ガッカリです。道標の無事確認をする事にします。浜側はあまりウロウロした事が無いので南寄りの道で西宮西端辺りを目指します。夙川の手前まで来ました。図書館東駐車場の道標を見るべく北に折れます。草に埋もれていましたが、無事でした。
「西宮市郷土資料館の道標」としているものです。当然移設、元位置は現在の西宮市甲陽園東山町7-34辺りの三叉路ではないかとしました。
「御茶家所町の道標」を東に見る
さて、次は、南部では最西端になるか、地元の道標ではないので、興味薄なのですが「御茶家所町の道標」を見に行くことにします。
私有地内と思われるが無事に残っています。
南面の案内「於くへ いまくまく王んおん道」を今熊野観音寺として、京都市東山区泉涌寺山内と考えると、元は京都にあった道標ではないかと思っています。この辺りに「いまくまくわんおん」が無い事を祈る。
夙川右岸堤防に登り、阪急を越える事が出来ないので、東に進む事にしましょう。市役所へ向います。
「社家町の道標」を北東に見る
その前に「えべっさん」の南東に一基あります。近寄れないのですが見ておきましょう。
無事でした。
今の位置で案内に不整合は見られないが、目につく面に紀年銘と世話人名がある事は、移設を示します。どこが元位置に相応しいか、天保の西宮町古絵図で考えてみて下さい。尤も絵図よりは40年程古い寛政十一年の建設です。
「六湛寺町10の道標」を西に見る
少し西に戻り、市役所を目指します。「六湛寺町10の道標」としています。
これも無事でした。
この道標は「右甲山」と「左越木岩村」を案内するだけで、なんとなくホッコリします。
元位置は『西宮の道標』宮崎延光では、「大井出橋あたりから甲山と越木岩村への分かれ道」とし、他に「元位置を、西宮市大井手町10」とする資料もあります。
「六湛寺町9の道標」を北に見る
もう少し北西に戻り、国道2号から国道171号が分岐する交差点に進みます。
「六湛寺町9の道標」です。これは「与古道町の道標」と同類でしょう。どちらも「明治三十一年六月」とあります。
本来の道標とは少し趣が違いますが、「津門西口町の尼崎藩領境界石」を見ておきます。
「津門西口町14の道標」を西に見る
この道標に「津門村」とある。これが、道標にハマル切っ掛けと成りました。
ついでと言っては何ですが、道路元標も確認しておきましょう。
「西福町の芝村道路元標」を南に見る
さて、道路元標も一応確認だけと思い、マップで経路を表示させ向かいます。着いて無事を確認し、念のためマップを見ると??
とんでもない所にマークがあり、未到達になっています。よく見ると確かに違っています。
「天道町の瓦木村道路元標」を北東に見る
「西宮」のエクセルは正しい位置になっている。一般提供用のグーグルスプレッドシートの「西宮市の道標」も正しい。
マップ用のエクセルが訂正もれかと見ると、これも正しい。
マイマップ「西宮の道標」の経緯度だけが間違っているようです。
どうして道路元標の位置を間違えたのかは、今となっては分かりませんが、とにかくグーグルマップの位置は誤っていました。もしこれを見て探された方には「申し訳ありませんでした。」以後気を付けます。
念のため誤っていた内容を載せて置きます。
芝村道路元標
誤N34.7437961 E135.3503638
正N34.740910 E135.350278
瓦木村道路元標
誤N34.7447081 E135.3672632
正N34.741822 E135.367349
「熊野町の地蔵道標」を北東に見る
打ちひしがれて、それでも次に進みます。「熊野町の地蔵道標」を目指します。これは多分明治の頃の地図では、伊丹、西宮を結ぶ幹線道路上にあったのではないかと想像します。今は変な位置に置かれています。
これの裏が読めないのです。ただ一字「儀」の下に続くのですが。
「高木西町6の道標」を北に見る
阪急電車より北になりますが神社の「高木西町6の道標」を見ておきます。無事でした。西国街道周辺を見ると一日では回り切れないので今日はこれまでとします。
つい最近確認して、行方不明の「上之町33の道標」も、もう一度探してみましょう。
やはり見つかりません。
今回は残念な思いが残るだけの一日でした。地図のマーキングをケアレスミスする等、有り得ないと思うのだが。