天津の蝉

私がこの文を書いてからたちまち5年の月日が過ぎ去りました。その後北京オリンピックや上海万博をへて中国の成長は更に勢いを増し、日本は遠く置き去りにされた感があります。

これはそんな中国が加速する途上の天津の模様ですが、話を聞くと、街の様子などすでに当時ともかなり変わってしまったようです。

2007年6月4日から6月29日まで、社用で中国天津市に暮らした。これで5度目の天津なのだが、来るたびにその発展のすさまじさに舌を巻いてしまう。延々と続く高層マンション、市内至る所で建設されている超高層のビル群、人口一千万人を擁するこの大都市は、北京や上海等他の中国の大都市の例にもれず、日本人の想像を遥かに絶する規模とスピードで拡大し、進化しているように見える。しかし、その中に飛び込んでみると、そこに生活する地元の人たちの生活は、その都市の外観とは逆に、私の知る日本の社会よりもまだゆったりとして、精神的なゆとりや余裕があるように感じられてならない。そんな天津の印象を幾つか書いてみる。

銀河広場

中国の人々は、まことに社交好きである。天津ではもっぱら津利華大酒店という4ッ星ホテルに泊まるのだが、そのホテルの前に銀河広場と名づけられた天津でも有名な公園(と云うよりは矢張り広場か)がある。

幾つもの円を巧みに組み合わせて形づくられたこの広場は、その独特の幾何学的形状によって衛星写真からも極めて簡単に見出せるが、天気の良い日には、この広場が朝から晩まで、さまざまな人々の社交の場になる。

左は当時の衛星写真。中央が銀河広場。最近の写真(右)では、大規模な模様替えを始めた様子で最早数年前の姿がない!!

ホテル住まいの私の日課は、朝目覚めると、先ずこの公園を散歩することから始まった。天津は、梅雨に入る七月後半から八月を除けば、雨が極端に少ない。天津名物の霧で、辺りが霞むことは有っても雨に降られることは先ずないから毎日散歩に出歩ける。5時前にホテルを出、ホテルの前の友誼路Youyi Luを横切るとそこが銀河広場だ。

津利華より銀河広場を望む。ホテルの前はイベント会場になっている。

Youyi Luは片道四車線で天津では平均的な道路だが、中国は日本と違い、車は右側通行で、交通道徳もまだ十分には浸透していないから、車も人も我が身が優先、ホテルの前には信号がないため、交通量の多い日中や夕刻にここの横断歩道を渡るのは十分注意がいる。しかし流石に朝の5時ではまだ交通量も少なく、余裕で横断できる。

ローラースケート

広場で真っ先に出会うのはローラースケートを楽しむ人達。スケート靴はローラーブレードだ。広場でも津利華とその左隣に隣接した天津賓館の前辺りは、天津在のさまざまなスケートのベテランたちの練習場になっているらしく、ここで滑っている人たちの多くは実ににスケートが上手い。

チームで滑るもの、個人で滑るもの、スラロームからスピードスケート、滑りながらダンスする(アイスダンスの選手だろうか)人もいるから見ていても結構面白い。ことに土日は早朝からたくさんの人が滑りに来るので彼らの中でも一流のスケーターに会えたりする。 きている人たちは、幾つものグループに分かれているようだが、皆お互いに顔見知りらしく、広場の一角を共用しながら仲良く滑っている。彼らの子供たちがグループで滑ることも有るが、これまた上手い。

鳥の凧

スケートの次に出会うのは、凧揚げのマニア達だ。凧といっても日本で見られるビニール製の凧ではない。鷹や鷲の形を模し、竹と布で精巧に作られた工芸品で、地上に風がなくとも揚げることが出来る。

有名な凧作者の手になるものは凧に銘印が入っており、空に上げてから、糸を繰り出し滑空させたときに、右旋回するか、左旋回するかその向きまで調整されている。良いものは凧の絵も手描きで趣がある。揚力が大きいのは、翼面積の広い鷲の凧で、大きいものは翼長2mはあり、無風に近い日でも良く揚がる。

鷹形はスマートで精悍な印象を与えるが、実際の鳥に似て凧も小ぶりでその分揚力が小さく、地上に風がないときには、上層まで持ち上げるのには腕と時間が要る。そのためか、多くのマニアが数種類の凧を持ち、その日の風に応じて揚げる種類を変えている。

凧糸を巻く糸巻きも、直径200~300mmの木製のホイールに木製の握りがついた日本では目にすることのない独特のもだ。ホイールや握りに螺鈿細工にも似た飾りを埋め込み、いかにも高そうな工芸品風のものから、現代的なアルミ製のものまで色々有るが、どれにも共通しているのは、すばやく、撚りをかけずに糸を繰り出し、巻き込めるよう工夫されていることで、日本の凧揚げに使う糸巻きでは、全く使い物にならないと思われる。

