マツと落葉樹

先年家族で京都へ出かけました。就職した当時は関西に暮らしていたので、仕事でも個人的にも何度か京都の町に出向いたことも有りましたがそれ以来、私にとっては京都旅行など何十年ぶりのことです。

長男のお嫁さんが京都に詳しく、観光のスケジュールを考えてくれたのですが、初日は嵐山嵯峨野の界隈を巡り、二日目は旅館のあった南禅寺前から哲学の道沿いに銀閣寺まで幾つかのお寺を観覧して最後は京都市動物園で終わる楽しいものでした。

寺社の多い京都では、様々な松の姿を見ることが出来る。

世間知らずな私を大いに感動させたことが幾つか有りましたが、その一つが京都の街に残されている松の木の多さでした。立派な日本庭園を持つ旅館や寺院に多くの松が残されているのは当然のことなのですが、町に暮らす市民の家庭の庭にも多くの松が植えられていますし、京都市動物園の前の通りには街路樹まで松が植わっているのです。

京都の町では街路樹にまで松が植えられている。千年以上の歴史を持つ街にとつてはごく自然な姿か。

曾て私達の日本は松の文化を持つ国でありました。松の木は東海道を始めとする全国の主要な街道に日陰をつくる街路樹して植えられ、庚申塚や一里塚、常夜灯など路傍の目印となるような場所にも多くは松が植えられていました。

松の木は成長が早く過酷な環境でも生育できるため、日本では古くから海岸の護岸や砂防林には黒松を内陸の街道筋や尾根の痩せ地には赤松が植えられ、松の性格をたくみに利用した植林がなされてきました。

幼い頃、私の住んでいた塔世橋の下手からは、津市の海岸線沿いに生えるの黒松の護岸林が見通せましたし、安濃川桜橋の下流右岸には三本松と呼んでいた大きな松の木が聳え川魚を狙う鳶の止まり木となっていました。

関町古厩には千年以上の歴史をもつ鈴鹿駅家跡と伝わる史跡がある。ここにも曾ては樹齢400年を越える御厩の松があったが今では枯れその切り株だけが残されている。

近所でも庭のある家の玄関周りには、たいてい姿を整えた松があり、毎年形よく剪定するのが家人の務めであったはずです。また近所には千年以上の由緒を誇る四天王寺があり、その山門の中庭や東に続く外庭には樹齢数百年の松の巨木が多数生えていました。

戦後間もない事とて、四天王寺の境内は子供の格好の遊び場となって毎日多数の子供で賑わい、紙芝居屋までもがこの境内を仕事場としておりました。

現在の四天王寺。外庭に残された巨松も今では見る影もない。

クーラーなど何処の家にも無い時代です。巨松の作る深い木陰は厳しい日差しを避けるにはうってつけで、うだるような真夏の昼下がりなどは子供だけでなく、近所の大人たちも涼をもとめてこの境内に集まったものです。

巨木の幹を囲んで乾いた土に太く張り出した松の根は、子供たちにとって遊びの陣地になったり椅子になったりしたもので、私は今でも松の根に乗って遊んだ頃の足に伝わる凹凸の感触を想い出すことがあります。

私の家がある芸濃町林地区には古来より奈良と伊勢を結んできた伊勢別街道が走っており、街道沿いの家並みは田舎のこともあって今でも古い居住まいを残しているお宅が多く見られます。

現在でも田舎の庭には庭木に松の木を植えるお宅が多い。

こういった家の庭には現在でも松の庭木が多く見られ、古来よりの松の文化を継承している訳ですが、津や鈴鹿の市内は言うに及ばず、すぐ近くに出来た新興団地でさえもその洋風建築と松の木はいかにも不釣り合いと見えて最近建られた家では、松の庭木を見ることが少なくなっています。

私の子供時代にはまだ伊勢街道(R23沿いに追分から伊勢に至る)や伊勢別街道(県道津関線)も市街を抜ければ方々に巨松の茂るところが残っていたと記憶します。

例えば広重の東海道五十三次の55宿中には26宿以上の画に松が描かれており、中でも平塚、大磯、由比、日坂、白須賀、亀山、大津等のでは松が構図の中心に据えられていますし、吉原では街道の松並木を行く旅人が主題となっています。

