それはきっと、素晴らしいこと
1.
イワン・カレリンはヒーローに憧れていた。
ヒーローになることが夢だった。
けれど、イワンはヒーローになることを恐れていた。
自分にはヒーローになる資格が無いと、固く信じていた。
+++
「あ」
郵便受けの中から出てきたそれを見て、イワンは驚いて小さく声を漏らした。
イワンが手にしているのはMonthly Heroの今月号。彼が折紙サイクロンになる以前から定期購読している雑誌だ。沈みかけた夕陽がイワンの視界に差し込む。不意に襲った眩しさに眼を細めながら、そう言えば今日は発売日だったと思い出した。ここ数日立て続けに出動要請があったから、日付の感覚が無くなっていたらしい。以前の自分なら発売日の前日には既にそわそわして落ち着かなかったのに、変われば変わるものだと苦笑した。
今月号はスカイハイが表紙だからスカイハイ特集がメインのようだが、見出しを見る限りでは折紙サイクロンのインタビューも載っているらしい。スカイハイのマスクのすぐ横に書かれた「ORIGAMI CYCLONE」の文字に、イワンは思わず眉を顰めた。
(そういえばこの前Monthly Heroの取材を受けたっけ……僕のインタビューがスカイハイ特集の号に載るなんて聞いてないよ……)
勿論、予め知っていたとしても、「折紙サイクロン」としての応答に影響は無い。それでも、自分とスカイハイの名が隣同士に印刷されているのを冷静に見るための心の準備くらいは出来た筈だとイワンは思う。そうすれば、どきりと心臓が跳ねることも、突然小さな棘を心臓に刺されたような、こんな痛みを感じることは無かったのだから。
いや、とそこまで考えてイワンの唇が苦しげに歪む。
たとえ知っていたとしても、イワンの心は罪悪感に苛まれただろう。
自分なんかがスカイハイの隣に並ぶなんて、と。
(だって、こんなのおかしいよ。スカイハイさんと僕が同じ紙面に載るなんて、これじゃあまるで……)
まるで、自分達は同じ「ヒーロー」のようではないか。
たかだか雑誌の表紙に過ぎないと言えばその通りだが、それでも「スカイハイ」と「折紙サイクロン」が同等の存在のように扱われるのがイワンには我慢ならなかった。スカイハイが穢れてしまうとさえ思うのだ。
スカイハイは折紙サイクロンなんかとは違う。スカイハイは折紙サイクロンのような紛い物ではない。もっと、崇高な存在なのだ。
何故なら、KOHスカイハイは、正真正銘の「ヒーロー(英雄)」なのだから。
スカイハイは、イワンにとって「ヒーロー」そのものだった。
彼がKOHになる以前から――それこそ彼のデビュー直後から――ずっと応援してきたのだ。スカイハイが新人だった頃はワイルドータイガーの全盛期で、今よりも多くのヒーローが活躍していた。出番を取り合うライバルが多かったからか、それとも彼がまだヒーローの仕事に慣れていなかったからかは分からないが、その頃のスカイハイは特別目立って活躍していた訳ではなかった。それでも、イワンはその頃からずっとスカイハイが好きだった。
初めてスカイハイのNEXTを目にした瞬間から、彼の虜になっていた。
それはきっと、彼が風を操るNEXTだからだとイワンは思う。
風は不思議だ。
辺りを見回せばどこにだって風の存在を感じるのに、風は決してその姿を人前には見せない。
くるくると風に舞う木の葉や、青空を流れる雲。微風に擽られる肌。
風の存在を知るのは簡単なのに、イワンは決して風を捕まえられない。
いつも直ぐ傍にいるのに、見ることも触れることも叶わない。
風はどこにでもいて、何にでもなれる。
どこにでもいるのに、どこにもいない。
何にでもなれるのに、何物でもない。
全ての人の元へ等しく吹くのに、誰の元にも留まらない。
イワンにとって、風は自由の象徴だ。何度風になりたいと願ったことだろうか。
だからこそ、風を操るスカイハイはイワンにとって憧憬と畏敬の対象だった。
だが、イワンはスカイハイの隣に立ちたいとは思わない。イワンにとってスカイハイは雲の上の存在なのだ。風使いの彼は、大空を自由に飛び回ることが出来る。地面に這いつくばって大空を見上げることしか出来ないイワンには決して手の届かない存在なのだ。
(そうだよ。僕なんかがヒーローだなんて、間違ってるんだよ……)
