玉石混淆

先日近くの町のショッピングモールに出かけた折、

実際、これ等の店の扱い商品とその謳い文句の中には、多少とも物理や化学の知識を持つものから見ると詐欺や騙りの類としか思えぬ代物が多数混在して、およそまっとうな人間が手がける商売とも思えないのですが、其処は「鰯の頭も信心から」のたとえの通り、世にまことしやかに流されているさまざまな宣伝広告のたぐいをなんら疑いもせず無批判に受け入れてしまう人たちにとっては、それなりに価値をもつものと信じられているのでしょうか。

派手な宣伝に嘘っぽい効能書きを並べ立てる所は、昨今の年寄り相手に大流行の怪しげなサプリメントの類とよく似ていますけれど、口に入れてしまえば消えてしまい、後は能書きだけのサプリメント(効能といっても下手なことを書けば医薬品医療機器法、所謂薬事法に抵触するのでそこは効果があるようでも無いようにも何方とも取れる独特の宣伝文句で書かれているのだけれど)と比べれば、一応装飾品としての鉱物や石が存在しそれなりの存在価値はあるわけで、インチキサプリメントより多少はましかもしれません。

幼い頃、宝石探しと称して道に落ちている石ころの中から、白くて透明感のある石や赤や緑など綺麗な色の付いている石を探して集めて楽しんだことがあります。当時は舗装道路が未だほとんど存在しなかった時代で、自宅の周辺で舗装されていた道路といえば、津駅から塔世橋を経て岩田橋に至る国道23号線だけ。国道から三重県庁へと通じる道もほとんど未舗装でそれ以外の道路はどれも砂利道か夏には夏草が生い茂る野道でしたから、今にくらべれば道端でいろんな石ころを拾うこともできたのです。

それでも道端の石ころから気に入った「宝石」を見つけるのは難しくてあちこち探し回っても綺麗なものはまずありません。家の周りで石ころが多そうな所はあらかた探し終え、家の前を流れていた安濃川の河床などは川筋となって水流の早い場所に砂よりも石が多く集まるので、大潮で引き潮の日にはよく川に入って底の石を拾いました。

またセメントと混ぜる砂利が大量に置いてある工事現場は石集めのポイントの一つで、人目を盗んで砂利の山に近づいては気に入った石がないか探し回りました。しかし砂利の山を崩したり散らかしたりするので、工事の人に見つかると怒鳴られて追い出されるのが常でした。

新しい役所風の建物は、まれに周囲の庭に化粧石が撒かれていることがあるので遠くへ出かける折にはよく注意していました。化粧石は円摩した黒石とか、ときには抜けるような白色の石が敷いてあったりして無視できません。こんな石を持ち帰ってくるのは当然窃盗にあたるわけで、その庭が綺麗なほどに後ろめたさも大きいものでしたが、そこは欲に駆られた子供のこととて、見つからないように見栄えのする石を何個かすばやくポケットにしのばせて帰りました。

こんな風に苦労して集めた「宝石」は菓子折りの箱に入れてため込んでいました。半年ほどの間に大小さまざまの色石が100個ほどは集まりましたが、そのあたりからだんだんに飽きが来て結局は見向きもしなくなり「宝石」は無価値な石ころに戻りました。それでも暫くは手元にありましたが、そのうちに存在そのものも忘れ果ていつしか無くしてしまいました。

どんな種類の石が集まったのか今思い出すと、まず目についたのが石英で、多くは2~3cmの純白の小石でしたが中にガラスのように透明なものもありました。石英塊に混じって、少しピンクや黄色みを帯びた長石が混じるものもありました。

赤や黒や青の地に白い筋状の模様が入った緻密で滑々した感じの石もたくさんありました。これはチャートと呼ぶ岩石のかけらで、道端の転石にも川床の転石のなかにもよく見られましたが、化粧石にこの種類がまじることはまずありませんでした。