これは広重の五十三次だが、浮世絵の風景画には松が風景のポイントとして描かれたものが多い。海岸には黒松、内陸には赤松が描かれ日本の風景にはそれほど松が一般的な存在だったのだ。

松以外に描かれている樹木は柳、杉、檜、欅、楠、梅等ですが松ほど頻繁に登場する木は見られません。松の力強い樹型は武士道を建前としていた当時の日本人の精神ともよく馴染んだのでしょう。

松が日本の建築に於いて特別な地位を占めていたことは、庭木として庭の装飾に使用されただけでなく、その姿が襖絵や屏風画に使われて城や寺社の室内装飾とし多用されたことを見てもよく分かります。

現在でも国内の寺社や旧家には松を描いた美術工芸品が多く残されていますが、その中には二条二の丸御殿大広間の様に、広間の周囲の壁や襖に様式化された巨松を所狭しと描きこんだ勇壮なものもあります。

二条城二の丸御殿大広間四の間の有名な松に鷹図。江戸寛永年間にに狩野派の画工集団によって制作されたもので、構成は豪胆だが表現は類型化している。

この様な様式化した絵画と対極にあるのが、少し前の安土桃山時代に活躍した長谷川等伯の松林図です。等伯は、ポルトガルを通じて直接西洋の影響を受けた鎖国前の開かれた時代に活躍した絵師ですが、その独創的な構想と絵画技法は狩野派の画工集団とは一線を画します。

等伯の松林図。墨の濃淡を用いて朝もやに煙る松林の遠近を見事に表現。松の描写も西洋絵画の様に極めて写実的だが、その細部はあっさりと簡略化されており真に独創的な表現だ。

これらの作品を通しても、曾ての日本では松の木が人々の生活の中に占める割合が現在よりも遙かに高かったといえるでしよう。

それは単にその姿形が力強く勇壮だというだけではなく、夏場の野外では炎天下の日差しを遮り、道行く人々に心地よい日陰を与えてくれる極めて実用的な役割も担っていたのです。

しかしそんな松も戦後の車社会の到来とともに道路の邪魔者扱いされて次々に切り倒されてゆきました。何百年にも渡って各地の歴代の為政者たちが心を配り、手厚く育ててきた松の並木は、たかだか二十年ほどの間にあらかた切られてしまったのではないかと思われます。

もちろんこの様なことは何も松に限ったことではありません。明治維新以降西欧文明の流入で歯止めを失った日本人は、欲にかられて過去には神聖視され、立ち入るのも憚られた深山の森や神社の鎮守の森までも切り倒し始め、明治の巨人南方熊楠をして官憲相手に乱闘事件までも起こさせる訳です。

熊楠の白井光太郎宛書簡'神社合祀に関する意見'には、神社合祀令に伴い悪徳官吏や神職、商人はては氏子共々金ほしさに神社を潰し、御神木の茂る神森を皆伐し社の土地を売り払うといった、当時の彼が見聞きした、詐欺師まがいの様々な例が延々と綴られています。

稀代の天才にして大奇人 南方熊楠。こんな人物が存在し得たこと自体、私には奇跡のように思える。上は彼の尽力で天然記念物となり天皇行幸でも知られる神島(yahoo地図より)

成長に多年の歳月を要する巨木は、彼らが生きてきた歳月の長さを思うだけでも大変貴重で守るに値するものですが、換金のために切られなくとも、その大きさ故に枝や幹が交通の妨げになるとか、大量の落ち葉の処理に困ると云った情ない理由で次々に枝を払われて最後には切られてしまう例は枚挙に暇がありません。

管理者に枯死させる意思はなくとも、彼らの周りの環境がどんどん現代化し、周辺の木々が切り払われたり地面が舗装されたりして満足な生育環境が確保されずにいつしか樹勢を弱めて枯れてしまう場合も沢山あったはずです。

