ものづくりと人

数十年前までは全世界に君臨した感のあった日本の製造技術も、最近ではすっかり影を潜めて韓国、中国、台湾等の諸国にそのお株を奪われてしまった感があります。

日本で暮らす私達にとっては真に残念な結果ですが、これも時代の趨勢と云うべきもので如何ともしがたく、何十年か後にはこの国は、曾ての日本がずっとそうで在ったように中国を盟主としたアジア文化圏の一構成国に落ち着くものと思われます。

この様な事を書くと、技術や科学にあまり認識のない多くのの人達は、中国や韓国の人達が日本の技術を盗んだなどど云ったりしますが、この様な見方は意味が無いばかりかむしろ間違つた考え方です。

物理学者の武谷三男によれば、科学とは`自然法則性の認識`であり技術とは`生産的実践における客観的法則性の意識的適応`と規定されます。自然界に潜む法則性を追求しそれを明白のものとして認識するのが科学であり、自然に潜む法則性を何らかの対象に適応してその対象を人間にとって望ましいものへと変えてゆくのが技術と云うことです。

科学と技術の相違は、技術においてはその法則性が十分に明らかになっていなくとも(正確に認識されていなくとも)経験的にその規則性(客観的法則性)さえ掴んでしまえばそれを対象に適応し応用するのが技術です。

例えば鉄の物理化学的性質が十分解明されたのは近年に入ってからのことですが、人間はそれより遙かに古い時代から鉄鉱石を木炭で熱して還元させ鉄や鋼に変える製鉄法を知っていました。

これらの技術は模倣と伝承によって発祥地から時とともに周辺に広まります。中国で鉄器が本格的に使われだしたのは紀元前の春秋戦国時代の頃からと言われます(鉄はすぐ腐食するため裏付けが難しい。インドでは中国より早く紀元前一千前以上も前から鉄器が使われており、中国でも紀元前数千年前の長江文明で既に大規模な青銅器文明が成立していたから春秋戦国以前にも鉄器を用いていた地域があったのかもしれない)

日本に製鉄法がもたらされ最古の製鉄工房の遺跡が確認されるのは紀元三世紀以降とのことです。(鉄器断片は国内でも紀元前9世紀ころの遺跡から見つかっていて弥生時代を通じて大陸より鉄器が輸入されていたようです)

淡路島の五斗長垣内遺跡などから大規模な鉄器加工工房が見つかっています。1800〜1900年前の弥生時代遺跡で、朝鮮半島で製鉄された粗鉄を加工して矢じりやナイフなどの様々な鉄器を制作していた様でが鉱石から鉄を取りだす製鉄技術はまだ伝わっていなかった模様です。

当時朝鮮半島南端には、海運と鉄器生産に秀でた弁韓、後に伽耶と呼ばれる国が存在し倭と強い関係を持っていましたから、原料の鉄の延べ棒は弁韓ゆ伽耶から入ってきたとみられます。

大陸から日本に製鉄法が伝わるまでに数世紀の時がかかっています。これは技術が秘匿されていたとか交通手段がなかったと云った理由よりも、日本国内で鉄鉱石やそれに適した製鉄法が十分開発されなかったからだと思われます。

これは技術の本質が客観的法則性の意識的適応であるため、自然法則を十分に把握していなくても成立しますが、逆に自然法則を掴んでいないためにその形式のみを模倣しても、原料や環境の相違によって同じ結果を得られない場合があるからです。

一般に古代の技術は、技術よりも技能によって継承されています。技術同様武谷氏の規定によれば技能は`生産的実践における主観的法則性の意識的適応`と規定されます。

この場合自然法則は技術者(職人)の中で主観的経験的なカンとして把握されており、古製鉄法では炭火の色やその燃焼状態を見ながらその状態を判断しますが、これらは客観的な技術と云うよりも職人個人の技能によるものです。

技術はもちろん技能をも含む概念ですが、その段階が技能主体のレベルにとどまっていると教育や伝承が難しく、効率の悪い親方と弟子の徒弟制度により時間をかけて弟子に引き継がれてゆくわけです。

