以前滋賀県東部に広く分布する湖東流紋岩について、少し書いたのですが私が暮らしている地域(三重北部の南の外れ・津市芸濃町)周辺の記載がないのは寂しいので、自宅周辺の火山岩についてまとめてみました。
本州でも愛知県以西の県は山口・島根を除けばみな現在は活火山がない県(滋賀の火山岩・参照)ですが、過去の火山活動とそれに伴う痕跡は今日でも、地上の石に残されているので地域の河川の転石を調べると過去の火山岩を見つけることができます。
火山活動と共に外部に放出される物質を火山噴出物と呼びますが、火山噴出物は火山活動の状況に応じて様々な形態を取ります。噴火が始まると噴煙には火山岩塊・火山礫・火山灰等の降下火砕物と大気中に拡散する火山ガスが含まれます。火口からは溶岩流や火砕流が山麓に流れ出ます。温泉地帯でよく見られるように、噴火がなくとも亜硫酸ガスなどの火山ガスを絶えず山麓に放出している場合もあります。
東近江の永源寺から多賀大社にかけての一帯は白亜紀後期に活動した巨大カルデラ火山の火砕流堆積物で覆われている。上の写真は永源寺境内を覆う萱原溶結凝灰岩。
淡いピンクの地域は現存する湖東流紋岩類の大規模火砕流堆積物。近江盆地を取り巻く様にカルデラ壁に沿って花崗岩帯の隆起がある。その周辺には火道に沿って上昇固結した湖東流紋岩類の貫入岩が多く分布する
湖東流紋岩類 : 鈴鹿山脈の近江側には9000万年前前後に当時地表に露出していた古生代・中生代の地殻を覆い尽くす様に湖東流紋岩類のカルデラ噴火が起こり、噴出物は当時のカルデラ壁に位置すると考えられている現在の鈴鹿山脈・比叡山・比良山を結ぶカルデラ円周内部を埋め尽くしたと見られています。カルデラ堆積物の一部は今日でも近江盆地に広く分布しており、当然その外周部、今日の鈴鹿山脈の三重県側にも夥しい火砕岩の堆積をもたらしたと想像されます。
降下火砕物は堆積して固結するとその多くは凝灰岩や溶結凝灰岩と呼ばれるようになります。噴火によって一旦火口や山腹に堆積した火山噴出物が土石流や雨水の侵食によって麓に流出し低地や海中に再堆積した火砕流堆積物や凝灰質堆積物も火山噴出物の一種です。火砕流堆積物も一部は内部の熱によって溶解し溶結凝灰岩となり、これらは多年のうちに固結して石化すると火山岩と呼ばれます。
先に述べた写真は西連寺川沿いの香落渓。三重県中北部・名張から奈良県 曽爾・室生一帯を覆う中新世の火砕流堆積物。県下に残る最大の火山堆積物の一つで給源は大台・大峯山系に存在したカルデラ火山と見られその堆積物の痕跡はは大阪の近隣にまで及んでいる。
一般に火山岩とは火口から流れ出た溶岩、気中に放出さた火山灰等の火山噴出物及びこれらが堆積固結した火砕岩を指しますが、火山の火道に沿って上昇途中で固結した脈岩も河原などの転石では溶岩との識別が難しいので火山岩と見做します。
湖東流紋岩類でも犬上花崗斑岩、猪鼻トーナル岩、青土トーナル岩等は深成岩と火山岩の中間的な岩相をもち火道の上部で固結したと見られる石も多く、時には火砕岩との区別の難しいことがあります。
津市楠原西方の西行谷累層露頭、鮮新世の扇状地堆積物と考えられ、凝灰質砂岩層中に多数の火山岩を含む。数度の堆積、風化摩耗を経た凝灰岩から火砕流堆積岩、溶結凝灰岩まで様々な種類が見られる
西行谷累層の火山岩。左の凝灰岩から右上の火砕流岩、右下の溶結凝灰岩まで様々。中央上の石は熱変成を受けて再結晶化が進んでいる
これらの石を集める最も手っ取り早い方法は、その地域の河川の転石を調べることです。川は山頂の分水嶺より、その山地の地殻を深く削り取り、その流域の地殻の水平方向・垂直方向に渡って剥落した石を下流にあつめてくれるため、河川の転石を調べると、上流水域全般に渡っての地質を探ることができます。
先の写真に上げた西行谷塁層のように、扇状地の堆積物を調べることも後背地の河川から大量の石が供給されて堆積していますから、堆積当時の後背地の地殻を知るには極めて有効な手段となります。
三重県北中部の主要河川図。一級河川の鈴鹿川は、朝明川・内部川・安楽川・御幣川・加太川等多くの支流を持つ
私は山歩きを趣味の 一つとしているため、鈴鹿や布引の山に登った折々、上流の谷や下流の河川で休憩しつつ、周りの転石を幾つか持ち帰ることも楽しみの一つでありました。今回は過去数十年間そのようにして持ち帰った石ころを元に、三重県北部・鈴鹿山脈中南部で自宅近辺の以下6つの場所について火山岩をまとめてみました。
また三重の中部・一志の一帯には2000万年前前後日本海拡大期に活動した瀬戸内火山岩類に属する堆積層が、三重の中西部・名張周辺には中新世1400万年前前後に大峯・大台一帯の巨大火山より噴出堆積したと見られている夥しい量の室生火砕流堆積物が存在しますが今回は取り上げていません。
1:朝明川 根の平峠
2:内部川 水沢峠
3:安楽川 (安楽川・御幣川)
4:鈴鹿川
5:安濃川
6:楠原採石場
