電波塔

電波塔

最近自宅の近くに鉄塔が建っているのに気づいた。近所の住人にそのことを話したら、もう何ヶ月も前から立っているのに今更何を言っているのかと笑われてしまった。

高さ30m程もある建物なのになんで今まで、と自分でも不思議だが、普段あまり足を向けない方角だし、「心そこに在らざれば視れども見えず 心不在焉、視而不見」の諺もあるわいと自分を納得させた。

塔の周囲についているアンテナの様子から、携帯電話の固定基地局であるらしい。確かにこれだけ携帯が普及してくると、利用者も膨大な数になる。携帯が利用出来る電波帯域は限られていて、そのなかで同時通話できるチャンネル数も決まっているから、利用者数の増加に対応するには、ひとつの基地局のサービスエリアをなるべく狭くして、その周波数帯を電波の届かない別の多くの地域で重複して共用するほかない。

これは全ての携帯電話事業者に共通することだから、当然他社の電波塔も近くにあるはずだ、とアタリマエのことにようやく気づいて、家の周りを探してみたら確かにそれらしいものがほうぼうに立っていた。

自宅から1キロ周囲に6局だ。さらにPHSの固定局もあることに気づいてこれも入れてみると7局あった。特殊なところでは1.5km程のところに中電新鈴鹿変電所の巨大な電波塔が立つ。

もちろん拾い落としが幾つもあるはずだから実際の局数はもっと多いはずだ。田舎のはずの我が家の周りに、いつの間にか多数の電波源が出現していたのだ。

30年程前、私が30代の頃には移動電話もほとんど普及しておらず、会社の連絡用に業務用のMCA無線を使用していたが、それとてもごく一部の会社だけで民間の強力な電波源といえば津にあったNHKのテレビ局とFM局の4波だけ。後は個人のアマチュア無線機くらいだった。

それぞれの周波数帯における電波の占有状態をみるには、スペクトラムアナライザと言う装置を使う。通信分野以前1GHz辺りまでの電波状態をよく見ていたので、現在はどんなものだろうかと思いつき、部屋の隅でくすぶっていた測定器を引っ張り出してスペクトル測定をやってみた。

なるほど前はほとんど電波のなかった辺りに幾つも信号がある。携帯局だけでなくTVのデジタル放送の電波が500MHz600MHzにかけて多数確認できる。そのさらに上にあるのが携帯局の電波のようだ。試しに私の携帯を測定アンテナから1mの距離に置き送信してみた。ところが全く反応がない。800MHzと1.5GHzには携帯局と覚しいスペクトルがあるが、私の携帯はどうやら周波数がもっと高いらしい。調べてみたら2GHz帯のようだ。この周波数では残念ながら手持ちの測定器では測れない。

今やAMラジオの中波帯から2GHz超の帯携帯電話、さらにその上はNTTや電力各社、国地方自治体の使用する無数の無線中継回線のマイクロ波が飛び交って日本の空はあらゆる周波数の電波が充満している。以前、総務省が携帯の電波は人体に悪影響を与えないとの調査報告を行っていたが、短期間の曝露による動物実験の結果なので、私などは今でも携帯電話の電波が人体に悪影響を与えるのではないかといった懸念が強い。ことに最近は携帯に依らず、無線機器の使用周波数がどんどん上がってギガヘルツ帯が当たり前のようになっている。周波数が高いとそれだけエネルギー密度も高いので、弱い電波でも遺伝子とかに悪影響を与えないかとついつい心配してしまう。

八木アンテナ

テレビのテジタル化でテレビ電波がVHF帯(超短波帯)からUHF帯(極超短波帯)に移行して周波数が高くなり、アンテナも小さくなって画面も高画質大画面でとても美しくなった。現在の日本でテレビのない家はまず見られないだろうが、私の子供時代はまだ日本のテレビ黎明期で、テレビのある家庭も少なく、我が家のような貧乏人のガキはいつも近所のお金持ちの家でテレビを見せてもらった。だからテレビ受信用の八木アンテナが屋根の上に立っている家を見ると、本当に羨ましかったものだ。