このレベルにおいては、技術(技能)は個人的能力として把握され、他人に対しては秘匿されることが普通ですからそれを盗むといった見方も成り立ちます。実際、戦前まで我が国の生産現場における技術の継承は徒弟制度に依存しており主観的な要素が入り込む余地が多くありました。親方は自分の身につけた技術を簡単には弟子に伝えず、弟子は長期の見習い期間を経て親方の仕事を見よう見まねで覚えて経験を積み、仕事に必要な技能(カン)を身に着けて行きます。

しかし現代の工場生産においては、製品製造に関する技術(製造技術)も製造技術をより効率良く安全に運用する技術(生産技術)もすべて誰にも分かるように標準化され客観化されています。技術の中核をなす部分は殆ど科学的に分析されており物理学、化学、工学等によって解析されて部品の選択、加工法の選定、加工設備の設計等がなされています。

これらは全て客観化され数値化されますから、正規教育を受けた能力の高い科学者や技術者がその生産現場に立ち会えば、これらすべてを短期間に理解し学習しその生産設備と同等に近いレベルにまで立つことが可能です。問題は、これ等の客観的な法則性では十分に捉えきれない部分が生産工程には存在し、この部分が製品の生産におけるコストや品質に大きな影響をあたえることです。

その原因は様々で、科学技術は極めて複雑な自然の構成要素を単純なモデルによって置き換え、そのモデルのうちに自然の動きを再現しうる客観的法則性を見出すことによって成立していますが、技術が高度化し複雑微細化してくるとモデル化の過程で抛棄された要素が効いてきたり、製造設備の能力限界に伴う僅かな誤差が生産工程全体に影響してきたりと単純ではありません。

この様な部分は、量産過程で工場の生産技術者達によって様々な設備の改造や行程のすり合わせを行うことによって除々に解消され、一定以上の歩留まりを確保できる生産ラインとして完成しますが、多くはこの部分が製造の核となるノウハウとなります。先端工場を海外に建設すると言うことは、海外の技術者や科学者の前に、最先端の製造技術と生産技術を開示しそのノウハウを公開しているようなもので、先方の学者や技術者に対して理想的な技術教育の場を提供することにほかなりません。

彼らは技術を盗む必要など全くなく、日本企業に雇われて生産活動に従事していれば、国内の技術者がそうであるように除々に最先端の技術レベルまで到達します。その国独自でそれと同等の製品を作りうるかどうかは、その国において製品に必要な原料や部品の確保が可能かどうか、製造装置の確保が可能かどうか、これらを運用する人材の確保が可能かどうかだけです。

それらがクリアされればより新しい生産設備を使用してより効率的に日本の工場が創りだすと同等の製品を作ることができるし、技術者の質が高ければ手本となった工場の欠点の多くを改善してより高い性能の製品を作り出すことも可能です。これは正に戦後の日本の製造業が、当初欧米の技術を全面的に導入し彼らの製品の模倣から出発して戦後30年程で欧米技術と肩を並べ場合によっては欧米技術をも凌駕するレベルに到達した過程そのものです。

そしてまた現在、韓国、台湾、中国等の諸国が自国内に建設された日本の工場を足掛かりにして、いつしか日本の工場よりもより高い技術で効率良く、より安価に製品を生産するようになり、更には日本製品を上回る製品をも生み出し始めた過程でもあります。

日本の戦後の例から見ても分かる様にこの様な技術的隆盛は、一国の工業生産の水準が全般的に向上して初めて可能になります。例えば1950年代後半から普及し始めたテレビであれば、テレビを構成する個々の部品 プラスチック製の筺体、金属製筺体、ブラウン管、真空管、抵抗、コンデンサ、コイル、水晶振動子、電気配線等電子部品の多くを自給生産出来るようになって可能となります。

戦後の日本では、原理構造の単純なパーツは欧米の製品を手本として国内企業が独自で開発し、ブラウン管や真空管(MT管)の様に当時の国産の量産技術では到底太刀打ちできないものは欧米からの技術導入に頼りました。そして欧米商品の模倣からスタートしてラジオ(5球スーパー)からテレビへと生産能力を高め、敗戦後十数年で一部の分野では欧米の製品と同等若しくはそれらを凌駕する商品を造るようになります。

