前回の「学校を回ろう」の続きとなります。
今津小学校内の道標の元位置を検討すべく、再度徳庵近辺を訪ねる事にしました。前回とほぼ同じ経路を進もうとしたのですが、新大阪駅の東から長柄橋を渡るべく、東三国辺りから知ったかぶりで、東に進んだのが間違いの始まり。
前回の道を外れ、阪急淡路駅の南側の踏切を越えてしまった。グーグルマップを見ます。長柄橋と変わらない距離に内環状が有ります。豊里大橋も最近渡っていないので、そこを目指す事にしました。淡路の駅前を抜けると広い道に出てしまい、「菅原1」とある大きな交差点に出ました。ここでマイマップ「大阪の道標(摂津国域)」を見ると、「東淀川4.菅原1の道標」がすぐ近くである事に気が付きます。健在かどうか確認をしておこうと、旧道と思われる道に進入します。
これが、幸運になりました。交差点から南東に細い道を入り、150mの右手に大きな楠木が立ち、石段が上部に繋がっていました。神社か寺でもあろうかと、眺めつつ変則な四辻を通り過ぎようとした時、小さな石柱が眼に止まりました。一度通り過ぎたのですが何となく気になり、戻る事にしました。石垣がありそこに鉄製の白い柵が埋め込まれ、敷地内のようです。偶然庭木の手入れをされている方にお聞きすると、私邸であるとの事。外から見るだけなら問題はないと勝手に覗きます。「國次町」と見え、町名を示す石だろうと判断し参考の為写真を撮っておくことにした。町名は初めてのものでした。よく見るとその下にも何か字がある様で、・・・。
「左」の異体字「㔫」と見えます。その下は良く見えないが地名に見えます。
これは、道標に違いないと興奮します。
私邸内である事が残念ですが、見える範囲で写真を撮っておきます。必要ならなば再訪しましょう。
今日の調査における一件目の道標が見つかりました。
実はこの後、もう一件みつけるのですが、それはこの後。
この面を見ると、「國次町 ? 古増島 施主 国次子孫」と思われ、「元」とすれば、施主の住所と受取らなければならないでしょう。
「東淀川区菅原1-12の道標か」として摂津の国の道標に加えておきます。
「菅原1の道標」を北に見る
嬉しくなって、次へ進むのが遅くなってしまいましたが、思いついた、三基の安否確認をしに行きます。東に60m進み北に折れ20mの三ツ辻正面に
「東淀川区菅原1の道標」があります。
これから140m南に進んだ三ツ辻西部に
「同、1-3の道標」と、三ツ辻東部に
「同、1-4の道標」の三基です。
一応、問題は無さそうでした。
では、最初の目的地、内代を目指しましょう。内環豊里大橋へは、堤防沿いに進む方が良いかと、堤防下道を東に進むと、大きな橋が頭上に見えてきました。グーグルマップでは上新庄生野線(菅原城北大橋)となっていますが、この橋の記憶はありません、これを渡る事にしました。
長柄橋には、東側にしか歩道がありませんが、この橋は両側にある様です。上流(東)側の歩道を渡る事にしました。登るのは大変です。
絶景です。
見覚えのある門が見えました。今日は少年野球の練習でしょうか、校内には人の姿が沢山見えますが、校門は閉じられています。偶然外に居られたお母さんと思われる方に尋ねると、校内の方と連絡を取っていただき、快く入れて頂けました。
標石の場所は既に分かっているので、急いで南へ回り込みます。「都島区内代町3の標石」の詳細を見ることが出来そうです。
お掃除、写真撮影、碑面とサイズを記録し、気になっていた、高麗橋からの里程が書かれているかを確認します。下部の砂を問題ない程度除き、文字を探すが無さそうでした。守口までの里程は書かれているものの、高麗橋里程元標からの距離は不明である。依ってこの石は里程標とはせず、道路名標石として扱います。別に分ける意味も無いのですが、記事の表題に「里程標」と付けると距離が書いていないと「ツッコまれる」のを避ける為だけです。
