天津逍遥の記憶

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天津逍遥の記憶

天津市

10数年前私は会社の仕事で何度か中国の天津に暮らした事がありました。

天津市は古くから歴史のある街で、天津の前進は明の永楽年間1404年に建城された東西約1.5km南北約1kmの城壁に囲まれた歴史のある城郭都市です。

列強の侵略を受ける19世紀まではまだ城郭の遺構がかなり残されていたようですが20世紀に入ってほとんどすべての遺構が取り壊されてしまいました。

日本租界があった戦前の天津旧城地図。この当時はまだ嘗ての城郭の区画が良く残されている

天津旧城図。清代のものとみられるが4つの城門や四隅の角楼や堀の構造が良く分かる。

天津旧城は鼓楼(時を告げるための太鼓が置かれていた楼閣)を中心にして東西南北に走る道路の先に四つの城門をもち、城郭の周囲には海河と結ぶ運河が切られて、天津「天子の湊」の名が暗示するように海河により渤海湾へと通じていたようです。

現在では中心にある鼓楼(1952年に取り壊され2001年に再現された)以外は、南門外大街・北門外大街・東門内大街等々の道路名に僅かに旧城の名残を留めています。

天津旧城の中心であった鼓楼。私が訪ねた頃は再建されて古文物を商う鼓楼商店街の中心になっていた

楼商業街 書画骨董・泥人形・七宝など伝統的な商品を扱う店が並ぶ。私はここで鳥の凧を買った

斯様に古い歴史を持つ天津市も2006~ 2008年私が訪れた頃は、嘗て日本中の生活・文化に大変革がおきた戦後高度成長期・東京オリンピック前後の日本同様に、北京オリンピックを控えて都市全体に大規模な改造を行なっていている最中で、街のいたるところで古い建物や旧市街の取り壊しが行われ、同時に新しい道路や建物の建設が行われれて日に日に変貌を遂げつつある激動の街でした。

天津市南部に聳える天塔(415mのテレビ塔)と囲堤道の八里台立交橋。前後は工津南路

宿泊していた市内中心部のホテルから、市の郊外にある自動車用のハーネスを製造して日中両国の自動車メーカーに供給していた合弁会社天津津住汽車線束有限公司 (天津市西青区西青道271号)まで車で約1時間。

2005年7月GoogleEarthでみた天津津住汽車線束。北側に津同公路が、その先に津沪鉄路の線路が走る。東隣には天津交通職業学院があった

朝8時15分から17時15分まで、私は何期かに分けてここの電線工場へ出向し、中国の若手社員に対して工場の電気系設備の保全技術の教育指導にあたったのです。

出向先 天津津住汽車線束有限公司の早朝の出社風景 当時3000人以上が務める会社だった。

平日は、朝7時頃に会社が定めた市内のホテルから日本人社員を迎えに来る社用車に便乗して 郊外に在る合弁会社へ出かけ、夕刻まで働いて再び社用車でホテルへもどる毎日です。

懐かしい当時の中国社員との仕事風景。彼らはこれまで技術教育を受ける機会がなく皆熱心だった

電気制御の基礎からかなり高度な制御技術まで教える。教育に用いた教材も今では懐かしい思い出だ

出向の時期によっては、契約ホテルが満室で取れないこともあったので、私の場合何度かの出向を通して市内3箇所のホテルでお世話になりました。

仕事に絡む興味深い様々な話題も多いのですが、今回は私が経験した中国での生活と、見聞きした当時の天津という街とそこで暮らす人びとについて書いてみようと思います。

朝の街の通勤風景。当時はまだ自転車が人々の通勤の足の中心だった

当時の天津市内は方々で道路工事が行われていたため、時期により日により道路の込み具合が様々に変わり、時には大渋滞に出くわしたりする。

全てが当局の都合で事が進みますから、確たる予定も経たず朝は通れた道路が、夕には皆掘り返されて全く通れなくなったりします。

市中心部目抜き通り南京路も片側が一日で掘り起こされて前の店舗では車の移動さえできなくなった


そのため中国人社員のドライバー達は他の車両と頻繁に連絡を取り合って、その時々で最も込み具合の少なそうな道を選んで走り時には未舗装に近い間道を抜けてゆくこともありましたが、その御蔭で数度出張を重ねるに連れて天津市内の主要道路や目立つ街路の多くを自然と記憶にとどめ町並みが一層馴染み深いものとなりました。


当時私の楽しみは、そんな街に出歩いておもしろそうな場所をカメラに収めることでした。緯度の高い天津では春から夏の時期には4時には夜が明けて町が明るくなります。

ホテル前・銀河広場の夜明け。緯度の高い天津では4月以降夏場には4時を回ると薄明が訪れ5時前には日が登りだす

サマータイムで1時間20分時計を進めており6時をすぎると多くの人が銀河公園を訪れた


ホテル住まいだった私は早起きで、4時が過ぎる頃にはいつも起きだしてホテルの周りを散歩しましたがホテル前の銀河広場には、早朝から庶民が訪れて様々な趣味を楽しんでいました。

何度も利用した津利華大酒店前の銀河広場周りは毎朝1時間以上の散歩が日課となった。背後は水晶宮

早朝の街は昼間とはまた違った生活の顔を見せる、休日には朝市や露店が方々で店開きする


手早く着替えてカメラを下げ、食事が始まる6時過ぎまで、毎日ホテルの回りを歩き回るのですが、天津では 夏場はほとんど雨が降らず屋外の散歩が毎朝の日課です。


三輪自転車

そんな早朝の散歩でよく出会うのが、三輪自転車に掃除道具を乗せて、路上に溜まったゴミを掃除して回る市の清掃員の姿。

清掃局の三輪車は車体には幾つも補強の構造材が付けられた頑丈な造りで100kg程度の荷物なら楽に運べそうだ。


今日の日本の道路でも、路肩の草むらや側溝にペットボトルや空き缶その他のゴミがたくさん捨てられて見苦しい光景が方々で見られますが、当時の社会主義中国でもゴミに対する感覚は日本と変わらず、庶民が平気で道端へゴミを捨てるため、天津市当局は沢山の清掃要員を雇用してその対策に当たっていたようです。

この人たちのおかげで市内の目抜き通りは美しく保たれているが路地に入ると方々にゴミが目立つ


彼らが使っていた三輪車と同じものは、当時まだ車が一部裕福層の所有物であったため、庶民が手軽に重量物を運搬するには手頃な乗り物として方々で目にしました。

三輪車に商品を満載した移動売店は何処の街角でも見かけた。商品も食品から日用雑貨、新聞など千差万別


三輪車の用途は、沢山の商品を満載した売店であったり、輪タクであったり様々ですが、どれも生活の必要からうまれた庶民の創意工夫が感じられて面白く、見飽きることがありませんでした。

なかには車体に崩れ落ちそうなほどの荷物を縛り付けて平然と運んでいる猛者もいて、日本では見慣れぬ三輪自転車はカメラ好きの私にとっては対象としても絵になりました。

ホテル

異国の生活で真っ先に厄介になるのは宿泊するホテルですから当時私が滞在したホテルのことを少し書いてみます。ホテルは以下の3箇所で互いに直線距離でも数kmは離れた場所にありました。


津利華大酒店  天津市河西区友誼路 32号

天津金澤大酒店 天津市南開区南京路338号

凱撤皇宮大酒店 天津市河西区気象台路46号


酒店は中国語のホテルで飯店・賓館も同じ意味。

津利華大酒店

天津市中心部を天津駅(天津駅 天津市河北区海河東路)のある河北区の南端から中心公園(中心文化広場)や伊勢丹(天津伊勢丹 天津市和平区南京路108号現代城)のある和平区の濱江道・赤峰道の一帯だとすれば、津利華大酒店は中心部から3つのうち最も南に位置し、友誼路の西面、銀河広場の対面に当たります。

2006年当時の津利華大酒店。建物の両側がホテルで中央は展示会場(天津国際展覧中心) 手前の花壇の周りは銀河広場


巨大な公園・銀河広場の一帯は友誼路沿いに西側には歴史を感じさせる天津大礼堂と天津賓館があり、その先には賓水道を挟んで水晶宮飯店がよく目立つ明るく開けた街並みでした。

津利華大酒店の窓から友誼路の北東側を写す。天津の中心方向だけに多くの高層建築が目立つ。友誼路の向こう側は銀河広場。休日ホテル中央ではイベントが開催される


会社の契約ホテルであった津利華は中国と日本を始めとする海外とのビジネスが急増した1988年にオープンした四つ星ホテルで2001年に改装した客室はどれもゆったりして一人住まいの私には大変贅沢なものでした。

もっぱら日・韓・欧・米のビジネスマンの利用が多く、会社は常時10室以上の部屋を契約して確保していた

私は延べ3ヶ月に渡り4度利用してそれぞれ違った部屋に滞在したがどの部屋も広くで居心地が良かった


宿泊者は日本人や欧米人、韓国人が多い様子でしたが、内外の高級車で乗り付ける中国の裕福層の人たちも結構目立ちました。

外国人の宿泊が多いホテルを利用するような中国人は大抵高級車に乗っている。彼らにとってステータスシンボルの一つである車には金をかける意味がありファミリーカーなどまず見かけなかった。津利華の駐車場にて

中国人の裕福層の人々は、日本人に比べると服装等に特徴があり見分けられます。日本人の場合、多少なりとも公式の場に出る時は夏でもスーツやブレザーを着込みネクタイを締めますが、当時私が見かけた限りでは中国の人たちはみな軽装でノーネクタイでした。


裕福層の場合、着込んでいるトップスやズボンは見た目にも仕立てや素材の良さが分かる海外の一流ブランドで、腕には金や珊瑚のブレスレットをはめロレックス・オメガ・ブルガリ等の高級時計を付ける姿が普通に見られました。


津利華は滞在期間が最も長く周辺の街並みや施設とも馴染みが深いのですが、ホテルに日本人の滞在者が多くて食事時には大抵テナントの日本料理店で日本人同士でつるんで食べることが多かったため、なるべく現地の食堂で中国の人たちが食べている食事と同じものを食べたいと思っていた私にとって印象は今ひとつです。

