安濃川

私は生まれてから中学三年目の夏まで、安濃川の流域で暮らした。桜橋と塔世橋に鋏まれた一角で川は家から50m足らずのところを流れていたから、この川の想い出がたくさんある。

安濃川流域地図 Yahoo地図より

納涼花火

小学校の頃まで、七月の末には、安濃川の対岸で納涼花火大会が開かれた。川向こうに本社があった伊勢新聞の主催であったと記憶する。

花火の日には、真昼から昼花火が打ち上げられる。パンパンと音のした空を見上げると花火が小さな白い雲となって風に流れる。花火の中には、パラシュートを仕掛けたものもあり、遥かな天空で可愛いパラシュートが開いて、風に乗って流れてゆくと、近所の子供たちは皆、夢見ごこちで追いかけたものだ。

車など殆ど通らない時代だったから、ゆっくりと落下してくるパラシュートを見上げながら、道路や田畑の区別なく横切って追いかけていても、大した危険もなかった。上手く行くと、追跡する子供の誰よりも早く落下点に駆けつけてパラシュートを手に入れることが出来たが、空を漂っているときにはあれほど魅力に見えたものが、手にとって見ると、まるで魔法が解けたように、ちっぽけな紙と糸くずの塊になってしまうのだった。

今の花火は当時と比べて大変贅沢で豪華だ。

夕方が近づく連れにつれ、近所の子供らは連れ立って川の土手に茣蓙をしき、場所取りをして夜を待ちわびた。夕闇が訪れると、狭い土手は夕涼みを兼ねた花火見物の人で埋まり、川向こうから打ち上げられる花火に歓声を上げた。時折尺ダマと呼ばれる大型の花火が、巨大な轟音と共に見上げた空一杯に広がると、まだ幼かった私はその音の大きさと花火の凄まじさに恐怖したものだ。

打ち上げ花火が始まって暫くすると、橋の仕掛け花火に火がつけられ、子供の心を一層かき立てた。けれども背の小さい子供が、人で埋まった土手から仕掛け花火を見るのは難しく、たいていは大人の背中越しにかろうじて火花の一部が眺められる程度でだった。

今では当たり前な変わり種の花火も、そのころは殆ど無かった。

今思うに、当時の花火はその質も規模も、今時の花火大会と比べれば遥かに貧弱であったはずだが、私の記憶には、ただただワクワクして楽しかった想いばかりが残っている。

桜橋

家から100m程川を下ると桜橋に出る。幅6m程の木橋で、欄干の下のけたに掴まって川を覗き込むと、河床は美しい砂底で、川に濁りが無ければ底を泳ぐ魚が眺められた。当時は川向こうの愛宕町に川漁師が何人かいて、夏の夕になると魚を目当てに欄干から投網を打った。

現在の桜橋。橋は鉄製に変わったが河の様子は昔をしのばせる。

この辺りは、安濃川の河口まで1.5km程度しかなかつたから、満潮になれば完全に海水が逆流する汽水域で、川魚から海の魚まで色々な魚が見られた。なかでもボラ、コイ、フナ、ウグイ、マダカがおもな獲物であったように思うが、時折黒鯛も遡上してきて、投網の標的になった。ウナギも泳いでくることがあったが、彼らはまず網にはかからなかった。

子供たちは橋の欄干にしがみついて、誰よりも先に大きな魚を見つけ出そうと躍起になるのだが、たいていは回りの大人が先に見つけ出して、投網の獲物にした。投網が開いて上手く魚の群れを捕らえ、彼らが網に絡まると、野次馬たちも大騒ぎして網が上げられるのを待った。

桜橋で見られた魚類。汽水域で川魚と海魚が混在していた。 WEB魚類図鑑より

私も、魚が繋るまでは、ワクワクしながら網が投げられるのを見るのだが、コイやセイゴが、投網に絡められ上がってくると、それまで広い川で悠々と泳いでいた彼らが、急に哀れになり悲しい思いをした。だから何回も投げられる網をくぐって、上手く橋の下から逃げおおせた魚があると、内心ホッとして嬉しくなったものだった。

塔世橋

塔世橋は安濃川に架かる旧国道二十三号線の橋である。今では建て替えられたが当時三重県庁のすぐ南と云うこともあってだろう、私の知る限りそのころ津市とその周辺ではもっとも立派な橋だった。

橋の欄干は全体が淡いピンクの御影石で作られていて、その表面はよく磨かれて美しかった。私は橋を渡るたびに、つるつるした石の表面をなぜてゆくのが好きだったが、表面の磨き具合がなぜか橋欄干の位置によって大きく違い、橋の南側よりは、橋の北側の方が美しいピンクの石が多かったと記憶している。