以上の河川の後背地について、国土地理院の五万分の一地質図、津西部・亀山・御在所山でその地質を見てみますと、ほぼ共通して花崗岩と古・中生代の付加体で占められ、上に上げた河川には付加体に含まれる玄武岩以外には火山岩と呼べる岩体が無いように見えます。しかし実際には、どの地域にも上記の岩体に貫入する火山岩脈が存在しており、各河川では火山岩を見ることが出来るものです。
そこでこれらの河川流域や堆積地から火山岩とおぼしき石を採集して集めてみました。この地域において最古の火山岩は、古期付加体に混在する海底火山起源の溶岩・玄武岩で二億年以上も前のものです。
彼らは遥かな昔に海洋底で生れ数千万年の時を掛けて大陸縁に沈み込んだ後、更に一億年以上の歳月をかけて今日地表にもたらされたもので、その変遷の過程で幾多の熱変成を受け緑色岩と呼ばれる暗緑色の石に変わっています。
上は花崗岩転石中に混在する付加体緑色岩の転石。玄武岩が熱変成したもので針状角閃石や緑泥石、緑簾石など緑色の鉱物を多く含む
玄武岩以外にも、花崗岩が固結した白亜紀後期から古第三紀にかけて、花崗岩中に岩脈として貫入した火山岩や湖東流紋岩所縁の火砕岩も混じります。緑色の火山岩は玄武岩でなくとも安山岩やディサイト、流紋岩質の火山岩でも熱水や圧力で鉱物が緑色に見える鉱物に変質して岩体が緑を帯びるもの多く、日本海拡大期に日本海側を中心に広く噴出したグリーンタフが有名です。
湖東流紋岩類は滋賀県側にのみ大規模な火砕流堆積物が残されていますが三重県側では火砕岩の岩盤は知られていません。しかしそこからの二次的な礫の堆積が今日も新生代の堆積層中に残されている様子で、河川の中の転石にみつかります。
1:朝明川は鈴鹿山脈北中部、御在所山北部の国見岳と釈迦ヶ岳一帯を水源として伊勢湾に下ります。その源流域は鈴鹿山脈の中でも最も花崗岩の結晶粒度が高く花崗岩の固結最深部とみられる場所です。根の平峠を東に下った朝明川出会い付近の沢沿いに緑色岩脈の層が存在し、そこからの転石と見られる石を沢の下流の朝明川・伊勢谷で拾っています。上流部の地質体はほぼ全て中粒~粗粒の黒雲母花崗岩です
写真上は朝明渓谷・猫谷側の河床。根の平峠へと続く伊勢谷はこの地点の手前で分流する。下は伊勢谷上流部で、二つの谷の上流域の地質は共通している
根の平峠側、伊勢谷河床の転石。白色系の黒雲母花崗岩に交じって灰綠色の火山岩が点在する。石基中に白色鉱物と有色鉱物の斑晶を含み、稀に異質な挟財物も見られるが現岩が花崗岩帯に貫入状態で存在するところから脈岩とみなされる
緑色岩脈に沿って小沢が地殻を刻む。周囲の花崗岩より脆いのだろう
この谷の最上部に近い分水嶺根の平峠の東の小沢に緑色岩脈が見られ、上の転石は主にその沢から排出されたものと思われます。見かけ閃緑岩の様ですがガラス質の石基中に斑晶をもつ石英斑岩で流紋岩に近い様です。
朝明川・伊勢谷から持ち帰ったのは上の写真の緑色岩3個です。左上aと右の石bはほぼ同じような結晶粒度で溶結凝灰岩を思わせますが、左下の石cは表面に濃い緑の艶があり蛇紋岩のような感じです。
上は3つの石を薄片にするためガラスに貼り付けたところ。持ち帰った石が小さいため、2つの切片を組み合わせて一枚のガラス板に貼り付けている。aは写真左。bは写真右の左半分、cは写真右の右半分です。
研磨してみて驚いたのはCの石は完晶質で石基が見られず、結晶粒度も高くて結晶はほとんどが石英と長石、これではまるで花崗岩です。艶やかな緑色を出していた鉱物は何処へ行ってしまったのでしょう。他の2つは明らかに珪長質の脈岩もしくは溶結凝灰岩の様子です。以下薄片写真を掲載します。全体に研磨が甘いため石英が黄色く見えますが全て左がクロスニコル、右がオープンニコルです。
まずはaの石。以下の画像のサイズは長辺6mmX短辺4mmです
次はbの石。こちらも見かけからaと同じように思われますが、貼付け以降の作業が悪くお粗末な薄片となってしまいました。
以下の薄片の画像のサイズは長辺6mmX短辺4mmです
剥離のため研磨不足となって溶融石英が高い干渉色を出している。長石その他の鉱物は変質が激しく結晶片の大きさもバラバラ
やはりこの石は溶融石英と変質鉱物で埋まっており、石基や凝集した不透明鉱物もaと同じような見かけでこれらの石は等しい源岩から分かれたものだと思われます。
最後はCの石。下は石の表面写真と研磨面の拡大写真ですが、これで見る限り左のサンプル表面で濃緑~綠黄色を放っていた鉱物は殆ど見られず、灰白の石英と白色の長石の他は僅かに緑色を帯びた部分が存在するだけです。
以下の薄片の画像のサイズは長辺6mmX短辺4mmです
薄片では右・オープンニコルで白く透過するのが石英で、茶色く汚れて見えるのが長石ですがその多くは変質が進んでいます。XPLの干渉色は出ていませんが一部に緑簾石や褐簾石が見せるスダレ様の縞が強く見られるので緑色鉱物の一部として存在していた様子です。
結局この石は、見かけは先の石と似た緑色岩ですが火山岩ではなく、完晶質の珪長質岩が変成したもののようです。緑色鉱物がすべて長石から変成したとも思えないのでペグマタイトに近い部分であったのかもしれませんが私の知識では不明です。