凱撤皇宮大酒店

次の凱撤皇宮大酒店は1993年にオープンした三つ星ホテルで天津の南西部、気象台路の南に面し気象台路と呉家窯大街との交差点の西側100mにあります。

ホテルの西方700m辺りにはテレビ放送用 415mの天塔が聳えており周囲からよく目立ちます。津利華大酒店からは北西2.5km程に位置します。

契約ホテルの津利華が満室で替わりに会社がとってくれたものですが、ビジネス客を相手にするよりは裕福層の宿泊や、ラブホテルの客層を当て込んだような、建物全体が見た目豪華絢爛でどことなく怪しげな佇まいさえ感じさせるホテルでした。

休日の朝に写した凱撤皇宮大酒店。平日は暗いうちに出社して暗くなってから戻った。


凯撒とはローマ皇帝シーザーの漢語でホテルにローマ皇帝の名をつけるあたり、獅子や龍など力あるものを好みその置物を建物の正面に据えたがる中国の実業家の性格がよくでています

フロント前のロビーも見場は豪華な造りで各階のラウンジも贅沢な設えだった

階ごとに意匠を変えたラウンジが設えられていて、ビジネスホテルには見られない造りだ


2週間ほど宿泊した部屋は、他の部屋がなかったのかビジネス客用とはとても思われない豪華なもので、浴室と寝室の間の壁にはマジックミラーがはめられていてその部屋の目的は明らかでした。

実際フロントロビーの脇には、毛皮のコートと肩掛けを羽織ったそれらしい女性の姿も見かけましたが、裕福な上客を待っている風で私のような貧乏サラリーマンは相手にもならない様子でした。

部屋は広く調度も豪華だが寝室側からは浴室内が丸見えになる何とも悪趣味な部屋

客室内はもちろんネットが使えたが、私はラウンジに置いてあったPCを利用することも度々あった


このホテルは昼間の短いクリスマス前2週間ほどの滞在でしたが、ゆったりした室内の居心地はとても快適でしたから朝の散歩が真っ暗でできないのと滞在期間の短いのが残念でした。

またビジネス机の備えがなく、PCを打つには背丈の低い化粧机に向かいましたので、廊下のラウンジに置いてあったPCでネット検索することもよくありました。

天津金澤大酒店

天津金澤大酒店は2006年8月にオープンしたホテルで、私が利用した2008年3月には開店から二年も経っていませんでした。フロント前のロビーや朝食をとるラウンジはなかなか豪華ですがビジネス客を主な客層に定めて建てられているようで廊下や各室の作りには余り無駄な意匠は見られませんでした。

天津金澤大酒店のフロント・ロビーと下は毎朝バイキング朝食をとっていた1階のラウンジ

天津金澤大酒店は凱撤皇宮大酒店から北西2.5km程、津利華大酒店からは5kmほど北東に離れていてホテルが変わることは天津の新たな街を知ることでしたから私には願ったりかなったりです。


地上30階の高層ホテルは先の2つのホテルと比べてより天津の中心部に近く、通勤時間も他のホテルより15分程短くなりました。市の繁華街を抜ける南京路が南開3馬路と長口道に分かれる手前に建てられており交通の便にも恵まれていました。

南京路・海光寺交差点南東側より写した金澤大酒店。

東側の南門外大街と南京路の交差点角には仏系スーパー家楽福(カルフール)、南京路を挟んで交差点の南側にはコカコーラの広告塔がよく目立つ経済連合中心大廈、高い尖塔の電信大廈が聳えており南京路沿いに広がった天津の一等地の西端に立地していました。

南門外大街と南京路の交差点角の通勤風景。左手に家楽福(カルフール) 画面奥へ直進すると鼓楼へ

海光寺

この辺りの一帯は海光寺と呼ばれ過去には清朝初期に建てられた海光寺という有名な仏教寺院があったそうです。今日このお寺は写真も殆ど残されていないようですが、僅かに残った写真を見ると湿地帯の中に建つかなり大きなお寺であったとの印象を受けます。

19世紀末に撮られた写真には屋根の隅が反り上がった中国寺院独特の建物が幾つも見える。手前にくっきり写っているのはドイツ・クルップ製の鐘を収めた鐘楼


上の写真では手前に水面が写っていますが、これは1860年代に掘削された墙子河とみられます。この運河は海光寺を取り囲むように東にある海河まで伸びていました。もともと天津にはこの海河の流域に発達した湿地が多く、19世紀末から20世紀にかけて海河や支流の運河を掘削し、その土砂でこれらの湿地を埋め立てる形で都市が発展してきました。

鐘楼は八角堂で中国寺院特有の反り返った下り棟には沢山の神獣もみられこの鐘楼だけでも立派なものだ。この中にあったクルップ社製の鐘はこの地を日本軍が占領した際取り外して英租界のビクトリアパークに移設した


19世紀にアヘン戦争を契機として列強の侵略を受けその終結のため海光寺で「天津条約」の調印が行われましたが、その後この一帯に軍の洋式化を図るため大砲や銃器を製造する機械局が置かれました。

金澤大酒店の玄関前から北側を写す。中央右下に地鉄海光寺駅入り口、その背後に経済連合中心大廈と高い尖塔の電信大廈が小雨に煙る


20世紀初頭アロー戦争の末、天津は欧米日8ヶ国連合軍に占領され海光寺には兵器廠があったのが災いしてか焼失、その後に日本軍が兵舎を建て日本の租界地になっていた曰くつきの場所です。

ホテルのすぐ隣が地下鉄・海光寺駅ですが過去の記憶を留めるものは今では何もない


海光寺の駅は和平区の中心街へ出かけるのに何度か利用しましたがホテルの前の南京路を東に歩いても30分ほどで和平区の中心部・抗震記念碑辺りまで行けましたから天津中心部へのアクセスには最も便利なホテルでした。

食事-朝食

ホテルとの宿泊契約は一泊朝食付きでしたから、朝はホテルのラウンジでホテルが支度するバイキング形式の朝食を取るか、津利華のようにホテル内に数店舗あるレストランに共通の朝食券をもらって気に入ったテナントの店で食事しました。

契約ホテルであった津利華のばあい、常に日本人の同僚が何人も宿泊して小さい日本人コミュニテイが出来ており、朝はテナントの日本料理店で彼らと共に食事するのが一般的でした。

津利華のテナント日本料理店・故郷 いつも大勢の日本人客で一杯で待たないと座る場所さえないこともあった

私も天津に出向してイロハもわからない初めのうちは皆に習って日本食をとっていましたが、慣れるに連れてそのような日本ベッタリの態度がいかにも疎ましく思えてきて、後半は常に洋風・中華風取り混ぜてバイキング形式の食事を取れるテナントのレストランを利用するようになりました。

津利華のテナントレストラン銀華庁 支援の中・後半は常にこの店で洋風バイキングの朝食をとった

中国の揚パン・油条(ヨウティヤオ)は揚げ菓子の麻花(マーホア)よりさっぱりして癖がなく、このパンととヨーグルト3カップが毎日の定番になった


凱撤皇宮大酒店と天津金澤大酒店では朝食はホテルのラウンジで6時過ぎから始まるバイキング形式の食事を取ります。

どちらのホテルの朝食もとても豪華でしたが、私は数個のパンと肉類少々、後は野菜とデザートの果物類を大量に取ってきて食べていました。どのホテルのバイキングでもヨーグルトが出るのでこれはいつも2~3カップは食べました。

天津金澤大酒店のバイキング朝食。どのホテルのバイキングも私には贅沢な品揃えだった


ドリンクはミルクと何種類かのジュースを混ぜ合わせてミックスジュースにしてお茶代わりにしていました。

コーヒーを飲まない私は、食後にはジャムと紅茶を飲むかジャスミン茶のような中国茶があるとそちらを飲みました。正直自宅でとる食事より遥かに豪華な毎朝でしたから、仕事にも気分よく出かけることが出来ました。

食事-昼食

お昼は通常は出社していますから、会社の食堂で食事することになります。昼食に関して強く私の印象に残る興味深い出来事がありましたので少し書いてみます。


会社の南側には何百人もの社員が同時に食事できる食堂棟があって中国の社員たちは皆その食堂へ出向き、賄の社員からめいめいが好きなだけ御飯とおかずをよそってもらってたべます。


ところが私が出向した当初は、会社の日本人社員は昼食時には社内で最も大きい建屋のハーネス事業部に出かけ、日本人ばかり寄り固まってハーネスの事務所で食堂から届けられる弁当を食べていました。


会社には内外の自動車メーカーに供給するハーネス(車内の電装部品を接続するための電線束)を作るハーネス事業部、ハーネスに取り付ける様々なコネクタや制御部品を作る部品事業部、ハーネスを作る様々な種類の電線を生産する電線事業部と3つの異なった部門が同居しています。

天津津住汽車線束有限公司ハーネス事業部建屋 日本国内でもそうだが数千人の作業者を雇用する


中でも手作業中心のハーネス事業部は雇用規模が最も大きく当時3,000人以上の現地社員を雇用していましたから事務所には日本側責任者の現地駐在以外に常時5~6人の日本人出向者が詰めていました。

部品や電線事業部は、トップの現地駐在以外は私のように単身あるいは時にせいぜい数名の出向者が居るくらいでしたから会社の日本人コミニュテイはハーネス社員中心になっていました。


ハーネス事務所に日本人が集まって食事するのは多分合弁会社設立当初からの習慣であった様子ですが、私を驚かしたのはその場での彼らの会話で、ハーネスの日本社員にとって現地の労働者は少しでも目を離すと常に怠けることしか考えていない横着で責任感のないろくでなしの集まりのようにとらえ、絶えず現地社員への不満を口にしていることでした。


これは私が属していた電線事業部ではまず見られないことで、現地駐在のI氏が配下の中国人社員の悪口を言うところなど聞いたこともありませんでした。

ハーネスに比べると一階建てで小ぶりな電線事業部の工場建屋群。 赤い屋根の背後に食堂棟があった


ハーネスは電線に比べて雇用規模も10倍以上ですから日本人に比べ生活習慣も勤労意識も異なる圧倒的多数の現地社員を少人数の日本人社員が日本国内で日本人相手にやっているような調子で思い通りに動かそうとしても難しいのは目に見えており苦しいのは分かりました。

電線事業部は工場建屋の大半を設備が占めていて作業者の数はハーネスに比べて遥かに少ない


しかし中国人社員の多さから見ても、現地の日本人よりも遥かに優れた資質や能力を備えた人材も多かったと思えるのですが、彼らを信頼せず自分達より劣った存在であるかのように見るハーネスの日本人社員の会話は、私にとってまことに不可解で楽しいはずの昼食時にはあまり耳にしたくないものでした。


