③④地理院地図は略
はらがたわ峠からの続きです。同峠からは高低50m程下った、能勢辻と呼ばれていた地点で、①江戸の道、②明治の道、③昭和の道が、④現国道173号に合流しているとし、ここから始めます。
この三ツ辻には道標が建っていたらしいのであるが、現在は無くなっていると思います。過去の道標については記録が残っており、詳しくは「能勢町天王能勢辻の道標」を参照して下さい。但し、明治の地図では現在の辻より100m程北であったように見える。圃場整備もあり、川の流れも変わっているようで、②はおろか、③の道さえも追跡出来ないと思われます。現地では所々に旧道と察せられる道があるが、地図上で明確に確認出来るのは、旧天王小学校西辺りから、天王峠にかけてである。
さて、ここで確認の為寄り道です。旧天王小学校にある「旧天王小学校西辻の道標」を見に行きます。前述の迷い道で学校跡の東側は仕切りが無さそうだったので、R173天王交差点から、東側を目指します。学校跡北側の道標が残っているのをフェンス外から確認し、高皇産霊神社の階段下を過ぎて少し行くと、南に折れる道が有りました。多分体育館に向かう道であろうと、そこを進みます。
道標は無事である事が確認出来ましたが、今はだれの目に触れる事も無く庭木に埋まりそうになっていました。元の辻辺りに戻れば嬉しく思うのですが。
さて、もう一つ確認です。「天王の題目塔道標」を見に行きます。
旧天王小学校北西の変則四辻に戻り、これは②明治の道と確認出来る旧道を北西に進みます。辻を右折れして130mの右手(北)、民家の手前に少し奥まって駐車場にも見える広場があり、その奥の祠右側にあります。これも無事でしたが、石の表面はほとんど読み取ることが出来ませんでした。
この後が、今日の目的第2番と成ります。1番目「はらがたわ峠」が散々だったので、こちらに期待しましょう。とは言え「すねこすり峠」が主目的ではありません。①江戸時代の道を探すのがメインで、その次が、摂津・丹波国境に碑が建っていないかを確認する事です。
①江戸の道が峠の何処を通過していたか。天保摂津国絵図では、川の記載がなく道の位置を想像する手掛かりがない。図の書き込みに「天王村より丹波国福住村迄壹里四町三拾間(4,470m)。此のす祢こすり石塚丹波国にても同名、此の所より杉原村出口道迄の間峯通国境」「此の所山の半腹国境」とあるが、経路には触れられていない。
天保丹波国絵図を見ると、「す祢こ春り石塚」は水無川(加古川水系籾井川支流らしい)の左岸(西)を通っていることが分かる。これに依ると、②明治、③昭和、④現国道、三本の道は「福住二之橋」辺りまでは右岸を下っている為、①江戸の道とは異なる経路であると出来そうです。
尚、気になる点として「すねこすり峠」ではなく「すねこすり石塚」としている点である。ここの峠は片峠と呼ばれるタイプではあるが、峠の頂部が国境で無い為、目印として石塚が置かれていた事を示すものかも知れない。
又、峠の頂上を国境としていない為、「五畿内志」では、「峠から天王迄十七町(1,850m)」としているが、老婆心ながら「国境から天王迄…」とすべきであろう。
そこで、現在の県境から道の痕跡も無い谷筋を沿うように道が有ったと想像し、天王トンネル南口に出て、旧天王小学校西の辻迄を地理院地図で距離を求めると1.75㎞となり、五畿内志の距離に近い。現県境から福住迄を同様に求めると2.5㎞となり、合計4.3㎞でこれを換算すると1里3丁と、国絵図の距離ともほぼ一致する。
そうすると、国境から峠までの道は、②明治の道の様に九十九折れせず、ほとんど屈曲していなかったのでは無いかと考えられる。「摂津名所図会」では「此所摂丹の堺之一里ヶ間牛馬通ぜず…」とあり、これも直線経路に近い急坂と矛盾しない。
国道側に面して「摂丹関」とあります。そのやや東に「関址」とする角柱の石碑も建ちます。
大きな石碑の背面(北東面)には、「阪鶴国道開通記念」とし、「摂丹関」と題する漢詩が書かれているようです。詠み人は「信義」、七言を上下に書き、四行で出来ています。七言律詩でしょうか、一応書いてみますが、あまり上手くは無い様な気がします。
「峻坂羊腸大嶺横」「郷邨済難将穿山」
「畢生宿願容朝廟」「落慶得嬴摂丹関」
「南望蒼茫浪速海」「北方舞鶴指呼間」
「行路快楽狎今便」「口傳勿忘昔日艱」
と有る様です。意味は良く分りませんが、今の快楽に慣れ親しむことなく、昔の辛さを語り継がねばならない。辺りでしょうか。大阪湾も見えなければ、舞鶴も遠い。
この後に年月日が沢山出てきます。勝手に解釈したものを挙げておきます。