大きく溜息を吐くと、自室のマンションのドアを開ける。ドアノブがガチャリと鈍い音を立てた。
Monthly Heroのカラフルな表紙とは対照的に、イワンの心はモノクロだった。
(大体、僕は只の広告塔……道化(ピエロ)なんだ。本物のヒーローじゃない)
室内に入ると、誰もいない薄暗い部屋は静まり返っていて、落ち込み始めていたイワンの気分を更に憂鬱にした。
夕食はまだだったが、今はとても食事をする気になれない。肩から提げていた鞄を無造作に床に置くと、イワンはMonthly Heroを握ったまま寝室へと向かった。そして、明かりも点けずにベッドの上に身を投げ出すと、寝転がったままもう一度手の中のスカイハイを見詰める。窓の外は、いつしか茜色から紫に染まっていた。
「……僕は、どうしてヒーローになったんだろう……」
ぽつりと、そんな呟きが零れ落ちた。
それは、もう何度自問したか分からない問い。だが、イワンの腕の中のスカイハイは何も言ってはくれない。
(能力が発現した時から、ヒーローに憧れ、貴方に憧れてきた……でも、それは叶わない夢だと思っていたんだ……僕なんかが、貴方みたいなヒーローになれる筈がないって……)
「擬態」という自分の能力が戦闘向きではないことはイワン自身も重々承知している。相応しいとすれば、それこそイワンの大好きな忍者のような隠密行動だろうということも。
職業としての「ヒーロー」にはテレビカメラの前で犯罪者の確保や人命救助をすることでポイントを獲得することが要求される。犯罪を取り締まり、シュテルンビルトの街の治安を守る過程を「魅せる」ことが「ヒーロー」の務めなのだ。それはつまり、ヒーローとして活躍するためには、自らを隠すことが本質の擬態能力は全く役に立たないのである。そんな能力を持つイワンがヒーローになれたのは、偏にヘリペリデス・ファイナンスのユニークな運営方針のおかげだった。
ヘリペリデスのCEOは、他の企業の役員と比べれば格段に若い。その若さ故か、それとも持って生まれた才故なのかは分からないが、非常に独創的な発想の持ち主である。普通、大企業の最高経営責任者という地位にあれば保守的になりそうなものだが、ヘリペリデスのCEOは常に新しい経営戦略を求める革新的な経営者だった。そんな彼だから、ヒーロー事業に関わる姿勢も、他企業とは一線を画していた。彼は自社のヒーローにHERO TV内ででのポイント獲得ではなく、ヒーロースーツに施されたヘリペリデス・ファイナンスのスポンサー会社のロゴアピールするを優先するようを求めたのである。
ヒーローの広告媒体としての役割を徹底的に利用することで、ヒーロー同士のポイント獲得合戦から外れ、更に「見切れ」を売り物にすることで他のヒーローとは違うファン層を狙ったのだ。そして、CEOの目論見は見事に実を結んだ。
(誰も、僕にスカイハイさんのようなヒーローになることを求めていない。ヒーローと呼ばれていても、僕のことを本当のヒーローだと思っている人間は、このシュテルンビルトに誰一人としていない。僕は、英雄(ヒーロー)になんてなれない――)
「折紙サイクロン」というイロモノヒーローを蔑むヒーローファンは多い。しかし、ヒーローとしては異端の、いや、落ちこぼれとすら言える折紙サイクロンを応援してくれるファンもいるのだ。だが、イワンはどうしてもその事実を素直に喜ぶことが出来ない。落ちこぼれに同情してくれているだけだと自分を卑下せずにはいられないのだ。
ぱさりとMonthly Heroをベッドサイドテーブルに置くと、イワンは両手で顔を覆った。これ以上、スカイハイの顔を見ていたくなかった。
「僕なんかがヒーローで、ごめんなさい……」
誰にともなく呟かれた謝罪は、コトリと乾いた音を立てて部屋の片隅へ転がっていった。
何度も口にしたその言葉は、澱のように少しずつ部屋を充たしていく。積もり積もったその濁りに、いつかイワンは飲み込まれてしまうのかもしれない。
だが、それもいいかとイワンは思う。
絶望の水底に深く深く沈んでしまえたなら、きっともう罪悪感に胸を締め付けられることもない。
もう、自分の無力さに傷付くこともない――
(それでも、僕は……)
いつの間にか陽が暮れて、辺りは闇に包まれていた。心地よい暗闇はイワンを夢の世界へと誘う。
眠りに落ちる寸前に瞼の裏に浮かんだのは、緋色の髪の後姿だった。
2.