彼らはこんな凧を、早朝から自転車や三輪車やバイクやらにつけて広場に集まり、数百m以上も糸を繰り出して、辺りにある高層ビルよりも高く上げるのだ。

凧揚げに興ずる人の多くは、すでに現役から引退した老人たちで、めいめいが持ち寄った凧を、それぞれ仲良く揚げながら、世間話に興じて楽しんでいる。こせこせした日本ではあまり見られない、まことに優雅でのどかな風景なのだ。

私はそんな彼らが好きで、広場に行くと凧揚げマニアが集うベンチの辺りに腰をおちつけて、ホテルの食事が始まる6時ころ迄、凧揚げを見ていることがよくあった。地上には風がなくとも、旋回と上昇を繰り返して100m、200mと糸を出してゆくと、ビルの上を吹き抜ける風が捕らえられるらしく凧が一気に上がるようになる。 風のないときに、いかに巧みにすばやく上層の風に凧を乗せるかは、凧のよしあしと凧揚げの技術に懸かっているのだ。風のないとき、誰よりも早く上層風に凧を乗せることの出来る人は、いかにも誇らしげに、凧を操っているように思えた。

凧が欲しくて彼らに何処で買えるのか聞いてみるが、なかなか話が通じない。何人もの人が寄ってきて、あれこれ色々教えてくれるのだが、ますます訳がわからない。結局会社の現地駐在の松田さんという方に案内してもらって、市内の鼓楼の凧専門店で鷲と鷹の凧2種類を購入した。

私も、彼らに倣って、日本で凧揚げ人生をて楽しんでみたいと思っているのだが、いまだ働き蜂の根性は座らず、二つの凧は、我が家の居間の壁にかかったまま、空に浮かぶのを待っ日々である。

夜の広場

夕刻7時を過ぎると、広場は避暑をかねて集まってくる人たちで一杯だ。広場のあちこちに様様なグループが集い、思い思いのパフォーマンスを繰り広げる。凧揚げ広場の辺りも、社交ダンスやモダンダンス、テレビ歌謡風、エァロビ風、民族舞踊、タップ、太極拳風演舞と様様な種類のもっぱら踊りを楽しむ人たちのサークルが場所を占める。

彼らの向こう側には、音楽を楽しむサークルが集う。胡弓、バイオリン、ニ胡、フルート、アコーディオン、ドラムセットで楽器演奏に興じるグループ、男女のボーカルを擁し楽器の伴奏で様様な歌を聞かせるグループ、どのグループの周りにも、若者から老人まで多数の人が群れその歌や演奏に聞き入る。

見ていて楽しいのは、彼らが聴衆と一体となって楽しんでいることで、すばらしい歌い手の出番が近ずくと、聞き手のあいだには、にわかに期待感が高まり、独特のざわめきと出番を促す野次が飛び交う(言葉がよくわからないから、私にはそのように思えるのだが、実際は全く違うのかもしれない) そんな中で、一度すばらしい女性ボーカルの歌を聞いたことがある。彼女が登場すると、それまでざわついていた聴衆が水を打ったように静まり、彼女が歌いだすと、透明感のある抜けるような歌声が辺りを包みこんだ。

歌に酔いしれた聴衆が低く口ずさむメロデーが彼女の歌に調和し、一曲終わるとまた次の曲が求められ、続けて何曲も歌うのであった。私には曲名も何も分からなかったが、彼女の高く澄んだ声は何時までも耳につき、暫く私の中から消えなかった。

この地の人たちは、こんな生活を毎日のように送っているのだ。今日は木曜日だか、週末ともなれば、広場はさらに多くの人たちで賑わい、人々で溢れかえるだろう。私はそんな中国の人々の生活が心から羨ましく思えた。

広場の出店

広場を突き抜けて反対側に行くと、そこは若者たちが中心のスペースだ。広場の脇には多数の出店が軒を連ねる。その多くは若者相手の貸しスケート靴屋で、路上に多数のスケート靴を並べてお客を待っている。彼らが貸し靴を商売にしていることは、現地駐在の井浦さんから教わったことで、自分が借りてみた訳ではない。一度靴を借りて滑ってみたいと思っていたのだが、いまだに実現していない。

この辺りで滑っているのは、もっぱら初心者ばかり。中国では、女性同士、大変仲良しで、二人で居るときは、いつも腕を組んだり、ぴったり体を寄せ合ったりして、まるで恋人同士のように仲むつまじいのだが、そんな少女達があちこちで大騒ぎしているから、いやでもにぎやかになる。

広場の中心部を巡る手すりでは、大勢が、手すりにつかまりながら練習しているし、二十歳前の娘たちが何人も連なって、キャッキャ騒ぎながら危なっかしい足取りでスケートを楽しんでいる光景は、いかにも華があり平和そのものだ。