建材としての松

この一方、山林においては戦後に戦争で荒廃した山に松の植林が行われたりして、自宅周辺の里山にも一時期までは結構松の木が観られました。

松は土地を選ばず、他の樹木が育ちにくい水利の悪い尾根筋や痩せ地でも生育するため、山の尾根や痩せ地には決まったように赤松の林が形成されていました。

今も山頂部に松が残る自宅前(向城)の里山。嘗て猛威をふるった松枯れも収束し最近では立ち枯れる松もこの山では見られない。

用材としての松は、材の内部に大量の脂を含んでいるため化粧板としては使いにくいのですが、杉や檜に比べると湿気に強くて腐りにくく建築用材として耐久性に優れています。

このため古来より寺社建築から一般の民家に至るまで木造家屋の大断面構造材として建物の中心部に用いられ、ことに農家の場合、私の母屋もそうですが棟や桁等の高荷重構造材として広く使われてきました。

このような日本建築の需要に応じるため、地方では里山の一部に多くの松が植えられていたのです。しかし高度成長以降、国民の生活様式が洋風化するに連れ、日本の伝統的木造建築工法に換わってプレハブ工法や洋風建築が普及し始め、国内産の松材を用いて立てられる家自体が減少の一途を辿ります。

我がを例にしても、30年以上前に立てた別棟も最近立てた息子の家共にプレハブ建築で、構造材は鉄骨とツーバイフォーの合板製、母屋のような巨松から切り出した太物の構造材など何処にも使われておりません。これでは松の需要がなくなってゆくのも無理からぬ話しです。

松くい虫

更にこの様な状況に追い打ちをかけて松林の減少に拍車をかけたのが、近年多発した松くい虫によるとされる松の大量枯死です。

松枯れの原因は、北米産の松材に入っていたマツノザイ線虫とよばれる寄生虫で、この線虫が大量に松の木に入り込むと抵抗力のない日本産の赤松や黒松は枯死すると言われます。

北米産の松には線虫に対する抵抗力があるため、線虫に侵入されても枯死しないのですが、抵抗力のないアジア産の松に対しては松林を全滅させるほどの猛威をふるうと言われます。

マツノザイセンチュウのキャリアと言われるマツノマダラカミキリ。松を食害する昆虫は他にもあるが、なんでこいつだけがキャリアなのと思ってしまう。 写真は以下のサイトより借用。

http://www.forestryimages.org/browse/subthumb.cfm?sub=4532

1905年に長崎で発見されて以来、線虫の移動手段が無いと見られていたにもかかわらず、彼らによる松枯れ被害が、短期間に全国に広まったためその原因が疑問視されたのですが、日本の学者によってマツノザイ線虫がマツノマダラカミキリをキャリアとして伝搬するとの説広く知られるようになりました。

これらの研究に基づいて、松くい虫退治の名目で多額の税金が使われ、方々の山で大量の薬剤散布のなされた時期があったのですが、これらの対策はあまり効果を見せず、自宅周辺の里山でも松はあらかた枯れてしまいました。

今も残る松枯れの株。この小山だけでも立ち枯れた松は結構な数になるだろう。今も倒れずにコゲラに住まいを提供してくれる枯松もある。

しかし松枯れの発生しだした時期は、国内の自動車産業が隆盛期を迎え排気ガスによる大気汚染が大きな問題となった時期と一致します。私は松枯れの発生から方々の山の松の枯死まで自分の成長とともに眺めてきましたから、このことは特に強く感じたのですが、大型道路が山中に通じ大量の車が行き来しだすとその周辺の森の松から先ず枯れ始める様なのです。

鈴鹿山脈の一帯でも多くの山の尾根筋で立ち枯れた松の林がありますし、一部地域では現在でも松の枯死が続いている山も見られますが、以前に比べると葉を赤く染めて立ち枯れた松はかなリ減少しています。

先に上げた向城の山にしても、松枯れが最もひどかったのは20年程前で(日本版マスキー法の規制開始が1978年ですからこの当時は累積された汚染効果がよく現れていた時期でしょう)この頃枯死した松の幹を今でも山中で多数確認することができます。

当時、私は山中の松が皆枯死するのではと思ったのですが、これ以降松枯れは減少し、二十数年前に向城の山をかすめて付けられた路の法面には松くい虫など存在しないかのように多数の松の若木が成長して今に至っています。