「国道昇格請願発起、昭和三十二年四月」
「国道認定、昭和三十七年五月」(1962年)
「開通、昭和五十八年四月」(1983年)
「事業費、八十九粁ノ内天王峠方、二・五粁 四十二億円」
「建設省」
これでは、現トンネルのある道を記念したものかは分からない。wikiの「国道173号線」によると、
「総延長70.4 ㎞、通称:阪鶴国道」「1963年(昭和38年)4月1日 - 二級国道173号池田瑞穂線(池田市 - 京都府船井郡瑞穂町)として指定施行」、「指定当初は国道9号交点である京都府船井郡瑞穂町が終点、1975年(昭和50年)に京都府主要地方道43号綾部瑞穂線を編入し綾部市まで延伸」(抜粋)とあるがこれもハッキリしない。
webのある資料には「天王トンネル」「竣工:1976年11月、全長:311m」とありトンネルは昭和51年には出来ていたようです。依ってこの石の「開通、昭和58年」から現行の国道173号(トンネルを潜る道)開通後に建てられたものと出来る。本当に開通記念に建てられたものでしょうか。この石の表面の「摂丹関」を記念する為のものでしょうか。良く分りません。
現国道173の分岐から60m東のやや広場風の場所右手(南)に、大きな石碑があります。
先ず、裏面(南)から見てみよう。
「安永六年垂水村文書の一節に「以前ハ早ク麦蒔仕廻次第丹
波米買池田江賣申候得バ石ニ付四五モ利徳御座候故米
之五斗八斗もほけ候事ハ心安キ事ノ由」とあるのはけだし
古民謡が歌われた当時の姿を如実に物語るものである
石匠南行茂氏は郷土史蹟の保存顕彰に努めてきたが今
時流に消えようとする本民謡をよく伝承し自力自鑿以て
永えに消え去ることのないものとしたこの碑を仰ぐもの
はひとしく氏の街道と先世に對する限りない敬愛の情に
触れて何か新たなものを胸に刻んでいくことであろう
昭和三十七年四月 森本弌撰文
南行茂造立
後援 能勢町教育委員会」
とある。
基壇の上に備えられた石の北面は上下二分割にされた掘り込みがあり、上に表題「丹州街道古民謡」、下にその歌が書かれています。
歌を書き出してみます。
「天王大坂(だいざか)七廻り」
「身過ぎなりやこそ一夜おき」
「越すは丹波のお蔵米」
「九里に九つ峠を越えて」
「いこか池田の大和屋へ」
『能勢町史第五巻』から引用すると「秋のコメ取り入れ後、小農民が丹波米を買い求め、池田の酒造家大和屋へ売りに行く道中歌」とし明和(1764~)、安永(~1781)の頃に作られた歌ではないかとする。又、九里(36㎞)の解釈として「4里で丹波に買い付け、5里(20㎞)で天王峠を通り池田へ行く」としている。
九つの峠は
1.七曲峠(大王峠)、2.はらがたわ峠、3.浮峠、4.カイモリ峠、5.小部峠、6.岡の辻峠、7.中山峠、8.横山峠、と一つ少ない。5.と6.の間に「原の切通し(現在の日生中央辺り)」がありこれを峠(高低差20m程か)としたものか。
私の知らなかった言葉として「みすぎ(身過ぎ);①生活の手段、生業、②境遇」『旺文社古語辞典』。「大坂」は地名では無さそう。「一夜おき」が一往復2日掛かったのか、一日休みを挟んで一往復したのか理解できていない。裏面にある「石ニ付四五モ利徳」に関して「能勢町史」の解説では米相場の差分に依る利益の事としており、私は仕込み米の運賃かと思っていた。
尚、「大和屋」に関してwebに「江戸下り銘醸池田酒と菊炭 」とするpdf資料があり、元禄十年、醸戸38戸(内訳は37戸)とし、筆頭は満願寺屋(1千石)とするも、二位以下に大和屋とするもの9戸を挙げている。「能勢町史」では明和・安永年間最盛期の大和屋金五郎を挙げている。
先に「丹州街道古民謡」は広場風に立つとしたが、よく見ると石碑の後ろ(南)側は道跡にも見える。道で有ったならば、三ツ辻となるがその時、谷筋をいきなり下る道は②明治の道であろうか、①江戸の道であろうか。手持ちの明治の地図を見る限り、②の可能性が高い様に思う。では①江戸の道は何処であろうか。
現在この地点は大きな切通しと成っており、江戸時代にこれ程掘下げる事はないが、高さの違いはあれ、ほぼ同じ経路と考えてみます。高さに関してはトンネル東に神社の鳥居があり、これと同等位を通っていたのではないかと想像させる。尚②明治の地図では標高489mとあり、現在と同じと思われる。
本日の旧道探索で最も情報の少ない領域に入ります。私の勝手な想像では、①江戸の道は、②明治の道とはマルッキリ別の経路であったとしたが、上記古謡碑の有る辺りでは一本になっていたと思う。では今から下る③昭和の道で、どの地点が合流(下る場合は分岐)点であったか、痕跡があるかないか、確認しつつ進みます。