少し滑れた若者たちは、男女の交じり合ったグループで楽しんでいることが多く、男女のペアーが手をつなぎあったり、腰を押してもらったりしてして、幸せそうに滑っているのを見ると、何処の国でも、何時の時代でも若者の世界は変わらないなあと思う。

スケート靴屋の隣には、日の高い間、凧を売る店が何軒も出る。彼らが扱う凧は、マニアが揚げる鳥凧ではなく、様様な形とデザインのカラフルな子供向けの凧で、子連れの大人たちがお客である。風さえあれば、こちらの凧も良く揚がり、色がきれいなだけに人目を引く。凧は売っているだけではなく、スケート靴同様一定時間のレンタルかもしれないが、私もあまり仔細に観察したことがないので、なんとも云えない。

外周1km程ある広場を一周して戻ると、朝なら丁度食事時間となり、朝食前の運動は終わる。広場では、彼ら以外にも、多くの人々が、思い思いに、色々な趣味をもって広場に集まり時を過ごしているが、その多くは定年を迎えた老人(とても年寄りには見えないが)らしい。

通訳の女性たちに聞くと、中国では、日本に比べて、家庭内での老人の立場が強く、定年を迎えたお年よりの多くは、子供たちの世話になって、孫の世話をしながら悠々と余生を送るのだと言う。中国の大多数の老人が、子供や孫と共に住み、子供や孫の厄介になってのんびりと暮らしていると言う話を聞くと、私の子供の頃の日本がそうであったことを思い出す。

戦後日本は、物が支配する、アメリカ流資本主義の凄まじい流れに投じられ、勤勉努力の甲斐有ってか、華々しい経済発展を遂げたのだが、それと引き換えに、様様な人間的な繋がりやモラルを失ってしまった。そのことを思うと、今まだ中国の人々の中に残されている、ゆったりとした生活観が何時までも彼らの中から消え去らないよう、願う。

ことに、上海など、資本主義圏との貿易で急激に開けた都市では、人心の荒びも凄まじいと言った話を聞くにつけ、この天津の人々がそうならないよう願わずには居られないのだ。

これらは数年前に書いた文章だが、最近の中国の様子を聞くとその変貌あまりに著しくて、私が書いた銀河広場自体、衛星写真を見ても現在人々が自由に凧揚げ出来る環境が残されているのだろうか。天津を始めとする大都市が年単位で変化してゆく様子は、日本の高度成長期すら足元にも及ばぬ規模と速さを持っており、このまま突き進んでゆけばいったいどんな未来が待ち受けているのか私には想像もできない。

万里の長城や京杭大運河を見るとよく分るのだが、この国の指導者達の構想はあまりに雄大かつ悠久であり、絶えず細かいことにこだわり、せせこましい私のような人間にはどうにも梃子にかからないのだ。

天津の蝉

天津には生き物が少ない。日ごろ目にする生物と言えば、スズメとカササギ後はたまに都市の上空を飛んでゆくサギくらいのもので、公園を散歩する飼い犬を除けば、私は殆ど生き物を目にしたことが無い。私が散歩する銀河広場やホテルの隣の天津賓館にはある程度の緑が有るから、中国固有の昆虫の一匹でも捕まえてみたいのだが、人間のほかは、殆ど何もお目にかかれないのだ。

カササギだけは何処に行ってもいる。

そんなある日、6月22日だと記憶しているが、天津賓館内の和食レストラン神戸屋から宿泊先の津利華まで、天津賓館の庭を歩いて帰る途中に、庭の木々の梢で鳴き出した蝉の声を聞いた。押し殺したような、およそ趣の無い声で、日本のハルゼミやヒグラシよりもまだ無感動な鳴声である。

津利華に隣接する天津賓館。敷地内も前の賓水道も緑が多い。

どんな奴が鳴いているのか、何とか姿を見つけたかったのだが、結構な樹高のある広葉樹の梢で鳴いているため木々の葉と枝に隠れてまるで分からない。エゾハルゼミの仲間のような気がするのだが、時間も午後の7時近くで黄昏が迫っていたから結局あきらめてしまった。

この蝉の鳴声は、その後も何回か聞いたが、これ以外に私が気付いた昆虫と言えば、何処からかホテルの部屋に迷い込んできた、アカアシコメツキに似た小さいコメツキムシただ一匹であった。

思えばあの蝉は、私が確認した唯一の虫らしい奴だったのだ。あの時少々時間を掛けてでも、あの蝉の声の主がどんな姿をしていたのか確認し、できることならカメラに収めておきたかったとつくづく後悔している。

今度また6月に天津を訪れる機会があったなら、ぜひともその姿を見てみたいものだと思っている。

ああ、何とかまた再会できますように!