先の2つは、私には脈岩より溶結凝灰岩のように思われます。石を拾った場所は鈴鹿花崗岩の分布域で火砕岩は気中に噴出して地表に堆積するため地下にマグマとして存在した鈴鹿花崗岩の表面に堆積することはありえず、本来なら鈴鹿山脈の県境稜線より東、三重県側河川の分水嶺より下流の鈴鹿花崗岩分布域には湖東流紋岩類の火砕流岩は存在し得ないことになります。
しかし火砕岩堆積当時その下位に存在した古期地殻の上に堆積した火砕岩が、鈴鹿花崗岩隆起後も浸食を免れて稜線上にとり残され、今日も山脈斜面に小規模な異質岩塊として2次堆積していた可能性があり、そこから砕屑された石と見做せないこともありません。
2:内部川は鈴鹿山脈南部を源流として東に下り、伊勢湾に出る手前でで鈴鹿川に合流します。内部川の上流部は宮妻峡となり宮妻キャンプ場の周辺では中生代の付加体が地殻を構成しています。
内部川上流域の宮妻峡キャンプ場の西部。この辺りはまだ中生代の砂岩・泥岩・チャートなどからなる付加体が地表を覆う
宮妻林道がカズラ谷 ( 鎌ヶ岳登山口 ) を渡り砂利ヶ谷を超える辺りから基盤岩は花崗岩へと変わり谷の転石も白色の花崗岩となる
水沢峠に至る登山道は、内部川の源流域で麓からほぼ真っ直ぐ山腹を西に辿り、山腹より下る小沢を幾つも横切って峠へと進みますが、登るにしたがって沢にはピンクの石英を含んだ花崗岩の転石に交じって緑色岩が目につくようになります。
一般に緑色岩は古期玄武岩の変成岩を指しますが、鈴鹿山脈で脈岩として見られるものの多くは流紋岩からディサイト質の石のようです
緑色岩転石の沢には緑色岩脈が露出している部分があり、その産状から転石は花崗岩固結時に花崗岩中に貫入した脈岩と見られますが、中には山陵部に取り残された古期地殻上に堆積していた火砕岩からのものもあるかもしれません。
2-1:最初の転石は水沢峠への登山道で峠の一つ手前の沢の転石。表面は風化して茶色に変色しているが研磨面は灰青綠色となります。石英の斑晶が多くみられる所は朝明川の石とよく似ています。
以下3枚の薄片写真は長辺7mmX短辺5mmです。照明の不備のため右上が部分的に明るく写ります
薄片を見ても溶融石英以外の鉱物はほぼ全て変質しており、大小雑多な結晶が無秩序に分布すること、不透明鉱物の分布分布等朝明川のものと共通しています。
以下はPLAN 5 による拡大写真で長辺3.5mmX短辺2.5mmです
拡大するとさらに良く分かりますが、長石は殆ど原型を留めぬまでに粘土鉱物へと変わり、過去には輝石、角閃石と思しき鉱物もみな著しく変質していて石の経てきた歳月の重みを感じます。
2-2: 次も同じ沢ですが石の変色が少ない灰青色の転石です。光線の具合も有りますが左のサンプル写真では上の石は少し岩種が異なるような印象を与えます。薄片は左端のサンプルです
以下はPLAN 5 による拡大写真で長辺3.5mmX短辺2.5mmです
これまでの石に比べると斜長石の結晶が良く原型を保っていて石英とほぼおなしくらいの割合で見つかります。また不透明鉱物へ変質している比率も高く源岩の組成の違いを感じます。
2-3:次は水沢峠直下の沢の転石。登山道はこの沢を登りきると峠へと進みます。
火山岩の多くは、サンプルの見かけの色合いや形状は異なっても、内部を研磨するとどれもほほ似たような灰青色の色合いを出すようになります。
以下3枚の薄片は、ほぼ長辺7mmX短辺5mmです。照明の不備のため右上が部分的に明るく写ります
上の薄片の石基部分には堆積時の流動痕の様な模様が見られ、この石は火砕流堆積物の溶結凝灰岩だと判断します。
以下はPLAN 5 による拡大写真で長辺3.5mmX短辺2.5mmです
2-4:次の石は、峠直下の谷の最上部右岸に露出している火山岩塊から割り取ったものです。露出面は見るからに風化し変質した感が強い露頭ですが、割って見ると断面は灰青色です。
溶融した石英と略原形を留めないまでに変質した大小雑多な鉱物の集合は、先の石と同様に火砕岩を思わせます。
以下2枚の薄片は、ほぼ長辺7mmX短辺5mmです。照明の不備のため右上が部分的に明るく写ります。
以下はPLAN 5 による拡大写真で長辺3.5mmX短辺2.5mmです
これまでのサンプルに比べると緑泥石や緑簾石等の緑色鉱物が多く認められます。
2-5:最後は4から少し離れた同じく谷の最上部右岸の露岩から取ったものです。ただしこちらは見た目にほとんど斑晶を含まず玄武岩を思わせる均質な感じの石です
上の薄片の透過写真を見ると良くわかりますが内部に異質岩片の混在を思わせる部分があります。薄片写真を見ると一目瞭然で、こちらは溶結凝灰岩と見立てたこれまでの石とは全く異なり石基も完晶質の玄武岩ですが、その内部に結晶粒度の粗い異質部分があるのが面白いところです。
以下2枚の薄片は、ほぼ長辺7mmX短辺5mmです。照明の不備のため右上が部分的に明るく写ります。
拡大してみると異質部も他の石基部と同じ組成で主に針状角閃石と斜長石の結晶で構成されているようです。明瞭な双晶を見せる単斜輝石も見つかります。暗青色の偏光色を見せる10mm以上の円形結晶がありますがこれは沸石でしょうか?