この過程では、核となる主要な技術の多くは欧米のパテントであり、その技術は完全に欧米の模倣が中心でした。苦労して1から自分で考えるよりも、目の前にある自分達よりも進んだ欧米商品を手本にするほうが、技術開発の手間もコストもはるかに少なくて済むからです。わずかに本田技研やソニーといった創造力に飛んだ特異な指導者を持った極小数の企業に於いてのみ独自の技術が開発されていたわけで、大多数の日本企業が欧米に肩を並べ、更に彼らを凌ぐ商品を作り出せるようになったのは戦後20年近く経った東京オリンピックの頃辺りからです。

戦前の日本では、資本主義体制化にありながら工場内では依然として、職人による前近代的な江戸時代の徒弟的生産形態に大きく依存していたため生産品のばらつきが大きく、日本の物づくりにはこれを解消しうる生産管理の技術手法が根本的に欠落して規格化された高品質の製品を大量生産出来ませんでした。

このため戦後に入って米国よりデミング等、品質管理の専門家を招き、西堀榮三郎らが中心になって米国流の生産管理手法の学習会を組織して日本企業が一丸となって米国流の品質管理を学び、均質で歩留まりの良い製品を大量に生産可能にする工場づくりを進めたことが飛躍の大きな力となっています。

しかし生産管理の徹底は、職人の腕がものを言い、様々な局面で労働者の主体性が残されていた物づくりの現場から生産を完全に規格化し労働者の個性を奪ってしまう事態を生み出します。更に大量消費に答える低価格・高品質製品をうむため、ベルトコンベアによる大量生産方式、生産の完全機械化・自動化を伴い、大量の労働者の人員整理、首切り・配置転換を引き起こして国内に大きな労働争議を生みます。

すでに戦後米国の指導化で強引に日本に持ち込まれた戦後民主主義は、「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」を柱とする平和憲法を生み、愚劣極まる軍国主義の侵略戦争に駆り出された若者を中心に、日本各地の都市部に深く根付いていました。

また労働基本権の理念に沿って作られた労働三法が労働者の権利擁護に大きな力となり、労働者の自覚今日の日本よりはるかに高く、労働運動は都市部の労働者にとって生活の一部ともなっていた時代でしたから、社会党、共産党等明確に労働者の立場に立つ政党の力も今日より遥かに強い時代でもありました。

このため国内企業は自由競争下の苛烈な企業間競争と同時に、反合理化闘争と名付けられたこれらの強力な労働争議にさらされて、激しい淘汰と再編が繰り広げられました。

この結果、労働環境の整備や労働者の待遇改善策によって労働者との軋轢を巧みに切り抜け、賃上げの圧力を絶え間ない技術開発に依って切り抜け国内の企業間競争の勝者となった企業の多くが世界にも通用する巨大企業へと成長しました。この場合、労働者の反合理化闘争こそは企業に世界に打って出る企業体力と技術を産んだ主要因であつたと言えます。

何故にか



このような日本の経済成長の過程は韓国や台湾、中国等の諸国に於ける技術発展の過程と同様であり、現在の台湾や韓国・中国の経済発展に対して妬みがましく"日本の技術を盗んだからだ"等と云うのは技術の歴史に対する無知というものでしょう。

宮崎駿の「風立ちぬ」の中に、航空機技師 堀越二郎が大型機買い入れのためドイツのユンカース社を訪れる場面があります。ユンカースの工場で日本の技術者達は工場関係者から工場内への立ち入りを咎められ「日本人は何でもすぐ真似する。技術はドイツの生命だ安易に見せるわけにはいかん」と阻止されるのです。

堀越らは極めて優秀な航空機設計者でありましたが、物づくりの基礎となる加工技術・素材技術・部品製造技術等の彼我の格差は目もくらむほどであり、日本がたとえ20年の遅れを5年で追いついても、彼らは5年先を行っておりそれを更に1年で追いついたとしても、やはり彼らは1年先にあって永久に追いつけないという、アキレスと亀のパラドックスを自嘲気味に語り合います。

正に戦前から戦後50年台の日本の技術は、今日まことしやかに言われる技術大国どころか欧米技術の模倣で成り立っており、私の学生時代の教師の言葉を借りれば「日本の作る製品は安かろう悪かろうで見かけはそれなりに外国製品に近いが、いざ使ってみると作りが粗雑で欠点だらけ、おまけにすぐ壊れる」とさえ酷評されたのです。