社員食堂から運ばれる食事は白米の御飯とオカズのセットでどちらも大層量が多く私などとても一人で食べきれない量でしたが、中国料理の惣菜は決してまずいものではなく量が多かったにしても美味しくいただけました。


しかし日本べったりの閉鎖的社会の中にあっては、この総菜もまずいものの見本のような扱いで、多くの人がそれらを殆ど食べようとせず、ふりかけやノリ、漬物など 日本から持ち寄った副食品で食事する始末で、私にはその思い上がった態度がどうにも馴染めまず、ハーネス棟へ食事に行くこと自体嫌になってしまいました。


しかし私が3度目に天津へ出向したとき、このおかしな習慣を打ち切る出来事が起こりました。創設以来ずっと会社の総経理(社長)を勤めていた中国人のS氏が退社し、新たに日本から住友電工のM氏が総経理に着くことになったのです。

親会社住友電工によるこの交代劇は、総経理だけでなく創設以来の要職についてきた現地幹部社員多数に対しても多額の年金支払いを条件に退社を求める徹底したものでした。


これは、それまで社内で暗黙の慣習となっていた中国人管理職社員(その筆頭は総経理でした)の許認可権限を利用した社内における個人的な営利活動、製品や不良品の横流しから納入業者と癒着してリベートを得る等の悪癖を一掃するのが目的でした。


新たに赴任してきた日本人の総経理M氏は、それまでの日系社員の島国根性漂う閉鎖社会を嫌ったと見えて赴任当初からハーネス棟で食事せず、中国人社員と一緒に食堂へ出向いて食堂で皆と一緒に食事し始めたというのです。


出向の当日、電線駐在員Iさんよりこの話を聞いた私は、自分たちも総経理に習って食堂棟で皆と一緒に食事するようIさんに勧めてその日から、昼になると中国人社員と連れ立って食堂で食事を始めました。


御飯と惣菜の食器を持って列に並び、賄の社員から欲しいだけ食器に入れてもらうのですが、食堂では惣菜の種類も幾つかあって選べるし、弁当箱に詰め込まれたものを食べるよりは気分的にも美味しく頂けます。どうして今まで食堂に来て食事しなかったのか不思議なくらいです。


食堂で中国の社員と一緒に食事して驚いたことは、彼らがとる食事の量です。男女とも本当によく食べ、御飯・惣菜ともに日本人の2~ 3倍は軽く食べ女性といえども男に引けを取りません。


手作業中心のハーネスは女子社員が圧倒的に多く人数も半端でないため、部署ことに昼食時間をずらせて食堂にくるのですが、私たちも大抵彼女たちの食事時間とかち合うので、周りは丼を大きくしたようなアルミ食器にご飯を山盛りにし、25cm程のアルミボールに惣菜を目いっぱい詰めた若い娘の群れがたちまちお昼をたべてしまい、いかにも楽し気におしゃべりしながくつろいでいる姿で一杯になります。


そんな娘たちに交じって日本人総経理Mさんも行列に並び、皆と一緒に昼食をとっている謙虚な姿はハーネス棟から動こうとしない日系社員達に比べていかにも合弁会社の指導者として好ましく思えました。

食事-夕食

日本からの出向社員にとって、夕食は自由に好きなものを食べることができる楽しいひと時でもあります。ことに同じ部門から気心の知れた数人の出向者がある場合は、天津に通じた現地駐在Iさんに引率される形で市内の様々な店で中国料理を食べることが多くなりました。

ホテル近くにあった火鍋(しゃぶしゃぶ)店 五種類の茸のしゃぶしゃぶが日本では信じられないような値段で食べられた。背後は常にお世話になった現地駐在Iさん


中国では食事は4~5人が丸テーブルを囲んでとるのが一般的だそうで一人ひとり注文するより品数も豊富で安く上がります。ですから人数が揃ったときは市内の中国料理店へ案内されることも多く毎回違った店に入るのが楽しみでした。

こちらは豚肉のしゃぶしゃぶ。安くて量が多いから多人数でも食べきれない。火鍋には大量の野菜を付け合わすが日本人はカメムシ臭い香菜(Xiāngcài)だけはだれもが敬遠した。


ただお店の多くは写真のない中国語だけのメニューしかおいていないので中国通の現地駐在さんも内容の良く分からないものも多く、適当に注文すると出されてびっくりのケースもあります。

特に大きなお店では品数も多いので中国語のメニューだけではどんな料理か分かりません。こういった場合は通訳嬢に声をかけておくと、喜んでついて来て料理の差配をしてくれます。

通訳嬢が一緒だと日本人の舌に合いそうな惣菜を次々に手配してくれる。むろん自分達の好物を入れるのも忘れない


通訳を目指そうとするような女性達は出身階層もある程度上の子が多く、中国料理にもよく通じているようで、気前のいい日本人のおごりで美味しいものをお腹一杯食べられますから彼女たちにとっても願ったりの話で大抵大喜びでお供してくれた様子です。


一度Iさん達の差配で当時電線と部品に来ていた日系社員全員で和平区の狗不理(Gou Bu Li Restaurant)へ連れて行ってもらったことがありました。

もとは日本にも出店のある包子のお店・狗不理包子でこちらの店は庶民も気楽に利用するようですが、レストランの狗不理のほうは天津を代表する高級料理店だそうで、入るにも正装でないと門前払いを食わされるほど敷居の高い料亭です。

天津の高級料亭 狗不理 すべて個室の予約席で料理の値段も半端ではないという

2人の通訳嬢は美味しそうな料理を次々頼み私達の何倍もの料理を平然と平らげてしまう

注文する料理の選択は主に二人の通訳嬢に任せて、私たちは出された料理の飲み食い専門なのですが、私など平素贅沢な料理などとは縁のない生活を送っているので、次々出される料理の名前や内容を聞いても目を丸くするばかりです。

大きなワイングラスに入っているのは私の大好物のヨーグルト。甘酢っばさと清涼感がなんとも言えぬ味で私は何杯もついでもらった

部屋付き料理人  厨房でしつらえる料理の他に餃子や包子、鍋物などは部屋の調理台で火を通して料理するようです。

部屋には専任の給仕人と料理人が待機していて次々に熱々の料理がテーブルに並べられ一体何品在るのか、私などまるでわかりませんでしたが30品以上頼んでいたようです。

品数が多くその量も半端ではないので日本人は暫くすると皆飽食して、私などは真っ先に箸が出なくなった方でテーブルの料理が一向に減らなくなってゆくのですが、そんな中2人の通訳嬢はは休むことなく食べ続けて私たちも舌を巻きました。

このときの日系社員は7人で一人頭の負担額が1万円強でしたから、元来値段の安い中国料理としては破格の金額でしょう。私など貧乏サラリーマンにとってこれほど豪華な料理を食べる機会はまずありませんからまことに贅沢な晚餐であったと言えます。

高級料理と言えば北京烤鴨で有名な全聚徳だそうです。北京に本店がありますが全国各地に店舗を構えていて天津でも方々で見かけました。

天津市友誼北路沿いにあった全聚徳。日本人から見ると料理店とは思えない門構えだ


北京烤鴨メインの全聚徳烤鴨店の敷居はおもったより低く私たちでも気楽に入ることができるようですが、店舗によっては狗不理同様に高級レストランとして敷居の高い店もあるそうです。

こちらは北京・王府井の全聚徳 。北京だけでも6店舗程あって本店は正陽門の近くの全聚徳門前店とのこと

北京一の繁華街 王府井の全聚徳は北京烤鴨を食べにくる客でごった返していた


一度同僚に連れられて北京へ遊びに行った折、王府井の全聚徳で北京烤鴨を食べましたが、肉を食べるのではなくパリパリに焼き上げられた皮の煎餅の様な香ばしい食感を味わう料理で、付け合わせる惣菜と一緒に食べてそれそれの食感の変化を楽しみます。

北京烤鴨として提供されるのはアヒルの皮のごく一部分で客の前で皮を削ぎ落して行く。残りの部分はさまざまな料理の食材になる


アヒル1羽から美味しく皮を削げる部分は限られていて僅かしか取れませんから大変高価な料理になります。

こちらは天津大学近くの北京烤鴨店。中国の高級料理店の多くは内装が実に派手でギラギラしている

ただ料理店によって北京烤鴨の料理の仕方が多少異なるようで、天津の北京烤鴨店で食べた折は、皮にはかなり肉をつけた形で削ぎ落として盛り付けられていました。

レンガ組の石窯でアヒルを蒸し焼きにする。店では調理の内容が客からよく見えるように工夫されている。

こちらの北京烤鴨は皮に結構肉がついていた。

当然パリパリの皮の触感よりは脂ののった肉の触感の方が強くなります。私には北京王府井の全聚徳で食べた味がやはり本物であるように思われます。ただアヒル一羽から削ぎ落される皮の部分は僅かなためこの方が量が取れて庶民には一般受けするのでしょう。


日本の神戸飯店のWebでは北京烤鴨一羽分で13.200円と出ています。写真は一羽分と思われますから日本でも高級料理でしょう

全聚徳でもメニューは中国語だけなので中国食に詳しい通訳さんがついていないと入るのを躊躇ってしまいますが、料理店の中には日本の食堂やファミリーレストランのように料理見本や写真を出している店もあって言葉の分からない私にも何とかなりそうなお店もあります。

上は海鮮料理専門店の友鵬海鮮の入り口ですが、このお店では鮮度一番の魚介類は勿論店に並んでいるものからお客が直接選びますし、付け合わす料理もすべて見本が陳列してあります。

中国の海鮮料理専門店の品ぞろえには驚かされる。店頭に並んでいる食材の種類だけでも大変な量で、通訳さんの話では近年高級海鮮料理店の閉鎖が後を絶たないとの話もうなづける

付け合わせる商品メニュー見本には日本の食堂のように蝋細工が並べてあるのではない。すべてテーブルに供される本物が並んでいる様子

付け合わす菜や点心もすべて本物の料理品見本がずらりと並べてあって名前が分からなくとも選べるようになっていますから、私の様な料理の門外漢でも美味しそうな点心を簡単に選ぶことができました。