以下はPLAN 5 による拡大写真で長辺3.5mmX短辺2.5mmです
このような玄武岩は岩脈として花崗岩固結後に花崗岩中に貫入したものかあるいは、鈴鹿花崗岩隆起前に表層地殻を覆っていた古期地殻の一部が稜線部にクリッペとして残されたものかのいずれかです。
古期地殻は鈴鹿花崗岩の隆起とともに持ち上げられ、風化砕屑されて鈴鹿山脈の稜線部からは削除されたはずの存在なのですが、現在も稜線部を中心に僅かな岩体が転石として残された可能性は十分あります。
本来古期地殻の上層部を覆ったはずの湖東流紋岩類の火砕岩礫は、先に上げた小山塁層のように今でも鈴鹿山脈の三重県側で大量に見つかりますから水沢峠の稜線部に玄武岩が存在したとしてもなんら不思議はありません。
3:安楽川 (安楽川・御幣川) 安楽川は内部川の南部に位置し、同じく鈴鹿川の支流の一つで鈴鹿市井田川の辺りで鈴鹿川へと合流します。安楽川は安楽橋下流で御幣川を支流として橋の上流では八島川を支流とします。
鈴鹿山脈稜線からは直線距離でも10km以上離れているため、鈴鹿花崗岩から古期地殻、その後に堆積した新生代地殻をも広く開析して転石を集めてくるため、様々な種類の石が混じり色んな火山岩も見つかります。
御幣川を分流する安楽橋と下流の能褒野橋の辺りは河川の合流域で川幅が一気に広がり、河床は多数の転石で覆われる。
御幣川上流・小岐須渓谷の景勝地・屏風岩。御幣川が古期石灰岩を浸食して出来たU字谷。河床には石灰岩や花崗岩に交じって緑色岩や火山岩も交じる。
安楽川の支流・御幣川は山間部に至って小岐須渓谷となり、その上流域を水源とします。小岐須渓谷周辺は古生代から中生代の付加体で覆われており、屏風岩は古生代の環礁性石灰岩が侵食されたものです。石灰岩に伴ってその基盤となった玄武岩なども緑色岩の転石となります。
分水嶺となる源流域は県境稜線上に隆起した鈴鹿花崗岩の露頭へと変わります。花崗岩や古紀の地殻に貫入した脈岩も転石となって存在しています。
上写真は安楽橋と下流の能褒野橋の辺りで拾った火山岩とみられる転石。表面は酸化して茶褐色に変色している。
安楽川上流域と南の鈴鹿川上流域に挟まれた雨引山から明星ヶ岳の一帯には閃緑岩・斑糲岩の露頭が存在し、五万分の一地質図幅・亀山にはランブロファイアーやアルカリ玄武岩の塩基性岩脈や石英ひん岩の存在が記載されており、これらからの転石の存在も考えられます。
3-1安楽橋下流の転石です。酸化した褐色の転石表面から中心部へと進むに従い石基が暗緑色に変わり火山岩の色合いを見せるようになります。下右の研磨面を見ると泥岩と見られる黒色の遺失岩片が多数混在しています。
この標本は薄片製作を始めた最初に作ったものの一つですが、岩質が薄片に会っていたようで思いの外綺麗に仕上がっています。研磨面では緑黄色を呈していた石基部分は殆ど光を透過せずオープンニコルでは褐色に写ります。
以下4枚はPLAN2/0.05 による拡大写真で長辺6mmX短辺4mmです
石英は再熱溶融を受けておらず噴火によって破断した鋭角の形状を示し石基には流動痕の様な模様の残る火砕岩です。多分湖東流紋岩噴出の際、三重県側に流れ込んで固結した火砕流流堆積物に由来する礫と見られます。
3-2安楽橋下流の転石です。酸化して茶褐色に変わっていますが、やはり研磨面は灰緑色となります。下左のサンプル写真からもわかりますが火砕流が堆積し圧縮された様子が伺えます。
以下4枚はPLAN2/0.05 による拡大写真で長辺6mmX短辺4mmです
不透明な石基の周囲は砕屑された大小の変質鉱物で埋まっており、変質を免れている石英も細かく砕かれています。このような状態から見てこの石も3-1同様に火砕岩と思われます。
3-3最後も安楽橋下流です能褒野橋直前の転石です。こちらは研磨面も灰褐色をしています。初期製作薄片の一つで接着が悪く接着剤のムラがある様子です。薄片にも結晶の剥離欠落がいくつも見られあまり良い出来ではありません。
上の研磨面の写真からも斜め方向に堆積したような縞が認められますし、薄片写真で縦長の結晶の配列からも石基部分の流動が感じられ先の2つの石と同じ火砕流岩と思われます。
以下3枚はPLAN2/0.05 による拡大写真で長辺6mmX短辺4mmです
このような火砕岩の源岩は、果たしてどこに由来するものか。安楽川上流域には礫岩層を含む中新世から鮮新世に至る堆積層が広範に分布しており、これらの堆積層が開析されて安楽川下流域へ二次的に堆積したと思われます。