私自身終戦直後に生まれ、この国の戦後技術が欧米の先進技術相手に以下に苦闘して彼らに並びたち追い越そうとしてきたかを自身の成長に合わせて目にしてきましたから、自身の経験からもそのことはよくわかりました。なかでも製造業の技術の核となったのは、戦前に航空機から戦車、戦艦に至るまで、あらゆる種類の機械設備を設計製造してきた軍事産業技術でした。

兵器に関しては、欧米が開発した最先端の超兵器類には遠く及びませんでしたが、航空機に見るようにその設計者の水準は極めて高く、戦後急速に民主化した環境にあって、国内生産に必要な部品や素材の製造にも、彼らの実力が日本の製造業の復興に極めて大きな力となりました。戦後急速に日本製造業の対米輸出の花形になりえたミシン、カメラ、テープレコーダー等はまさに軍事技術で養った物づくりの手法を



私は1960年台に関西の電力会社に就職し通信機械所と呼ばれた部署で発変電所間に張り巡らされた様々な通信網と送電網保安用の電子装置類の保全にあたっておりました。すでに当時、これらの電子通信設備は殆どNEC・富士通・日立・沖電気等国内電子・通信機器メーカーの手になるものでしたが、これらの設備の動作測定・検査・調整に使用する中央通信指令所所有の測定機器類は皆極めて高価な海外製でありました。その理由を問う私に「国産品では測定精度が出ない」が先輩の答えでした。

入社当時見学した堺火力発電所では、すでに100万kWを超える発電量を誇っていましたが、案内してくれた所員によると、この発電プラントの基幹技術はドイツのパテントによるもので毎年信じられないほどの高額の特許使用料や消耗部品購入費をドイツに支払っているとのことでした。

先にも述べましたが1950年台までは、国内大企業の多くが生産の核となる技術を欧米に依存しており、外資導入にともなう対価支払額の半分以上が技術導入によるものでした。この様な生産構造の


戦後日本企業の特徴は、どの分野でも国内で多数の同業メーカーが競合し、互いに国内市場のシェアを奪い合っていたことで、その競争は激烈であり、その競争の過程で独自の技術的発想や市場調査に基づき質の高い新製品をより低価格の値段で供給し得た企業が徐々に国内市場で勝者として残っていったことです。

しかし企業の規模が拡大するに連れ、多くの企業は銀行の資本系列を伴う三菱・三井・住友等旧財閥系企業の系列に組み込まれて行くことにより、各系列内部においては、無理な競争をしなくとも系列企業やその従業員を対象にしてある程度の製品市場が確保できる状況に至ります。

また国内の企業規模の拡大に伴って、競争の激しい市販分野より、ルート営業による一度の契約によって、相当量の販路が見込める企業相手の請負生産 ( 下請け生産 ) に甘んじるほうが様々な市販分野に於いて多数の商品を開発して販売するよりも経営資源が集中でき生産効率が上がって利益も増えるとの考えが多くの企業を支配するに至ります。

その典型が今日では一部企業を除きほぼ壊滅状態に陥ってしまったIC~LSI等の半導体電子デバイス製造分野でしょう。私の30才代にはICやLSI製造の基本特許を米国企業から買い取った日本企業の多くがこの分野に進出し、東芝・三菱等強電メーカーから松下・ソニーら家電メーカー、NEC・富士通・沖等の通信機器メーカーが入り乱れてこれらの製品の開発生産を行いました。

すでに日本企業は国内における企業間競争によって非常に高い製造品質と価格競争力をもつ製品製造能力を養っていましたから、これらの国内企業は新興の半導体デバイス分野において世界を凌駕するに至ります。日本製造業が成長を誇った1980年代には、日本企業はこの分野の世界のトップテンの企業に何社も名前が上がりましたし、市販の家電製品や産業用制御装置などに使用される半導体部品には大抵日本メーカーのロゴが刻印されていたものです。

しかし電子デバイスの集積化の速度は異常に早く、多数の部品で構成されていた電子基板がたちまち一個のLSI置き換えられ生産メーカーの淘汰が起こります。このため国内企業が各分野で多彩な製品を独自に生産していた時期は長く続かず、企業間で市場争奪を繰り広げていた多くのメーカーは徐々にこの分野から手を引いて、いつしか