しかしメニューにある料理の全てが本物ですから作っても売れなかったら一体どうするのだろうかと貧乏性の私などはついつい余計な心配をしてしまいます。

南市食品街の北塘海鮮。写真入りでわかりやすいメニューの店だったが味は今一つだった


休日などに私が利用した新しそうな店には写真の料理見本が並んでいる場合も多く、私だけでも気楽に入って注文できるのですが、味となると店構えは小さくとも古くからやっていてメニューも中国語だけの店の方が美味しいと感じました。

こちらは100種類の餃子が食べられるという天津百餃園。日本のファミレスのように写真入りのメニューが出てくるから私でも注文しやすい。いろんな種類の餃子も美味しかった

中国の料理は地域によって味に特色があり、四川、山東、広東、江蘇、福建等々それぞれの地域の料理を専門とする料理店が多くありますから料理の種類は大変な数に登ります。

中にも粤(えつ)の字を配した酒楼(レストラン)が方々にみられますが粤は広東省あたりの俗名ですから、主に広東料理を専門とする酒楼のことです 。

会社からの帰路、体育学院の近くにあった粤唯鮮 にはよく火鍋料理を食べに行った


広東料理は彩りが美しく素材の味にこだわってさっぱりした味付けなので四川料理のように唐辛子の効いた辛い味付けが苦手な私のような日本人にもよく馴染みます。

2007年6月の教育の折には何週かに渡って難解な専門用語を交えた通訳についてくれた通訳嬢をねぎらうため和平区の旺粤酒楼で広東料理をご馳走したことがありました。

私にはメニューは見てもわからないのでOBの子に選んでもらいましたが、どの料理も口当たりがよく日本人の嗜好に合ったものばかりで見た目にも美味しそうな料理でした。

それにしても中国の食文化の奥深さは大変なもので、私など何度メニューを見せられて説明を受けても頭に入らず結局は覚えることを諦めてしまいました。

その品数の多さは日本などより遥かに贅沢な生活を送っていた開放以前の清朝や中華民国時代の支配階層の人々にとってさえ中国料理のメニューに精通するのは難しかっただろうと思います思います。

ましてや解放後の一般庶民にとってはなおさらのことでしょうから、中国の人達の生活水準が上がり、これらの料理を皆が食べるような時代になれば、メニューも日本のように写真や商品見本を並べて料理知識がなくとも、だれもが手軽に料理を選べる時代が来るように思われます。

天津の街並み 

私が毎日出勤する合弁会社天津津住汽車線束有限公司(天津市西青区西青道271号)は、市内にあるホテルからは遠く北北西に離れた市外地の新興工業団地のような場所にあってホテルから車で1時間ほど掛かりました。

天津津住汽車線束有限公司の裏門。すぐ裏に私が通っていた電線工場の事務所が在る


ホテルの周辺は新興のオフィスビルや店舗の立ち並ぶ繁華街がよく目立つのですが、目抜き通りから一歩奥に入るとどの地区でも大抵は旧市街区で、共産党による開放から文革期辺りまでに建てられたのではと想像させる、あまり個性を感じさせないどっしりした住宅街や商店街に出会います。

多数のアパートが軒を連ねる南開区旧市街の居住区。背後には新興高層建築群が聳える


なかには和平区のように清朝や中華民国以来の建築を思わせる個性的な古い家並みが現れて、見る目を引きつけられることも多くあります。


郊外に近づき天津市を取り巻いて走る片側4車線・側道も含めれば5車線もある外環線に乗るあたりから周りに大規模な新興住宅街の高層アパート群が次々に現れこの街で生活する豊かな階層の人々の多さをつくづく感じさせました。

1984.12 Google Earthによる天津市 。外環線の外側には田園地帯が広がっている

2000.12 Google Earthによる天津市 。外環線の外側にも徐々に建造物が広がりだした

2020.12 Google Earthによる天津市。 もはや市の周囲15km辺りまではほぼ都市化してしまっている


すでに2006年の当時でも会社の在る西青道の一帯は大規模な産業区・工業団地のような地域に変わっており道沿いに様々な企業や工場が軒を連ねて天津という巨大な都市が郊外へ郊外へと、どんどん発展してゆく様子が見て取れました。

嘗ては外環線の外側は農村地帯だったようでGoogle Earthで見ると1985年の航空写真では一面に田畑の広がる様子が写っていますが2004年には田畑のかなりの部分が建造物に変わっており、2020年の最新の写真では周囲の田園部分はその多くが何らかの建造物で埋まってしまった様子がわかります。

当時の天津で目についた建物について大まかに分けてみると次のようになります。


1:清朝あるいはそれ以前からの煉瓦と土壁、瓦屋根・平屋建の中国伝統的な建物

2:清末から中華民国時代・開放までのヨーロッパの影響を強く受けた和平区の租界に代表される建物

3:ソビエトの援助で建国に邁進していた開放初期の建物

4:大躍進から文革期をへて鄧小平の開放改革までの建物

5:開放改革以降、中国の実業家の建設意欲が前面に現れてくる現代建築


どの時期の建物もそれぞれ特徴があり、これらが市内のあちこちに混在していてホテルから会社までの車窓にあっても方々で興味深い建物を目にすることができるのが当時の天津でありました。


アパート(公寓)

特に私の目を引いたのが街のあちこちで目にする居住区のアパート(公寓)群でした。市の中心部の居住区には開放後に建てられたと思われる同じような形をした4~5階建てのアパート群が多くみられます。

居住区のアパート(公寓)は建てられた年代の違いに応じて建築様式が様々に変わっていて、どのような経緯をとってこのようにデザインが変化していったのか想像するだけで楽しいことでした。


アパート(公寓)で面白いのは、建物の前が人通りの多い通りの場合には一階の窓を小店に改造して住民がちゃっかりと商売している光景がよく見られたことです。

窓に写真(照像)の張り紙をした私設の写真屋のよう。どのような顧客が利用するのだろう

こちらは水果(フルーツ)の張り紙の果物屋。右端は篆印 印鑑屋さんか


こちらは牛黃降圧丸。血圧を下げる漢方薬のようですが私設の薬屋でも店開きしているのか・・


これらの店はみな鄧小平の開放改革政策「豊かになれる条件を持った地域、人々から進んで豊かになろう」との言葉を受けて、まだ市内の市場経済が未発達で庶民にとって必要なサービスを提供する店舗が少なかった時代に、目先の利く人たちによって誕生したものと思えます。


私が天津に滞在していた2006~2008年頃には、まだこのような庶民が開店した小店が方々に見られそれなりに繁盛していたように見受けましたが、北京オリンピックを境に市場経済が加速度的に発展し、ネットショップなど世界でも最も発達した国となった今、これらの店のその後がどうなったのか知りたいものです。


外環線に近い都市周辺部には市中心部で多く目にする四角いアパート群よりは意匠に凝ったヨーロッパ風の建築が目立ちます。

これらの公寓が何時頃建てられたものか私には知るすべもありませんでしたが、上に上げた装飾性の強い尖塔のある建物群などは鄧小平の開放・改革政策による新風を受けて建てられたものなのでしょうか。

あるいはもっと古く民国時代やソビエトとの友好関係があった頃に建てられたものなのかもしれませんが、遠くからその外観を眺めているだけでは、建築デザインに無知な私の知識では想像がつきませんでした。

開放初期・ソビエトとの友好時代末期に建設された建物として代表的なものは、北京の人民大会堂や津利華に隣接した天津大礼堂(天津賓館)があります。

人民大会堂は説明の必要もないですが天津大礼堂も共に1959年に建てられた大規模な会議場や劇場を備えた公的な会議や公演のための施設です。

天津大礼堂は2006年5月に写した下の写真では門に天津賓館のプレートが付けられていて、当時はまだ背後に建てられているTANJIN GRAND HOTEL(天津賓館)と同列の建築物として捉えられていたようです。

私の宿泊先・津利華に隣接して天津市の迎賓館 天津賓館があった。上は友誼路に面した正面、その背後には下写真のホテル(TANJIN GRAND HOTEL)がある。新中国建国当時の重厚な建築物


アパート群はその用途からみてもこれら重厚長大な建築意匠を特徴とする建物とは異質なので比較にはなりませんが背後の天津賓館のホテル客室の外観意匠には市中のアパートに共通するものもありそうです。

天津賓館背後の別館 TANJIN GRAND HOTEL。この一階には日本料理店の神戸屋があり良く夕食を食べに行ったが北京オリンピック前の2009年には新しいホテルに建て替えられた。


上は北京の人民大会堂 。天津賓館と同時期に類似の建築意匠で建てられておりアールデコ風の街灯も良く似ている


これらのアパート群(公寓)の外観に大きな差があることは、その部屋もアパートを取り巻く環境にも差があり、そこに入居する人々にも差があることを意味します。

私が滞在した当時、1978年に開始された開放改革政策よりすでに30年近い月日が経っており、市場経済への移行と共に時代の流れに乗って一気に富を蓄積した進取の気性に富む目先の効く人達と、社会の枠組みの中で従来どうりの生活を続けてきた一般庶民との間の格差は著しいものになっていました。

片側5車線もある外環線が天津市内と郊外を区画するように走る。その周囲には新興の超高層マンション群が次々に建てられてゆく


その象徴と言えるものが市郊外に続々と建設されていた新興のマンション群でしょう。どれも20~30階以上の高層建築で部外者の立ち入れない敷地内には共有の広場や公園を持ち一室あたりの購入費用も当時すでに1500万円を下らないと言われていました。

これらのマンション群は裕福層の居住区としてだけではなく、不動産価格の高騰を見越した彼らの投機対象としての意味も持っており、一人で何室も所有して転売しては利鞘を稼ぐ人も多いとの話でした。


実際、電線事業部の現地駐在Iさんは、私が滞在中に1500万円以上の新築マンションの購入を事業部に提案して入れられ、それまで何年も過ごしてきた津利華のホテル住まいを打ち切ってマンション住まいに変わってしまいました。

契約ホテルの滞在費は、朝食付きで一日一室6000円としても年間350日滞在として年210万円程度ですから光熱費の負担や家政婦を雇う経費などを考えると私にはホテル住まいのほうが無難なように思えましたが、その時の説得事項の一つとして価格の高騰に伴う転売利益が挙げられていたようです。


Google Earthで見ますと2017年から2021年の間にも外環線周辺部では100棟近くの高層マンション群を要する居住区が新築されていて、天津市の高層マンションの建設需要は現在も続いている様子です。