湖東流紋岩類の噴出は9000万年も以前の話ですから、当時堆積した火砕岩がどれほどの広がりを持っていたものか想像するのも困難です。何しろ日本海が拡大して日本の地殻が大陸から切り離され日本列島として誕生した1600万年前の出来事でさえその全貌は未だ明確にされていませんから、湖東流紋岩類の堆積以降地殻の変遷がどのようなものであったのかは闇の中の出来事であり、中新世の頃
3-4小岐須渓谷・屏風岩手前、山腹より崩落してきた荻須林道沿いの転石です。
この辺りの林道沿いは、中生代の付加体が地殻表層を覆っており石灰岩や砂泥質岩源フォルンフェルスが目立つばし夜でこの石も、一見泥質フォルンフェルス様でしたが破断面を見ると粗面玄武岩のようです
薄片では石基はほぼ完晶質で微小な斜長石と針状角閃石。有色鉱物も変成して石基よりは結晶粒度の高い角閃石属や粘土鉱物に変わっている。
3-5小岐須渓谷・屏風岩下流の谷の転石です。見た目にはいかにも緑色岩と云った印象を与えます。石灰岩とともに付加した古期地殻の一部でしょうか
ところが研磨してみると存外に結晶粒度が高く、玄武岩よりも閃緑岩に近い様子。絶えず感じることですが、石の中身は見かけと違うものです。
薄片は鮮やかな偏光の角閃石族と双晶も鮮やかな斜長石の新鮮な結晶からなり、これまでの変質鉱物の多い石とは全く異なった顔を見せました。
以下2枚の薄片は、ほぼ長辺7mmX短辺5mmです。照明の不備のため右上が部分的に明るく写ります。
以下5枚はPLAN2/0.05 による拡大写真で長辺6mmX短辺4mmです
角閃石は劈開見本のように鮮明な劈開を見せる黄色っぽい普通角閃石とより鮮やかな偏光を放つアクチノ閃石が混在しています。長石も変質は僅かな様子で閃緑岩の見本のような標本になりました。
無論深成岩で、主題の火山岩ではありませんが、外観の類似と変質の少ない結晶に見せられてここに挙げておきます。
3-6これも小岐須渓谷・屏風岩下流の谷の転石です。石灰岩の多い場所ですが、玄武岩の付加した様な露頭は見られずこの石は砂質ホルンフェルスのような印象を与えました
研磨面は石灰岩の様な印象ですが薄片に削ってみると鮮やかな緑色と斜長石の長形の結晶が浮き上がります。
以下5枚はPLAN2/0.05 による拡大写真で長辺6mmX短辺4mmです
微細結晶からなる石基は、この石が火山岩に類する石であったと思わせますが、斜長石以外の鉱物は変質してほとんど原型を留めません。拡大すると斜長石や角閃石、輝石が様々な鉱物の微晶集合で置換されていく様子が分かります。
以下7枚はPLAN 5 による拡大写真で長辺3.5mmX短辺2.5mmです
もはやこの辺りの鉱物の変質は、元の鉱物が何であったのかすら分からない。有色鉱物はほぼ全て角閃石族・雲母類、緑泥石、緑簾石等に置換されている様子。研磨の仕上げが悪く写真がにじんだ感じになってしまった。
斜長石も周囲から粘土鉱物や針状結晶に置換していく様子が見られます。現岩は3-5の様な閃緑岩であったかもしれませんが、変質の程度の大きさは、石の経てきた歴史の違いを感じさせます。
あるいはこの石は屏風岩の石灰岩同様古期地殻に属するもので数億年の歴史を持って私の手元にやってきたものかもしれません。
3-7これも小岐須渓谷・屏風岩下流の谷の転石です。火山岩とは言えない石が続いたので次は明確な火山岩を取り上げます。火山岩が見つかりにくい訳ではなく、下の写真のように結構色んな種類を拾えるのですが、面白そうな石を選んでしまうのです。
屏風岩の転石として最後に取り上げるのは上の真ん中の、いかにも流紋岩質と思える白色の火山岩で、一昔前は石英斑岩と呼ばれていたものです。
大きな石英斑晶を取り囲んで大小雑多な鉱物結晶で埋まり、サンプルでは石基様に見える部分も様々な微細結晶の集まりです。
以下6枚はPLAN2/0.05 による拡大写真で長辺6mmX短辺4mmです
湖東流紋岩類の犬神花崗斑岩や青土トーナル岩にこれと似た岩相を持つ石があります。多分鈴鹿山脈の三重県側で湖東流紋岩類の礫を堆積した部分からの転石だろうと思われます。
五万分の一地質図幅・亀山では入道ヶ岳西方の仏峠一帯に湖東流紋岩礫を含む砂礫層・仏峠層の存在が記載されており或いはそこからのものかもしれません。
宮指路岳西の仏峠・県境稜線上の礫層。チャートや砂泥質ホルンフェルス等古期地殻に由来する礫や湖東流紋岩類に由来すると見られる礫が散乱する。下写真は凝灰岩様の転石
これらの礫層は鈴鹿花崗岩隆起前に地表を覆っていた古期地殻や湖東流紋岩類が砕屑され河川や扇状地に堆積したものが山脈隆起後、山頂稜線部に取り残されたものとみられ、鈴鹿山脈南部の御所平から北部君ヶ畑の宮坂峠まで山頂部分に点々と残されていて、五万分の一地質図幅・御在所山に記載されています。