大規模メモリーの開発生産と自動車等産業用の制御チップに特化して





このため、作業の進め方やコツの掴み方が個人によって異なるため、それは出来た製品にも反映されて製品にも個人による微妙な差が生じます。この極端な例が、太平洋戦争当時に作られた日本軍の武器に明確に現れています。

当時すでにドイツや米軍では自動拳銃もしくは自動小銃は当り前で小隊の兵単位に支給されていたほどですが、日本においては自動銃(オートマチック)の普及率は低く前線兵士の多くは大戦の最後まで、その構造において日露戦当時と大差のない三八式歩兵銃を使用しました。

これは日本が高性能の自動銃を開発出来なかったからではなく、当時の国内の工業生産のレベルが徒弟制を基本にした手工業生産方式に依存していたため、構造的にはるかに複雑な自動装填銃では部品の工作精度が作業者毎に異なって、作られた部品を寄せ集めて銃を組み立てても、部品相互の誤差が大きく満足に動作しなかったことが原因の一つです。

これらは熟練者の手によって個々の部品をヤスリ掛けで矯正して最終的には動作するように持っていくのですが、前線に送られて整備兵もおらぬ環境で故障すると部品を交換しても満足に動作せず、命がけで戦っている前線兵士にしてみれば手動装填で構造単純な三八式歩兵銃の方が遥かに信頼が置けたのです。

しかしその三八銃に於いてさえ、部品の互換性が十分に確保できず組立にあたって熟練者がヤスリ掛けにより矯正して完成させたと言われます。

当時工業生産の一部を職人の手作業に頼っていたのは日本に限らずドイツや米国でも一般的なことでしたが、日本と大きく異なっていたのは、手工業的生産形態のなかにも生産管理の考えを持ち込み、職人個人の癖による固有偏差迄求めて加工の指示寸法を矯正し、誰が作っても完成した部品が最終的に標準寸法に収まるような製品管理を行なっていた点です。

このレベルでは生産現場の一人一人の職人にまで技術者の管理が及んでいたと言うことで、最終的には生産が技能ではなく技術によってなされていたと言えます。

しかし徒弟制度に依存していた戦前の日本の場合、工場生産においても職人各個人のものづくりのやり方は親方が指図する事柄であり工場の技術者であっても安易に仕事に口出しすることははばかられました。

当然彼らのつくる製品に対しても管理が及ばず、最終的には個人のクセ(固有偏差)を内包する職人の技能に依存した生産形態でありました。見かけは同じ物を作っていても、ドイツやアメリカと日本とでは生産形態の本質が全く異なっていたのです。

ホンダの創設者・本田宗一郎は戦前、当時の大企業でも独自の生産が難しいと言われたピストンリングの製造にのり出し、苦闘の末量産ラインを完成させて製品化に成功するのですが、この成功の一因は宗一郎が専門家からピストンリングの技術的知識の指導を受けたこと以上に、彼が小学校卒業以降自動車修理工として徒弟教育を叩き上げた根っからの職人であり、当時の工場生産の機微を誰よりも知り抜いていたからだと思います。

しかし大学で専門教育を受けて製品の設計や生産をになった一般の技術者には、宗一郎が体得していたような個々の生産現場における製造の機微については思い至らず、設計することは出来ても、製品化の過程で歩留まりが悪くて満足な製品が作れない一因となったようです。

日本の技術者がこの様な過ちに気づき、工場全体に生産管理の思想を取り入れた生産を行うようになったのは戦後に入ってからで、当時京大の学者であった西堀栄三郎らを中心にして米国から品質管理の専門家デミングを招き、国内各地で講演会を開くなどしてこの思想を広めていった結果です。

昨今日本の`ものづくり`の伝統が云々されクールジャパンと称して日本の技術はすごかったなどという話を日本政府自体が仰々しく唱え始めたのですがこれなど私には技術をよく知らぬ人間の戯言でまこと馬鹿馬鹿しいことのように思えるのです。

しかし現在の技術は違います。企業が商品の生産に使用する技術は、その殆どが物理化学的自然法則を把握した上で開発されており自然科学や工学を学んだ者にとってその客観的法則性は明白なものです。

なぜなら、生産活動の中から経験やカン(技能)に頼る部分を極力排斥し、誰にでも分かる単純明快な形にしてしまうことこそ生産現場における技術のあり方だと考えている人々が沢山いるからです。