アポロンメディアからヒーロー界初のバディ・ヒーローが誕生する。
そのニュースを聞いた時、シュテルンビルトを一陣の風が駆け抜けるのをキースは感じた。
新たな時代の到来を、King Of Heroは確信していた。
+++
NC1977年、ヒーロー界に大きな変化があった。バーナビー・ブルックス・Jrのデビューと同時にヒーロー事業の形態が変わり、シュテルンビルト七大企業がヒーローを独占する事になったのだ。
キースはビジネスに関しては全くの素人だから、この変化が意味するところは分からない。だが、ヒーロー事業には経費が掛かるから、大企業でなければヒーローを雇うことは難しいことは知っている。高性能のスーツの開発から賠償金の支払いまで、ヒーロー活動がスポンサーに頼る所は大きい。ヒーローは企業の後ろ盾があるからこそ活躍出来るのだから、所属企業が強力であればあるほどヒーローにとっては良いことなのだろう。
何にせよ、ヒーロー・スカイハイであることに誇りを持つキースは、ヒーロー活動に役立つのならどんな変化でも喜んで受け入れようと心に決めていた。
ただ、そんな変化の中にも喜ばしいと素直に思えることが一つあった。各企業に所属するヒーロー達が、ジャスティスタワーのトレーニングセンターを共有することになったのだ。そうなればヒーロー同士顔を合わせる機会が多くなる。他のヒーロー達と親しくなる切っ掛けになるかもしれないと思うと自然と期待に胸が躍った。
別々の企業に所属しているとはいえ、自分達はシュテルンビルトにたった八人しかいないヒーローだ。ライバルでもあるが、同時に市民を守る仲間なのだ。一緒にトレーニングをすることで、仲間としての絆を強められたら良いとキースは思っていた。
それに、所謂ヒーローの年少組―ドラゴンキッド、ブルーローズ、折紙サイクロンのことだ―と親しくなる機会が訪れるのも嬉しかった。キースを含めたワイルドタイガー、ロックバイソン、ファイヤーエンブレムの年長組とは年齢に差があるからか、HERO TV収録時にヒーロー同士で集まっても彼等と話をすることは殆どなかった。
キースが新人だった頃は、年齢に多少の開きがあってもヒーロー同士頻繁に交流していた。ワイルドタイガーとロックバイソンはヒーローになる以前から親友だったらしいし、ファイヤーエンブレムも彼等と仲が良い。面倒見のいいワイルドタイガーが後輩のキースを何かと構うものだから、キースも自然と三人と親しく付き合うようになっていた。
自分がワイルドタイガー達に助けてもらったように、今度は自分がヒーローの先輩として後輩のヒーロー達の力になってあげたい。それがキースの今の願いだ。中でも、折紙サイクロンの成長の手助けをしたかった。
何故折紙サイクロンなのかと問われたら、キースは分からないとしか答えられない。
何となく気に掛かる、放っておけない、という曖昧な感情があるだけだ。
実は、初めて折紙サイクロンに会った時からずっと、キースは彼のことが気になっていた。
初めてヒーロー「折紙サイクロン」を目にしたのは、三年前のシーズンフィナーレのことだった。基本的にニューヒーローはシーズン最後の表彰式の後に紹介される。そこでヴィジュアルを披露して、次のシーズンが始まるまでPR活動で話題作りを行うのだ。そうやって視聴者に予備知識を持たせることで次のシーズンへの期待を高まらせるのだそうだ。もっとも、実際はHERO TVが休みの間もヒーローは犯人確保や救助活動を行っているから、ヒーローとしての仕事は司法局から資格を得た瞬間から既に始まっている。
キースの折紙サイクロンに対する第一印象は「何てCoolなんだろう」だった。
JAPANのNINJAをモチーフにデザインされたらしいヒーロースーツは実にカラフルでユニーク。不思議な口調とダイナミックな身振りは子供の頃クリスマスに見たパントマイムに出てきた妖精(ジン)を思い出させた。
早く彼と話してみたい。きっと楽しい人に違いないとわくわくしながら彼に会うのを心待ちにしていた。
だが、マスクを脱いだ彼は、キースの想像とはかけ離れた人物だった。
表彰式の後に開かれたHERO TV関係者だけを集めたパーティーで、
「ヘリペリデスファイナンス所属の、折紙サイクロンことイワン・カレリンです」と、緊張に震える声で自己紹介したのは、まだ少年と言っていい程若い青年だった。
あまりに意外な折紙サイクロンの素顔に、一瞬驚いて眼を瞠ってしまったのを覚えている。ヒーロースーツを着用していた時は同じ位の身長だと思ったが、実際の彼は随分小柄で華奢だった。おそらくまだ身体が成長しきっていないのだろう。もしかしたら18歳にも満たないかもしれない。
