花崗岩

私は子供時代を津城址のある津市の中心部丸の内地区より1キロ余り北に向かい、安濃川を挟んでその対岸に位置する栄町で過ごしました。

木造の三重県庁とコンクリート造りの県会議事堂が家の近くにあり、戦前から県庁勤めであった父親の通勤の便から借りていた小さな借家が自宅でありました。

当時は敗戦からまだ間もない頃で、安濃川以南の津市中心部は終戦間近の昭和20年7月数度に渡る米軍の空襲を受けてその大半が焼失した後でしたから、大きな建築物も殆ど見られず街全体が何処か寂しげな印象でした。

私が暮らしていた栄町と津市中心部の間は安濃川で隔てられていたため、空襲時は辛くも戦災を免れましたが、その安濃川に架かる塔世橋は、昭和10年に架け替えられたコンクリート橋で、欄干や親柱に美しい桜色の石材を使用した当時殆ど目立った建築物のない時代にはなかなか立派なものでした。

旧塔世橋の親柱と欄干の一部は新橋(平成四年架橋)に引き継がれている

親柱もただの柱ではなしに、その上部が放物線上の曲線を描く複雑なものでした。残念ながら親柱の石材は一部欠けており、柱の中に仕込まれていた照明やその周りの装飾金具は全て取り外されて柱の中ほどには四角い穴が開いたまま放置されていました。

これは母親の話によると、戦中の金属供出で取り外せそうな金物がみな外されてしまったからとのことで、我が家でも生活に直接必要としない金属・金物の類はほぼ強制的に供出させられて、大層不快な悲しい思いをしたと云う軍国主義時代のことです。

欄干の一部は橋の南詰でベンチに変わっている

それでも丸みを帯びて仕上げられた欄干の上部はツルツルに磨き上げられていて、当時三~四才だった私は、橋を渡るたびにその欄干に手を触れて石の冷ややかな滑々した感触を確かめながら歩くのがささやかな楽しみの一つでありました。

ただ石材の美しい桜色は橋の北側では強いのですが、橋を南へ渡って行く程にその色合いが消えて行き南側では桜色が殆ど失われた石材が多かった記憶があります。多分明治初期より地方行政の中心地三重県庁が橋の北側にありましたから美しい石材を主に北側に当てたのではないかと想像します。

この橋に使われていた石は、桃色のカリ長石(正長石)を多く含み桜御影と呼ばれる万成花崗岩で、石材の中でも特に美しいことで知られています。万成は岡山市内の地名で桃色の濃いカリ長石の御影石を産出します。

磨きをかけて欄干に加工された万成石は今も美しい色合いを保っている。カリ長石・桃色 斜長石・青みがかった白色 石英・紫ががった灰色 黒雲母・黒

岩質としては花崗岩と花崗閃緑岩の中間の岩石で白色鉱物としてカリ長石(薄紅色)・斜長石(白色)・石英をほぼ同じくらい含むようです。今思えばこの橋の石材は、私が石というものに興味を持った初めての対象ではなかったかと思います。その後成長するに連れて子供なりに活動範囲も広がり方々で様々な石材に出会いましたが塔世橋の石ほどに鮮やかな桜色を目にする機会はあまり有りませんでした。

この橋の南詰には旧勧業銀行支店の収蔵庫と思しき建物がありますが、この建物の四隅の柱と基礎石や土台の石積みにもにも桜御影に似た石が使われています。ただ基礎部分では石材のバラつきが大きく、中には発色の良い長石の比率がとても低い石もあります。

桜御影を使用した塔世橋南詰に立つ旧勧銀支店の倉庫(ではないかと思います?)

設計者が意図して石の材質を変えて石組みしたとも考えられるのですが、塔世橋でも石材のバラつきが結構あったことを考えると、発色の良い石材を大量に確保するのは難しかったのかもしれません。

この原因の一つは、三重県北部の鈴鹿山脈主稜線を覆う領家帯の花崗岩や閃緑岩は全体にアルカリ長石が少なくて石英や白色の斜長石に富む石が多く、発色の良いカリ長石を多く含んだ御影石の産地が近くに無かったからだと思います。

或いは、まだ経済発展に主眼を置いていた時代のことですから、遠方の産地から高価な石材を取り寄せて建材とするだけの余裕やゆとりがなかったのかもしれません。

自宅近くに建つ旧明村役場 (明村や、その役場については"私の町芸濃町林"に少し詳しい記載があります)

https://sites.google.com/site/geinoscenery/home/lin

面白いのは現在の私の住まいの近くに大正五年に建てられた旧河芸郡明村役場が在るのですが、この建物の基礎部分や出入口の階段部分にも桜御影の石材が使われていることです。

