吉の南海ものなどがありました)は、すでに繰り返して何回も見たものであっても、映す度に子供心を浮き立たせ、この時ばかりは電球の薄暗い光がなんとも素敵に感じたものです。

しかし子供時代に慣れ親しんだ電球も、何時しか急速に蛍光灯に替わり、街路灯にも水銀灯・キセノン灯・ナトリューム灯等の明るい光源が登場して夜の闇は徐々に光に侵食されて身の回りから消えて行きました。人は一度でも繁華街の街路を照らす明るい光を体験すると、光の乏しい薄暗い空間はなんとも頼りなく寂しげに感じられ、自然と昼間のような光を志向するようになります。闇が消えるのも無理からぬことでありましょう。

白熱灯は電流によって2000℃以上に熱せられたフィラメントの熱輻射によって発光し、赤色域にエネルギーのピークをもった連続スペクトルを放射します。一方水銀灯やキセノンランプでは、水銀蒸気やキセノンガス中の放電により原子を励起させて発光させるもので、そのスペクトルは励起ガスや蛍光物質によって定まる線スペクトルです。

すなわち白熱灯が赤色域(赤外域)から黄緑色あたりの色を連続的に発光するのに対して、励起発光の光源では専ら励起される原子で定まる特定の光のみ放射しそれ以外の光は殆ど出しません。この励起発光はなにも照明だけの話ではなく多くの原子・分子に共通の性質です。

ヘリウムHeに始まる全ての元素はその陽子数に応じた電子と電子が収まるとびとびのエネルギー準位を持っており、電子がより低いエネルギー準位に移動するとその原子に特有のスペクトルを持つ光(輝線)を出すわけで、そのスペクトルを見れば発光に関与している原子の種類が分かります。

またそれとは逆に、原子はそのエネルギーギャップに相当した光エネルギー(光電子)を吸収することで励起されより高いエネルギー準位に遷移します。この場合は輝線と同じスペクトルの光を吸収し特定の色が減光して見えます。これは輝線に対して吸収線とよばれ正に光と闇が表裏一体となって生じます。

空に輝く太陽は凄まじい核融合反応によって生じたガンマ線をエネルギー源として星の内部に存在するさまざまな原子が励起発光しますが最終的には6000Kの黒体放射に近い連続スペクトルをもつ光となります。同時に周辺の原子や分子が特定の光を吸収してできた吸収線もたくさん生じます。太陽の吸収線はフラウンホーファー線と呼ばれプリズムを用いた簡単なスリット分光器で太陽光を見れば割りと簡単に観察できます。

19世紀後半から20世紀にかけてこれら光と闇の研究、すなわち熱エネルギーによる黒体放射の研究・輝線と吸収線の研究・光電効果の研究等からマックス・プランクによって光量子の存在が想起され、シュレーディンガーやハイゼンベルクによって今日の量子力学開拓の突破口が開かれたことはよく知られています。

さて、私の家の照明が薄暗い電球から蛍光灯に替わったのは私が小学校3年の夏でした。県庁勤めの父親が仕事の帰りがけに買ってきた細長い直管式2灯用の蛍光灯で、市内の商店や繁華街の外灯には既に何年も前から蛍光灯が使われていましたから、特にもの珍しいというわけではありませんでしたが、家族のみなが寄り集まる中で、それまでの電球に変わって20W2灯の蛍光管が光を放ったときの明るさは、真に感動的なもので家族皆が声を出して驚いたものです。

また小学5年の夏、津市内の塔世橋から丸の内にかけて国道23号線沿いの街路灯が、それまでの電球と蛍光灯のものから水銀灯に代わりました。それは私が初めて間近で見た水銀灯の光であり、国道に沿って道路の左右に等間隔で立てられた照明によって道路は切れ目なく真昼のような光に包まれていました。

水銀灯の発光は白熱灯のような熱輻射ではありませんから、発光スペクトルは連続したものにならず、電気的に励起した水銀原子の持つ複数のエネルギー準位に対応する複数の線スペクトルです。殊に青から紫外域にかけて強力な線スペクトルを発生し、その光は白熱電球と比べて遥かに青白く明るく感じられます。

この青色帯域のスペクトル分布は、走光性を持った昆虫に強烈な吸引力を持っており自然の豊かな環境ではおびただしい数と種類の昆虫を引きつけます。私の子供時代には、林縁部に出来た新興市街地のあちこちに毒蛾退治と称して誘蛾灯が据えられたことがあります。一般の蛍光灯では水銀蒸気の放電によって生じる紫外線(253.7nm線・362nm線)は、ガラス管内に塗布された蛍光物質を励起発光させて昼光色のスぺクトルを持つ光に変わるのですが、誘蛾灯に使うUV管では、この紫外域の光を大幅に放射するしくみになっています。

