鈴鹿の源流・愛知川

鈴鹿山系には、その最深部を開析して東近江市で琵琶湖東岸に注ぐ一級河川・愛知川が存在します。最深部杉峠からの水路延長は48km、永源寺の奥には巨大な永源寺ダムがつくられて東濃平野一帯の水利を調節しています。

上写真は永源寺の対岸より見た愛知川。中央奥に永源寺ダムの堰堤が霞む。下は永源寺前の旦度橋よりの愛知川で左手に永源寺境内が見える。川は湖東流紋岩類の堆積層を深く削り鈴鹿山系と琵琶湖の間に水路を形成した

愛知川は琵琶湖の新海浜の河口より、八日市を経て八風街道と並行して東に遡り永源寺ダムの上流、蓼畑町で御池岳・鈴ヶ岳周辺を水源とする御池川を分流とし、八風街道沿いに杠葉尾町に至って御池岳・藤原岳・竜ヶ岳・静ヶ岳西部を水源とする茶屋川と、南に向かい雨乞岳・御在所山・イブネ・クラシ周辺を水源とする神崎川へと分かれますから、その水系は鈴鹿山脈の中北部一帯に及びます。

標高1200mを超え、鈴鹿山系でもベスト3の高さを誇る1247m 御池岳・1237m 雨乞岳・1212m 御在所山がすべて愛知川水系に含まれているのも特記すべきことでしょう。鈴鹿山脈中で上の地図を見ると良く分かりますが愛知川の3つの支流のうち、御池川と茶屋川は本流から北向きに走行して鈴鹿山脈北部の山地を水源とするのに対して、神崎川は逆に南に走行して鈴鹿山脈中部の山地を水源とします。

そして単に走行方向の違いだけではなしに、御池川と茶屋川が刻む台地は主にジュラ紀に付加した古・中生代の付加体ですが、神崎川の場合には南北走行する主部が刻むのは、新生代・中新世以降に隆起した鈴鹿花崗岩であり、嘗てはその表層を覆っていたであろうジュラ紀付加体は花崗岩の隆起に伴って侵食されて今日では、神崎川が西向きに流れを変えたその源流部雨乞岳やイブネ・クラシの一帯にしか残されていません。

愛知川上流水系地質図 国土地理院シームレス地質図より

御池川分岐以西の愛知川本流は永源寺ダムの周囲において湖東流紋岩類を侵食して近江盆地へと流れ込みますが、それ以降は新生代・第四紀に堆積したの段丘堆積層の間を琵琶湖まで流下します。

湖東流紋岩類は白亜紀後期の巨大カルデラ火山の名残で、噴火当時は今日の琵琶湖から鈴鹿山脈に至る広大な地域を覆い、琵琶湖も含めて愛知川が流れる近江盆地一帯はすべて湖東流紋岩類の火山噴出物に埋め尽くされていたはずです。

これらの一部は現在でも、上の地質図( ピンクのエリアが湖東流紋岩類の火砕流堆積物 )に見られるように沖島・津田山・八幡山・荒神山・繖山・雪野山などに残されており、他の地域でも第四紀の堆積層を除けばその下層には基盤岩として湖東流紋岩が広がっていると思われます。

湖東流紋岩類の噴出は7000万年も前の出来事ですが、この歳月を経てもまだ近江盆地から鈴鹿山系にかけて湖東流紋岩類の露出が見られることはこの火山の活動規模がいかに激しかったかを物語ります。また同時に現在の地形から当時の地形を推測することの難しさも教えてくれます。

今日の鈴鹿山系を形成する山群は、最南部の油日岳から仙ヶ岳や御在所山、藤原岳を経て最北部の霊仙山までその主稜線が南北方向に長く三日月型に走行し県境尾根を形成する主山群と、さらにその西側に南部の綿貫山から雨乞岳、イブネ・クラシをへて北部の仏供さん山へと南北に三日月型に走行する近江側の西部山群に分けられます。