その後の訪問のおり、日本で見るウスバキトンボと同じトンボを見かけた。彼らは東南アジアあたりから渡ってくるようだから同じ仲間だと思う。

家世界 jiashijie

ホテルから歩いて7~8分の処に大きなスーパーマーケット(超市 chaoshi)がある。家世界の中国名が何に由来しているのか知らないが、此処にくれば字意の通りで家庭に必要なものは、大体まかなえるから、分かりやすい店名だ。中国北部地域に50店舗以上の店をもつ中国スーパー業界の大手で、天津市内にも数店舗あるらしい。

中国資本のスーパー家世界

もっとも天津には中国全土に名を轟かしている韓国資本の超有名超市EMARTも有るが、こちらはまだ入ったことがない。フランス資本の家楽福(Carrfour)も全国に有るようだ。私も天津の中心付近にあるホテル金澤大酒店に滞在した折は、この店がホテルのすぐ傍にあったから良く利用した。

フランス資本の家楽福

過去何度かの天津滞在で津利华大酒店にとまるときは、日常生活に必要なものはたいてい家世界で購入していた。入り口をくぐると、2階まで吹き抜けのイベントスペースーがあり、何時も自家用車の展示がある。中国製の車に並んで、トヨタや三菱製も展示されているが、レクサスやカムリ、パジェロと言った日本でも高級車の部類にはいる車が主体で、ファミリーカーが置かれているのを見た記憶が無い。

市内には、GM、ベンツ、BMWの超高級車が多数走っている割にタクシーを除けば、小型のファミリーカーが少ないのを見ると、この国の自家用車購入層は、一般の市民のレベルにはまだまだ届かず、彼らの上に立つ一部超裕福階層がターゲットだから、品質優秀な日本車が、彼ら相手に高級車種で勝負を掛けるのも、もつともなことなのだろう。

このスペースを抜け奥に行くと、レストランや多数のテナントショップがある。エスカレーターで2階まで上がりその奥に行けば私の目当てのスーパーマーケットがある。

此処では、知らずに袋やカバンを持って入ろうとすると、横柄な警備員に止められてしまい、万引き防止のために、コインロッカーにカバンを預けさせられる。フランス系の家楽福ではそのようなことはなく、出這入り自由だったから中国系資本のスーパーだけなのかもしれない。

スーパーの中には日用品から衣料品、電気店、小さな本屋まであるが、中でも充実しているのは食品売り場だ。食文化の進んだ国だから、食材の豊富なことはもちろんだが、日本人から見ると、著しく値段が安い。

こちらの人に言わすと、町の小売店に比べて家世界の食品は高いらしいが、野菜や果物などたいていのものは数元(1元17円くらい)単位だから、4~5元で巨大な瓜や西瓜を買うと持ち帰って食べるのに一苦労する。ことに西瓜は美味しくて、朝食のデザートでも大量に食べていたが、流石に1個丸ごとは多すぎて、結局半分以上ホテルのメイドに始末してもらった。

自炊しているわけではないから、肉や野菜を買い込むことは無かったが、食パンとドライフルーツはよく買った。ドライフルーツの種類と量の豊富なことは驚きで、様様な種類が店内に山積みされている。ただ味のほうは私の味覚に合わないものが多く、キウイや杏など買い込んで食べてみて、がっかりするものもある。干葡萄も様々な種類があり、中には辛いものまであって驚かされた。

パンも結構種類があるが、薄切りにした干葡萄入りの食パンが好きで、なかなか美味しいので行く度にかってきて、チーズを鋏んでよく食べた。

チーズや牛乳、ヨーグルト等の乳製品も、とても安い。ヨーグルトは大好きなのでプレーンヨーグルトに近いものから、フルーツ入りのまで様様な種類を買い揃えて、ホテルの冷蔵庫に詰め込み毎日大量に食べていた。

この贅沢は、食材の高い日本では、真似るわけにも行かず、中国の話題が出るたびに思い出す。

店舗での買い物は、いたって快適なのだが、レジにゆくと一気に気分が悪くなる。レジの店員のスピードが遅いくらいは、日本以外の国では当たり前のことらしく、気にしないようにしているのだが、店員がやたらに威張っているのだ。この店は国内にも結構な店舗数を誇るスーパーなのだが、レジ係りに関する限り、接客サービスと云う言葉は無いに等しい。特に男性店員は横柄で質が悪く、客を待たせても何ら責任を感じないらしい。

一度隣のレジに入っていた男のレジ係りが、つり銭切れだとわめきだし、客の列を待たしながら、3分以上もレジを止めたままで隣の女店員と無駄話を続けていた。どれだけ客を待たせるのか興味があったので時間を測っていたのだが、あまりに馬鹿らしいので最後まで見ずに帰ってきた。