古謡碑を過ぎると下りの斜度が増しますが、それほど強くは感じません。森林組合の伐採作業が行われているのか、道両側に切断された原木が高く積まれています。それが途切れた、最初のヘアピンカーブが私の考えた分岐点候補です。カーブせずそのまま真っすぐに谷に向かう道が無いか探します。作業用の道がやや左上に向け、切り開かれている為か、痕跡はありません。アキラメテ③昭和の道(舗装されている)を下ります。
南側の山から多分送電線保守用の道が合流していると地理院地図では読み取れる地点。これも旧道の候補になるか見ておきます。側溝が埋っていたりしたが、旧道の可能性は低そうでした。
地図上ではこの後候補地点はありません。
②明治の地図で初めての沢を渡ると思われる地点に来ました。③昭和の道では縁石だけの橋が架かっている。明治の地図ではこの前に大きな折返しが2回見えるのだが③(今下って来た道)には無く、道が付け変わっていると思われる。写真は撮り損ねたが、橋の5,60m手前に左の谷に分岐する道があった様だ。これが②明治の道で有るかも知れない。
始めての橋から150m辺り、右山腹へ上がる作業用道があるが、旧道では無いでしょう。このすぐあと2つ目の沢を越すが、③の道さえ、現④現行の国道により付け替えられてしまい、②明治の道はなおさらです。ギブアップします。
後は、国境を目指すのみです。
途中、④現国道173号を横断しますが、直前で西側の山腹を下ると赤い橋が見えます。
今日は通て来なかった、④R173のこの赤い橋を過ぎた次のヘアピンカーブに、地理院地図では①江戸の道の名残ではないかと出来ると道が描かれていると想像しているのですが、確認は出来ていません。ここまでの間で、そこへの分岐点は見つけられなかった事になりました。
写真撮影地点辺りで②明治の地図と③昭和の道が一本に成っていると思う。が此処を過ぎると、②③共に付け変えられたの道は、④現国道を横断する四辻となりますが、道の状況や車の行き来を見ると交差点とは思えません。②③明治・昭和の道は、強引に横断して進む事になります。
今日の最終目的地が見えてきました。摂津・丹波国の国境です。今は大阪府と兵庫県の境になっている様で、ここに石碑等が有っても良さそうに思ったのだが、何も有りませんでした。江戸時代に村(国)境の争いにもなった地点ならば、何かしら有ってもよいのだが、現在のよくある鉄製の境界表示板と、古びたコンクリート製の細い柱が建つのみでした。
又境界として識別できそうなものは、余りにも細い谷があるだけの地点で、崖上側は雨どい程度のコンクリート製排水溝があるが、崖下側は沢筋さえも確認出来ない地点でした。昔はどのように境界を示していたのでしょうか。
尚、この少し北上を通る、現国道の「福住一之橋」には「古呂集谷」と書かれているが、現地点は、その谷の本筋ではなく少し南に外れていると思われる。
アッケない終わりでした。②明治の道を少し下まで見たものの、何も無く引き返す事に成りました。
能勢町には「剣尾山の国境標石」「横尾山の国境標石」や「能勢町杉原の標石」「吉野ひいらぎ峠京都府境の標石」等があるのに、一番もめたであろうこの地に同様の石が無いのは、ここが旧道でない為でしょうか。
帰りに、天候の急変があり、雨に濡れながら、泣きながら、腹をたてながら、でも見落としが無かった気にしながら、戻ったのですが、はらがたわ峠を下っている時、道路にセリ出したイバラにヤラレ、ダウンが破れるオマケ付きの調査になりました。
帰ったらオコラレソウだな。ダマッテおこうかな。
最後に一つだけ、忘れ物がありました。「はらがたわ」に書いている。後で分かった①江戸の道の間違いに関してです。
雨宿りを兼ねたのではなく、帰途に寄ろうと計画していた。多分、「Fさんの娘さんが煎れてくれるコーヒー屋さん」を訪ねました。今日の成果をお話し、アドバイスをお願いすると、「①江戸の道は、沢沿い左岸、或いは沢筋を通っており、右岸の道は森林組合の付けた作業道です。」との事、雨に降られるより痛かった。又、②明治の道から見下ろした石造物は、「ひだる神」とそれが祀られていた石祠である事。それを祠から向かいに移動させたのは、「祠修復を試みたが無理であった、このままでは埋没か天板による損壊が考えられ、取り出した。」、「①江戸の道は、最初の砂防提を越えて沢筋におり進めるよう、保守したのですが…」ともお聞きした。
もう一度行かねばならない。
尚、①江戸の道を本気で探すなら、丹波の国側から「元禄丹波国絵図」を手に、川の左岸(西)を登るべきだと思います。