3-8御幣川の最後、上流部仙ヶ岳登山口の脇にある砂防堰堤の転石です。見かけ火山岩の様子でしたが長石の大きな斑晶をもつ完晶質の石で3-7とよく似ていますが石英より長石の巨晶が目立ちます。
以下2枚の薄片は、ほぼ長辺7mmX短辺5mmです。
石基部分は大小不揃いな結晶で埋まっており、脈岩として湖東流紋岩類の後期に固結した花崗斑岩やトーナル斑岩の仲間ではないかと見られます。
4:鈴鹿川は鈴鹿山脈南端と布引山脈北端を源流とし、両山地の境界を東に向かい伊勢湾に注ぐ三重県中北部では最大級の一級河川で、途中で加太川・八島川・安楽川・内部川等多くの支流を合流します。
亀山市関町・勧進橋上流の鈴鹿川。上流域の地質を反映して花崗岩、閃緑岩、泥岩、砂岩等様々な石が見つかるが、よく見ると火山岩も結構交じっている
転石の採集点は加太川合流点の下流。安楽川・内部川は採集場所の遥か下流です。最上流部・加太川の地質体は古生代の弱変成付加体。下るに従い加太花崗閃緑岩類が多くを占める様になります。加太盆地から鈴鹿峠の東面にかけて鈴鹿層群及び東海層群の中新世から更新世堆積物も混在します。
4-1亀山大橋下流、神辺小学校前の転石です。鈴鹿川本流若しくは加太川から流下するようですが岩脈の位置は分かりません。
玄武岩様の石基中に斜長石とみられる白い斑晶を多数含み粗面玄武岩のような感じです。研磨面と薄片透過写真からは石英の存在は見当たりません。
以下2枚の薄片は、ほぼ長辺7mmX短辺5mmです。
玄武岩様の微細結晶からなる石基中に斜長石と単斜輝石の斑晶を多く含み粗面玄武岩~玄武岩質安山岩の様です。
以下7枚はPLAN 5 による拡大写真で長辺3.5mmX短辺2.5mmです
拡大すると単斜輝石が綺麗な双晶を見せてくれますが、鈴鹿の山では輝石を含む石は僅かですからこの様な石は珍しいと言えます。鉱物の一部は緑色の緑泥石に変わっていますが全体に新鮮な鉱物が多く良いサンプルでしょう。
4-2 同じく亀山大橋下流、神辺小学校前の転石。長石の大きな結晶の目立つ石で転石の表面は暗緑色ですが断面は灰青色です。
石英以外の鉱物は変質が進み、完晶質の石基も再結晶化が進んでいるようです。光量の変化でカメラのホワイトバランスが変化して石基の色合いが変動してしまい、色合を鉱物判定の大きな拠り所となる偏光観察では厄介なことです。
以下6枚はPLAN2/0.05 による拡大写真で長辺6mmX短辺4mmです
4-3 最後は加太川合流点の2kmほど下流、関消防分署前の転石です。鈴鹿川上流域は、山脈の北中部に分布する鈴鹿花崗岩と共に、布引山系北端に分布する加太花崗閃緑岩の分布域でもあり火山岩脈の組成変化の幅も広がります。
転石の火山岩にはほぼ共通して白色鉱物の大型斑晶を含み、以前は石英斑岩と呼ばれていたものですが石英以外の斑晶も多く、昨今ではドレライトや流紋岩として記載されるようです。岩脈のある場所は分かりませんが、斑岩転石が結構多いことから流域水系の表層に広く分布している様子です。
以下6枚はPLAN2/0.05 による拡大写真で長辺6mmX短辺4mmです
斑晶の多くは鮮やかな双晶を見せる斜長石で、有色鉱物は粘土鉱物に変質していますが角閃石と輝石であったようです。下の写真には溶融した小さな石英が写っていますが量比は僅かなようです。石基は極めて均質で、斑晶を含む塩基性岩脈が安定した状態で固結したようです。
5:安濃川 河川の最後は安濃川です。鈴鹿川とその支流・加太川が刻む谷をもって鈴鹿山脈は南限となりそれより南には布引山地が広がりますが、安濃川は布引山地北端を水源とする河川で、水系は鈴鹿川の南部にある錫杖ヶ岳から霊山に至る山地を隔てて布引山地北端を開析して伊勢平野に至り伊勢湾に注ぎます。
昭和の末期、芸濃町河内・梅が畑集落の西に加太花崗閃緑岩の岩盤を砕いて巨大な安濃ダムが建設された。このダムにより上流部から下流へ土石の供給は断たれる
上流に安濃ダムがあるため、錫杖湖より上流の笹子川、我賀浦川などからは下流に転石の供給が断たれています。私は水系上流の経ヶ峰や錫杖ヶ岳によく登るのでこれらの支流河川で転石を拾い集めています。
津市と伊賀市・亀山市との境界を走る布引山地南部稜線の東面を水系とする我賀浦川。水系の基盤岩は加太花崗閃緑岩だが、脈状に閃緑岩や古期付加体のチャートや弱変成泥岩、スカルン等が入り混じり、転石は思いのほか複雑で脈岩とみられる火山岩も混じる。このような岩相は支流の笹子川などにも共通し、隣接する鈴鹿川とも似ている