チャートの鉱物組成は白い石英塊と同じ二酸化ケイ素SiO2なのですが、鈴鹿や布引山脈の花崗岩に由来する石英塊が1億年前後の年齢を持つのに対して、この辺りのチャートは2億年以上も前に深海底に堆積した二酸化ケイ素の殻をもつ放散虫などの生物遺骸によって造られたものといわれます。堆積時に取り込まれる鉱物の違いによって、赤・黄・青・緑・黒と様々な色がつきます。

またチャートに含まれる微化石の研究からチャートが2億年以上の堆積年代を持つことやその堆積速度が1000年間で1mm程度にしかならないことが見出され、日本の研究者によって海洋プレートの沈み込みに伴なって形成される「付加体」の研究が確立されましたから、地質学の分野においてもチャートは誠に華々しい役割を果たした訳です。

現在では津市の上流域の布引・鈴鹿山系にはチャートの露出している場所はごくわずかで安濃川の上流域など河床の転石にはチャートが殆ど見られません。しかし過去数百万年以前にはチャートが山地の表層を大量に覆っていたようです。このため布引・鈴鹿山麓に当たる自宅西方の楠原から関町萩原地区には過去500万年前後に山域から風化侵食砕屑された岩石が下流の川床に堆積した層厚数百mに及ぶ西行谷累層と呼ぶ礫層が見られ、この礫層中に占めるのチャートの割合は50~60%にも上ります。

私が子供時代に住んでいたのは津市の安濃川河口流域ですから、自宅周辺の道で集めたチャートは、鮮新世前期に山系から大量に排出され山麓に堆積したチャート礫が、その後の時代に山麓域を侵食して海へと下った安濃川によって再度侵食され、押し流されて河口近くの三角州に堆積した石の名残ではないかと思います。

チャートの大半は原色よりずっとくすんで地味な色合いのものですが、よく探すとそんな中から稀に結構鮮やかな色合を持つものが見つかります。当時私が集めたものは赤~黒時折青色のものがありましたが、緑色や黄色は殆ど見つけられませんでした。

しかしその頃国道の舗装工事の際に使われた工事用礫の中に緑~濃緑の大層美しい石のあることが分かり、工事現場へ頻繁に通ってこの種類の石を幾つも手に入れました。今思うと、これは多分鳥羽の菅島から船で運ばれてきたカンラン石(蛇紋岩)であった様です。角張った砕石で円摩していませんでしたが、複雑な模様を持った緑地に白半透明の筋状鉱物が混じるきれいな石でした。この白色帯はアスベストだったのでしょう。

ときに

って陸軍軍医総監森鴎外

明治維新の富国強兵以来、欧米の最新技術をいち早く取り入れ国内産業の育成をはかってきた近代日本ですが、中国侵略戦争の突入以降欧米列強との孤立を深め、それより第二次世界大戦の敗戦に至るまでの十数年間は国内の技術者が欧米の先進技術情報に殆ど接することの出来ない技術的暗黒時代となります。これは国内にまだ独自の科学技術を構築するだけの十分な土壌がなかった日本の多く科学技術の分野において致命的な出来事でした。

この間、それまでは専ら欧米先進メーカーからの技術導入により彼らの技術の良い部分をつまみ食いする形で成立していたの日本の主要な電機・機械産業(軍事産業)は模倣すべき技術情報を失い、素材技術・加工技術・製造技術・生産技術・開発技術その他あらゆ科学技術分野で欧米先進国に大きく水を開けられて、敗戦後一気に流入した欧米からの技術情報に接した当時の指導的技術者の多くが、彼我の技術的格差の隔たりの大きさに絶望に近い思いすら持つたものです。

敗戦を契機にアメリカ進駐軍の指導下で、軍国主義国家の解体・平和憲法制定・民主国家建設とそれまでの黒を白となすような戦後政治の大転換が生じ、荒廃した日本経済の再生と平和国家建設の思いをかけて科学技術者は昼夜を惜しんで海外の最新情報の勉学に勤めました。そして電機・機械の広範な産業分野で再開した欧米メーカーからの技術導入を梃子にして戦後産業の大変革が始まります。