この八木アンテナは戦前(1929)日本人研究者によって開発されたアンテナだ。本来のアンテナの前後に、反射器と導波器と呼ぶ素子を置くことにより、アンテナの感度を上げると同時に鋭い指向性を持たせることを可能にした無線通信の分野でも第一級の発明だった。

悲しいことに当時の日本では、この発明の真価を理解しそれを新たな技術や製品開発に応用できるだけの科学的技術的なバックグラウンドがなかったため、八木アンテナは研究室から出ることもなく忘れられてしまう。このアンテナの価値を見抜き実用化したのは、第二次大戦でドーバー海峡を挟んで死闘を繰り広げたイギリスとドイツだった。

両国とも敵国から飛来する航空機を早期に補足するレーダーや航空機の敵味方識別システムのアンテナとして研究開発がなされ八木アンテナとその発展形のアンテナを次々に実用化した。

日本が八木アンテナの有用性に気づいたのは、マレー戦で鹵獲したイギリス軍のレーダーに装置されていたのを見たのがきっかけと言われている。しかし英軍士官よりそれが日本人の発明になるアンテナだと聞いても、八木アンテナ知る日本人技術者は誰もいない状態であった。結局日本で八木アンテナが本格的に実用化されたのはテレビ放送の開始以降となる。

並三ラジオ

八木アンテナで受信するテレビ電波は貧乏人には高嶺の花でも、ラジオはすでに大抵の家に有って、テレビよりはるかに低い周波数(中波帯)の放送を楽しむことはできた。当時ラジオの放送局は全て名古屋にあり、私が住んでいた津市まで、伊勢湾を飛び越えてくる弱い電波を拾って聞くことができた。

今思うと、ラジオ局はNHK、CBCとも50KW以上の出力があったから、決して電波が弱いわけではなかったのだけれど、いかんせん国産ラジオの性能はあまり良くなかった。当時家にあったのは並三と言う戦前に作られたラジオで、四角い木箱の片側に選局用の分度器のような目盛りとダイヤルがあり、その下に音量ボリュームと再生調整用のツマミがあった。内部には、ST管と呼ぶ真空管が3本入っていた。当時まだ幼かったので真空管の種類まではよく覚えていないが、多分6C6、12A、12Fではないかと思う。

このラジオもそうだが、戦前の我が国の通信機の技術はまことに寂しいもので、戦争によって欧米からの技術が入らなくなるとたちまち技術の停滞に陥り、電子部品は敗戦によって欧米の技術が入って来るまでほとんど技術的な進歩がなかった。

ことに民生用ラジオは感度が低いと同時に選択度が極端に悪かった。それでも放送局が全て名古屋にあるうちはまだ良かった。感度が悪くて雑音が多かったけれど、なんとかNHKも民放も聞こえていたからだ。ところが幼稚園の頃、津市の外れにラジオ三重(東海ラジオの前身)が出来て860kHz500Wで放送を始めると、我が家のラジオは選局ツマミをどこにやってもこの局しか聞こえなくなった。

戦前の国産ラジオが使っていた再生検波と呼ぶ受信方式では選択度を上げることが出来ず、弱い電波の近くの周波数で強力な電波が発射されると、強い電波で弱い電波がブロックされて全く聞き取れなくなるのだ。

今でも強力なアマチュア無線局が近くで電波を出すとテレビで似たような現象の起きることがある。この場合の原因は混変調と呼ぶ現象だか、再生検波の場合は基本的に選択度が低いことが第一の要因だ。

このためラジオをつけてもラジオ三重しか聞こえない。田舎の民放局だから面白い放送も殆ど無く、幼かった私も含め家中の者が不満であった。私もまだ小さかったが一人前に大人と共に名古屋から流れてくるラジオの娯楽番組を楽しんでいたから。

五球スーパー

それから暫くして、ようやく父が新しいラジオを買ってきた。マツダ製(現東芝)の5球スーパーで5球とは使用している真空管の数をさす。、スーパーヘテロダインと呼ぶ受信方式から、内部で使われているMT管と呼ぶ真空管まで全て米国からの輸入技術によって作られたものだ。

この受信方式は第一次大戦当時のアメリカの学者の大発明だが、第二次大戦にかけて主にドイツと米国がそれぞれ独自に軍用無線機として改良を続け、レーダー用受信機としても不可欠のものだった。米軍などは、この方式の電池式携帯無線機まで開発して日本軍との野戦で使用していたらしい。