迎水道から外環線を横断した先の村は2017.02(上写真左)から2021.12(上写真右)の間に100棟近い高層マンション群に置き換わってしまった。建物の影の長さから20~40階の高層建築だと分かる


あるいは近い将来には、市内の旧居住区の古いアバート群はみんな数十階の高層建築に置き換わってしまうのかもしれません。

私は通勤の行き帰り毎日これらの風景を飽きもせずに眺めカメラに収めたものですが、凱撤皇宮大酒店に滞在した折だけは12月始めからクリスマスまでと最も日の短い季節であったため、残念ながら出勤・退社は日沈んだ時間帯でネオン街以外はほとんどカメラを向ける場面がありませんでした。


当時の私が最も驚いたことは、中国の町の建設ラッシュで、天津ではどの地区でも大規模なビルや道路の工事現場に出会いました。ことに高層ビルを建てるための背の高いクレーンはよく目立ち高層ビルとともに町を歩く際の目印になりました。

しかし何よりも驚嘆するのは、この国の指導者層の発想・計画・行動のスケールの大きさでした。2008年の北京オリンピックを目前に控え、都市を急速に現代化するとの強い意志が働いていたといえ、一つの町をいともたやすく取り壊し全く異なった姿に変えてしまう。


私は2006年から2008年にかけて6度天津に滞在しましたが、その初めと後とでは風景が全く変わってしまったところが方々に見られました。今日GoogleEarthの衛星写真で当時と今を比べてみればその変化の激しさを改めて実感させられます。

戦前からある街並みは見る間に取り壊されて超高層建築群が取って代わる


日本でも、高度成長期には方々で大規模な都市開発が進められました。しかし私が中国の都市で目にした開発とはその規模があまりにも違いすぎて到底比較できるものではないように思われますが、東京や大阪の大都会で戦後の激動期を過ごした方にとっては、或いは馴染みのある光景であったかもしれません。

金澤大酒店の背後、南開三馬路周囲に広がる居住区の北部にはおびただしい数の高層建築群が建設されつつあった。遠くに霞む建設用クレーンの数も半端ではない

私はそんな天津で、休日には朝食を取るとすぐにカメラを下げて街へ出て、目につく風景をカメラに収めて回るのが大きな楽しみでした。

最初の頃は同時期に出向していた同僚に連れられてタクシーで市内の見物や買い物に出ていましたが、道を訪ねたり買い物をするのに必要な初歩的な中国語を身につけてからは、休みには一人で出歩くことが常となりました。


市内の居住区によっては、土地勘のない日本人がうろつくのは危険だと云われたりしましたが、所持品とてカメラと僅かな現金のみで、たとえ身ぐるみ剥がれる事になっても大した不安はありませんでしたから気の向いたところへは常に歩いて出かけてゆきました。

旧仏租界のあった天津市第一の繁華街・濱江道の一帯は歩行者天国で休日は人で溢れた。糸錦の洒落たビルが見える


足が向くのは、やはり天津市中心部の和平区とその周辺街で津利華大酒店からですと直線距離でも約5Kmはありますから、あちこち撮影しながら歩いてゆくと南京路周辺に着く頃には何時も昼近くになりました。


天津旧租界地区

ことに囲提道の北・津河以北から海河にかけての和平区と海河・京山鉄道・囲提道に囲まれた一帯は、旧英・仏・独・伊・墺・日・白の租界があった区域で今でもその名残の建物を沢山みることができますし、高層建築の間には旧清・明時代を偲ばせる煉瓦積みの建築が残されていて歩いていて飽きることがありません。

南京路に面した金澤大酒店に宿泊した折は、地鉄の海光寺站がホテルのすぐ側にあり地鉄に乗れば鞍山道站や営口道站まではすぐの距離。ホテルから歩いてもホテルの東に走る南門外大街を超えれば和平区の一帯なので旧租界地区へでかけてゆくのは大変楽でした。


租界は天津市の海河周辺の湿地を埋め立てて発達しましたが、渤海湾に面した天津港から海河の水運を用いて簡単に内陸部に物資を運び込めるこの辺りの土地が、中国との交易での利益を目論んでいた諸外国にとっては非常に有利だったからです。

新中国にとって租界の建物は中国が半植民地化した時代の負の遺産なのですが、屈辱的な時代を忘れずに記憶する意味において、あるいはこれらの租界建造物の独特の意匠がもつ歴史的価値によって租界建築の多くは今や天津市にとって観光の目玉ともなり、多くの建物が景観保全の対象に指定されています。


中でも馬場道と営口路に囲まれたイギリス租界の一帯は面積が最も大きく当時の景観そのままの瀟洒な建物が多く残されていて、これらの建物を眺めながらぶらぶら歩いているだけで楽しいものでした。

馬場道の南面には天津外国語学院の美しい建屋が広がる。会社が雇う通訳さんは皆ここの出身だった

津利華滞在の頃は、休日には友誼路から馬場道に出て海河から営口道の一帯をよく歩き回りましたが、馬場道で最初に目立つ建物が天津外国語学院です。美しい西洋建築でその意匠から戦前の租界建築であることがよくわかりました。

会社が雇っていた通訳嬢は皆この学院の学生か卒業生で、大変難しい日本語検定の有資格者が多く、私に長く付いてくれた2人の通訳嬢は共に在学中に検定に合格していた才媛でした。


天津外国語学院の前身は1921年に天主教西安教区のイエズス会によって建設された天津商工学院(仏語:Institut des Hautes Etudes et Commerciales)後の河北大学だそうです。英租界に面して建てられているので当初は英国が建てたものだと信じていたのですが、通訳嬢によるとフランスの建築だとのこと。

建築当時の天津商工学院。馬場道を挟んで下側が英租界(右写真)

カトリックのイエズス会は仏系の教団で天津商工学院も仏系の大学でした。そのためか、その敷地もイギリス租界には属さず馬場道を挟んでイギリス租界と向かい合った形で建てられています。

英国租界の誕生

アヘン戦争で清朝を破り南京条約で香港を割譲させた英国は、その後の太平天国の混乱とアロー戦争に乗じて清朝から天津条約、1860年の北京条約の調印を勝ち取りこれによって内陸部で直接土地を確保して商業が可能になりました。


北京条約を受けて英国が1860年に海河西岸の紫竹林村に埠頭を建設し英租界が開かれた当時一帯はほとんど何もない湿地帯であったそうです。英国はここを整地して海河沿いにビクトリーロードを通し、1887年ビクトリア女王生誕50周年を記念してロードに面してビクトリアパークを造り、その北側にゴードンホールを建てて英租界を管理するための天津英租界工部局を置きました。


開設当初は埋め立て費用の負担をきらって租界外に住む英国商人が多かったそうですが、租界の治安の良さは彼らの租界内へ移住を招き、海河の水運の便は英租界に短期間に多数の工場や商社が建設されて租界中でも最大の面積と繁栄を誇る規模に拡大しました。

ビクトリアロード(現・開放北路)沿いに開かれたビクトリーガーデンとゴードンホール。当時の天津を記録する資料には日本のものが結構多い。中国にとっては侵略国であったが、それだけではない一面も多くあったことが伺える

現在のビクトリアガーデン(開放北園) 中心の六角堂も整備されている

新中国統一後、ビクトリアガーデンは開放北園と名を変えて今日でも天津当局によって整備され管理されていますが、近年では周辺に超高層ビルが林立し過去の景観は大きく変貌しています。

金澤大酒店のところで海光寺の鐘のことを書きましたがその鐘が日本軍の手によって一時ビクトリアパークに据えられていた頃の写真です。この鐘は太平洋戦争の最中に再び日本軍によって持ち去られ、結局何らかの形で始末された様子でその後の行方はわかっていません。

一方租界最大の建築とまで言われたゴードンホールは、1976年7月28日文化大革命の最中に天津から約100km北東に離れた唐山を震源として発生したM7.5の唐山地震で破壊されたのを契機に1981年すべて取り壊されてしまいました。

当時は文化大革命の混乱も冷めやらぬ時期で、租界建築の保存などよりは地震の復興と国内経済の再建が最優先されたであろうことは容易に想像できます。天津にはこの地震の犠牲者を追悼する抗震記念碑が南京路と河北路、成都道の交差点に建てられています。

1986年唐山地震から10年を経て南京路沿いに建てられた抗震記念碑(左端の三角錐)


唐山地震はまだ煉瓦積み土塀の建物が多かった唐山市をほぼ壊滅状態に陥れ、死者数25万人と言われた巨大地震で、周囲の北京や天津でも多大の被害を出し文化大革命の国内混乱が復興の妨げに輪をかけたようです。

この地震で破壊された歴史的建造物も多くあったようですが、その後鄧小平の開放改革政策による市場経済への移行が成功して中国の経済発展が軌道に乗り、歴史文物を顧みる余裕が生まれると1952年に取り壊された鼓楼が2001年に再建されたように、歴史的遺産としての租界建築の見直しが行われます。

2010年 海河南岸、旧仏租界区 大沽橋と開放橋の中間に新たなゴードンホールが建てられた(Wikipediaより)

既に取り壊されていたコードンホールも巨大な観光資源であるとの認識から21世紀に入ってゴードンホールに似せた建物が旧仏租界があった海河沿いの別の場所に再建されています。


ゴードンホール以外にも例えば睦南道・桂林路交差点には睦南府と記された欧風の美しい建物がありますが、どうも2003年に地域の景観に合わせて建てられた建物のようで歴史風貌建築のリストにも上がっていません。

睦南道・桂林路交差点角の睦南府 歴史不明の歴史風貌建築風建物。2006年には建っていた 百度図片より

21世紀に入ってからの建築とすれば、とても建築意匠に凝った造りで、その多くがコンクリート製であったとしても構造単純な現代建築と比べて造る手間は大変なものです。

景観保護のために敢えてこのような建物を再建したり新築したりしているとすれば、天津市当局の都市計画に対する見通しの深さと実行力は素晴らしいものだと思われます。


日本でも観光客目当てに過去に建てられたお城に似せてコンクリート製の城を「復元」したりしますから同様の発想で天津でも歴史建造物に似せた建物を次々に立て、新たな観光名所が方々に作られている様子です。

租界の拡大

中国の国内情勢は清朝末期から民国時代へと移るにつれ、国内は内乱、暴動、諸外国の侵略、中共解放区の拡大などが重なって、もはや中国主権者には満足な国内統治能力が期待できなくなります。