「折紙サイクロンの時はキャラ作りのためにテンションを上げてもらっていますが、普段は大人しい子なんですよ」
だからお手柔らかに頼みます、と冗談めかしてヘリペリデスのCEOは笑ったが、隣で縮こまっている折紙サイクロンを見れば大人しい性格なのは本当だと分かった。
彼の緊張を解してあげなければ、と半ば使命感のようなものに駆られて一歩踏み出したのは、果たしてヒーローとしての本能故か、それとも小刻みに震える彼の肩に最近飼い始めた子犬を思い出したからか。
「スカイハイことキース・グッドマンだ。シュテルンビルトの平和を守るヒーローとして共に頑張ろう!」
そう言って、笑顔と共に手を差し出した。
私達は仲間なのだから、心配することは何もないんだよ。
そんな思いをその言葉と笑顔に込めたつもりだったから、きっと彼もまた笑顔で応えてくれるだろうと思っていた。
だから、伸ばされた手とキースの顔を交互に見比べた後、彼の顔がくしゃりと歪むのを見てはっと息を呑んだ。
彼が泣いてしまうと思ったのだ。
けれど、次の瞬間、キースの直感を裏切るように折紙サイクロンはにこりと笑って見せた。そして「宜しくお願いするでござる」とおどけた口調で答えると、キースの手をしっかりと握り返したのだった。
それは、時間にすればたった数秒のことだった。キース以外誰も気付かないような僅かな変化だった。
キースの言葉に苦しげに揺れた彼の瞳が、次の瞬間には澄んだ硝子玉に変わったのだ。
それはまるで、蝋燭の火が吹き消されような。
突然目の前で扉を閉められたような。
折紙サイクロンの変化はそれ程までに唐突だった。
それ以来、キースは折紙サイクロンが気になって仕方なかった。
あの時の彼の表情が目に焼き付いて忘れられない。
彼が見せた表情の意味を知りたい、硝子玉のような瞳に光が宿る様を見てみたい。
そんなことを漠然と思うようになっていった。
けれど、その後中々折紙サイクロンと話す機会はやって来なかった。彼はどうも必要以上に他人と関わることを避けているようで、出動時もいつの間にか現場に来ていつの間にか去っているのだ。
実際キースは折紙サイクロンがヒーローの誰かと話しているところを見たことがない。ブルーローズやドラゴンキッドはファイヤーエンブレムが構ってあげているようだが(女子会とやらを開くことが多いらしい)、折紙サイクロンはいつも一人でいる。ヒーローの中ではドラゴンキッドとは比較的よく話すらしいが、それもファイヤーエンブレムづてに聞いた話だった。
そんな思いを抱えていたキースだから、バーナビーの参入でヒーロー同士の関係に良い変化が訪れることを望んでいた。そして、少しずつでいいから折紙サイクロンとの距離を縮められればいいと願っていた。
+++
――誰かが呼んでいる
「ス……ハイ」
――誰だろう
「スカイ……」
――誰を、呼んでいるのだろう……―――
「スカイハイ!」
ぱち、と目を開けると、視界一杯にアイヴォリーの天井が広がる。
ここは何処だ。
最初に頭に浮かんだのは、そんな疑問だった。
「スキャンは終わったからもう起きていいわよ」
何処かから女性の声がする。声の近さからすると同じ室内にいるようだ。だがここは自宅ではない。自宅ならジョンの声がする筈だ。
「スカイハイ?」
そんなことをぼんやり考えていると、不意に白衣を着た初老の女性が視界に現れた。
その見覚えのある姿に、キースはやっと自分が今いる場所を思い出した。
「あ……すみません、Dr.シヴァ。考え事をしていたら眠ってしまっていたようです」
慌てて寝台から起き上がると、傍に畳んで置いてあったフライトジャケットに腕を通す。まだ少し寝惚けているのか身体がだるかった。
そうだ、今はポセイドンラインのメディカルセンターで月に一度のメディカルチェックを受けていたのだった、とまだ半分夢心地の気分で呟く。脳のスキャンを受けている最中にうとうとしてしまったらしい。
「あら、珍しいわね。悩み事かしら?」
「いえ。早くジャスティスタワーのトレーニングセンターを使ってみたいな、って考えていたんです」
からかうようなドクターの問いにキースがそう素直に答えると、「貴方らしいわ」とドクターはくすくす笑い出した。
Dr.シヴァはポセイドンラインのヒーロー事業部に付設するメディカルセンターの責任者だ。キースの体調管理は彼女率いるメディカルチームによって行われている。彼女は元々海外の大学でNEXTの研究をしていたが、KOHのデータの提供を条件にポセイドンラインに引き抜かれシュテルンビルトにやって来たらしい。