この国では金銭を扱う部門の人間は、他の部門のものより自分を上に見ているのだろうか。会社の通訳嬢にこのことを質問したかったのだが、結局忘れてしまい聞けずじまいになった。

天津には他にも韓国資本のEMARTと云うスーパーがある。こちらは中国全土にに多数店舗を構え、ネット販売から日本人向けの販売まで大々的にこなす超市である。インターネットのサイトを見ても、そのセンスは日本国内の企業と変わらず、まことにサービス精神が溢れているように見える。

彼らが中国でどのような店員教育を行って、店を運営しているのか、ぜひとも見てみたかったのだが結局滞在中にはその機会に恵まれなかった。

交通マナー

天津市内に見る限り、車の交通マナーは、他人に負けない様にするのが原則のようだ。なにせ人口13億からの国である。人に道など譲っていたら過渡競争に負けてしまう、相手が譲り合いの精神を備えた軟弱な奴なら、さっさと追い越し蹴落として一歩でも先に出るべし。というわけだ。

日本のように、お上が決めてくれたことには逆らわず、車が来ても来なくとも素直に赤信号で止まっているのが当たり前と考える国民から見ると、最初は交通マナーなど無いように映る。

狭い道で帰宅のラッシュにぶつかると路上に人と自転車と車が入り乱れる。

だから、最初のうちは外に出て、交通量の多い交差点を横切るときには、ひどく不安になったものである。特に中国の交通規則では、車は右側通行、右折車両が横断中の歩行者ともろにぶつかる形になるので、日本では気にすることの無い左後方からの車両に気をつけていないと怖い目にあう。もっとも暫くすると徐々に慣れ、「車も来ないのに赤信号だからと待つ必要など無い」と云う、中国流の合理主義がむしろ楽チンで快くなって(待ち時間がなくなるから当然である)赤信号でも車が来なければどんどん横断するようになってしまった。

慣れてくると中国流の交通ルールが分かってくる。結構快適だ

中国では北京オリンピックを控えて交通マナーの指導強化を図っているのだが、現状の無法ルール(決して完全な無法ではない、部外者には無法に見えるが、最低限の暗黙のルールがある)のほうが歩行者にも車にも楽な面も多いので、簡単に守れるようにはならないだろう。

ただこのまま放置すれば、増加する車と人による大渋滞で都市部の交通は完全に麻痺してしまうだろうから、行政当局にとってはまことに頭の痛い問題である。

しかし、道路に出ると、これほど前に出たがりな人が多いのに、スーパーマーケットのレジの非能率、不親切に対していっこうに反感も持たず、おとなしく並んで順番を待っているのはどうしてだろう。つい最近まで、企業といえば国営企業しかなく、役人店員の尊大不遜な態度が当たり前であったから、スーパーで少しくらい待たされても、気にならないのだろうか。

あるいはその逆で、役人店員の時代に(今でも、国営の天津空港などでは、中の喫茶など恐ろしく応対が悪い)散々並んで待たなければならなかったため、人より少しでも早く前に出て、時間を短縮したいとの思いが、人を押しのけ掻き分けても前に出るといった習慣を身に付けさせたのかもしれない。

通訳嬢

天津に入ると何時も通訳嬢の厄介になる。会社が言葉の出来ない派遣者のために、日本語のできる人材を雇って就けてくれるのだが、たいていは女性である。一度男の通訳がついたが、語学を学んだとはとても思えないお粗末な人物で、通訳どころか文章の日本語すら殆ど理解できないありさまだった。それ以降通訳に入るのは女性で、彼女たちはたいてい天津外語学院日本語学科の在校生である。

彼女たちが語学を生かして日系の企業に就職するためには、日本語検定の1級合格の資格を取る。能力の高い人は在学中に合格するが、合格できないと条件の良い就職先は期待できないから、学校に残ってアルバイトしながら7月始めの試験に挑むことになる。

今回は1ヶ月の間3人の女性通訳のお世話になったが、最初の4日間附いてくれた歎旬(mei jie)さんがこの試験勉強の真最中だった。彼女に筆記試験の問題を見せてもらったが、日本の地方公務員試験の一般教養程度の問題が試験に出るようで、かなり努力しないと合格が難しい。「会話は楽ね、でも筆記試験、とても難しいです」彼女はそれなりに努力している様子であったが、どうやら合格の自信はなさそうだった。

他の二人は外大同級の親友同士で、2人とも既に1級合格をきめ就職先も決まっている。ことに、私に3週間ついてくれた刘曼(Liu man)さんは天津外語学院日本語学科を主席で卒業する優等生で、日文の中文訳出能力が極めて高く、多数の教育資料を次々に翻訳してくれて大助かりであった。彼女たちは、今年6月末の卒業式を待つ間、アルバイトで通訳をやり、卒業と共に中国各地の就職先に散ってゆくのである。Liu manさんは宁波(Ningbo)にある韓国資本巨大スーパーEmartの対日業務担当に、もう一人の黄慧瑶(huang huiyao)さんは広州の日系企業アスモの総務附き通訳として就職する。どちらも天津から1000km以上も離れた土地である。