水銀灯は、この誘蛾灯などより遥かに高出力で明るいため、大量の青色光を発生し当然それに集まる昆虫もおびただしい数にのぼります。先に上げた塔世橋南詰の水銀灯が設置された60年近く前には、北西部には四天王寺から皆楽公園にかけての山野が広がり、北東には水田が、その手前には自然味豊かな安濃川が流れていました。そんな長閑な環境に夜の闇をついて突然明るい光源が出現したのです。このため照明の周りには、現在では到底考えられないほどにおびただしい数の昆虫が引き寄せられました。

そこは昆虫少年であった私にとって、まさに昆虫採集にはうってつけの場所でした。森林昆虫から草原昆虫・水生昆虫となんでもこい、風もなく蒸し暑い夏の宵は昆虫にとって飛行するのが心地よいのか特に虫が多く集まるので、そんな日は夕闇が訪れるのも待ちかねて薄暮の中を勇んで虫集めに出かけたものです。

自宅のあった安濃川北岸から川の堤にでて塔世橋を渡ると既に国道沿いは点々と光に照らされています。闇が濃くなるに連れ集まってくる虫の数も増え、水銀灯の周りはおびただしい羽虫・蛾・甲虫・バッタ・カメムシ等の集団の乱舞が始まります。

塔世橋南詰から万町・丸の内に至る街路灯を次々に廻り一時間も地道に探せば、夜間活動し光に群れる虫ばかりですが、それだけでも昆虫の標本箱を楽にいっぱいに出来るほどの種類が集まって、真夏の暑い昼さなかに、毎日昆虫採集に出歩いているのが馬鹿らしくなるほどの成果をあげることができました。また時にはアゲハやタマムシ・キリギリスの様に昼行性の虫さえ交じることがありました。

同時に哀れな昆虫がなぜにこんなにも光に引き寄せられるのか、不思議でたまりませんでした。彼らは何を好き好んでこんな町中の光に吸い寄せられるのか。朝になれば、忽ちカラスを始めとする鳥たちが寄り集まって、光源の周りに留まっている虫たちに群がり食べられてしまうのが関の山です。

その性質は走光性と云う言葉で表されて、多くの昆虫は、夜間には光に引きつけられ光目指して集まってくるというわけです。しかし少し深く考えれば、数億年にものぼる気の遠くなるように長い昆虫の進化の歴史において、夜間に存在した光など月と星しかなかったわけで、彼らが仰角を持った月や星の光目指して走行したところで、どんどん上空に上がって大気が希薄になるだけで何一つ良いことなど有りません。

すなわち彼らが光を目指して飛ぶ天性の性質を備えているというのはどう考えてもおかしな話です。ミツバチなどでは飛行進路決定の一つの手段として太陽コンパスを用いその飛行ルートの方位を知るとのことです。とすれは走光性の昆虫も多分夜間の移動ルートを把握するため、月や星の光を太陽コンパスとして使用していると考えるほうが遥かに納得の行く説明で、光に向かって飛んでくると言うのは明らかに間違いでしょう。

無限遠ともいえる月星の光に対して、人工光は有限の距離にありますから、人工光を太陽コンパスとして一定の方位で飛行を始めると、当然その光の周りを周回する結果となり、方位角が90°より小さければ、螺旋軌道を描いて何時しか光源に収斂してしまう。ことにその光が近くにあれば、光に捕捉された形でその周りを旋回するうちに、たちまち光源そのものに吸い寄せられて離脱できなくなると考えたほうが未だ合理的です。

しかし、たとえそうだとしても割り切れないことは残ります。彼らはなぜか太陽光の様に昼光色と呼ばれる光ではなく、青色域の強いむしろ紫外域に近い光に対して強い走光性を持つとのことで、これは害虫を誘引させる誘蛾灯に紫外域のUVライトを使用していることでもわかります。

ところが夜間に最も明るい光源となるはずの月の光は、太陽光が月の表面で反射して輝いている訳で、当然太陽と同じ昼光色。紫外域の光により強く反応する意味が有りません。もちろん星のなかにはシリウスのように青白く輝くものもありますが、明るい星の中で特に数が多いと言うわけでもありません。一体どの様な理由でかれらは紫外域の光源に強く反応する性質を身に着けたのでしょう。