ドクターは何故かキースを一目見て気に入り、キース自身も彼女を信頼しているためか、医者と患者というよりは歳の離れた姉弟のような心安い仲だった。
「ヒーロー全員がトレーニングセンターを共有するなんて今までなかったものね。そこで他のヒーローに会えるのが楽しみなの?」
「ええ。バーナビー君とも友達になりたいですしね」
「バーナビー・ブルックス・Jrね……ヒーローに顔出しさせるなんて、アポロンメディアは何を考えているのかしら。ヒーローはアイドルじゃないのよ」
バーナビーの名前にドクターの表情が翳る。アポロンメディアのバーナビーの待遇が解せないらしい。ヒーロー・スカイハイのサポートに就いているからか、彼女はヒーローの健康や安全に人一倍敏感だ。ヒーローはその仕事の性質上、犯罪者に恨みを買い易い。ヒーローが自ら正体を曝せば、その分普段から狙われる危険が高くなる。他企業のヒーローとはいえ、ドクターとしてはバーナビーが本名でヒーロー活動をするのが心配なのだろう。
「彼はハンサムだから顔を隠しておくのは勿体無いとファイヤー君が言っていましたよ。ブルーローズ君も同意していました」
「確かに彼はテレビ栄えする顔かしらね。でも、貴方だってコケイジャンの成人男性としては相当端正な顔立ちをしてると思うわよ」
「Dr.にそう言って貰えるなんて、光栄だな」
キースとしては本心からそう言ったつもりだが、キースの言葉を冗談と取ったのかドクターは「お上手ね」と言ってころころ笑った。
インド系の彼女は白人の自分とは美醜の基準が違うだろうし、男性に興味が無い彼女の言うことならキースを贔屓することもないだろうと思ったのだが。
「でも、貴方が顔出ししていたら心配で仕方ないわ。只でさえ忙しいのに、プライベートの時間が無くなってしまうもの……ところで貴方、相変わらず毎日同じ物食べてるの?」
「ええ、体調管理は基本ですからね」
「私としてはデータにばらつきが出ないから喜ぶべきなんでしょうけど……ねえ、少しは違うものを食べてもいいのよ?色々な味を楽しむのも、人間の楽しみの内よ」
「それは分かっています。しかし、私はヒーローとして常に万全の状態でいたいのです」
「その気持ちは立派だわ……でもね、たまにはヒーローを休むのも良いことよ。貴方が休んでも、誰も貴方を責めないわ」
「?ちゃんと休息は取ってますよ?」
疲労が溜まると出動時に影響が出ますからね、とキースが笑うと、ドクターは呆れたように溜息を吐いて、仕方の無い子ね、と苦笑した。
「この話は良いわ。忘れて頂戴。ところでこのルーキー、ワイルドタイガーと全く同じ能力なんですってね」
「バーナビー君もワイルド君と同じハンドレッドパワーの持ち主らしいです。制限時間もワイルド君と同じ5分間だとか」
「ワイルドタイガーとバーナビー・ブルックス・Jrには血縁関係は無いのよね?なのに全く同じ能力が発動するなんて……やっぱりまだまだNEXTには謎が多いわ。」
他企業のヒーローだけど何とか研究させてもらえないかしら、ああでもこういうのも企業秘密の内に入るのかしら、とぶつぶつ呟くドクターの横顔は生き生きしている。彼女はNEXTの研究に情熱を傾けているのだ。
「研究熱心なんですね」
「ワーカホリックなのは私も同じだから、貴方にどうこう言える立場ではないのよね。私はNEXTについての研究は意義のあることだと思っているの。それは単に私の知的好奇心を満たすためじゃないわ。NEXT達自身のために、必要なことだと信じているの」
そう言って、ドクターは何かを訴えるようにキースをじっと見詰めた。
「……ある日突然現れた能力は、ある日突然消えるかもしれない。もっとちゃんとした研究がされるべきだわ」
「私で役に立つのなら、幾らでも実験に付き合いますよ。NEXTの力について研究が進めば、これから現れるNEXT達が能力をコントロールする手助けになりますよね」
「そういうつもりで言ったんじゃないのだけど……」
困ったように眉尻を下げるドクターに、それはどういう意味かと尋ねようとキースが口を開きかけた時、鋭い電子音が響き渡った。
Beep Beep Beep
PDAが出動要請のアラームを鳴らしている。
「すみません、事件が発生したようです」
「分かってるわ。いってらっしゃい、スカイハイ」
「はい!ではまた来月!」
+
「どうか無事に帰って来てね、キース……」
キースの後姿を見送りながらドクターが呟いた祈りは、キースの耳には届かなかった。
3.