ラジオが家に来ると、家の誰もがこのラジオを点けて驚いた。何よりもまず雑音がない。しかもどこの放送局を選んでも、みな同じくらいの大きさで綺麗に聞こえてくる。今なら当たり前のことだが、ラジオ三重しか入らなかったそれまでのボロラジオとのあまりの違いに誰もが驚嘆した。

親父の話では、こんなラジオを戦争前から作っていた米国とつい先ごろまで戦をしていたのだ。小さい私でも、悔しいけれど負けて当然だろうと感じたものだ。

当時はまだ私たちの上空を占領米軍時代からのB-29やP-38が我が物顔に飛び回っていたころだ。私など米軍機の爆音を聞くと嬉しくて何時も外に飛び出して空を見ていた覚えがあるが、我が家にやってきたラジオはいやでもアメリカと云う国の巨大さを実感させた。

ラジオ三重

ラジオ三重(現東海ラジオ)は小学校の南東に広がった葦原の真ん中に建設された。自宅から1500m程の距離で当時はこの方角に人家より高い建物も無く、大半は田畑だから建設が始まると細い棒状の電波塔(アンテナ)が見えだした。

鳶が何人か出来上がった部分に上り、その上の部材を吊り上げては継ぎ足してどんどん高くなり、たちまち空中に聳え立つて周囲どこからでも良く見えるようになった。

正確な長さは分からないけれど、金属のポールは地上高100m以上あったかも知れない。放送の周波数が860k Hzだから1/4波長のダイポールアンテナだと約87m。多分サービスエリアを稼ぐためにそれより高くして上部に電流を集めて使われていた のではないかと思う。

先端にはローディング用の円盤状キャパシタンスが取り付けてあり、周囲には多数の支線が張られていてとても良く目立った。ただし、放送の内容は殆ど覚えていない。地元の局というだけで、子どもにとって面白そうな番組はたいてい名古屋のNHKかCBC(幼稚園の頃には既にCBCが開局していた)から流れていたためではないかと思う。

6年ほど津市の外れで放送を続けたラジオ三重は、小6の冬には市内の店を畳んで名古屋へ越して行った。島崎町の葦原の真ん中にはこじんまりしたスタジオ兼放送局がぽつんと残され、周囲の餓鬼の格好の遊び場となった。

それ以上に建家の内部には完全に撤去されずに一部放置された電材が残っていたためこれらを狙って押しかけるドロボー共も多かった。

実際、未撤去で放置されていた電線類でもかき集めて屑屋に売りに行けば少なからず小遣い稼ぎが出来たのだ。当時はまだ貧乏な家庭も多くそんな家の小僧や大僧どもには誠に魅力ある場所だったから、時として地区の違うグループ同士で華々しい喧嘩が起きたりした。

そのため此処へは地元の悪餓鬼だけではなく、この手の話に目のない橋向の部落の悪餓鬼が徒党を組んで現れた。群れるのを潔しとしなかった此方としてはそこへ遊びに行くには時に決死の覚悟がいった。

部落の手合いは喧嘩となると甚だ強力で、石や棒で武装して事を構えるからこいつらとやりあうときはよほど用心しないと大怪我をする。

多勢に無勢と見れば関わり合う前に引き上げることだが、時にはそうも行かぬこともあり一度だけ渡り合ったことがある。

多人数のグループと殺り合う時にはそれなりにコツが要り、相手の司令塔と周りに詰める参謀クラスの何人かを潰せるかどうかに掛かっている。

このときは彼我の勢力比は敵10に対して味方3と数では不利な状況だったが相手の半数が下級の小僧共で占められ本当なら居るべき大僧共が何故か抜けていたため之なら行けると踏んだのだ。

数を頼んだ相手の言いがかりを合図にして、こちらは3人で相手のボスを強襲して一気に叩き伏せてしまい、続けて2番手クラスも潰したところでマンツーマンの戦いに移り群れる小僧共数人を泣かせると敵は一気に崩れて逃げ始め誠に痛快な勝利となった。