山際にできた路の法面には多数の若松が成長した。すでに幹径15cmを超すものも多い

その反面、自宅近辺でも、場所によっては最近急に松枯れが始まったり、庭木の松が枯れる現象が起きもします。この様に地域でもばらつきの多い現象が、単純に松の線虫感染だけ説明できるものでしょうか。

これまでにもアメリカシロヒトリやセイタカアワダチソウのように経済成長の過程で日本に侵入し一時的に蔓延した生物が存在します。

これらの生物は自然環境が破壊された後に入り込み、一時的に大繁殖を遂げるのですが、生態系が徐々に回復してある程度安定した状態に入ると徐々に勢力を減じ何時しかマスコミで取り上げられることもなくなって目立たない存在となりました。

北米から線虫が持ち込まれて松枯れが始まり、日本産のマツ類が線虫に対して抵抗力を持たないとの学者の研究があったにせよ、自然がそれほどまでに軟弱でありましょうか。

素人の私には、松枯れの原因とされる線虫の繁茂もアワダチソウ同様に、大気汚染による樹勢の低下と生態系のバランスが崩れた結果によるものではないかと思えます。

松枯れ蔓延の過程で農薬散布も製薬会社のビジネスとなり、封建的体質の強い林業系学者の中からは、それに水を指すような研究も出なかったのではといった勘ぐりもしたくなるのです。

松枯れの発生もあって、多くの山には松の代わりに杉や檜が植えられ松林の減少を助長しました。現在周辺のほとんどの山が杉と檜の植林帯で占められており、春には毎年のように花粉症の元凶となっています。

ことに私の住む地域では東や南に面して日当たりの良い山の斜面の大半は杉や檜の単相林に変えられており、これは鈴鹿山脈や布引山脈でも例外ではありません。そして山地の松林が姿を消すのと歩調を合わせるように身近にあった松の木も徐々に少なくなって行きました。

薪炭材と広葉樹林

日本では古来より薪炭用に雑木林を育てる里山が維持されてきましたが、三重県北中部の場合、鈴鹿山脈を巨大な里山代わりに使用して、その山麓から樫や樺の茂る夏緑広葉樹林帯、さらに上の樗林辺りまでの森林帯が薪炭材用として使われました。

しかし明治の始め頃までは、手軽に入ることができる麓の谷や尾根筋は、古来より地元の村落の民(農民)の入会地(多くは焼山として冬には火を入れていた)として、粗朶や柴を集めたり牛馬の飼料や田畑の肥とする青草の刈取り場として排他的に使われていたはずです。

このため、販売目的で薪炭用に木の切り出しが行えたのは、麓の農民(稲の作付に適した平地に土地を持ち、年貢米を供出できた麓の本百姓は、平地が少なく、年貢供出の難しかった山間部の百姓に比べるといろんな面で優位にあり、山地にも多くの入会地を持っていたと見られる)のとのイザコザがない、深い山中であったと思われます。

鈴鹿の山ではほとんど人が入り込まない谷筋や山腹にまで炭焼きの窯跡がある。鈴鹿山脈全体では夥しい数になるだろう。

薪炭材の伐採は炭や薪の使用が下火になる1960年台まではまだ盛んに行われました。このため鈴鹿の山では今でも当時の炭焼き窯の窯跡が多数放棄されて残っており、窯跡のない谷は無いとさえ思われるほど至るところで炭焼きの遺跡を見ることができます。

現在私達が鈴鹿の山の登山道として利用している道自体その多くが戦後一時期迄の炭焼き人達が開いてきた炭焼き道にほかなりません。山歩きの際窯跡が多いのも当然といえば当然な話です。

戦後になっても暫らくは、大多数の家庭が日々三度三度の炊飯には薪を使って竈で米を炊いていましたから、彼等は炭を焼くだけではなしに炊飯用に大量の薪の切り出しも行なっていました。

鈴鹿の山中には、今でもカワラコバ(川原木場)ニホンコバ(日本木場)等、嘗ての集材場の在った地名がその痕跡として残っています。

そういった場所では、炭焼き用の原木と共に薪材用として多数の広葉樹が伐り出され、それらから取られた大量の薪把が炭焼き道を通って四日市、鈴鹿、亀山、津と云った町や村の津々浦々まで売り歩かれて消費されました。