「えーっと、『今日の拙者の見切れ、御覧になったでござるか?なんとブルーローズ殿の背後で見切れたでござる!さて、今回の事件は人形を操るNEXTが起こした事件でござったが、スティールハンマー像の次にヘリペリデスのライオン像が犯人に奪われたのには拙者も驚いたでござる。あの像は文化遺産なので傷でも付けたら賠償金が大変なことになると、プロデューサー殿にタイガー殿が脅されており申した。ちなみに我が社のCEOは良い宣伝になったと喜んでいたでござる。ビジネスマンの考えは分からないでござるよ』っと。後はどうしようかな……『次回はニューヒーローのバーナビー殿の背後で見切れたいでござるよ!!』……こんなところかな?」
イワンはふう、と一息吐くと、キーを叩く手を止めて文章の推敲をする。もう少し見切れた状況について書くべきかとも思ったが、あまり詳しく書きすぎてブルーローズのファンに難癖をつけられたら困ると思い直した。彼女には熱狂的なファンがついていて、ブルーローズに関する記事はどんなに小さなブログ記事でも逐一チェックしているらしいのだ。彼等は当然折紙サイクロンのブログも読んでいる。
「うん、特に変なことは書いてないよね」
今日の記事は無難な内容だから、「お前なんかがブルーローズ様と同じフレームに入るな!」程度のコメントが付く位だろう。ブログを始めた頃は攻撃的なコメントを貰う度に落ち込んでいたが、幾ら気の弱いイワンと言えども流石に慣れてしまった。最近では炎上しないだけましだと自分に言い聞かせている。
「これでよし、と」
送信ボタンをクリックする。ブログの更新を知らせる画面を確認してウィンドウを閉じると、どっと疲れが襲って来た。攻撃的なコメントを貰うことには慣れても、ブログを書くこと自体には未だに慣れない。何時まで経っても不器用な自分にイワンはほんの少し自己嫌悪を覚えた。
折紙サイクロンとしてブログを書くのはヘリペリデスから要求された業務の一環だし、文章を書くこと自体は苦ではない。ただ、ヒーロースーツを着ていない時に折紙サイクロン時のテンションを維持するのは精神的な負担が大きいのだ。元々イワンはネガティブで内向的な性格だ。目立つことも好きではないし、声だって小さい。折紙サイクロンのキャラとは正反対なのだ。そんなイワンが折紙サイクロンを演じるのは、それだけで随分体力を必要とする。スカイハイやワイルドタイガーのように、普段の性格とヒーロー時の差が殆ど無いタイプなら良かったと、つい愚痴を零したくなった。ちなみにブルーローズも女王様キャラで売り出しているためキャラ作りで苦労することが多いそうだ。
(ヒーローになるのに演技力が必要だなんて聞いてないよ……)
疲れたから今日はもうパソコンを見るのはやめよう。そう思ってウィンドウを閉じていると、ふと、記事作成のために参照していた資料を映した画面に目が留まった。そこには今日の事件の詳細と共に犯人の顔写真が載っている。
(ううん、こんな子供を犯罪者なんて呼べない。呼んじゃ駄目だよ)
こんな幼い子が、ある日突然NEXT能力に目覚めたのだ。どれ程心細かったことだろう。
NEXTの出現は比較的新しい現象だから、まだ十分な研究がされていない。NEXTには未知の部分が多く、何故突然変異が起こるのか、誰がNEXTになるのかといった基本的なことすら解明されていないのだ。NEXTの能力の仕組みや、どうやって能力を制御する方法等に至っては、研究すら始められていないかもしれない。
そんな不可解な現象が、ある日突然自分の身に降り掛かるのだ。不安にならない筈がない。
自分で自分の身体がコントロール出来なくなるのは恐ろしい。だからこそ、この少年には理解者が必要だったのだ。大丈夫だと何度も言い聞かせて抱き締めてくれる人が必要だったのだ。周囲の人間が、彼を支えてやらなければならなかったのだ。
だが、彼の友人達は理解を示すどころか、彼を蔑み除け者にした。それが悲しくて、悔しくて、自分を馬鹿にした人間達を見返してやろうとあんな事件を起こしたのだ。いや、本人にはあんな大事件を起こすつもりなどなかったのかもしれない。きっと、行き場の無い怒りをああいった形で発散させることしか思いつかなかったのだ。ただ、幸か不幸か彼の能力は巨大な像を動かせるほど強力だった。