民国の指導者層やその軍隊は時に諸外国の侵略軍より横暴・悪質で徐々に住民の支持は失われ、主権の弱体化に乗じて列強各国は次々と天津に租界を開き20世紀初頭には海河両岸に仏・独・伊・墺・日・露の租界地が設けられるに至ります。


この結果、天津在住の外国人の多くが治安の悪い中国統治地区を嫌って遥かに安全な租界に移住し、国内の裕福層も近代的な産業技術や金融貿易に通じていた欧米人士との交流の便や、インフラ設備が整い治外法権で各国が独自の警備体制を敷き治安の良い租界内に居を構えるようになりました。


その結果イギリス租界は1860年ビクトリーロード周辺に建設されて以降、2期にわたって海河右岸より内陸部へと拡大を遂げ、20世紀初めには馬場道と営口道と挟まれた一帯は西康路に達するまでになります。

当時は南京路(南京路自体1870以前には無かった)沿いに墙子河が海河から日本の兵舎があった海光寺まで通じていて、この水運も英租界の拡大に役立ったようです。


中でも旧英租界内の馬場道、睦南道、大理道、常徳道、重慶道の5つの街区は五大道と呼ばれ多数の優れた西洋式建築が残されていて万国建築博物館とさえ呼ばれる一帯で、歴史風貌建築区として地域全体が保全対象に指定されています。


私は2006年から2008年にかけての天津滞在時、この一帯を何度か歩きましたが、五大道の周囲はどこを歩いても建坪の大きな洋風の瀟洒な外観をもつ住宅が多く、租界当時は外国人や国内の裕福層の人たちの居住区となっていた様子が偲ばれました。

成都道周辺には旧英租界時代のものと見られる集合住宅が多い。


天津市歴史風貌建築

2005年天津市政府は『天津市歴史風貌建築保護条例』を発表し、租界の西洋建築物を中心に保存価値の高い746棟の「歴史風貌建築」と6箇所の「歴史風貌建築区」が認定され保護対象となりました。

対象となる建築物の価値に応じて最も保護価値の高い「特殊保護」から「主要保護」「一般保護」と三段階の保護レベルに分けられています。


先に上げた天津外国語学院の本館は特殊保護 0210002 以下は重点保護で2号教育棟が0220006、3号教育棟が0220005、4号教育棟が0230003、21号教育棟が0230002、学院事務棟は0220003及び0220004の編号で建物ごとに識別されて保護がなされています。

天津市歴史風貌建築指定の標識 番号0130308 和平区成都道光洁里1-9号 第三群指定の住宅建築


英租界の五大道一帯は、裕福層の居住区街となっていたお陰で街並もゆったりとして美しい建築が多数残り、天津市歴史風貌建築のプレート方々に見られましたから、何も分からずに歩いていても街並みを楽しむことができました。

ただ近年は五大道も含めて旧欧租界一帯は国家が後押しする一大観光地と化してしまい、様々な「歴史的建築」が21世紀に入ってから建てられていますので果たしてどれが本物なのか甚だ怪しくなっています。

文廟(孔子廟)

天津市で最も古いと言われる建築は下写真の歴史風貌建築紹介にも記載されているように明代の初めに建てられた文廟(孔子廟)だそうで特殊保護 編号0310003として登録されています。

鼓楼から海河に至る鼓楼東街と東馬路の角にあつた文廟の歴史風貌建築標識。明代初期の建立で天津では最古の歴史的建築。文廟は孔子廟のことで中国歴代王朝の大学としての役割を担った。


文化大革命の時期には新しい思想や文化に対する孔子思想の保守性批判が体制側政治家や官僚の批判と結びついて孔子や儒教は徹底して排斥の対象とされましたが、文革後に歴史文物見直しが行われると文廟は一転、天津孔子廟博物館として保護されることになったのは皮肉なものです。

2008年3月当時の文廟(天津孔子廟博物館)の外観。まだ周辺の整備もなされておらず市民の関心も薄かった。文革では忌まわしい儒教の本山として批判・破壊の対象であっただけにこれも当然だろう

上左下隅の建屋が文廟の正面。道冠古今の楼門と徳配天地の楼門に挟まれた鼓楼東街の北側の一角にある。

徳配天地の楼門の奥に見える赤い塀の一角が文廟だが当時建物に足を止める市民はまず見かけなかった


しかし2008年3月に歩いた時はまだ周辺の整備もなされず、建物の内部も改装中で歴史を感じさせる建物の外壁とは裏腹に当時は天津市民の関心も殆どなかったのではないかと思われます。私自身も道徳重視の孔子や儒教に惹かれることはなく全く中を見てみたいとは思いませんでした。


私が居た当時は『天津市歴史風貌建築保護条例』が緒についたころで、方々の目立った洋風建築物の外壁に天津市歴史風貌建築指定の黒いプレートが取り付けられていましたが、建物や周辺環境の整備にまでは十分手が回らず、北京オリンピックを控えてこれからと言った感じでした。

フランス租界

そして租界に暮らす裕福層に娯楽や買い物の場を提供したのが、仏租界の和平路と濱江道の交差点一帯に建設された天津勧業場を中心とする商業街でした。

1926年当時天津最大のデパート天津勧業場。5階建てでコーナー部は7階建て。標識番号0110024 特別保護対象の歴史風貌建築

建設当時の天津勧業場周辺の賑わい。天津市の近代的商業はこのビルから始まったと言われる

勧業場前交差点より濱江道の南側の眺め。奥に西開経堂が見えている。京都大学デジタルライブラリより


天津勧業場は中国人実業家高星橋(Gao Xingqiao1881-1948)によって1925-1926年にかけて建設された当時最大のショッピングモールで五階建てコーナー部分は7階建て、フランス人技師の設計になり内部は様々なテナントに貸し出され、多数の商店や劇場、映画館、茶館、ビリヤード場などの施設で開店当初から大変賑わいだと言われます。

旧仏租界の天津勧業場一帯は1930年代に当時の天津では最大の商業地として栄えたが、その後、日本軍による占領時代や国共内戦、文化大革命等幾多の激変をくぐり抜けて現在の発展に至っている。濱江道・和平路交差点より北西側の眺望。天津勧業場の建物が左手に見える。

上、濱江道より北側・和平路方面の眺望。尖塔が看板に隠れてわかりづらいが中央の建物が天津勧業場

上、濱江道より北側・和平路方面の眺望。天津勧業場の建物の特徴的な尖塔が中央奥に見える。

民国末期、天津の商業発展はこのビルから周辺に広がり、現在も戦前の賑わいを継承して和平路と濱口路の一帯は歩行者天国として新たなショッピング街を形成し、天津市一番の商業街としてその賑わいを誇っています。

濱江道(Binjiang Dao)から南京路側を見る。右背後には西開教堂(仏租界にある天津最大のカトリック教会)


濱江道を西に向かって歩き南京路を渡った先には1913年に建設されたフランス租界最大のカトリック教会・西開経堂があります。ロマネスク様式の建物は濱江道の歩行者街を歩いていても遠くからよく見えて美しく、高層ビルが並ぶ都市景観の中にあってひときわ目を引きました

フランス租界の西端にある西開教堂(1913年に建設が始まった仏租界にある天津最大のカトリック教会) 標識番号0110039 特別保護対象の歴史風貌建築


天津のフランスカトリックの教会としては、より古く1869年 海河の左岸 旧奥租界区の北側の獅子林大街の通りの西端に建てられた望海楼経堂があります。

1869年に建てられた望海楼経堂。市街地区で当時は橋もない海河左岸に位置していた。標識番0510004 特別保護対象の歴史風貌建築 google earthより

ただこの教会は租界区のはるか北に位置して天津市内のある海河右岸ではなしに不便な左岸に建てられたうえ、地元住民とのトラブルで二度も焼失し1904に再建されて今日に至ります。


当時はまだ獅子林大街もなく海河の支流に囲まれた中洲のような不便な場所であったため新たにフランス租界内に西開経堂を築いたそうです。私も奥租界区の対岸まではあるき回りましたが、その先へは進んだことがなくこの教会の辺りまでは見る機会もありませんでした。

天津站 ( 天津駅 )

濱江道(Binjiang Dao)新華路交差点を過ぎた辺りから海河側を見る。中央背後には天津站の時計塔


上の写真のように当時は濱江道からは天津駅の時計塔がよく見えました。天津站(天津東駅)は海河左岸にある非常に大きな敷地を占める駅で、私も2007年にはこの駅から急行で北京に行きました。

海河湾曲部と海河左岸にある天津東駅 2004年4月のGoogleEarthより

しかし2008年春には北京オリンピックを目前に控えて海河左岸の駅前エリアは大改修の最中でこの駅は閉鎖され利用できませんでした。

上は当時の天津站と時計塔、下は駅の改修で天津站を南東に下った河東区に操車場を改造して仮設された臨時駅。臨時駅で何かと不便をおかけしますとの看板が出ている

天津站に代わってその下り線上に臨時駅が造られ、2008年の3月に北京へ行った折にはこの臨時駅から開通間もない中国新幹線 和諧に乗って北京まで行きました。

通訳嬢の話では、この臨時駅など信じられないほどの短期間に造ってしまったとのことで、必要とあれば少々の問題があっても意に介せず一気に事を進めてしまう中国指導者層の実行力の一端がよく現れているように思いました。


墺租界

先の写真の天津站(天津駅)から伸びる京山鉄路(北京から天津、塘沽、唐山をへて山海関に至る)と海河に挟まれる形で北からオーストリア・ハンガリー租界、イタリア租界、ロシア租界が広がっていましたが、私が訪れていた時期にはこの辺り一帯に大規模な再開発が行われていて建物の多くが取り壊されて更地となっていて歩く気もおこらぬ景観でした。

海河の北安橋(写真下側)から北部にはオーストリア租界が広がる。左2004.7の写真では建物はあらかた取り壊されているが、2020年最新の写真では赤屋根の旧租界建築を擬した建物が出現している。


上写真右、2020年の海河上部には現在歩行者専用の金湯橋が掛かっています。金湯橋は1906年に建設された天津では最古の鋼構造橋で当時の海河は各国の商船や軍船の行き来が激しい水上交通の要路であったため、この橋は橋脚を中心にして回転し、船舶が通行できる構造になっていました。

日本占領時代、 回転して船舶航行中の金湯橋。橋に旭日昇天旗が掲げられている 

    