橋の四隅には当時の御影石の欄干が残されている。

欄干のたもとには上部が丸みを帯びたかなり大きな石塔しつらえてあり、その上の部分は中が刳り抜かれて電気照明が灯けられるようになっていた。ただし、その窓の部分や橋の欄干の一部の金属は、戦時の金属供出のあおりで取り外され無残な姿で放置されていた。

でも橋はとても堅牢に作られていたようで、子供のころに次々と襲ってきた大型台風にもびくともしなかった。その下流の桜橋などは木製で大水の時など渡るのも怖いほどであったし、桜橋の下手にかかっていた楽天橋(現在の安濃津橋下流の位置にあった)などは私が幼稚園児のおり県下を襲った十三号台風で橋が流失し、国道23号のバイパスが開通するまで以後20年近く、桜橋より下流に橋が再建されることはなかった。

被弾した欄干の一部が今も保存されている。

先にも少し述べたが、塔世橋は太平洋戦も末期の1945年7月24日より28日にかけての津市大空襲の際に橋に被弾し(母の話では機銃掃射を受けた)その弾痕を今も残している。この折の空襲は爆弾と焼夷弾をもって数度にわたり、ことに7月28日夜間の焼夷弾空襲は安濃川以南の津市街をすべて焼き尽くしたといわれる。

死者の総計は2500人に上り、当時の津市中心部の人口を5万人程度とすれば、なんと全人口の5%に上る人が犠牲になったのである。当時幸いにも川の北側に住んでいた私の母と私の兄弟は、防空壕に逃げ込んで家もなんとか焼け出されずに済んだが空襲警報につづいて、地の底から湧きあがってくるB29編隊の爆音。空気を切り裂く無数の焼夷弾と爆弾の落下音は壕をゆらし生きた心地がしなかったという。

母の周囲では、知人の家族が何人も殺されたり重症を負つたといい、時折そのことを思い出して、川向うの街全体を火の海にしたB29の無差別空襲と無抵抗な市民に対する非人道な機銃掃射の恐怖を語ってくれたものである。

当時の母の中では、焼夷弾で焼き殺されたり攻撃機の機銃掃射で瀕死の重傷をおったいくばくもの人々の痛みや恐怖、不安絶望の悲しみが深く沈んでいたようであった。

塔世橋より下流の桜橋を望む。

安濃川の北の堤から見渡した私の記憶に残る当時の津の街も、延々と続く小さな民家の瓦屋根ばかりで、唯一津の中心部で焼け残った大門百貨店と大門警察署の小さなビルだけが、瓦屋根の彼方にぽっんと取り残されている風景である。

そんな思い出のある塔世橋も、国道23号線の拡幅のおり新しい橋に建て替えられて、今では欄干の四隅に当時の石造りの部分を残すのみだが新たな橋も当時の塔世橋の作りを妨げない、落ち着いた味わいのあるデザインで建築されている。

七夕祭り

桜橋では七夕の日が来ると、川向こうの住人たちが5~6mはある竹に何本も横のけたを取り付け、数十個の提灯を取り付けた七夕飾りを幾つも持ち寄って川に流した。刺青の若衆や真っ黒に日焼けした屈強の男衆が竹を支えていたから、懐の豊かな、祭り好きの的屋や大工左官の親方衆が金を出していたのであろうか。

歓声と共に何十もの提灯を燈した竹飾りが、次々に川に投じらる。川面に浮かんだ提灯は、水をかぶって消えてしまうものも有るが、多くはまだ燈りながら暫く川を流れ、一気に燃え上がっては消えてゆく。

秋田の竿燈まつり(http://www.kantou.gr.jp/data/photo.htm)の提灯飾り影響があったのだろうか。

川向こうの町内では、このお祭りは戦前からずっと行われていたのだろうか。戦後間もない頃で人々が大した贅沢など出来ない時代であったから、当時の私には、この祭りは感動と同時に、まことに贅沢でもったいないことだとの思いが強かったものである。

実際、祭りに金を投じていた人々も私と同じように感じたのだろうか。流す竹も提灯も何時しか減ってゆき、私が小学校の上級になる頃には、笹流しは行われなくなったように思う。七夕に川で竹を流しているのは、親に連れられて、家でつくつた可愛い笹飾りを流しに来る子供ばかりになってしまった。