旧河芸郡明村役場とその基礎石の建材として使われている桜御影

桜色の色合いは今ひとつ薄い。磨きが掛かっていないためか表面が風化し始めている

多くの人が訪れる地方役場の基礎石部分を薄紅色の桜御影として建物の華やかさを引き立たせようとした設計者の意図がよく分かりますが、建物もその正面左の角を45°に切りとって玄関とした独特の形を取っており、建築物としても興味深いものです。

採光に配慮してガラス窓を大きく取り室内を白く塗りあげた内装は、役場を訪れる村人にとって大層立派に写ったと思われます

この明村役場役場は、後に大正浪漫と呼ばれる時代の雰囲気を都会から遠く離れた片田舎にも伝えようとしたかのように、当時はたいへんに洋風建築の要素が強い"ハイカラ"な建物であったそうで、現在津市の登録有形文化財となって保存が決まっています。

役場正面入口の前にある門柱も結構太い石柱でこちらにも御影石が使われています。建物の周囲には生け垣がありその区画にも花崗岩の低い石垣が組まれています。ただし此処に使われている御影石は一部に桜色が出ていますが多くはあまりカリ長石を含んでおらず、赤みを帯びて見えるものも斜長石が酸化して錆色に変色して色づいている様子です。

旧明村役場の門柱に使われている桜御影。桃色の発色は今ひとつで産地は不明です

建物の統一性から考えれば、この門柱や垣の石組み全てに華麗な桜御影を使用したいところですが、そうなっていないのは建物と垣の由来が別物なのかもしれません。またこのような目でこの門柱を眺めてみますと柱の上・中・下では質が異なり、何処かちぐはぐで取ってつけたような感じがしないでも有りません。

石積みに用いられているのはカリ長石の比率が低い花崗岩・花崗閃緑岩の様で、この辺りの河川でも転石として見られますから、どうやら近くの産地から集めたものではなかろうかと想像します。

ひと口に花崗岩と言っても含まれる鉱物の量比によってより細かく様々な種類にわけられます。斜長石よりアルカリ長石の量率が多いものを典型的な花崗岩と呼び、ほぼ同量なものはアダメロ岩(モンゾ花崗岩)と呼びますから櫻御影の万成石はアダメロ岩に当たります。

花崗岩類の簡便な分類図「金沢大学 岩石学講義 火成岩の分類と命名」より

アルカリ長石の量比が高い典型的な花崗岩は、中国やヨーロッパなどの大陸では普通に見られるそうですが日本国内では非常に少なく、国内の花崗岩の多くは斜長石の量比が高い花崗閃緑岩かアルカリ長石をほとんど含まない石英閃緑岩・閃緑岩が多いそうです。

逆にエクステリア専門店などで目にする中国産やヨーロッパ産の御影石には、大量のカリ長石を含み、その鉄分が赤く発色して赤御影と呼ばれるものまであります。

大陸産の紅御影 China granite

風化して錆色がでた黒雲母花崗岩(御在所山麓で拾った鈴鹿花崗岩)

日本の花崗岩も風化すると鉄分が酸化して赤く色づきますがすが(更に風化が進むとボロボロのマサ土になる)こちらは錆色が滲んでシミのようになり建材としては通用しません。

五万分の一地質図幅によると、この辺りで花崗岩を産出する鈴鹿山脈の場合は、古第三紀以降の地殻の構造運動に依って御在所山周辺の主稜線にかけて結晶粒度の大きい花崗岩体の最深部が露出している関係で、鈴鹿山脈中部には優白色の花崗岩の比率が高くなっています。

御在所山北面より崩落した黒雲母花崗岩が谷を埋める三滝川北谷

鈴鹿山脈から布引山地へと南部に下るにつれて花崗岩類は花崗閃緑岩から閃緑岩が多くなりますが、むしろ南部のほうが日本の一般的な花崗岩類の姿であるようです。

先の分類図では分かりませんが、火成岩に含まれる無色鉱物(石英・長石)と有色鉱物(カンラン石・輝石・角閃石・黒雲母)の体積比率%(量比)による分類法に色指数と云うのがあります。

花崗岩の様に白っぽい石は有色物質の割合が低いので色指数が低く、閃緑岩のように黒雲母や角閃石を多く含む石は色指数が高くなります。石を見たときの大まかな色合い・白いか黒いかによっておおまかに石を分類できますから大変便利なものです。

以下の写真は全て鈴鹿山脈中南部の地域で拾ったものです。一般的に北部の御在所山近辺では優白色の花崗岩類が多く、南部に至るに連れて優黒色の閃緑岩類が多く見られる傾向にあります。