鉱石ラジオ

小学五年のころ、クラスの友達が鉱石ラジオを組み立てたと言って持ってきた。鉱石検波器と呼ぶ小さな筒状の部品に、同調用 コイルとコンデンサとイアホンを取り付けた組み立てキットだが、放送局がすぐ近くにあるから短いロッドアンテナでもこの局だけは良く聞こえた 。これがキッカケになって私はラジオに目覚めた。鉱石ラジオを買ってほしいと親にせがむと、父親が近所にあった電気屋のおやじに頼んで手製のラジオをつくってもらった。

誠文堂新光社から出ていた「子供の科学」の中には簡単なトランジスタラジオ等の制作記事が載っていたし、既に聞きかじりで多少の知識を仕入れていた私は、そこに使われている部品の名前くらいは分るようになっていた。小さなプラスチックケースに当の鉱石検波器と250PFのマイカコンデンサー及び4mHの小型コイルが取り付けられ、箱からクリスタルイヤホンの配線を引き出した簡単なものだった。

それでも短いアンテナ線を垂らすとラジオ三重が良く聞こえる。選曲ツマミもないからこれ以外の局は聞き様がないけれど、友達の持っていた選局できるタイプでも名古屋の局は遠すぎて殆ど聞こえず、どこに回してもラジオ三重だけしか入らなかったのでそんなに不満はなかった。

一週間ほどはそのままで有難がって楽しんでいたが、そのうちすべての部品を取り外して自分で組み立てるようになった。この結果このラジオは、鉱石とコイルとイアホンさえあればよく聞こえること、付けられていたコンデンサはむしろ外してしまったほうがよく聞こえるくらいだと分かった。

なぜそうなるのか、その時はもちろん訳がわからなかったが、中学に入ってから、かなり深く電気の知識を勉強したおかげて中二の夏にようやくその原因に思い当たった。先のコイルとコンデンサは選局用の部品であり、放送局の周波数に合わせてお互いの数値を決めてやらなければならない。どうやらその数値がでたらめであったためむしろないほうが良く聞こえたのだ。

田舎の電気屋のオヤジ自身からして大してラジオの知識などなく、鉱石ラジオの形だけを真似して手元にあった有り合わせの電気部品を適当にくっつけてこしらえていたようだった。

コイルとコンデンサの値から選局できる周波数を求めるには√と云う計算が必要で、これは中三にならないと数学に出てこないため当時の私には計算できなかった。しかし、ナショナル真空管ポケットブックと云う薄っぺらいラジオ初心者むけのハンドブックを手に入れた私は、その本の最後のページに付録として載っていたコイルとコンデンサーのリアクタンス表と云うやつで、まさその計算と同じことが出来ることに気づいた。

これ以降、私は趣味が嵩じて通信系の分野に進み、いつしか自分の仕事になってしまったのだが、そのきっかけは鉱石ラジオと其処から聞こえるラジオ三重の放送であったのだろう。

ラジオ小僧

我が家に来た5球スーパーの「スーパーヘテロダイン」受信機と云うのは、高い周波数の信号の増幅度と選択度を劇的に上げることが可能な受信方式でアメリカのアームストロングと言う学者が発明した。彼はFM放送の原理も発明しているが、通信分野でヘテロダイン受信機がなければ、高周波信号の安定した増幅はありえず、ラジオに始まってテレビ、レーダー、マイクロ波多重無線と殆どの無線通信は実現困難だっただろう。

アメリカでは第二次大戦前にこの方式のラジオ受信機が家庭に普及していた様だが、我が国では軍用無線機において使用された以外民間のラジオには終戦後まで使われることはなかった。

日本のラジオでは再生と呼ぶ、今考えればとんでもない増幅方式が取られた。一般に自動制御の分野ではフィードバックと言って、増幅した信号の一部を入力を抑える方向に加えることにより、系の動作を安定させる。しかしこの再生方式は入力を増やす方向にフィードバックを加えると云う自動制御では到底考えられない方法をとっていた。

こうすると回路の安定性が悪化して最後には入力がなくても勝手に振動を作り出して発振してしまう。アンプのマイクをスピーカーに近づけるとある距離でハウリングを起こすが、あれと同じ原理で発振する。