この手の人々の考えは極めて単純で、設備から人間的な要素を排除して完全に自動化してゆくことこそ技術の最終目標とします。

要するに、生産に携わる労働者を排除し機械生産に変えることが製品の品質と生産効率を高め利益を確保する道だと考えます。

工場経営者がこの手の考えを持っているのであればまだ分かりますが、しょせん労働者に過ぎない大半の人間がこの様な考えを持っているのは、正に自分で自分の首を締めているようなものでなんとも滑稽な話です。

これは労働を単に金儲けの一手段としてしか捉えない、近代資本主義社会における労働に対する認識そのものが誤っているもので、働くということは、人が生きてゆくために自然や社会に働きかける媒介であり、生きることの本質でもあります。

なぜなら大半の人間は、睡眠時間を除いた活動時間の大半を働くことにあて、それに拠って生み出す価値の一部を得て自らとその家族の生活を維持しているからです。

本人の意志や嗜好にかかわらず、大半の人にとって労働は生きることそのものでありまたそれゆえに人間存在の




ものづくりと生命


他の生物と比較したさい、私達人間の大きな特徴のひとつは、意識してものを作る行為でしょう。現在地球上に生存するクジラやイルカなど一部の哺乳類には、人間に近い知能があるのではないかと言われていますが、残念ながら彼らは意識してものづくりを行いません。


人間は道具を巧みに使いこなして様々な食料を確保するだけではなしに、家を建て道を作り橋を架け車を走らせ飛行機で空を自由に行き来する。果ては月や惑星にまでも進出しようとすらしていますが、地上の他の生物にはこのような能力を持ったものは見当たりません。


人類進化の過程のある段階では、人間に近い能力を備えた近縁の種がいくつも派生したと言われますが、彼らは皆、今日地上の覇者となった人間に滅ぼされたか、人間に取り込まれて種としては淘汰されてしまったようです。


けれども人の身体的能力が他の動物に比べて優れていたかといえば、決してそうではありません。狩猟能力など現存するライオンや虎、狼など野生の肉食獣には遠く及びませんし、攻撃や防御の能力も象や犀、バッファローなどの大型草食獣の前に出れば震え上がるばかりです。


それにもかかわらず、人が地上の覇者となりえたのは、ライオンや象をも狩りうる強力な武器や罠を作り上げ、個人や集団で、これら人より遥かに強力な力を備えた動物たちをも打ち破る能力を獲得し得たからに他なりません。


人が彼らを巧妙に狩りうる道具や罠を作らなければ、人間の知能が如何様に発達しようとも、人はいつもこれらの強い動物たちから逃げ回るばかりで、悪くすれば彼らによって逆に狩りつくされていたかも知れません。正にものづくりこそは、人が今日の繁栄を築き得た能力の最たるものであったと言えましょう。



だからといって「ものづくり」が人にのみ固有の能力であるかと言えば、否。全ての生命体はものづくりの達人であり、自らの体内で様々な蛋白質を作り出して自己保存するとともに、遺伝子を発現させることにより、自身と同じ次世代の個体をも作り出して種を保存します。


生命は人に比べると遥かに微小なウイルスや細菌でさえも、その体内に極めて複雑な分子構造を持つ多数の蛋白質をやすやすと作り出し、それをもとにして自身の器官を構成するさまざまな機能部品を生み出して自己の体を完成させます。


バクテリアファージの月着陸船形の構造はよく知られていますが、ウイルスのように生物と無生物の境界にあるような微細な構造体でさえも、人知で到底及びもつかない微細・精緻な構造物をいとも簡単に造り出す能力があります。




人は今日の分子工学~遺伝子工学系の技術を持ってしても生命が自在に作り出す多彩な蛋白質とそれに依って構築される形態を自由に合成することはできませんから、生命が進化の過程で獲得したものづくりの能力が、いかに高度で洗練されたものであるかを思い知らされます。


自己形成能以外にも、動物のあるものは自分の生活空間を自分にとって住みよいように改変する能力を身につけています。例えば多くの鳥は人が家を作るのと同様に、身近な素材を用いて巧みに巣を作りますし、蜂の仲間には集団で惚れ惚れするほどに立派な蜂の巣を作るものがいます。