愛知川の支流、御池川・茶屋川・神崎川はともにこの2つの山群の間を縫って鈴鹿山系でも最も奥深い部分を流れます。このため愛知川に沿ってその上流の谷を遡上してゆけば自然と鈴鹿山系の最深部、北部の御池岳周辺と中部の雨乞岳・イブネ・クラシへと踏み込んでゆきます。

上は愛知川中流域・愛知川河川敷広場前。この辺りでは川幅も200m近くになる

何時の頃から愛知川のこのような流れが出来たのでしょう。愛知川が注ぐ琵琶湖が生まれたのは400万年ほど前と言われていますからそれ以前に存在したとすれば平地を開析して東から西に向かって流れていのでしょうか。

蓼原の御池川合流点。左手より御池川、右手奥が愛知川本流  愛知川漁協HPより。御池川も君ヶ畑集落より北に人家はなく川の水も美しい

小又谷分流点上の御池林道より眺めた御池川の清流

しかし日本海拡大前には西南日本そのものがユーラシア大陸の一部で当時の河川の川口は基本的に東の海側にあったと考えられますから、当時の河川の流れは西から東であり、これは" 鈴鹿山脈の成立 " 中に引用した吉田史郎氏の論文にもはっきりと記載されています。

当時はまだ鈴鹿山脈の隆起は僅かで山脈稜線は今日の県境尾根ではなく、その西側にある綿貫山から雨乞岳・イブネ・クラシ・朝日山・仏供さん山・霊仙山を結ぶ古・中生代地殻を持った山群であり、更にそれらの山腹のかなりの部分を未だ湖東流紋岩類の火山岩が覆い尽くしていたことでしょう。

( 恐竜が地上の支配者であった7000万年以前には、日本は南中国大陸の一部でまだ島弧として存在せず、大陸の南縁に沿って濃飛流紋岩や孤島流紋岩を生んだ数千キロにも及ぶ壮大な白亜紀花崗岩帯の火山活動がありました。そんな火山の一つとして湖東流紋岩カルデラ火山活動極めて巨大で、カルデラの直径は40~50km 今日の琵琶湖から鈴鹿山脈辺り迄にも及ぶ巨大なものと考えられており、現存している湖東流紋岩類はこのカルデラ内部に堆積してその後の侵蝕を免れたコールドロンであると見られていますから、白亜紀後期から暁新世の辺りまではまだ湖東流紋岩類が近江盆地から鈴鹿山脈一体を覆い尽くし、今日の阿蘇のような地形ではなかったかと想像します。)

また日本海拡大が終了する1600万年前頃には、今日の鈴鹿山脈主稜線のある一体は西側に当たる琵琶湖周辺の近江盆地一体に比べて地盤が低く一時は完全に海面下に沈んでいたことがわかっています (  " 吉田史郎他 "中部地方南部の古地理"  地質ニュース546号 の挿絵にわかりやすい地図がある "  雑記帳・鈴鹿の山の魅力・" 鈴鹿山脈の成立 "  に挿絵を掲載させてもらってます )

上図・下図ともに地質調査所月報 第43巻「瀬戸内区の発達史」吉田史郎より

さらに鈴鹿山脈一帯の隆起が始まったのは日本海の拡大が収まって西南日本が沈み込み帯縁辺の圧縮場にさらされるようになってからですから、当初は琵琶湖もまだ存在せず近江側から太平洋側に向かって流れていた河川が鈴鹿山脈の隆起に伴って今日の県境稜線あたりで分断され滋賀県側に流れが変わって今日の愛知川が誕生したと考えられます。

今日の愛知川とその支流河川は、鈴鹿山脈北部の御池岳や藤原岳から中部の雨乞岳、御在所岳に至る鈴鹿山脈北・中部の山系を複雑に開析して近江盆地から琵琶湖へと流下する

現在鈴鹿山脈の主稜線は中・南部にあっては南北走行ですが、北部においては藤原岳を起点に走行方向を東西に傾斜させ、養老山地や伊吹山地と平行に北北西-南南東の走行へと変化します。このような山地の走行変化は、山地を生んだ地殻の圧縮応力の変化に起因し、山脈の中・南部においてはフィリピン海プレートの沈み込みに、北部においては、北米プレートと太平洋プレートの沈み込み及び伊豆・小笠原島弧の沈み込みに起因するようです。