特に戦前のモノ造りの反省から、多くの生産現場ではアメリカ流の品質管理の学習がブームとなり、デミング賞の創設や西堀栄三郎らの指導下に、それまでの日本の産業の核をなしていた徒弟的生産様式(戦前の生産現場でのモノ造りを支配するのは生産現場の親方とその弟子であって、技術者は図面指示の範囲を越えて彼らの作業に関わることは困難であった。このため職工間の作業のバラつきを敗戦まで克服することが出来ず、日本軍は火器その他の交換部品の互換性の低さに絶えず悩まされた)から品質管理を核とした高度に機械化された資本主義的生産様式へと生産構造は変革をとげ、高品質低価格が自慢の国内製造業隆盛のきっかけとなります。

今でこそ日本は物造り大国などと大きなことを言っていますが、今から60年前、私の子供時代には日本製品はむしろ安かろう悪かろうの代名詞のようなところさえあったようで、当時小中学校の先生から日本製品の品質の悪さと、それとは対象的な欧米製品の質の良さについての話を、軍の兵器や玩具や靴下、カミソリなどの日用品を例にしてよく聞かされた覚えがあります。

第二次世界大戦の敗戦によって灰燼に帰した国内企業の保護育成のため、手厚い関税措置で海外からの輸入品流入を抑えてきた戦後の日本経済も、戦後10年を節目として1955年のGATT(関税及び貿易に関する一般協定)への加盟締結により海外からの輸入品を手軽に購入できる環境が整い欧米を中心にさまざまな産品が身近で売られるようになりました。

以前は値段が高くて庶民の口に入ることも少なかったパィナップル・バナナ・レモン等の海外食品が手頃な値段で買えるようになり、欧米製の精密機械や測定機器等高級品の輸入も盛んになりました。この時期既に自動車や家電等国内の産業分野では欧米技術の導入を完全に消化して自立的な技術開発も徐々に可能となっており、ホンダやソニー等優れた指導者を頂いた一部の企業は、世界を凌駕しうる製品を開発しうるまでに成長していました。

この時期の日本経済発展の主たる要因はGHQの指導下に実施された新憲法制定・労働法、教育法制定・農地改革・財閥解体等の民主施策による国民の意識変革と、民主主義を背景にした大規模な労働運動の盛り上がりが上げられます。当時企業に対する労働者の権利意識の高まりは今の時代より遥かに強く、労組は企業に対して労働環境の改善と賃上げの絶えざる要求を突きつけることが可能でありました。

これ等労組の要求を入れられない企業には優れた人材も集まらず、頻繁にストライキの圧力に晒され生産効率も低下して最終的には市場競争に負けて消えてしまうか先細りしてしまいます。逆に技術革新を核として企業の体質改善・生産効率改善に取り組みこれを乗り切った企業は、その過程で高い技術力や企業競争力を身につけることとなって、その後全世界に飛躍する足がかりを築いたのです。

また農地開放による自作農の飛躍的増加と労働運動の盛り上がりに伴う労働者の賃金上昇は、日本国内に戦前には考えられなかった購買力の拡大を生み、激しい企業間競争に寄って絶えず産み出される新製品に対して新たな市場を提供したのです。当時他社より少しでも先んじて「より安くより良い商品」を売り出すことが企業生き残りのために必要不可欠のことで、これが出来ない企業はみな競争に脱落して倒産するか優良企業に吸収合併されるかのどちらかでした。

まさに戦後日本のモノ造りが飛躍的に発展し現在モノ造り大国を自認できるようになったのは、このような極めて激烈な企業間競争が戦後憲法下の非常に民主的な環境で行われた結果にほかならず特に日本人が他民族に比べて勤勉・優秀であったからではありません。少なくとも戦前のような社会体制ではこのような発展はまず期待できなかったと思われます。