稚鮎

幼稚園に通える頃になると、近所の上級生が川遊びを許可してくれた。それまでは子供同士で川に行っても、年端が行かないと深みにはまっておぼれる恐れがあると、岸辺に留め置かれて、彼らのように川を自由に歩き回ることなどまれにしか許されなかった。

これは汽水域にある河川に対しては極めて正しい配慮で、海の干満にあわせて河川の水位が大きく変わるから、大潮の時など、水が浅いからと、なれていない者が川に入り込むと、潮が満ちてきて浅瀬に取り残される危険があったからだ。

川に入れるのは、干潮の間の数時間。潮が上げてきたらどんなに浅くても帰る用意をして、川に入った場所まで引き返す。このルールが分かると認められると、年長の子供らも、もううるさく云わなくなった。

初夏の頃、子供らで連れ立って大引きした川に入るのは、なんともいえない心地よさがある。海に近い浅瀬には、カレイの稚魚が無数にいて、歩くたびに足元に飛び込んでくるし、元気のいい奴は逃げ回って自分から砂地に乗り上げてしまう。

時折、ジャコウアゲハやカラスアゲハが頭の上を飛んでゆく。それを見るとバチャバチャ浅瀬を追っかけて捕らえたい欲望にかられる。砂地にはシジミがたくさん居るし、河口近くまで行けばアサリやハマグリが簡単に取れた。

その気になれば家のおかずになるくらい楽に持って帰れたけれど、魚取りや水遊びに夢中で、おかずを持って帰るような親孝行をした記憶はあまり無い。

稚鮎の遡上時期にあたると、引き潮で川幅が一気に狭まり、流れの速くなった場所に無数の鮎が集まり、流れを遡つて子供らの心を捉えた。黒々とした群れの中に踊りこんで素早くタモを振るうと、上手くいけば網目から逃げそこねた子鮎を何匹か捕まえられた。

群れの数の多いときは、群れに向かって川の浅瀬を突き切るだけで、群れのうちののろまな奴が岸に乗り上げて手ずかみ出来たものだ。キラキラひかる魚体は、ハゼやフナとは違う高級感があったが、捕まえてもバケツに入れるとすぐ死んでしまい、砂地に掘ったプールにいれても結果は同じだったから、彼らを捕まえる試みはすぐ飽きてしまった。

子供にも割と楽に捕まえられる獲物は、ハゼとカレイと手長エビくらいだったが、川底の石やごみをさらえているとたまにウナギの子が取れることも有った。ウナギは川にたくさんいて、川のあちこちにウナギよせの石積みがあったし、竹を抜いたウナギ罠が沈めてあった。

此れはみな川向こうの部落の漁師か子供らが仕掛けたもので、こちらの餓鬼とは交流がなかったから、私たちが罠に手をつけたり、自分たちで罠を仕掛けたりすることはまず無かった。対岸の悪餓鬼どもに見つかればただでは済まず、持って行った罠も巻き上げられるか、こわされてしまうのが目に見えていたからだ。

熱帯魚

石積み漁は、干潮になっても干上がらない適度な川の深みを少し掘り込んで、そこに手で抱えられるサイズの石を積み上げる。夜間や満潮で移動してきた魚が、よい隠れ家だと勘違いして石の中にいりこむと、干潮を見計らって石の周囲を網で囲み、石を1個1個剥がして最後には其処に入った全ての魚を一網打尽にしてしまう漁だ。

石積み漁はまだ健在だ。桜橋より下流北岸を写す。

網の外へ取り除けた石は、新たな罠となり、そのうちまた網で囲われて先の位置に積み替えられる。水中で重量のある大量の石を移動しなければならないから、時間もかかり体力のいる漁だと思うが、今でも桜橋の下流には数多く仕掛けられている。ウナギ、藻屑蟹、手長エビ、マハゼが主な獲物だったと記憶する。

この石積みの周囲は、隠れ場所が多いだけに、色んな魚が居た。漁師達は、子供が石を勝手に動かしたりしなければ、周りで小魚を掬うことぐらい大目に見ていたから、石積みの周りでよく魚をとった。その中でも特に嬉しかったのは、熱帯魚と呼んでいた体に暗黄色の縦縞のある体長1~2cmの小魚だった。

川にこんな魚が居ないことは五つの子でも知っていたから、それが海の魚の子供であるのは判っていた。しかし誰もその魚が何なのか知らず、縞のある体つきから当時流行りだした熱帯魚のエンゼルフィッシュを連想して、この小魚を熱帯魚と呼んでいた。