「この子、これからどうなるんだろう……」
ワイルドタイガーの説得のおかげで自首したのだし、そもそもまだ子供なのだから罪に問われることはない筈だ。とは言え、多くの人を巻き込んだ大惨事を彼が引き起こした事実は変わらない。ヘリペリデスのライオン像は傷一つ無く戻ってきたけれど、多くの建物を破壊してしまった。軽症だが怪我人も出た。彼の親が賠償金を支払えるとは思えない。おそらく、司法局は賠償金を請求する代わりに、彼にヒーローアカデミーに入学することを命じるのだろう。そこで能力の制御方法を学ぶことを義務付けられ、司法局の管理下に置かれる。卒業しても10年以上の保護監察を受けることになるかもしれない。
「そんなの、おかしいよ」
どうしてこのトニーという少年だけが罰せられなければならないのだ。元はと言えば、彼を迫害した周囲の人間が悪いのに。彼を追い詰めたのは、NEXTを気味悪がった人間なのに。
「NEXTだって、人間なんだ……――」
(――――こっちに来るな!
――――化け物!
――――何て気味の悪い子……!)
「……っ!」
遠い昔の記憶が蘇り、イワンは思わず胸を押さえた。心臓が恐怖に早鐘を打っている。あれは昔のことだと、何度も深呼吸をして自分を落ち着けなければならなかった。
イワンにはトニーの苦しみが痛いほど理解出来る。イワンもまた、彼と同じように化け物扱いされたからだ。
5歳の時に能力が発現したイワンは、最初、自分の身に何が起こったのか理解出来なかった。確かその頃にはNEXTの存在についておぼろげながら知識があった筈だが、当時イワンの周囲にNEXTはいなくて、何処か遠くの出来事だと思っていたのだ。だから、まさか自分がNEXT能力に目覚めるなんて、夢にも思わなかった。
能力が発現した当初は、所構わず触れたものに擬態してしまった。実際、あまりに目まぐるしく変化するものだから、自分でもその時何に擬態しているのか把握出来ないこともあった。誰かに擬態したまま何日も元の姿に戻れなかった時の恐怖は今でも覚えている。
自分の身体なのにコントロール出来ない。それまで当たり前のように出来ていたことが、ある日を境に出来なくなるのだ。それは、幼いイワンにとって世界が突然崩壊したに等しい衝撃だった。
毎日が恐れと不安と混乱の連続だった。暗闇に一人取り残されてしまったような心細さに幼いイワンの心は押し潰されてしまいそうだった。あの頃のイワンには、周囲の人間の理解と優しさが必要だった。
しかし、NEXT能力に目覚めたイワンを、憎悪する者は多かった。
イワンの能力が発現した頃は、一昔前と比べてあからさまなNEXT差別は減少傾向にあった。HERO TVの影響で、NEXTに対するイメージが大幅に改善されたのだ。しかし、あからさまに迫害を受けることは減ったとは言え、NEXTへの偏見が無くなった訳ではない。異質な者を恐怖する人間は多いのだ。
更に、イワンの能力はその特殊さ故に、元々NEXTを嫌悪していた人間達の不信感を一層煽った。
もしイワンが自分に取って代わったら――――
もし自分の大切な人が知らない内にイワンにすり替わっていたら――――
イワンの能力は、人々の心にそんな不安の種を植え付けたのだ。
不安だけではない。周囲の人間にとって、イワンは自分達のアイデンティティを脅かす存在として、ただそこにいるだけで絶大な恐怖を与えた。彼等にとってイワンは排除すべき「敵」だったのだ。
イワンは何度も彼等に心無い言葉を浴びせられ、人間以下の扱いを受けてきた。しかし、彼等の中の誰一人としてイワンに近付きはしなかった。イワンが触れることで対象の姿形をコピー出来ると知ると、皆彼に触れることを恐れたのだ。まるで伝染病に罹った病人から逃れるように、皆イワンを忌み嫌い、拒絶したのだった。
幸運なことに、イワンの家族は能力が発現した後も、それまでと変わらずイワンを愛してくれた。他の人間と同様、擬態能力に対する生理的嫌悪感は少なからずあっただろうに、内心の葛藤をおくびにも出さず、父母も祖父母も兄弟もイワンを人間として扱ってくれた。