私が滞在した当時は一旦取り外された橋が修復されて掛けられた直後で、取り付き道路がなく渡ることもできませんでした。

海河西岸より旧奥租界地区を望む。この写真を写した2008年春には、右の金湯橋はまだ橋までの取り付き道路がなくて通行できなかった。


この橋は建設当初、南海区と河北区を分ける海河を横断する路面電車の鉄橋としても用いられ、電車は今日の鼓楼辺りを始発として金湯橋により奥租界に渡り建国道沿いにイタリア租界から天津站までを結んでいたそうです。

この路面電車のおかけで、路線沿いの奥租界や伊租界に住居を移すものも多くこの一帯の租界が発展する支えになりました。


私が滞在した当時、旧奥租界の対岸東馬路側には金湯橋の袂に小公園があってなぜか米ソ冷戦の過程でソ連から供与されたソビエト製の戦車T54(中国名59式坦克)や100mm野砲が置かれ戦勝記念公園になっていました。

野砲の右背後に赤い三角の鋼構造物が置かれていますが、これが金湯橋の橋床へ上がる道路に使う構造物のようです。

今では東馬路側から眺めた対岸の旧奥租界の場所には下写真のように赤屋根の旧ヨーロッパ風建築が立ち並んでいますが、左側の建物を除けば、これらは皆観光目的で21世紀に入って建築されたもので租界時代からこのような建屋がこの地にあったものか不明です。

近年の海河対岸(左岸)の光景。金湯橋の背後に並ぶ美しい欧風建築は皆観光目当てに21世紀に入って建ったもの

全体に奥租界は短命で1900年欧米日八国連合軍隊によって天津が占領されて以降1917年ドイツ・オーストリアが第一次大戦に破れて数年後には民国政府に領土返還していますから戦前の建築物の記録などあまり残されていない様子です。

上写真の右手にある時計のついた教会風の建屋などもその背後の丸屋根も果たして戦前から在るものかネット上には建物についての記載もなく良くわかりませんが或いは近年の建築ではないかとも思えます。

日本租界

南京路の北側、錦州道から多倫道の辺りにかけては嘗て日本租界があった場所で残された当時の写真や絵葉書を見ると洋風の建築も多く賑わっていた様子がうかがえます。

中でも仏租界・天津勧業場前の 梨棧大街から続く旭街と呼ぶ通り(共に今の和平路)が最も繁栄した様です。この通りには路面電車が走りフランス公園(中心公園)より左に折れてフランス通り(現在の開放北路)より万国橋・フランス橋(現・開放橋)で海河を渡って天津駅(天津東站)とを結んでいました。


先に述べた河北区と南海区を結ぶ金湯橋は海河の船舶航行を妨げないため水平に回転する構造でしたが、1927年仏租界と伊租界を結び海河に掛けられた万国橋(開放橋)は全鋼構造の上下に開閉可能な可動橋で当時の天津の名所の一つでもありました。

日本占領時代の万国橋を通過する駆逐艦

私は滞在当時この路面電車のルート沿いに仏租界から日本租界の旭街を抜けて南海区の東部まで歩きましたが残念なことに租界時代を偲べるものは、その殆どが現代風に改装されたり取り払われている様子でした。

当時の旭街の写真には旭街(和平路)と福島街(多倫路)の角にあった66mの尖塔を持つショッピングモール天津中原股份有限公司がよく目立ちます。

この建物は仏租界・天津勘定場の繁栄に肖ろうと1928年に上海の実業家黄文銭等によって建てられたもので周囲からよく目立ち、1~3階がデパート、4,5階がレストランとシネマ、6,7階には七重天と呼ばれたアミューズメントパークがあり大変繁盛したそうです。

近年商業街として再開発整備された和平路歩行街の天津百貨大楼(Tianjin Emporium) Mapion net より)

解放後も改装されてこの建物は全国でも初めての国営百貨店となり、私が和平路を歩いた当時も天津百貨大楼と呼ばれてこの場所にあったはずですが私は気づきませんでした。

日租界に限らず、各国の租界はもともと海河周辺の低湿地を埋め立てたため土地の低いところが多く、海河が増水すると頻繁に浸水したようで、洪水に見舞われた当時の日租界の写真が幾つ残っています。

1939年天津日本公会堂周囲の洪水の様子 Wikipediaより


その他、日本租界の当時の写真等を見ると天津日本公会堂など洋風の立派な建築物が見られますが、私が旧日本租界内の北東部を歩いた範囲では当時の姿を残していると思われる建造物はほあまり目にすることができませんでした。

それでも旧日租界の中程、鞍山道の周りには歴史風貌建築として保存されている建物が幾つかあり、ことに鞍山道と山西路の交差点にあった張園はその尖塔によって遠くからでも良くわかりました。

張園 歴史風貌建築 重点保護 0120002 今は天津京劇院が入っているそうだ

張園は上の歴史風貌建築紹介にもあるように1916年旧清朝の提督の私邸として建てられたもので、孫文が滞在したり、皇帝溥儀が一時住んだことで有名です。


溥儀はここ以外にも、鞍山道を500m程南西に下った甘粛路との交差点にあった静園をも住居としていて、この静園も歴史風貌建築として保存されています。

静園は私が訪ねた2006年当時はまだ整備が終わらずその外壁を眺めただけだった。清国最後の皇帝の住まいであったことが大きいのだろう、静園は保護リストの第一番目0110001の編号を与えられている。


静園は民国初期の中日全権公使となった陆宗舆の私邸として1921年に建設され、その内部は無駄な装飾を配した日本建築の簡素な様式とスペイン中世建築の様式を併せ持つ独特の建物だそうです。

溥儀はここで1929~1931年まで生活し、現在内部には溥儀の資料館があります。

スペイン中世建築の様式を持つ静園の本館 2134.netより(https://www.2134.net/yule/267768.html)


日本租界の最後は武徳殿です。欧風建築の建物に日本の寺院風の屋根を被せた造りで1941年に日本占領時代の武道場として建設されたものです。

鞍山道と南京路の交差点にある武徳殿。歴史風貌建築 特別保護 編号0110002

残念ながらこの武徳殿も2008年に私が訪ねた時は建物の改装中で建物全体にシートが掛けられており、見ることができたのは凝った意匠の鉄柵がついた周囲の塀だけでした。


日本でも、史跡巡りといえば観光の目玉の一つになっていますが、私も天津ではこれらの古建築に取り付けられた歴史風貌建築の標識に注意しながら街を歩き回ったものです。


現在では、租界建築は天津観光の一大目玉となっており、方々に「租界風建築」まで新築されて租界地巡りは国内外の多くの観光客の観光コースともなっています。


しかし当時の中国の人々は、北京オリンピックを前に古い文物よりも新しい文化に惹かれる様子で、欧米資本主義国と肩を並べ欧米流の大量消費文明を享受することに強い期待をもつ風で、これらの建物を見て歩く私の連れになりそうな地元の人に出会うことは殆どありませんでした。


最も旧租界地区であればどこを歩いても歴史的な建造物に出会えるかといえば、そんな風ではありません。英租界五大道の周辺は、地域一帯が保全対象区となっているだけあって見事な街並が方々に見られるのですが、日租界や仏租界となると限られた場所以外はあまり見ごたえのある建築物に出会うことは難しそうでした。

庶民の街

当時の天津で特筆すべきは都市計画にそって次々と真新しい巨大な高層ビル群が立つ目抜き通りの繁華街から少し外れた裏道を歩けば、これらのビル群と背中合わせに存在し、早晩都市計画の波に飲み込まれて真新しい高層建築に建て替えられてしまうであろう旧市街の土と煉瓦造りの、或いは清代からの古建築さえもありそうな庶民の生活感が満ち溢れた旧市街が現れることです。

2008年3月30日日曜日夕刻の南開二馬路。中央の背後に金澤大酒店が見える

これらの街は、私が生まれ育った三重の小都市の木と紙と瓦でできた町並みとは全く違うものでしたが、戦後の貧乏暮らしが日常であった私には、そこに存在する生活感は私がよく覚えている幼少期の質素で素朴な生活に近いものを匂わせていて、着飾らない普段の生活が流れている猥雑とも見える町並みこそ身近なものに感じられるのでした。

旧仏租界 河南路周辺の庶民居住区。建物は戦前の建築が残されているが街には人々の生活感が溢れている

そこにはもはや日本では観光地以外ではほとんど消滅してしまった小店が軒を連ね、庶民の様々な生活の顔を目にすることが出来ました。もちろんこれらの光景も、あと何年かすれば日本同様、現代の大量消費文明に飲み込まれて消え去る運命にあることは明白でした。

私の育った三重県津市は敗戦間近の1945年7月、過剰生産された通常兵器の廃棄処理とでも言うべきに米軍の無差別爆撃によって安濃川と塔世川に挟まれた津市中心部が焦土と化しています。


私が生まれた1948年には、町も復興を遂げつつあった時期ですが、安濃川北岸で育ったわたしには2~5 歳頃の記憶として、焼き尽くされてまだ更地の残る復興期の平屋根が続く街の粗末な家並みと、其処での貧しいながらも賑やかな生活が記憶の底に切れ切れに張り付いていて、天津の旧市街の雑踏には何処かそれらを思い起こさせるものがあったのです。


2008年3月24日から4月18日にかけて南京路西端の金澤太酒店に滞在した折は、春分を過ぎて一日ごとに目に見えて日が長くなり会社から帰っても日差しの残る日もよくありました。

パイナップルの店頭販売。たしか一個2元で頼むと見る間に実をくり抜いてくれる。

そんな折はホテルの裏に続く南開二馬路(私の泊まった部屋から毎日一望できる馴染みの街路でした)にでて日暮れが来るまでの間、周辺の市街を歩くのが楽しみでした。

南開二馬路は南京路よりホテル東側側面を通り北進、鼓楼手前の南馬路まで1.7kmほぼ直線の路で周囲には旧市街のアパート群が立ち並び路の周りには、庶民に人気の露店があちこちで店開きして遅くまで賑わいが絶えません。

店頭販売の露天に混じって靴の修理や洋服の手直し、篆刻、自転車修理など職人の技を売る店も出て日本ではまず見られない賑やかな光景に出会います。

ことに休日前日の夕刻は人出も多くノイズの多い雑踏は、日本の縁日の出店の雰囲気によく似て街をぶらつく心地よさを持っていました。


google Earthで当時の街並みと現在を年を追って比較してみると、以前は人や出店に遠慮して走っていたような自動車が、みるみる増えて今では裏通りまでも占拠して都会風に整備された道路沿いにはもはや露店を出すスペースも見受けられないようです。