数億年以前の古生物にも、土中に巣穴を穿ち身を隠す種がおり、かれらの巣穴が生痕化石として保存されていますから、巣穴を掘る行為をものづくりと見なせば、一部の動物にとっては自己複製以外のものづくりの能力も、数億年もの昔からすでに獲得されていた属性であると言えます。


一般的に彼らの有するものづくりの能力が人間のそれと根本的に違うのは、彼らが進化の過程で獲得したものづくりの能力は遺伝子によってその種がもつ固有の属性として固定化され、自律的に自身の体を決められた形態で構築しうる様に、その種ごとに定まったものづくりの形態や形質が種に属するどの個体についても共通して大きく変わることがない点です。


人のものづくり

しかし人にあっては、ものづくりの能力は種の属性と言うより、各個人が習熟によって後天的に獲得した技術や技能によって大きく左右され、ある人々は船や車や巨大な建造物を作る力を持っているのに、別の人々は壊れた自宅の塀すら直す能力がないと行った具合で、種内の個体間の能力の開きは他の生物に比べて遥かに大きく変化に飛んでいます。


生命の本質が、自身と同世代の種のコピーを次世代に残すことであるならば、一般的な生物の持つものづくりの能力は生命の本質に通じるものであり、個体間に大きな格差をもつ人のものづくりの能力は生命の本質から逸れたものであるのかも知れません。


しかし同時に、自己の維持と増殖から開放された人間のものづくりが、他の生命のように遺伝子によってその発現のプロセスを正確に規定されておらず、種の成約から開放されて個体の自由な意志と能力によって様々な発現形態をとりうることは、人という種が持つ特異性・異常性を現しているとも言えましょう。


そして 正にそれ故にこそ、人は地球上の他の生物がたどり得なかった地上の覇者として現在の繁栄を築いた訳ですが、他の生物と比較して各個体間の能力格差の著しい開きは、同時に個体間の生活格差を生み出し、今や富者と貧者、支配者と最下層者との生活の格差は、世界中でもはや私達の想像を絶するまでのものとなっています。


人以外の生物においても共同生活を営み高度に発達した社会性を有する種においては、蟻などに見られるように、あるものは女王に、あるものは働き蟻にあるものは兵隊蟻にと個体間に著しい格差が現れます。


この場合、同種内でも個々の個体間には役割に応じて同一種とは思えないまでにその形態・形質に変化を生じるわけですが、その変化はすべて遺伝子によって正確に規定された範囲において発現し個体間の形質・形態の格差はある決められた範囲から拡大することはありません。


これに対して、人の場合、個人が能力と運と天分にめぐまれると、時として貧者が億万長者に、下層の賤民が世の支配者になりうる場合もあるわけです。一般的な生物の場合には、種の個体が彼らに与えられた役割分担をすてて他の役割に鞍替えすることはまず見られないと思われます。


これらのことは、人が最早生命の持つ一般的な法則性からはみだした存在であり、ときによってはその法則性を自ら否定して自殺したり、種全体の存続をさえ脅かす戦争や大量破壊兵器の開発を平然と行ない、個人の利益のためには環境を汚染し地球環境を破壊して何ら疑問を感じない、生命体として極めて異常で危うい存在であると思わざるをえません。


誠に恐るべきことですが、今や人を生命の頂点に導いたものづくりの能力が、人のみならず地球上の生命体の大半を死滅に追い込む大量殺戮を生む要因になる可能性が著しく高まっています。


大量絶滅と種の進化

しかし生命を個体ではなく種と云う別の視点から眺めると、またそれとは異なった姿も見えてきます。地球史における生命進化の過程を見てみると、生命体の形態や形質の激しい変化は、種全体が極めて大きな生存の危機に直面した際に発現しています。


地球史の中では、大量絶滅と呼ばれ極めて短期間の間に70~90%以上の生物種が姿を消す恐るべき現象が過去に5回発生したと云われます。大量絶滅を境に地層に出現する化石が大きく変化するため、この境界は地質年代の紀の境界ともなっています。


大量絶滅は様々な要因によって、ある時期を境に既存の生物種を支えていた生存環境が消滅し、種が一気に失われてしまうのですが、更に驚くべきは、この大量絶滅が起きると、その直後からそれ迄の種とは全く形態も形質も異なる生物群が繁栄を始めることです。