河川の形成は、圧縮場における地表の褶曲と切り離せませんから、愛知川の誕生を考えることは同時に鈴鹿山脈の成立を考えることと同じものであり、鈴鹿山脈の形成とともに愛知川の今日の姿が作られていったと言えます。ただ日本海拡大が終焉して以降1500万年以上の時が経過しています。下図を見るとよく分かりますがGPS計測によると、現在現在西南日本の外帯地殻に生じている変動量は年間数cmで内帯側へと圧縮する方向に働いています。

上は長崎県福江を基準点とした5年間の地殻変位変動値。海溝に近づくほど変位が大きく、ある期間が来ると地震による断層形成で内部歪はキャンセルされる ( 国土地理院・地殻変動情報サイトより )

このような傾向が1000万年も続けば外帯地殻は内帯側へと数百キロも圧縮移動することになり地殻の状態は今日と全く異なったものになるでしょう。雨水や氷河、海水浸食等を考慮すれば地形変化は更に大きなものとなりその姿を想像することはほぼ不可能に思えます。

逆に今日地表に残されている過去の地殻変化の僅かなデーターから当時の姿を復元し、その変遷を語ることは極めて難しい部分が多くあり、たとえ考えられたにしてもその信憑性は決して高いものではないと言えます。私達が過去の地形に対して語ることにはこのような困難さが在ることを十分認識しておく必要があるでしょう。

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鈴鹿花崗岩を掘り下げ鈴鹿山脈中部の最深部を南北に縦断する神崎川・大瀞。鈴鹿花崗岩の隆起に伴い東西走行の河川が県境稜線でせき止められて、鈴鹿山脈西部山系と東部主山系の間に南北走行の流れが生まれたと見られる

三重県側には500万年ほど前から東海湖が誕生して隆起した鈴鹿県境稜線から沈降した東海湖まで急な傾斜が生まれ東海湖へと大量の土石を運びましたが、滋賀県側では今日の伊賀盆地の辺りに琵琶湖の前身とも言える古琵琶湖が生まれ徐々に今日の琵琶湖の位置へと遷移してゆきます。

古琵琶湖の誕生は300万年前ころからで、現在の伊賀盆地の辺りに湖が生まれ古琵琶湖層群の堆積が始まります。この辺りは日本海拡大期に早くから海進の起きた場所で現在も伊賀から加太に至る一帯は盆地となっていますが、その辺りに今日の琵琶湖の前身となる湖が生まれたわけです。

上の「瀬戸内区の発達史」掲載の第4図を見ると古琵琶湖が発達した300万年から100万年前には大阪湾から瑞浪や中津川の辺りにまで淡水域が広がります。これは瀬戸内海から連続する沈降帯であり、南海トラフの沈み込みに伴う圧縮応力が生んだ褶曲構造の沈降部分だと解釈できます。

これに対して鈴鹿山脈と東海湖、琵琶湖の場合、南海トラフの南北方向の圧縮場とはむしろ直行する東西方向の圧縮場による断層形成によって生み出されておりその源は、太平洋プレートの沈み込み及び伊豆諸島の本州弧中央部への追突に求められるようです。

東海湖は西上がりの鈴鹿山脈東縁断層群によって鈴鹿山脈が隆起したのと反対に東側は断層に沿って地殻が沈降して巨大な淡水湖・東海湖となり、亀山や御在所周辺では沈降量が1500m~1800mにも達しました。最初は松阪の辺りから始まり、徐々に北へと範囲を広げて沈降した部分には隆起した鈴鹿山脈および木曽三川の河口方面より砕屑物が供給され東海層群と呼ぶ鮮新世堆積層が形成されました。