この発振の手前では信号の増幅度が上がるので部品が少なくとも高感度になるといわれて使われていたものだ。しかし回路動作が不安定になるし同時に雑音も増えるから効果は怪しげなもので、要は真空管等まともな部品のない時代にもてはやされた国民的技術の一つだといえる。

私は、小6から中一時代に再生検波、超再生検波(これは発振状態で受信すると云う、再生検波に輪をかけてすさまじい方式で雑音がうるさくてたまらない)等の受信機を幾つも作ったが中一の夏にヘテロダイン受信機の圧倒的な性能に目覚めてから、この手のラジオはゴミとしか感じられなくなった。

時は既にトランジスタの時代でTVでは三本足の火星人と云うトランジスタのコマーシャルをソニーが放映していたし、トランジスタでテレビを作るという当時世界中の誰も考えられないことをソニーがやってのけてからもう何年も立っていた。

しかし私たちの街ではテレビどころか短波帯の信号を増幅できるトランジスタでさえ簡単には手に入らなかった。当時津市には一軒だけ無線の部品を専門に扱う「藤井無線」と云う電気屋さんがあり、中学高校と、ここで様々な部品を買ったが、当時は短波増幅用のトランジスタを買うくらいなら、まだ真空管を揃えたほうが安くて圧倒的に高性能だった。

既にテレビは全国に普及してテレビ用の高性能真空管が量産されて100MHz程度の増幅をこなせる安価な真空管はゴロゴロしていた。私は専らそんな真空管を使っていろんな受信機やら送信機を組み立て楽しんだ。

とくに高い周波数に対する志向がつよくてUHF帯400MHz以上の装置を無理して組んだが、世の技術の進歩は凄まじく、数年の間にTVもトランジスタが当たり前となり私の遣っていたことはたちまち時代遅れになってしまった。

日本が技術革新の絶頂期にあった頃で、高校電子科の同級生の大半は大企業に就職し電々公社(NTT)にいたっては卒業生の三分の一位が就職した。私も電力会社に就職し結局趣味が生涯の仕事になってしまった。

我が国も欧米に追従してレーダーを開発し、ヘテロダイン受信機も実用化したが、真空管をはじめとする電子部品や絶縁素材の品質が悪く前線で装置を保守する技術系の兵士は大変な苦労をしたという。

真空管からして民間のラジオに使う汎用品は1MHzを越える程度の高周波でも満足に増幅できる真空管がまずなかった。軍用品では軍用無線機やレーダー用にRCAの極超短波管やドイツのGT管をコピーして作っていたがこれさえも質の悪いものが多かったと言われる。

いかんせん工場のモノづくりが親方と弟子の徒弟的手工業生産関係を基礎にしていたために、品質管理の思想がなく生産品の歩留まりが悪い。これをカバーするために企業と軍の検査官との癒着が横行し、不良品が平然と納品されていた時代だ。

私の高校時代の恩師は戦時中軍事企業で兵器開発を担当していた方で、当時納品検査に手心を加えてもらうため、軍担当者をさんざん饗応したといった話をされたことがある。

最近、日本はモノづくり大国で戦前からの高い技術的伝統があるなどという人がいるがコレは真っ赤なウソだ。日本の製造業の高品質は、戦争当時の工業生産の実態に深い危機感を持った戦後の学者と技術者達が、米国から生産管理の専門家招いて全国を講演して回り、学者の名をとったデミング賞まで設けて産業界全体が戦後必死になって努力した結果ようやく達成されたものだ。

この過程においても、生産の基礎となる技術はその大半が欧米からの輸入技術だった。戦後独自技術で世界の二輪界に君臨した本田技研から、その最新の工作機械は全て欧米製だった。

この国が技術立国として徐々に自信を持ち始めたのは1964年の東京オリンピックも終わり1970年の安保闘争を迎える前あたりからではないだろうか。

オリンピック当時工業高校の電子科で学んでいた私は、国内の基礎技術、応用技術の大半は欧米からの技術供与で成立していると感じていたものだ。

その後電力会社に務めたが、通信設備の高級な測定器の多くは海外製であったし、先輩に言わせると国産品では全く測定精度が出ないというのが国内の技術の現状だったように思う。