彼女たち二人の話を聞いていると、今年卒業する同級生の半数以上が天津から遠く離れた中国各地から出てきており、卒業と同時に親友とも別れ、故郷へも帰らず、就職条件の良い中国の各地の企業に散ってゆくそうである。

私が出会った女性通訳たちは、皆若いけれども有能で独立心の強い人ばかりであった。彼女たちと仕事をして何時も感心するのは、皆に共通した記憶力の確かさと、適応能力の高さである。彼女たちにとっては、見るのも聞くのも始めてのはずの、技術用語の日中対訳表を手渡して、通訳をお願いするのだが、たちま単語を覚え、技術会話通訳のコツを掴んで2日目には、なんとか支障なく会話を伝えてくれるようになる。

通訳の仕事自体、優れた資質と能力がなければ勤まるものでなく、それを目指して努力してきた人たちだから、当然、人に抜きん出た能力素養があるのだろうが、私のように凡庸な、ことに語学に関してはまるで駄目な者から見ると、まことに羨ましい人たちである。

彼女たちの初任給は平均して月2000元。日本円で33000円程度だか、一般の学生の初任給に比べると良いほうだと云う。ただし、通訳のバイトの日当が100元だから、月二十日アルバイトすると初任給に等しい稼ぎが有り、バイトのほうが楽で実入りが良いと、就職せずに通訳のバイトで会社に居付いてしまう女性もいる。

この辺りは、日本の気楽なフリーターを思わせるが、矢張り堅実な中国女性だけあって、条件の良い就職のチャンスは常にうかがっている様子で、昨年まで1年以上も会社(天津汽車線束有限公司)でバイト通訳を勤めていた女性の王さんは、今年には天津の松下電工に正社員として雇われたと言う。

中国の経済発展に合わせて、この国に進出する日系企業は後を絶たず、日本語通訳の需要も年々増加するばかりだから、彼女たちはますます重宝がられ活躍の場を広げてゆくに違いない。

いつか、私も、懐と時間にゆとりが出来たなら、中国全土を旅して歩いて、いつか彼女たちに再会したいものだと思う。

鼓楼(gulou)

中国の都市には、鼓楼と呼ばれる独特の建築を残すところが多い。家庭に時計が無かった時代に市民に時を知らせるため、時の太鼓をたたく巨大なやぐらが建設された。この名残が各地に残る鼓楼である。

北京の鼓楼と鐘楼は建物も大変に大きい。

北京には鼓楼と钟楼(zhonglou)と呼ばれる巨大な鐘楼がセットで残っていて胡同地区の観光名所になっているが、天津の鼓楼は、古文化街と並んで中国の伝統的な品物を売る店が連なる商店街として有名だ。

南門外大街から天津鼓楼の南門を望む

天津の鼓楼地区は、古建築物である鼓楼を中心にして近年その周囲に中国の伝統工芸の店を集めた商業再開発区の一つで、同じ目的で海河沿いに造られた古文化街とともに語られることが多い。先に書いた鳥の凧を売る店もこの地区に2軒あり、私が買ったのもその内の一軒だ。

天津の鼓楼 伝統工芸の専門店街として近年に整備されたが、賑わいは今一つでシャッターをおろした店も多く見かけた。

装飾文字で好みの小さな掛け軸を作ってくれる書家が露店を出していて、通行人の面前で蝶や花や龍の絵を組み合わせた美しい飾り文字で希望の文章を小さな軸に書いてくれる。見ていてもとても楽しく、海外勤務の多い会社の知人につれられて彼と一緒に字を書いてもらった。

鼓楼の中心部から東に伸びる東門内大街を800mほど東に歩くと海河の手前にある古文化街に出る。

こちらは鼓楼よりも商業化が進んだ伝統工芸や古文物販売の専門店街で鼓楼よりは賑わいを見せるがどことなく薄っぺらい感じの漂った古都風現代商業街だ。

並んだ店舗も鼓楼と比べると派手で見栄えがするのだが、逆に鼓楼の持つどことなく古めかしく怪しげな面白さはなく私はあまり好きにはなれなかった。

私には古文化街よりもその南門前の広場に置かれていたソ連製のT-54と思しき戦車とM30 122mm榴弾砲のほうが面白かった。

またすぐ横を流れる海河の向こうには旧オーストリア・ハンガリー租界が広がっていて対岸には橋向こうに美しい教会風建築が望めたが、当時はこの橋には上がる道がなく対岸には渡らずじまいだった。