この間の競争によって淘汰された企業は数知れず、最も競争が激しかった戦後の混乱期には、例えば自動車メーカーでも30社以上、バイクメーカーに至っては200社以上(日本には283社ものバイクメーカーがあった 立花 啓毅さんのコラム)も存在してシノギを削っていた有様で、その他機械メーカーや家電メーカーもこれに似た状況であったでしょうから、如何に当時の競争が激しかったか想像できます。

戦後70年を経た今、この当時の激烈な競争を勝ち抜いた企業の多くはこの国の経済をリードする存在になっていますが、近年では国内で競争する企業も淘汰併合されて各分野数社を残すのみとなり、嘗ての競争原理に代わって系列銀行を通じての調整や企業間の暗黙の協定が幅を利かすようになりました。

この結果、嘗ては国内での商品開発競争によって日進月歩の勢いであった新商品開発力も年々低下して、今や最新製品の開発の中心は日本企業から、中国・韓国・台湾・ASEAN諸国の企業が取って換わろうとしているのが現実のようです。

この様な現実は、ソニーや本田技研といった嘗て技術で世界の最先端に立っていた日本企業の技術面での凋落を見ると良くわかります。戦後4サイクルの多気筒エンジンをひっさげて世界のバイクメーカーに挑みバイクレースで世界を席捲した本田宗一郎は「おれっちは技術競争なら何処に負けない」と豪語し、本田技研は低公害エンジンを開発して低公害車開発競争の先頭に立ち、ホンダはF1・F2でも圧勝を誇る巨大自動車メーカーへと成長します。

しかしそんなホンダも企業が巨大化して世界的にも寡占化が進み、以前ほどには企業間競争の重圧がなくなってくると徐々に技術競争力が低下し始めます。2000年からのF1第3期参戦、2015年からのF1第4期参戦にいたっては、優勝争いに食い込むどころか予選の上位を確保するのさえ難しく、もはやヨーロッパ勢のエンジンに対して全く刃が立たない状況が出現しています。

宗一郎が「技術競争なら何処にも負けない」と言った会社が、多数の人材と金を湯水のようにつぎ込みながら何年たってもヨーロッパ勢のエンジンに追いつけない現状は、自動車のみならず嘗ては世界の最先端を走っていた家電においても言えることで、正に今の日本の製造業の技術を象徴しているように思えます。

もう10年以上も前の話になりますが私は勤務の都合で何度か中国に滞在したことがありますが、当時の中国から感じられた底知れぬパワーや、清濁混沌とした中国企業と彼らが生み出すおびただしい商品群は、正に日本が順風満帆で国内発展を遂げていた頃を遥かに凌駕する規模と変幻自在の可能性が感じられ空恐ろしくなったものです。

この様な現象は、中国に限らず近年日本の経済発展から学んで、先取的な教育政策によって自国の教育水準を高め、国内に民主的な競争原理を取り入れた国家的産業育成施策を心がけたアジア諸国に少なからず共通したものであったのでしょう。

もう40年以上も前になりましょうか。東京オリンピックも経て国内も豊かになり、

ミネラルショップと呼ばれる店が身近の街に出現しだしたのは、一体いつの頃からだったのだろう。少なくとも私が子供の頃生活していた津市にこの様な店があった記憶はない。当時の私の生活圏内で貴金属や宝石を専門に扱う独立した貴金属宝石専門店すら覚えははなく、時計やメガネを扱うお店が店舗の一角に貴金属や宝石も一緒に並べていた。

稀にこれ等の店舗の飾りとして水晶の結晶など鉱物標本が置かれていたのが、あるいは現在のミネラルショップり走りなのかもしれない。無論当時でも東京や大阪などの大都市なら、教育用の教材や好事家の収集品を市場とした鉱物標本を専門に扱う鉱物商が何軒も存在していたはずだか、敗戦後間もない地方都市ではその様な市場を見つけることも難しく、それなりの鉱物標本を目にすることが出来たのは、偕楽公園の入り口にあった三重県立博物館の貧弱な展示品くらいだった。