ただし、昆虫が赤みを帯びた光には集まらないなどとと言うことではありません。「飛んで火に入る夏の虫」のことわざが示すように、彼らは色温度の低い焚き火や篝火の光にも群れるし、電球の光にもたくさん集まります。私が7才の夏、姉が盲腸の手術を受けて、偕楽公園の北にあった宇田病院に入院したことがあります。周囲の大谷町は未だほとんど未開発の時代で、夜になると薄暗い部屋の電灯の明かりでさえカブトムシ・コガネムシ・カミキリムシ等が集まってきては網戸を騒がせたものです。

昆虫でも、ある種の蝶や蜂は、花の蜜を求めたり異性を探すために紫外域の光に強く反応するものがあるそうですが、これは様々な光(色)が錯綜する真昼の世界において、かれらが目的とする植物や異性を多数の光の中から識別するために進化の過程で身に着けた形質であり、当然かれらの活動時期は専ら昼間です。

一方、強い走光性を示すコガネムシ・ゲンゴロウ・クワガタムシ・カミキリムシ・ウマオイ・ツユムシ・ガ・タガメ等々の仲間は専ら夜間を活動時期としており、まさにそれ故に夜間の光に引き寄せられるわけで真昼に飛び回ることはあまりなさそうです。とすれば殆ど光のない夜間において、紫外域の光に強く反応する性質とは一体どのような意味をもつのでしょう。なぜこのような特性が生まれたものか私にはよく理解できません。

もっとも生物が想像を絶するほどに長い進化の過程で獲得した形態や生態には、かれらがどうしてその様な形質を持ち得たのか私達人間にとって理解や説明の困難なものが無数にありますから、その訳は彼らを造り出した創造主のみが知りたもう事柄なのでしょうか。

走光性とは少し異なりますが、生物にはホタルのように生体から光を発することが出来る種が存在します。なかでも海に住むプランクトンの夜光虫は青白い光を発生することでよく知られています。私は若い頃釣りが好きで6月~9月にかけてはクロダイやセイゴを釣るために津の海岸で何度となく夜釣りをしました。爽やかな夜風にうたれながらのんびりと暗闇の海中に糸をたれ一人であたりを待つのが当時の私の楽しみの一つでありました。

殊にクロダイ釣りではライトを一切用いず、釣りに必要な作業のすべては星明かり・浜の明かりを頼りに釣っていましたから、夜光虫の活動が盛んな日には、魚群の動きに連れて海中に様々な光斑や光の帯が次から次へと描き出され誠に神秘的な光景です。そんな日は、魚は釣れずともその幻想的な光の乱舞をぼんやりと眺めているだけで時間を忘れ楽しかったものです。

ところがこの夜光虫、調べてみてわかったのですがその発光物質や発光メカニズムについては未だによく分かっていないようなのです。何しろ、大きくても1mm程度のプランクトンですからホタルやウミホタルのように扱いやすい大きさをもった研究対象ではなかったということなのでしょうか。

蛍や夜光虫の生物発光は、化学的エネルギーを光エネルギーに変換するもので発光物質と発光の媒をする触媒物質は共に有機物で複雑な分子構造を持っており発光の機構も複雑です。生物発光の解明は大変むずかしいもののようで、これは2008年発光生物の研究でノーベル化学賞を受賞した下村脩氏のGFP(緑色蛍光タンパク質 )発見に至るまでの道のりをみてもよくわかります。

生物発光に似たプロセスで光るものとして縁日の屋台でよく見かけるケミカルライトが在ります。有機物の酸化反応の過程で蛍光体が励起して光を発生し、蛍光体を替えることでさまざまな色の光を出すことが出来ます。その淡く幻想的な光は夏の縁日にはもってこいですが酸化がすべて進行してしまうと光も真夏の夜の夢と化してしまいます。

夜釣りでもセイゴ釣りなどでは電池を用いたLED発光のウキを使用しますが、より小型のケミホタルは発光生物と同じ化学変化を用いた化学発光で光ります。ケミホタルはウキではなく発光する目印(マーカー)でその名前もメーカーの商品名なのですが、もはや何十年も前から有るため発光マーカーの代名詞のようになっています。私の経験では20年以上も前に買ったケミホタルでも発光させると実用になった記憶があります。

明かりを一切用いず、暗闇の中で竿先に来る僅かなあたりの感覚を頼りに釣る夜の脈釣りは、釣り慣れると最小の装備でポイントを巡ることが出来るたいそう便利な釣法なのですが、あたりの際の竿の微妙な振動を手元で感じることが出来ないと合わせが上手く行きません。こんな時ケミホタルを道糸や竿先に仕込んでおくと微妙なあたりも捉えることが出来るようになりますが、暗闇の釣りでは糸の取り回しの際糸が絡みやすくなるので一長一短です。