私の子供の頃は薪や木端の把をリヤカーに積んだ割木屋さんや炭俵を積んだ炭屋さんが定期的に回ってきたものです。

今では殆ど目にすることがない薪の山。しかし私の子供の頃、薪や木端は炊飯の必需品であった。

戦後一時期までは原木の需要が恒常的にありましたから、原木を伐採しても再生可能な櫟や楢、樫といった落葉広葉樹の二次林がその後に残されてきたものですが、薪炭需要が先細りするに連れ、原木伐採の後に杉、檜の植林が進められて鈴鹿の山でも広葉樹(二次林)の面積がどんどん減少してゆきました。

自然植生の森(厳密に云えば自然植生の森は嘗ては日本の全土を覆っていた訳ですが、人間の登場によってほぼ切り尽くされ現在見られる森は代償植生の森です)はその高度に応じて椿や楠に代表される常緑広葉樹林から冬は落葉する夏緑広葉樹林に移り更に樗、黄楊を主体にした森へと遷移します。

当然そこに生える植物の種類も多彩で、下生えの雑草や低木から森の樹冠を構成する高木まで、様々な階層に様々な植物が相互に依存しながら共存共栄しています。

多様な植生を持った森は年間を通して様々な木の実を結び木苺、猿梨と云った多様な奬果をも産します。これらの植物はリス、野兎、鹿、イノシシ等の草食・雑食野生哺乳類の直接の餌とりなます。

同時に、それらの植物に依存した多種多数の昆虫やクモ、ミミズその他無数の小動物を育み、>彼らは小鳥や齧歯類、狸狐等より上位の動物の餌ともなり複雑な森の生態系を構成します。

自然林とは言わなくとも、日本の人里の周辺に広がった里山もまた炊飯用の薪や柴を取り、飼料や田畑の肥にする大量の青草(下草)を刈り取るためのナラやクヌギ、樫といった落葉広葉樹の森でした。これらの木々は毎年多くの団栗を生産しますし、その下生えの植物も多彩でそこに暮らす動物達にも様々な食料をもたらしていました。

しかし戦後燃料が薪から石油等の化石燃料に変わり、薪の切り出しが行われなくなるにつれ、里山の多くが宅地に変わり、あるいは建材需要目当てで杉檜の単相林に変えられて行きます。

枝打ちされ、下生えの草木まで切り払われた貧相な杉檜の森では、多くの生き物の餌となる植物もなく木の実も実らず、杉や檜を餌とする極少数の生物以外は生活できずに、ほとんど生命を養うことがかないません。

この結果、多くの鳥や獣が生活の糧を奪われて山を追われて数を減らしました。更にお粗末なことは肝心の植えた木々も供給過多に陥って二束三文の値しかつかなくなり、手入れも出来ずに放置される誠に愚かしい次第となっています。

私の家も嘗て親が材木を扱っていたので自宅の持ち山は皆杉檜の密植林に変えてしまいました。櫟や楢の林が残っていれば適時に椎茸の原木などの切り出しもできキノコの栽培などを楽しむことも出来たわけですが、今や育っても伐採経費さえ出ないような山に変えてしまった愚かしさは誠に悲むべきことです。

杉檜の茂る森でも、伊勢神宮や滝原宮の森では樹高数十メートルに達する杉や檜の巨木が多彩な下層の下生え植物と共に複雑な生態系を形成しています。

これらの森は嘗てこの地方の平地であれば至る所に存在したであろう自然植生の古代の森の原型をとどめていると言われますが、その巨大な原木の価値も大変なものであろうと思います。

生態系が安定しておれば、杉や檜も樹高50~60mもある巨木に育ちえるのです。現在では一部の林業家の中には密植を改め鎮守の森を範とするような森の育成を図っている方もあると聞きますが殆どの植林帯では杉檜のみ単一に密植された森です。

落葉林に対する美意識

日本人は古来から落葉広葉樹の価値を認めて、巧みに農村の生活環境に組み込んで利用してきたわけですが、落葉広葉樹林の持つ美しさに対しては明治期に入って欧露の近代文学がもたらされるまで殆ど意識の外にあったそうです。