大変優白部の多い白雲母黒雲母花崗岩(アプライト質) 多分色指数5以下でしょう

一般的な黒雲母花崗岩。石英・カリ長石・斜長石の比率は当量位でしょうか。色指数10前後

同じく黒雲母花崗岩ですがカリ長石の比率が高いものです

花崗岩と閃緑岩の中間的な組成 黒雲母花崗閃緑岩

色指数30~40 黒雲母含有角閃石閃緑岩

色指数50以上 角閃石斑レイ岩と思います。輝石が入っているかも

色指数は研究者に依って若干数値が異なりますが、概ね有色鉱物の量比(%)0~15を酸性岩(花崗岩) 15~35を中性岩(閃緑岩) 35~70を塩基性岩(斑レイ岩) 70以上を超塩基性岩(カンラン岩)と見るようです。

火成岩の色指数の測定は、結晶粒に比べて十分に大きい岩石の断面に現れる有色鉱物の面積%に等しくなるため、見た目の色の濃さで判断しても大まかな岩種の区別ができます。

例えば先に上げた旧明村役場の直ぐ北側の明小学校校門脇には、学校の創立100周年を記念した黒光りのする立派な記念碑が建てられています。この記念碑は外国産の石材のようで、火成岩ですから見た目の色指数から判断すると斑レイ岩の範疇に入ります。

遠目には真っ黒に見えますが近寄ってみるとカリ長石も結構入っています。色指数60~70

表面写真の感じからは有色鉱物は角閃石の多い斑レイ岩でしょうか?もっとも断面の色の濃さで色指数の判断ができるのは斑レイ岩当たりまでで、超塩基性岩になるとカンラン石の比率が多くなり、新鮮なカンラン石は透明感のあるオリーブ色ですからその色はむしろ明るくなります。

ハワイのサウスポイントには、Papakolea Green Sand Beachと呼ぶ場所がありますが、ここの砂は過去に噴火したカンラン石を大量に含む玄武岩が風化してオリーブ色のカンラン石が分離して堆積したもので、ビーチ全体がくすんだ緑色をしているそうです。

宝飾店の指輪にデザインされたPapakolea Green Sand (http://bentwoodjewelrydesigns.com/products/bentwood-rings-santos-rosewood-wood-ring-with-charoite-stone-inlay)

ただ最初の花崗岩から斑レイ岩までは、この辺りでも身近に見ることが出来ますが、最後の超塩基性岩になると地殻の構成岩と言うより上部マントルを構成する岩石ですからかなり特殊な状況でないと地殻表層には姿を見せません。

一般に超塩基性岩が地表で見られるのは、地殻の構造運動で海洋地殻が大陸地殻に衝突した際、沈み込まずに突き上げてしまいマントル上層から海洋地殻の基底部が地上に露出する場合で、日高山脈の一帯がこれに当たります。

このような場所では、オフィオライトと呼ぶマントル構成岩から海洋地殻上層部の岩石まで連続した層を地表で観察できます。国内でも幌加内(ほろかない)・幌尻(ぽろしり)・夜久野(やくの)の三箇所で完全なオフィオライト層が存在しますが、不完全なものは各地に点在しています。

また先に述べたハワイや伊豆の様に、海底火山の活動によって造られた地殻は、海洋底深部にあるマントル上層部が減圧溶融して出来たマグマが地表に噴出するため、上部マントルを構成する超塩基性の物質が直接地表に現れます。このためグリーンサンドビーチの様に大量のカンラン石がグリーンの砂となって堆積する場所も生じるわけです。

黒瀬川帯

三重県でも鳥羽の安楽島から志摩の五ヶ所湾にかけて黒瀬川構造帯と呼ぶ極めて特殊な地質帯が分布していて、蛇紋岩に伴って超塩基性岩(カンラン岩)を見ることが出来ます。ただしカンラン岩は地殻表層にまで達する過程で水分と反応して蛇紋岩化しており新鮮なカンラン岩(ダナイト)は殆ど見つかりません。

この一帯は、時間的にも空間的にもその成因もかけ離れた種々雑多な岩石が蛇紋岩帯に取り込まれて複雑に混在している場所で、県下で唯一中生代前期白亜紀の恐竜化石(竜脚類・ティタノサウルス類)が見つかった松尾層群も此処にあります。

黒瀬川構造帯の形成過程は、先のオフィオライトに比べると遥かに複雑な様で、沈み込み帯深部で加水反応によりマントルカンラン石が蛇紋岩化して地殻境界を上昇し、その過程で沈み込み帯上盤側に存在した付加体や下部地殻構成岩を捕獲。

更に数千万年といった時間間隔で地殻が大規模な構造侵食を受けて、本来の誕生場所から遠くかけ離れた様々な種類の岩石がベニオフ面で蛇紋岩帯に捕捉され混在化して現在地上に姿を見せているとのことです。

黒瀬川帯や蛇紋岩メランジュの形成については地学雑誌の特集号 「日本列島形成史と次世代パラダイム(Part I~Ⅲ)」の中に幾つも詳しい記載があります。

日本列島の大陸地殻は成長したのか?

日本列島の地体構造区分再訪

黒瀬川構造帯のような不思議な地質体が存在し得ること自体この地球の奥深さを思わずにはいられません。

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