何故、里数の有無にこだわるかと言うと、漢文が分からないからです。「距 xx 壱里」を「xxカラへだたるコト壱里」と読むと思うのですが、里数が書かれていないと、どう読むか知らないからです。
「距」を辞書で見ると、『現代漢和辞典』では「へだたる」、『大字典』では「いたる」「至、到の別」とあり、「へだたる」の読みはありません。此れに従い「xxにいたる」と読めば距離は不要なのでしょうか。
つまらない事を気にしていた為か、北面の紀年銘の下部の確認を忘れてしまった。『大阪の街道と道標』には「大阪府」とあるらしいが、帰って写真を拡大しても読めなかった。道標でないと分かると、いつも手を抜いてしまう、悪い癖としておきます。が本当はケアレスミス(アアー歳は取りたくない)。
一言、府の職員さんが書いたにしては字が下手に見えるのですが。
市内に似たものが有るので一部出しておきます。
「東成区中道4の里程標」は「距高麗橋元標壱里」
「淀川区加島4の里程標」は「距高麗橋元標貳里」
「平野区中野2の里程標」は「八尾街道 距阪奈街道分岐」とありこの石と似た表現となっているようですが、隠れているかも知れない。
今回は花博公園を抜けず、北菫橋より1km程南の、鶴見通りを東に進み、「諸口4西」交差点を目指しました。地下鉄の横堤駅前等始めての所でしたが、昔「諸口1の道標」を探した折の横堤八幡辺りの感じとは違い、少し戸惑いを覚えました。
が、茨田中学に到着しました。今日は門扉が一部開いていましたが、インターフォンで許可を得るべく、ボタンを押すが応答が有りません。どうしようかと迷っていると、女性の方が自転車で中に入って行かれました。声を掛けるべく追っかけたのですが見えません。校舎の中に行かれた様です。こちらは建物の中には用がないのですが、許可取りの為に、職員室を探す事にします。工事中のこともあり、東側の校門方面には進めません。校舎の北側を西にグルリと回り込むと、クラブ活動の指導教師の方にお会い出来、来意を告げるも、「道標は知りません。職員室で訊ねて下さい。」との事。
職員室の場所も良く分らなかったのですが、何とか見つけたものの、入口が幾つも有り、「一年生はこちら」「二年生は…」等と張り紙があり、私は何年生か分からず、「来訪者はこちら」もなく、校舎の東の端迄進んでしまいましたが、行止りです。仕方なく引き返し「教頭先生はこちら」をノックするが返答も無く、勝手に開けて、声を掛けてみると、奥から若い先生が出て来られ、「道標は聞いた事も無い。写真でもあれば場所が分かるのですが。」と言われましたが、こちらが持っている資料には写真はありません。校門付近ではないかと想像していたので、色々やり取りをしたが、現在工事中で立ち入ることが出来ないとの事、「日を改めて」来ることになってしまいました。
この後、摂津国内ではないのですが、見ておきたい道標が近くに二件あり、そちらに向かいます。「大阪市鶴見区今津中4の道標」の東面にあった「稲田」を探している内に、web上で、徳庵駅周辺に明治のものと、それより古い道標があるという「東大阪いっとこマップ」稲田~徳庵周辺のパンフレットを見つけました。
この前来た、今津小学校からはすぐ近くです。今津小学校の南から徳庵駅の南の踏切を目指します。途中にある日枝神社で昼食を取ろうと考えていたのですが、日陰が有りません。何とゆう神社でしょう。代わりに石の鳥居からミストガ噴射されていたので、その下の鳥居の陰で済ませました。
JR稲田踏切を東に越え、パンフレットと明治の地図を参考に旧道と思われる道を選び最初の道標へ進みます。何とも妙な場所に建っていました。驚くほど大きな道標です。当時のメイン道路であったのでしょう。
「稲田本町3-8明治の道標」