5-1我賀浦川、柚木峠分岐点上流の大堰堤の転籍です。鈴鹿川の石に似て黒っぽい石基に長石の大きな斑晶が目立つ石です。
研磨面も4-2、4-3とよく似ており、同質のマグマから生まれたものでしょうか。薄片の透過写真では有色鉱物の大半は不透明鉱物に変質している様子です。
以下2枚の薄片は、ほぼ長辺7mmX短辺5mmです。
薄片にしてみると鈴鹿川の石とは石基の状態にムラがあり流動した様子も認められます。これは先の薄片透過写真でも斑晶や不透明鉱物が左上から右下へ引き伸ばされたように感じられることからも言えます。
以下6枚はPLAN 5 による拡大写真で長辺3.5mmX短辺2.5mmです
斜長石の成長縁の状態や石英ブロックの消光状態の変移は固結の際、熱的に不安定な状態に置かれていた様だ
5-2同じく我賀浦川柚木峠分岐点上流の大堰堤の転籍です。多孔質の表面は白っぽい色合いでしたが断面は暗青色
薄片では白色鉱物に石英が認められずほとんどが斜長石の様です。石基の感じは5-1と似ているので同じ源岩より分かれたものかも・・
斜長石は原形を留めているものが多いですが、有色鉱物は殆どが粘土鉱物や不透明鉱物に変質しています。石基は再結晶化が進んでいる様で4-2と4-3の中間のように見えます。
以下3枚の薄片は、ほぼ長辺7mmX短辺5mmです。
以下6枚はPLAN 5 による拡大写真で長辺3.5mmX短辺2.5mmです
上は斜長石が溶融・変質してゆく過程で反応が停止したものですか・・鉱物学や岩石学の知識がないので不明なことばかりです。
5-3最後も我賀浦川大堰堤の転籍です。5-2の石とほぼ同じ外観で同じ原岩から別れた転石と見られます。
しかし、破断面を確認したところ石基の結晶粒度の大きく異なった2つの部分が共存しており薄片にしました。結晶の大きい閃緑岩と脈岩と見られる花崗斑岩の接触境界ではないかと思われます。
上左のサンプルと右の透過写真とは左右が逆になっているが、サンプルの左上半分が結晶粒度の高い閃緑岩、右下側は花崗斑岩。下の2枚の偏光写真では左側が石基が微粒結晶の花崗斑岩、右部分が結晶粒度が高く有色鉱物の比率も高い閃緑岩
以下6枚はPLAN2/0.05 による拡大写真で長辺6mmX短辺4mmです。最初の2枚は接触境界で左端が花崗斑岩、右側が閃緑岩。
以下3枚は石基の結晶が細かい花崗斑岩部分。斑晶の白色鉱物は殆ど斜長石のよう
次の二枚は閃緑岩部分。全体に変質が多く角閃石は雲母類に変成していますが加太花崗閃緑岩でしょうか?加太花崗閃緑岩にしては結晶のばらつきが大きくどうも花崗斑岩の脈岩から分化したようです。
以上の五つの河川の転石をもって極めて大雑把ですが鈴鹿山脈中南部の地表に含まれる火山岩を俯瞰してみたいと思います。何分趣味の山歩きとの抱き合わせで石拾いをしていますから、サンプリングと言ってもはなはだいい加減なものですが、そこは素人の勝手な趣味と割り切っています。
結果をまとめてみますと次のようなものです
1:古・中期の玄武岩に由来する緑色岩類
2:湖東流紋岩類の火砕岩礫
3:湖東流紋岩類の岩脈に由来する脈岩
4:後期白亜紀から古第三紀に貫入した脈岩
となります。3と4は重複しますが、湖東流紋岩類は珪長質酸性岩脈のため、それ以外の玄武岩~安山岩質の塩基性脈岩を4とします。
ただ湖東流紋岩類の活動が起きた白亜紀後期は恐竜全盛の遥か昔、日本列島などまだ形もなく、その地殻の部分がユーラシア大陸・南中国の縁辺で大陸の一部として存在していた時代の話であり、その後恐竜を一瞬で滅ぼし去った天地異変もおこり、他にも幾多の火山活動があったにしてもその痕跡は消し去られてしまったかもしれません。
更に2000万年前前後にかけてユーラシア大陸東縁に湧出したプルームが日本海を開裂させ、今日の日本の地殻を大陸から移動させて日本列島として再構築する大イベントが発生、今日の内帯側地殻が中央構造線を収束境界として短期間に外帯地殻に数百キロも乗り上げ中央構造線周辺に長大な山脈形成が起こります。
地殻が移動していたこの時期は、地殻を引き裂く展張場によって地殻の薄化が生じ、地盤沈下して三重県の北部一帯は海底に没していた時期も有ります。この当時、瀬戸内火山岩類と呼ばれる火成活動が収束域の中央構造線周辺で生じ、津市一志周辺にはこの頃の瀬戸内火山岩類の堆積層が存在します。
熊野酸性岩類を生んだ大台・大峯火山の活動もその一環として発生します。この火山活動は室生・曽爾から名張一帯に大規模火砕流を堆積させ、同時にや伊勢平野側や中央構造線沿いの山腹となっていた紀伊半島南部にも大量の火山噴出物を堆積させたと考えられます。