手先の感覚と神経を研ぎ澄まして微妙なあたりを取る夜の脈釣りの醍醐味は多年私を捉えて放しませんでしたけれど、発光ウキを用いた流し釣りもまた独特の趣が有りますから、津や河芸の港にセイゴが回ってくる時期には投げ竿を持ち出して発光ウキによる流し釣りもよくやりました。

夜のウキ釣りの楽しみは、闇の海面に漂うささやかな光を目で追いながら心に浮かぶさまざまな思いに浸っていると、突然光が海中に消え明滅を始める。そんな時の感動と期待は真に言葉では表せないものです。ことに獲物が思いの外おおきく、竿がしなり糸が鳴き下手すると糸を切られると思い定めたときの興奮と緊張は何度経験してもたまらない魅力があります。

釣りにまつわる思い出をもう一つ。初夏から夏にかけての夜釣りとともに、以前は4月~8月にかけて早朝の川釣りにも親しみました。薄明が訪れる朝の四時半ころ迄に、もっぱら宮川の上流域に入って薄明と共に上流に釣り上がり、数時間アマゴを釣ります。魚は稚魚放流ですか川筋が豊かで自然孵化の魚体も交じる様子でした。

当時は仕事の関係で月に数度は宮川役場へ行っていましたから、3月には役場近くのお店で年間の入漁券を買い釣りに備えました。解禁は3月ですが私には4月から鮎のつかみ取り漁が始まる8月半ばまでが釣期でした。当時単独釣行の場合は桧原谷ときに春日谷・宮川本流がフィールドで、通いつめた桧原谷などは流域の全ての石の配置・水深・流速と食いのポイントが頭に入っていまいた。

谷に入るのは未だ夜が明けきれぬ時刻です。当時暮らしていた津市一身田から深夜に車で出発し、深夜放送のDJに耳を傾けながら光と闇の交錯するR42熊野街道を三瀬谷で折れて県道31号宮川道に入ると道幅が一気に狭まり道は闇に包まれます。宮川役場を越え湯谷峠の分岐から県道422号を桧原まで走り桧原谷に入り込んで人家も絶えた上流部まで、のんびり走ると2時間近い道中でした。

宮川道に入ると、もはや対向車も殆どなくなり、人家の途切れた林縁部や谷川の林道では闇の中に鹿や狐狸の目がライトの光を怪しく反射することも度々です。時には、鹿・猪・狐・狸・貂と三重の獣図鑑でも見ているような出会いまでありました。谷の上流に着き闇にほの白く浮き出した溪筋を林間に垣間見ながら下流まで林道をくだるころには、空も少しずつ明るさを増し薄明がおとずれるのですが、6~7月にはそんな薄明かりの溪筋をゲンジボタルが淡く発光しながらゆったりと飛んでいるのをよく目にしたものです。

アマゴ釣りは渓の水流にのせてポイントに餌を流し、道糸に点けた目印の動きで渓の流速・水深と魚のあたりを知ります。闇夜の脈釣りには慣れていても、流石に渓流のこの釣りを暗闇でやるまでの技量はなく、釣りは空が白らばみ目印の動きが目で確認できるのを待ってはじめます。全く人気のない溪沿いに、大岩の周りや、泡だつ急流・早瀬や落ち込みの深みに餌を流し、丹念にさぐりながら釣り上がるのですが、釣果は日によってまちまちで、だいたい25cm~28cm前後を筆頭に15cm以上の魚体が5~10匹程度は上がりました。

天候が悪く雨まじりの日は特に釣果が出て型の良いものばかり10匹以上も釣れることがありましたが、雨脚の強い日はどんどん水深と流速が上がるので溪の渡渉に危険が伴い、下手をすると対岸に取り残される恐れも生じます。このためそんな日はポイントを絞り、直ぐに林道へと戻れる場所を選んで釣り歩いたものでした。

川釣りは20年近く楽しみましたが今では最早アマゴ釣りに行くこともなくなり、何時しかそれ以上の歳月が経ってしまいました。当時は毎週のように通った宮川も今では昔の川筋も失せて様変わりしたようです。嘗てはなんども谷筋を釣り歩いた友もとうに亡くなり、冴え冴えとした川釣りの記憶のみが心に残っています。

こうして思い起こせば、光と闇について未だいくつも書けるでしょう。夏の夜空の天頂から南に流れる天の川と星星のこと、好きな鉄鋼細工に用いるアーク溶接やプラズマ切断機の光と闇・・・しかし70年歳月を経て私の経験したり夢みた事柄の多くは記憶の闇の彼方に消え去ってもはや蘇ってきません。いま過ぎ去った時の長きを想い、その彼方からあたかも光に照らし出されたかのように浮かび上がってくる切れ切れの記憶そのものもこそ、私にとっての大いなる光と闇だと言えましょう。

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