国木田独歩の"武蔵野 "には当時の日本人の美意識の対象が専ら松林に向けられており、武蔵野のような落葉広葉樹林の美は意識していなかったのではないかと書かれています(元来日本人はこれまで楢の類いの落葉林の美をあまり知らなかったようである。林といえばおもに松林のみが日本の文学美術の上に認められていて、歌にも楢林の奥で時雨を聞くというようなことは見あたらない。 "武蔵野 "より抜粋)

独歩自身、この種の林の美しさに気づいたのは二葉亭が翻訳したツルゲーネフの"あいびき "の中に描かれたロシアの樺林の描写の美しさをを読んでからだと述べています。

今思うと信じられないような話ですが、建国以来中国朝鮮の圧倒的な大陸文化にさらされて何かにつけて活字化された観念によって対象を捉えようとしてきた日本インテリの限界を感じさせるような話です。

確かに近世から江戸にかけての我が国の水墨画や襖絵を観ますと、当時の文人にとって、誰一人見たこともない、日本の風景とはおよそ縁遠い中国風山水画の仙境的世界(泰山や廬山、桂林、張家界等の風景をみると中国の画家は紛れもなく写実主義者でしたが)が多く描かれています。

日本には、そこに描かれた自然の光景に近い風景も殆ど存在しない訳で、中国の画家たちに依って写し取られた仙境的風景を絵画的美の理想として模倣したと考えられます。

ただ、明治以前の日本人の林に対する美意識がもっぱら松林にのみ向けられていたのではないかとの推察には疑問が湧きます。独歩の生きた時代には、現代のように華やかな出版文化も未だなく、国内の寺社や名家に保存されていた日本美術の数々を知りうる機会も少なかったはずです。

当時の独歩が、現在の私達が日常的に目にすることの出来る様々な日本美術の名品について見る機会を与えられていたのなら、また考えも変わったかもしれません。

絵画においても、古代より中国との交流の過程で沢山の書画がもたらされ、時には画工が渡来して大陸の技術を国内に伝えました。

平安時代にはこの様な大陸文化の影響のもとに日本独自の表現様式として大和絵と呼ばれる表現技法が開発され以降の屏風絵や襖絵に展開されてゆきます。

鎌倉時代以降武士が政権を握るに及んで、彼らの武家文化とよく調和したとみられる松の木の描写が室内の装飾に多用される様になり

また宋代以降の絵画を手本として国内でも水墨画から発展した山水画が描かれるようになります。当初は宋代、明代の写実的絵画の形式的な模倣に終始していましたが、徐々に日本の風土を独自の視点から写実的に捉えて表現出来るようになり、室町末期にポルトガルから対象に対して極めて精密な写実表現を旨とする西洋絵画の表現技法が伝わると、長谷川等伯のように従来の大和絵には見られない、写実性を前面に押し出した絵画が登場します。

この時期以降の日本美術には美しい落葉木の姿を描いたものが多く有ります。私は長谷川等伯の画が好きで等伯一門による楓図や桜図も

江戸中後期には渡辺崋山や伊藤若冲等絵画を通じてヨーロッパ写実主義の影響を色濃く受けた文化人達も多く、松林中心の単純な美意識だけで動いていたとは思えませんが大多数の日本人はそうであったのでしょう。

国宝《楓図壁貼付》 長谷川等伯筆 4面のうち2面 京都・智積院

松の文化は現在でも寺社の境内や城址、明治以前に造られた公園等に残されていますが観光地として多くの管理収入を得られる場所以外は樹齢数百年を経た巨松が何らかの原因で枯死してしまうと、それに替わる松も育たず、年とともに松が失われてゆく様です。

鈴鹿の山の山腹に霜が降り始めると木々の紅葉がはじまします。残念なことに私の散歩道の周囲には紅葉を鑑賞できるようなスポットが有りませんので、この時期になると安濃川上流の河内谷瀬の橋や御在所周辺の山を歩くことにしています。

もっとも国内の寺院に残されている日本古来の日本庭園など巧みに落葉木の紅葉を意識して作られていますし、藤堂藩の藩園であった津市の偕楽公園においても、春には桜とツツジが景観の中心となるように造られいて、松の美のみを中心に造形されているわけでもありませんし