上の写真には橋へアプローチするための踏み台と思しき建造物がM30野砲の背後に写っている。

海河に面した旧オーストリア・ハンガリー租界のウィーン風建築物はその後再建されて現在では天津でも有名な観光名所となっているが当時は大半がとり壊して再建築の最中だった。というよりも、そもそも奥租界にはこんな豪華な建物はなかったようだ・・・

散歩に出てもっとも楽しかったのは鼓楼から南に伸びる南門外大街の西に南門外大街と並行して走る南開二馬路を歩いていた時だ。

ホテルが南開二馬路と南京路の交差点角にあった折は、帰社時間が早いとまだ明るい街路に出てこの道をよく歩いた。当時はまだ南開二馬路に昔の建物が多く残る居住街で、週末には両側に露天が溢れ、近隣の住宅街から買い物に来る人達で大変な賑わいを見せる。

出店で焼き鳥やパインの抜き実を買ってほうばりながら鼓楼までの道を何度もあるいた。人通りが多くて車があまり入ってこれず周囲の人々にとっても、息抜きの場になっているような生活感の漂う道路だった。

衛星写真を見ると、この道路も最近では近代化の波に揉まれているのではないかと思える。当時人で溢れていた道路が、今写真を見ると道幅も広がり多数の車が路上に見られるのだ。私がこの街の写真を撮ったのはまだほんの数年前なのにこの人間臭い町並みはもはや取り壊されてしまったのだろうか。

実際当時も天津市の至る所で、旧市街の取り壊しが行われていた。旧市街でも歴史的に価値有りと見做されて、市によって特別に指定された景観保護地区以外の建物は、早晩取り壊されて高層建築の立ち並ぶ近代的市街へ変わってしまう。

これは鼓楼の周辺地区でも同様で、現在(2010.12)当時のgoogle衛星写真を知る者から見ると全く別の地区ではないのかと思ってしまうほどの変わりようだ。鉄とコンクリートとガラスとプラスティックで作られた超近代的な高層建築での生活が生み出す都会の生活文化と、レンガ、漆喰,瓦屋根の古建築街での昔風の生活が育んできた過去の庶民文化と、果たしてどちらが尊いものになるのか、そこに住む人たちにも答えることはできないだろう。

中国のコピー文化

鼓楼内にはさまざまな店があるが、中でも書画を売る店が多数軒を連ねる一角は見ごたえがある。これらの店を一軒ずつ回ってみて驚くのは、何十となくある店の殆どが、著名な書家や画家の作品を宣紙(画仙紙)にコピーして売っているのだ。 書を専門に扱う店と絵画の模倣を専門こなす店に分かれるが、驚かされるのは、その職人的な技術の高さである。書は見ても良くわからないので、もっぱら絵画店を覗いて回ったのだが、店でタバコをくゆらせて無駄話をしながら店番しているおばさんや親父さんが実はそれらの作品の模倣作家なのだ。

彼らは美術書を見ながら、此れと思う作品を店の一角で模倣しているのだが、見ていても実に巧みである。美術書を傍らに置き、大判の宣紙に、下描きもなしに驚くべき速さでそれを写し取ってゆくのだが、筆捌きから配色にいたるまで実に生き生きしていてこなれており、模写であることをまるで感じさせない。

私は彼女に、この店にある絵は全てあなたが描いたものなのかとたずねたが、彼女は満面に笑みをたたえて、いかにも誇らしげにそうだそうだと頷いていた。

彼女だけでなく、どの店も模写の技術は極めて高く、並みのレベルではない。しかもそれをやっているのが、普通の店番のおじさんおばさん連中なのだ。中には画家や書家らしい風を装っている人がいる店もあり、こちらは作家としてそこそこ名の通った人物とおぼしいが、たいていは店番のおばさん風である。

コピー文化が花ざかりの中国では、コピーに対する罪悪感などないから、彼らの高度な職人芸は、堂々たる伝統文化として扱われているようだ。

実際、日本で下手を通り越したような軸や額が、怪しげな値段をつけて売られているのを思うと、こちらの方が遥かにすばらしい。もちろん、その技量に応じて値段も上がり、私は何点も欲しい絵があったのだが、彼らが云うだけの手持ちがなく、買って帰ることが出来なかった。彼らも当初の言い値からは半分程度に値引きしたのだが。

もっとも、此処にある店の全てが、伝統的な模写技能を売りにしているわけではない。CD、DVDからパソコンソフト、はては家電や車まで全て巧みにコピーしてしまうコピー技術立国の中国である。

店のなかに、業務用の大型スキャナーとプリンターを何台も備え、美術書をパソコンに読み取って加工して、次々に大判の書画をコピーしている店がある。この手の店は、店員も若く、外見も町の印刷屋風で先の店が持っていた職人的な雰囲気がまるでない。