当時は仏租界なども、商業街として栄えた濱江道から花園の一帯から外れ、日本租界側へと近づくと、庶民の居住区となっている区画が多く、その一帯では庶民のエネルギーに満ちた生活感があふれる暮らしが街に充満していて、歴史的な建築を楽しむと言った雰囲気は失われてしまいます。

このような街並は、五大道などとは異なった人々の日常的な暮らしが持つ魅力に溢れていて歩いていても刺激的で楽しいものですが、古い歴史のありそうな建物が満足な補修もなされぬままに惨んでく光景も方々に見られ寂しくもあり残念でもありました。


またこの一帯には赤と白の外壁で建てられた建物が多くみられます。建築素材上こうなったのか、建築家の好みによるものなのかよくわかりませんが、英租界を含めてこのあたり全体の建物に落ち着いた統一感を与えていて好ましく思えました。


天津の清・民国時代の都市部の一般建築が北京の胡同に見られるような土壁・煉瓦積み外壁に瓦屋根を特徴とするなら、赤煉瓦を多用する環境にあれば赤い外壁が多く見られてもおかしくありませんが、北京の胡同では赤い外壁は見かけなかったように思います。

仏租界のある山西路や河北路のあたりの建物も赤煉瓦を用いた外壁が多く見られますから、このような建築様式は租界建築を中心にした清・民国半植民地時代の特徴なのかもしれません。

観光目的で21世紀に入って海河右岸、旧仏租界区域に新設された洋風建築群 百度図片より

近年観光目的で新築されている租界地区の歴史建築風建物の大半が赤(カーキ色)と白で塗り分けられ、過去には青屋根であった建物も赤色に変えられているところを見ると天津市当局も租界時代の歴史的建築区画には赤・白の二色で統一感を与えるように務めている様子です。

天津の道路

日本の狭い道路に慣れたものから見ると天津(多分中国の大都市は皆そうなのでしょうが)の主な道路は片側最低でも4車線、広い道では6車線もありその広さに驚かされます。

目抜き通りの南京路。道幅が広く横断するのに一苦労する

津河沿いの呉家窑大街。片側4車線 市内道路の多くがこの広さだ

また交通量に応じてセンターラインが移動する区間があり、上り下りの交通量に応じて中央分離帯を一定区間交通量の少ない側へずらせて車を掃かせる工夫など道路の運用は日本よりも柔軟で合理的だと感じました。

片側5車線の外環線。通行量は非常に多く事故などで車線が狭まると酷い渋滞に陥る


道路幅が広いのは車に乗っているときには快適なわけですが、幅が100m以上もある道路を歩行者として横断するには良く気をつけていないと横断中に信号が変わりだして大慌てで引き返したり中央帯に避難したりする羽目になります。

右折車両は前の信号が赤でも関係なしに曲がれる。

また日本では車はイギリス流の左側通行ですが、中国は欧米流に右側通行です。アメリカのように右折車両は信号に関係なく曲がってきますし、慣れてしまえばどうということはありませんが路幅が広いため車両は歩行者にあまり遠慮せずその前後をすり抜けてゆきますから慣れないと前後を右折車両に挟まれて怖い思いをします。

私が滞在した当時、庶民の生活の足はまだ自転車(電動自転車もかなりの割合を占めていましたが)でしたから通勤・退社時間には市内の道路は通勤の自転車と自動車で溢れかえり大変な盛況となります。

更に車が渋滞気味だと、道幅が広いため自転車も車に遠慮なしに車の脇をすり抜けて車線を走りますし歩行者も信号のある場所まで足を運ばず、車の間を縫うようにして道路を横断してきますから、車の運転手は日本などより遥かに周囲の状況に気配りして走らねばならず運転が未熟ではまず出退勤時間に車を運転することは難しいと思えました。

道路の名前

天津の街路はおもに南北方向が道(Dao) 東西方向が路(LU) と呼ばれています。しかし東西南北に走る道路よりも斜行する道路が多く、ことに南京路周辺の旧市街区の道は殆どが東西南北に対しては斜め走行で、だいたい北東から南西方向に伸びるものが道、それと交差して東南から北西方向に伸びるものが路と名付けられています。


これらの道路には中国各地の地方名がつけられているので分かりやすく、道路名を覚えると、同時に中国の国内の地名を覚えることにつながるのでした。それら地方名を持つ道路の周囲にその地方出身の人たちが多く住まっていたものかどうかは分かりませんが、知らない区域を歩き回るとそのたびに新しい地方名を覚えてゆくのは楽しいものでした。

例えば天津伊勢丹のあった南京路の周りでは、甘肅路、昆明路、貴陽路、貴州路、陝西路、山西路、河北路、新華路、遼寧路、錦州道、長春道、鞍山道、濱江道、哈尔滨(ハルピン)道、営口道、成都道など新華以外はみな中国各地の地名です。


新たな街の道路標に出会うとその、ホテルに戻ってからネットを検索してその中国の地名が何処にあるのか知るのもささやかな楽しみであったものです。ただ街があまりに広く、僅かな休日のなかで仕事や予定のない日しか出歩けませんから歩き回れたのはごく限られた地域だけでした。

2000年当時の天津中心部地図 区画ごとに道路の向きが変わってゆく

予め地図を見て道路を頭に入れて歩くのですが、天津中心部の道路は複雑でまとまった区画内は直行する道路が通っていますが、隣の区画に移ると区画の向きが変わってしまうことがよくあります。

しかも主要な道路は区画を斜めに横切って走ることも多く、慣れないと歩いているうちに自分の居場所がわからなくなります。

成都道南端に聳える天津盛捷奥林匹克服務公寓(サマセット オリンピックタワー 天津) 独特の色と形で西康路の一帯からよく目立った


幸いこんな時は目印になる背の高いビルがあちこちにあるので、適当に歩き回っていると建物の隙間から見覚えのあるビルの姿が現れて大体の方角が確認できるので迷うことはまずありません。


それでもカメラを向けたくなる建物や路地があると自然にそちらに足が向いてしまい予め目的地を定めておいてもかなり大回りのルートを取ってしまうこともありましたから、慣れてくると時間を無駄にしないため周囲に現地の人がいるときは、迷わず道を聞くことに務めました。


年齢もまちまちな様々な人に道を訪ねましたが、私の怪しげな中国語に困惑しながらも皆さん丁寧に道を教えてくれました。なかには距離が近いと言って目的の場所まで先に立って歩いてくれた若者までいました。


私も日本では過去に何度か道を尋ねられたことがありましたが、ここまで親切に相手に対応しただろうかと自分を思い出しては少し恥ずかしくもなり、言葉や文化は違っても、どの国でも其処に暮らす庶民は親切で良い人々が圧倒的に多いのだと身にしみて感じました。

都市文化の格差

当時の天津の街を歩いていて絶えず感じたことは、都市の中にある文化の落差のおおきさです。街のあちこちに100mを越す高層ビルが聳え立つそのすぐ下の街路で、およそそれらのビル群とは接点のなさそうな一般庶民の生活感あふれる街がある。

高層ビル建設用地で開業する自転車修理店

ビルの谷間で開業する町の雑貨屋

それは貧富の差と言うよりも、もっと大きな人々の生活スタイル・文化の大きな違いを見せつけられる光景でした。

この違いは中国では都市と農村の格差という形で捉えられています。確かに都心部から郊外の農村地帯に入ると、場所によってその違いは時に恐ろしい程で同じ都市の一部だとは思えないほどの落差です。

天津郊外の掘建て部落。廃品回収を生業にでもしているのか

このような目で日本を見るとまだ表面的な格差をあまり感じないだけはマシかなとも思えますが、少し考えるとそれはおかしい。日本でも大都市の超高層ビルを幾つも所有する超裕福層と私ら庶民との目も眩むばかりの貧富の差は至るところに存在するのに普段の生活でその差を感じることはあまりない。


町に出れば大富豪でも貧乏人でも皆同じような服装で同じような生活スタイルで歩いている。これは外見だけは差がないようにみえるだけで、生活の実体は目も眩まんばかりの格差があり、不平等、不公平に満ちている訳で、世の中の仕組みがなるべく私達のような貧乏人には、そのような部分を意識させないように作られているだけではないかと思われます。


その後中国の経済成長は止まることを知らず、今では米国と覇権を争う超大国へと変貌しました。私が滞在した当時国内に存在した国民の間の様々な格差は、経済成長とともに更にその差を拡大したと見られますが、同時に日本のようにその差を国民の目から逸らせてしまおうとする様々なトリックも発達したことだと思われます。果たしてこの先、日本も中国もどのような未来が待ち受けているのでしょうか。  


天津逍遥 終わりにあたって

私が滞在していた頃の天津は、嘗て日本中の生活・文化に大変革がおきた戦後高度成長期の日本同様に、街の至るところで文化の巨大な変革が起きていた時期で、超高層ビル群に建て変わった市内の目抜通りと、まだ清朝時代からの建物さえ立ち並び過去の生活を色濃く残す庶民の生活居住区との落差が至るところで目につく街でありました。


あれから15年以上経った今、当時の写真を見返しながら、新鮮な感動と不思議な高揚感を味わい歩き回った天津の街を当時の地図とGoogle Earthの衛星写真でたどりながら想い返してゆくと、過ぎ去った時の流れの重さと軽さを改めて感じざるを得ません。


当時私が見て回った多くの街路は今では全くあたらいし建築群に置き換わり、影も形もなくなってしまった地区も多いのですが、同時に当時の雰囲気を留めたまま現在も当時と変わらぬ佇まいを見せる場所も多くあって懐かしさに胸が締め付けられます。


休日の朝、ホテルの朝食を早々に済ますと、カメラと市内の案内地図だけもってその日の散策を予定した地区に向かってホテルから歩き出し、足の疲れも覚えずに一日中歩き回っては、様々な印象に満たされて、軽い疲れを覚えながらホテルへの帰路をたどった日々の記憶が今も時折心を満たします。


機会があれば何時かまたゆっくりとあの街に滞在して過去を振り返りながら新しい街を歩いてみたいと思うのですが何時まで経っても果たせないのが現実です。


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