津市芸濃町林・中ノ川右岸では400万年ほど以前の東海湖底に堆積した東海層群・亀山累層の露頭が観察できる。亀山累層の堆積厚み ( 地殻の沈降量に対応 ) は1500m以上に達したが、この辺りから西部の鈴鹿・布引山系の稜線部までは約10kmだから、山脈の隆起とそれに反する東海湖の沈降の激しさがよく分かる。

その後東海湖は東濃地方にまで拡大しますが、300万年頃から鈴鹿山脈、布引山地、養老山地も隆起を早め(この原因は伊豆半島の衝突による地殻の圧縮応力の変化と見られます)それにつれて湖も徐々に移動・縮小して消滅します。東海湖の移動と同時に、一時期は伊賀盆地を覆い鈴鹿山脈西部の直近に広がっていた古琵琶湖も鈴鹿山脈の隆起に押されるようにして北西に移動して今日の場所に至ります。

愛知川が今日のように鈴鹿山脈から西向きに走行して琵琶湖へと注ぐようになったのは、古琵琶湖の移動とともに徐々に陸化した近江盆地に水路を刻み現在の東近江市の河口に至ったと考えられます。

鈴鹿花崗岩の急激な隆起は、同時にそれまで県境稜線の西部に広がっていた古・中生代の地殻と湖東流紋岩からなる今日の近江側西部山群より東に流下していた河川の流れをせき止め、南北方向に流れを変えるとともに、すでに侵蝕の進んでいたであろう湖東流紋岩類や古生代玄武岩類の弱部を侵食して古琵琶湖に至る東西方向の流れが生まれたものと想像します。

上は神崎川のコクイ谷分流点。神崎川本流は此処から西に登り杉峠を分水嶺とする

杠葉尾より東西両山群の間を南に向かって登流した神崎川の本流は雨乞岳と御在所山に連なる山群にぶつかって西向きに流れを変え杉峠を分水嶺としますが、その支流はコクイ谷となって更に南に登流しています

上はコクイ谷出会い上流の神崎川渡渉点。鈴鹿花崗岩と玄武岩 ( 緑色岩 )の転石が清流に洗われて 美しい。下は神崎川の分水嶺杉峠。

嘗てはこれら鈴鹿山系の最深部にも谷沿いに集落があり山を生活の糧として暮らしていましたが、生活様式の変化と生活の便の悪さから茶屋川上流の村・茨川村は昭和40年廃村となり、神崎川源流にあった御池鉱山も昭和30年に廃坑、御池鉱山跡の案内によれば戦前は300人余が就労し尋常小学校まであった鉱山町でした。

茶屋川最上流部の真の谷。八風トンネル近江側出口の西側で愛知川より分流した茶屋川は茨川集落跡の先まで北北東に、茨川集落跡の先で北西にカーブして真の谷となり御池岳の東北斜面を遡上する

御池川は君ヶ畑の上流でT字尾根の西を流れる本流とT字尾根の東を流れる小又谷に分かれる。奥が御池川本流、手前は小又谷の分流

一方、御池川上流の君ヶ畑村(現在は君ヶ畑町)は下流の蛭谷村と共に轆轤(木工旋盤)を使い木の盆や椀を作る木地師(轆轤師)発祥の地と言われる場所で、道路が整備されたこともあって現在も住民が生活していますが空き家が多く殆ど限界集落と化しています。

実際にこれらの河川の上流域に踏み込んでみれば人の暮らしの困難さが分かりますから、人々が離れるのも最もだと思われますが、まさにそれ故にこそ人のあまり立ち入れぬ自然の景観が保たれて、そこを訪れる者の心を引き付けるのでありましょう。

愛知川やその支流の河川を訪れるたびに、奥深い自然の豊かさや美しさに心を打たれますが、同時にこのような環境で人が生活することの困難に思い至ると、満足な道とてなかった時代にこのような山中に分け入って隠れ暮らさねばならなかった人々の苦労や苦しみは如何許りであったことでしょう。