しかし、この手の店のほうが店員も多く、店の活気もあったから、たぶんこれからは、店番のおばさん風はどんどんこの手の、ハイテクコピー屋達に取って代わられることだろう。

私も、店番のおばさん達が消えてしまわないうちに、気に入ったコピー絵画を買いたいと思う。

中国を代表するコピー商品と言えば、まず時計だろう。鼓楼にも数軒の時計を商う出店が在るが、港湾部の街、塘沽tangguには、おびただしい数の時計商が狭い間口一杯に様様な時計を並べて客を待っている。その多くはブランド品コピーの自動巻で、ROLE、OMEGA、BVLGARI等の定番品がギッシリ並んでいるのを見るのは、なかなか壮観である。

けだし、店の前に並べてある時計は大体が見栄えはするがすぐ壊れるガラクタで、無知な日本人観光客相手に数百元の値段を吹っかけておいて、相手が興味を見せるとどんどん値引き、あわよくば百元程ででつかませてしまおうと云う商品である。

慣れると80元くらいまで下げるが、実態は、加工の精度が悪い、鍍金が薄い、ベルトがすぐ壊れる、リューズが外れる、極め付きは時計がすぐ止まってしまう等々およそ時計の価値がない物が多い。

かく云う私自身今日までに、面白がって8ケの時計を買い込んだが満足に動いているのは1ケを残すのみである。壊れたら買った店に持ってゆくと新しいものと交換してくれるそうなのだが、たぶんそれもすぐ壊れると予想される。

何しろ、原価が数十元とみられる商品だ。こんな値段で、オリジナルうん十万円の時計を真似ろと言うほうが無茶である。時計の心臓部であるムーブメントを見ると良くわかるが、極めて安っぽい作りで、石も殆ど入っていない。50年前の国産のゼンマイ式腕時計全盛時代をご存知の方なら、安い時計でも軸受けに10程は石(JEWEL)が使われていたのを記憶しているだろう。

これらの時計は石も少なく、加工精度も当時のMadein Japanと比べると遥かに劣り、品質管理もなされていないから、まともに動くほうが不思議なくらいなのだ。

もっとも、もう少しましな時計も有る。この手の時計は店の奥に仕舞われていて、物知り顔の客が来ると、いかにも秘密めかして持ち出してくる。ただこの類の時計の中にもガラクタが多く混じっているから、あまり相手にしないほうが正解かもしれない。

現地駐在の方に連れられて行った鼓楼の二階には、書画専門店街の外れに、この手の割と質の良い時計を扱う店が一軒あり、この店は2百元程度の言い値をあまりまけることはないとのことだったが、見た目も性能も露天販売の怪しげな時計に比べると、その分は優れていたように思う。

けだし、私がこの店で買った時計は嵌めていて一年ほど持ったが、結局はベルトが切れてしまったから、所詮露天販売品と大差ないのかもしれない。

見た目、極めて精巧に模倣できる技術があるのだから、こんな安っぽいムーブメントなど作らず、もう少し金と技術をかけて信頼性の高い長時間動く時計を作れば、コピー品でも飛ぶように売れるだろうと思うのだが。

SEA-GULLの手巻時計。トゥールビヨンのムーブメントを装着する。

このような姿勢で商売しているメーカーは、私の知る限り天津の海鴎手表(SEA-GULL)だけのように思う。ここの高級時計は国際的にも有名で、非常に魅力的だがいかんせんROLEXやOMEGAと張り合うメーカーだけに品揃えが高級すぎて私にはとても手が出なかった。高い技術を持っているのだから、もっと大衆向けの製品で量産すれば遥かに売上も伸びると思うのだけれど、手作りを売り物にする機械時計ではなかなか難しいのかもしれない。

時計より遥かにましな、と言うよりもずっと優れたコピー品は皮革製品、ことにカバンである。中国北西部に広がった内蒙古や新疆といった遊牧民族の国からもたらされる潤沢な皮革原料にささえられているらしいが、港湾都市の塘沽tangguには、こういったカバンを扱う店も多数ある。

塘沽は休日には、おびただしい人が集まる天津市でも有名なショッピング街で、地元の若者達でにぎわっているが、私たちのような外人観光客も大勢集まってくるから、おいしい相手と見るや、どの店も抜け目なく値段を吹っかけてくる。

ダンヒルdunhillやグッチgucciのコピー品が臆面も無く並んでいるが、加工もしっかりしたものが多く、実用本位で買うのであれば良い買い物だといえる。

中国の方に話を聞くと、言い値の五分の一以下に値切って買うそうである。ただ日本でなら最低でも数万はしそうな品が四五千円辺りまでは楽に値引くので、ついつい相手の言い値で買ってしまう。

私はカバンも幾つか買ったが、こちらのほうは時計のようにすぐ壊れるようなことも無く、今でも重宝している。