人類の母体となる哺乳類の繁栄も、恐竜が大繁栄した白亜紀の最後に生じた大量絶滅に依って、地球上から鳥類を除く恐竜の仲間が消え去ってしまったあとに、恐竜に取って変わるかたちで出現したものだそうです。


このことは、一見すると生命の内部には環境の変化に適応して形態・形質を変化させる仕組みが存在する様に思われ、進化がそのように解釈されることも有るわけですが現実は違います。


種の大半は突然生じた大規模な環境変化には適応できず、古い形態や形質を保持したまま滅んでしまいます。

幸運にもその環境変化に耐えられる形態・形質を有していた僅かの種のみ大量絶滅を生き残ることが出来るので、変化に適応出来るものは限られます。


例えば哺乳類の繁栄をもたらした白亜紀の大量絶滅では「すべての非鳥類型恐竜を含め、地球上の生物種の約76%が絶滅」地球史上最大の絶滅と云われるペルム紀—三畳紀絶滅では「6万年ほどの間に、海にすむ生物種の96 %、陸にすむ生物種の4分の3が死に絶えた。世界の森は消滅し、再生には1000万年もかかった。また、5回の大量絶滅のなかで唯一、多数の昆虫が絶滅している。海洋生態系の回復には400万〜800万年を要した」そうです。

ナショナルジオグラフィックより https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/093000559/


問題は大量絶滅の後で、生き残った生物種は一気に繁栄に転じ、おびただしい種の分化が生じて地球上のあらゆる生活空間に新たに生まれた種が拡散してゆきます。


つまり生命の進化とは、生物が他者依存の生存競争に依ると云うより、主体的に彼らの前に新たに開かれた環境に対して適応・放散を繰り広げる現象だと言えます。


ヒト型に設計された異形の生物を主役にした五十嵐大介の大作「ディザインズ」の中に、狂気の天才科学者オクダの言葉として「進化には順番も優劣もないーー環境に適応した形になるだけ」「どんな生物でも もともとその中にはあらゆる可能性が眠っていて」「その可能性をひとつひとつ閉ざしてゆくことで、それぞれの生物の固有の姿 固有の性質が形づくられる」「その可能性を別の方向に導けば、蛙を人の姿に似せることも貝にヒト型の知性を持たせることもできる」との一節があります。


オクダはこの自論に基づいて、様々な異形のヒト型生命体をデザインします。現実にはヒト型の蛙や貝は実現できないにしても、この言葉は大量絶滅後の新たな生活空間に向かって一気に適応放散し多彩な種を生み出し得る生命の本質をよく表しています。


つまり生命とは、その前に新たに生存可能な生活空間が開かれたなら、その環境に向かって適応しうる形態・形質を自らその種の属性として獲得しうる力、今の自分達には持たない新たな属性を自ら作り出す能力を備えていると云えます。


今日の地球環境は人間の無思慮な生産活動に依って世界中で破壊され崩壊の危機に立たされているのですが、このことが逆に、最早閉塞した環境にある地球上の生命にとっては閉塞を打開する突破口であり、人を含む大半の生物種が滅んだ後に、新たな紀を作り出し地球に繁栄をもたらす新生命の準備段階に有るのかもしれません。


近い将来、愚かしい人間によってこの地球上から私達人類を含む多くの種が滅び去った後にどの様な生物種が新たな地球上の支配者となり得るのか、人間の作り出した世界より多くの生命にとつて棲みやすい世界なるのでしょうか。










すなわち、ものを作る能力は、太古の昔から様々な生物が身につけていたわけですから、何も人間の登場を待たずとも、昆虫や、爬虫類や、鳥の進化の過程においても、巣作りに現れたものづくりの力が、彼らの生活のもっと多方面な分野で発現し、服を着る昆虫や、罠を仕掛けるトカゲ、船に乗る鳥などが存在してもおかしくないはずです。


生命の最小単位といえる細菌では、細胞分裂によって自身と同じ構造物を2倍・4倍・8倍・・と倍々で増やしてゆきます。さらに生物と物質の中間的な存在とみられるウイルスでは、自分自身だけでは増殖するこができませんが、他の細胞(ウイルス受容体)に吸着して細胞内部に侵入し自己の遺伝子及びウイルス蛋白質を大量に複製しウイルス受容体内に多数のウイルスを増殖させます。