東大阪市稲田本町3丁目8-16 民家南東角、三ツ辻北西部に南西を正面にし建つ
227x37x31㎝(頂高約6㎝)尖頭型角柱
N34.689657 E135.580714
(南西面)
左 京 徳庵 きしや道
(南東面)
明治三十二年二月中旬建之
(北東面)
道路修繕發起人(人名20程度略)大阪九之助橋北石…
(北西面)右 八尾(瓢箪図+山)道
とあります。
「きしや」は汽車とし駅へ向うと思う、wiki「徳庵駅」に「明治28(1895)年8月22日、浪速鉄道の四条畷駅、片町駅間開通と同時に開業」とあり、明治32年時点では駅が出来ていた。
瓢箪の図が珍しいとは思いますが、中に「山」が書かれ、瓢箪山を表すのでしょうか。
「稲田本町3-29文久の道標」
東大阪市稲田本町3丁目29-5 民家南東角、三ツ辻北西部に東を正面に建つ
173x25.5x22cm(頂高6㎝)(基部7㎝高さに含む)蒲鉾型角柱
N34.688712 E135.578184
(東面)
徳庵
左 京
野崎
(北面)
文久三癸亥 橋本丁中
正月吉日 建之
(西面)
す久 大坂
(南面)
八尾
右
平野
とあります。
文久三年一月1日とすると、西暦1863年2月18日火曜日になります。まあ元旦から建てる事はないと思いますが。
行先については説明も必要ないかと思うが、元位置のままで有るとすると、180度回転させる必要があると思われるが、この時「右、平野、八尾」の内「八尾」への分岐が稲田の集落内であるか、それ以遠になるかが少し気になる。
北面の紀年銘中にある「橋本」は建主が村だとし、天保国絵図に「橋本新田」として「稲田村」の北に見える。『今昔マップ on the web』明治の地図でもこの後、訪問する徳庵橋の南に「橋本」とある。
本日の最終予定、「今津小学校の道標」の元位置を確認しに行きます。「稲田本町文久三年の道標」上記が案内したと思われる「左、京、徳庵、野崎」道へと北に進みます。線路の東沿いに進んだ道は先の稲田踏切で西側に移り、徳庵駅を右に寝屋川に突当ります。踏切からは650mになります。
「今津小学校の道標」の案内を抜粋して書いておきます。
(西面)
すぐ、大坂
(南面)
左、宝山寺
(東面)
右、藤井寺
(北面)
天保十三寅年
道標から情報を抽出してみましょう。
分かり易いものから見ると、「大坂」は橋を北に渡り、寝屋川右岸を西に今福、京橋で問題は無いでしょう。明治に言う古堤街道とします。
次に「右、藤井寺」は今通って来た徳庵駅前への道を南進として、これも問題なしとします。
最後の「左、宝山寺」が東に向う道を示しますが、複数本存在します。『今昔マップ on the web』では3本道が見えていたので、真ん中の南から2本目の道であろうと見当を付けて、それなら、六郷川右岸道路が南北の道に突当る辻であろうと考えていた。
しかし、現地の状況では、東に向かう道は六郷川右岸道ではなく、五個井路の北岸道が相応しい様で、現府道168号(石切大阪線)となりそうです。依って元辻も一つ北側と結論しました。
河内国内と思いますが、「鶴見区徳庵2-2-4の道標」と名付け「摂津の国の道標」に加える事にしました。 柳谷観音は京都府長岡京市浄土谷堂ノ谷2にあり、眼病に効果があるそうです。摂津の国ではありませんが、ここを案内する道標は沢山存在します。
どこで淀川を越すか気になる所ですが、高槻に入ると「高槻市上本町10の道標」などが「柳谷」を案内しています。
本日は大団円で終わりとなりました。
未調査の学校を回ろうとして、始まった一連の調査でしたが、現時点で「茨田中学校」を除いて終わった事は既に述べました。今日ここに、一基の道標の可能性のある石を、東淀川区菅原1-12に見つけ、鶴見区徳庵2-2-4で柳谷観音常夜燈の道標を目にする事ができて、大満足しています。茨田中学の調べが一層待ち遠しくなりました。