これらの堆積物の大半は、中央構造線沿いの山脈が急速に浸食を受けて地表から削除される過程で失われてしまいますが、その前の日本海拡大期に海底となり山粕累層を堆積させて地盤の低かった室生・曽爾一帯では急激な削除を免れて今日の姿で残された様です。
中新世の火山活動当初にはこの火山からの火砕岩は室生や曽爾の一帯だけでなく今日の布引山地東部、伊勢平野側へも大量に堆積したものと見られますが、その後の陸化と花崗岩類の隆起によって、これらの火砕岩は短期間のうちに砕屑されて表層から削除されたようで、鈴鹿・布引山系の東部、伊勢平野側では活動時期・中期中新世から鮮新世に至る期間の堆積岩は全く知られていません。
これら幾多の巨大イベントを刻んだ1~2キロ程度の表層地殻も、その後の歳月の間に、陸化と激しい表層浸食に晒され地殻の大半が削除されてしまい、現在の表層地殻より過去の地表の姿を再現することが困難になっています。
しかし僅かであるにせよ今日でも地表に残されている火山岩体や火山岩礫は、これら過去の大規模な火山活動の痕跡であり、当時の地表の様子を僅かなりとも再現することのできる貴重な手掛かりと言えましょう。
6:楠原採石場跡は津市芸濃町楠原西端の中ノ川南部に広がる山間にあり、最初に記述した通り、鮮新世の東海層群西行谷累層と呼ぶ礫や砂利の優勢な鮮新世の扇状地堆積物が存在し、この礫中に多数の凝灰岩や溶結凝灰岩を含む層が存在します。
礫種は実に多彩で微粒の凝灰岩から火砕流岩、溶結凝灰岩まで湖東流紋岩類に見られる多くの岩相がこの層中で観察できます。これら火山岩の火成年代は分かっていませんが、五万分の一地質図幅・津西部を纏めた吉田史郎氏によると当時の古流行から湖東流紋岩起源ではないかと云われます。
もっとも下の礫などは名張の一帯に堆積した室生火砕流岩にもよく似ているので或いはそちらに起源をもつ石かもしれません。
面白いのはこの砂礫層の下位に忍田礫岩層と呼ぶ中新世前期に堆積したとみられる礫岩層が存在し、五万分の一地質図幅・津西部によると、この礫岩中の礫には溶結凝灰岩が含まれないことです。
上は忍田礫岩層の巨礫岩。マトリックスは完全に固結して石化している。含有礫種はチャートや砂泥質岩が多い
中新世前期と言えば日本海拡大期に辺り大地激変の時代ですが、西行谷の礫層が堆積した鮮新世よりは地表に湖東流紋岩類の堆積層がはるかに多く残されていたと思われるので不思議な気がします。
6:1 砕屑された様々な岩片を含む凝灰岩です。石基には明瞭な流動痕が見て取れ火砕流堆積物であると判断します。これ以降の薄片は代表的なものを上げるに留めます
6:2 6-1同様に多数の破砕された小岩片を大量に含む礫岩状の凝灰岩です。岩片には多数のチャートが目視でき、火源上部を覆っていた古期地殻を粉砕し噴火で吹き上げられた火山噴出物が降下過程で粒度の淘汰を受けて堆積したものと思われます。
6:3 破砕された小岩片や石基は堆積後に高熱を受けて溶結し石英は再結晶化し泥岩片では菫青石も晶出している様子です。1,2同様に岩片には多数のチャートが目視できますが岩片の淘汰はよくありません。
楠原採石場跡ではこの様な様々な火山岩を見ることが出来、私も10個以上薄片にしていますがその多くは河川で集めたものよりも遥かに新鮮で果たしてこれが9000年も前の湖東流紋岩由来の石なのか疑問に思うことがあります。
火成年代を調べれば一目瞭然に分かることですがその様な環境はないので、吉田史朗氏ら地質学のプロの判断に依って湖東流紋岩起源であると見倣します。
これら以外にも河川の転石ではありませんが、三重の北中部で最も顕著で若い火山堆積物は新生代・鮮新世約3.9Maに現在の安濃川の南西部一体に堆積した阿漕火山灰層です。津市の半田周辺で最も層が厚く現在でも10m以上の堆積層が見られます。西部の山地に近づくほど薄くなりますが安濃川の上流域まで分布します。
この火山灰の給源は広域テフラの分布から200km以上の距離を隔てた北アルプス周辺の火山と見られています。芸濃町多門の辺りで安濃川に露出するはずですが、もとより堆積年代が新しく、十分固結していないため転石となって見られることはありません。
しかし、この様な火山堆積物(凝灰岩)の存在は、堆積層に含まれる凝灰岩の給源がはるか遠方に存在する可能性を示しています。また三重県には活火山がせず完新世の火山岩は見られませんが、更新世以降の火山にはまだ知られていないものが存在した可能性もあるのかもしれません。
ご意見があれば以下のメールアドレスまで御願いします maogoro@gmail.com