彼らは、捕まえた場所の川の水を汲んできて金魚鉢で飼っていると暫く生きていたが、流石に淡水魚のような訳には行かず数日たつと皆死んでしまった。

イシダイとコトヒキの子。イシダイの稚魚(1~2cm)はもっと黒くて縞も滲んでいたと思う。 WEB魚類図鑑より

熱帯魚にはもう一種類あり、こちらは石積みの周りと云った止水ではなく、浅瀬の早い流れの中に群れで泳いでくる。縞は縦縞ではなく体の後方に流れる斜めの縞をもち、体長も、少し大きくて2~3cm程度のものが多かった。

体は縦じまのやつより流線型で泳ぐのも素早かった。けれどもこいつらは、捕まえても半日ほど生きているだけで翌日には全て死んでしまうので、鮎同様にあまりとらまえる気がおこらなかった。

その後、海釣りを趣味とするようになって、子供の頃見た熱帯魚は、どうやら石鯛とコトヒキの稚魚であったと知った。

思えば当時の海はまことに豊饒だったのだ。汽水域の川には、海水魚から淡水魚まで入り混じって生活し、七つの子供が振るう網にもやすやすと飛び込んでくるほどに魚の数も種類も豊富だったのである。

赤潮

この海の豊かさを象徴するような出来事が、小学校1年の7月に起こった。日にち迄は記憶に無いが、7月に入ったばかりの土曜日であったように思う。学校の1限目の授業が始まる頃から、何かしら川の辺りが騒がしくなりだした。小学校の窓から安濃川の堤までは直線で300m程の距離で、学校のグランドに続く水田の向こうに堤防がよく見えている。普段ならそんなところを歩く人など百姓以外だれも居ないところなのに、何人もの大人たちが川を覗き込みながら走っているのだ。

川で何かが起きているらしいのだが、授業中の学校から抜け出すわけにも行かず、生徒全員が原因を知りたくて学校全体が異常な興奮に包まれていった。

勇気のある奴は1限終了後の休憩時間に堤防まで走っていって、何が起きているのか確かめようとしたのだが、たちまち教師に捉まって教室に連れ戻された。そしてこの頃になると、どこから聞き出したのか、生徒のあいだに騒ぎの原因が何であるか噂が流れ出したのである。

川に赤潮が起こって魚が全て死にかけている!クラスの内でも耳の聡い子供らが、何処からかこんな話を聞きだしてきた。赤潮!赤潮!一体何者なんだろう、クラスの誰一人赤潮なるものの正体がわからず、子供等の想像は苦しいまでに掻き立てられる。この頃になると、安濃川堤に集まった大人の数もさらに増え、誰もが川に走っていって何が起きているのか確かめたくてたまらず、授業など全く手につかなくなった。

結局子供たちが学校から開放されて川へ走ってゆけたのは、午前の授業が全て終わったお昼前であった。この頃には、すでに赤潮も峠を越えたらしくて、堤防にいた大人たちも殆ど見えなくなっていたが、川にたどり着いた私が見たものは、潮止まりが始まったらしい川のあちこちに、おびただしい数の魚が白い腹を返して浮かんでいる光景だった。

しかもその魚の大きさたるや、体長40~50cm以上有ろうかと思えるような奴ばかりで、普段の川遊びでは到底お目にかかることの出来ない海水魚なのだ。最初は屍骸にばかり目が言っていたのだが、慣れてくるとまだ川のそこかしこに普段目にすることもない巨大な魚が狂ったように泳ぎまわっているのが見られた。

川筋に住む大人たちの話では、数時間前には、川全体が狂ったような魚で溢れ、彼らは海から来る毒を逃れるために桜橋のさらに上流まで川を遡ったのだと云う。実際、桜橋の下の河面を1mは有りそうな巨大なダツが跳ね跳びながら泳いでいるし、橋の袂の住人が捕らえて毒を吐かすのだと何匹もたらいに入れていた魚は、此れまで魚屋でしか見たことの無い青い背を持つた海水魚だった。

私はこのときタライに入りきらずタライのふちに沿って体を丸めていた化け物のようなセイゴを見た。それはまさにズズキと呼ぶにふさわしいサイズで、その後海釣りに行くようになって今に至るも、津市の沿岸でこれほどデカイ体長の奴を目にしたことは無い。

このときの大人たちの話を色々と思い出してみても、彼ら自身経験したことの無い出来事のような話し振りであったから、これは戦後になって初めて伊勢湾で発生した大規模な赤潮だったのではなかったかろうか。終戦後、十年近くたち、戦後復興も果たしてようやく生活に余裕が出来始めた時代の幕開けがこの赤潮だったような気がする。