大丈夫、私達は貴方がどんな姿でも、変わらず貴方を愛している。
そう言って、イワンを抱き締めてくれたのだ。抱き締める腕の温もりから、溢れるほどの愛を感じたのだ。
家族の皆がいたからこそ、自分の心は歪まずに済んだのだとイワンは思っている。
イワンの擬態能力を使えば人を陥れることは簡単だ。仕返しをしようとすれば幾らでも出来ただろう。だが、どんなに酷い扱いを受けても、イワンは人を傷付けたいと思ったことは無い。どんなに蔑まれ嫌われても、誰かを憎んだことは無い。
憎しみ故にイワンは苦しんだのだ。
だからもう、誰にも自分と同じ苦しみを味わって欲しくなかった。
「僕だって、一歩間違えればこの子と同じことをしていたかもしれない。罪を犯して、沢山の人を傷付けていたかもしれない。そうすれば、きっとヒーローにだってなれなかった……」
ふと、この子は将来ヒーロー資格を取れるのだろうかと考えてイワンの表情が翳った。
一度罪を犯したNEXTからはヒーローになる資格が剥奪される。たとえどんなに優秀なNEXTであったとしても、ヒーローにはなれない。
ワイルドタイガーに救われた少年は、きっと彼のようなヒーローになりたいと夢見ることだろう。だが、もしかしたらその夢は、芽吹く前に摘み取られてしまうかもしれない。
この子もまた、エドワードと同じ運命を辿るのだろうか。たった一度の過ちで、夢を叶える機会すら奪われてしまうのだろうか――――
いや、そんなことはない。
そう自分に言い聞かせるようにイワンは頭を振った。
トニー少年はエドワードとは違う。それに、エドワードの将来を奪ったのは自分だ。彼の夢を壊したのは、イワンなのだ。
「エドの未来を奪った僕が、どうしてヒーローなんだろう……」
何故、彼ではなく自分がヒーローをしているのだろう。
何故、自分はヒーローを目指したのだろう。
ヒーローアカデミーに入学した頃にはイワンは擬態能力をほぼ完璧に制御出来るようになっていた。NEXT能力のコントロールを学ぶためというのなら、アカデミーに通う必要は無かった。
(僕は、どうしてヒーローになりたいなんて思ったんだろう。僕なんかヒーローになれる筈ないってずっと思っていたのに……どうしてヒーローに憧れたんだろう……)
そう自問するイワンの脳裏を、白と紫のスーツを纏ったシルエットが過ぎった。
(ああ、そうか)
イワンはヒーローに憧れたのではない。憧れたのは、スカイハイだ。
彼のようになりたいと願った。彼のように皆から好かれる存在になりたいと思った。
(でも、僕は決して彼のようにはなれない――――)
屈託の無いスカイハイの笑顔を思い出して、イワンの胸はずきりと痛んだ。
イワンがヒーローとしてデビューした日のことだ。HERO TVシーズンフィナーレを飾る授賞式の後、初めて他のヒーローと顔合わせをした。そこで、素顔のスカイハイを目の当たりにしたのだ。
スカイハイは風使いだが、彼自身は太陽のような人だ。それが、イワンのスカイハイに対する第一印象だった。
素顔の彼―キース・グッドマン―は、春の陽射しのような黄金の髪と夏の青空のように澄んだ青い瞳の持ち主だ。そこにいるだけで輝いているようだった。彼の傍にいるだけで、太陽に明るく照らし出されている心地になった。
イワンは強烈にスカイハイに惹かれた。思慕、憧憬。そんな言葉では言い表せない。それこそヒーローワーシップ(英雄崇拝)に近い感情を抱いていた。
以前、一度だけ街でオフのスカイハイを見掛けた。犬の散歩の途中だったのか、その時の彼はジーンズにフライト時ジャケットとラフな格好をしていた。けれど、ヒーロースーツを着ていなくても彼は根っからのヒーローなのか、交通量の激しい道路を渡れなくて困っている老人や落し物をした男性を助けて、その度に人々から感謝されていた。
スカイハイは正真正銘のヒーローだ。
だが、太陽のような彼も、全てを照らすことは出来ない。光あるところには必ず影が出来る。
彼が光なら自分は影だとイワンは自嘲的に嗤った。
イワンはスカイハイに憧れている。彼のようになりたいと心から願っている。だが、イワンは決してスカイハイのようなヒーローにはなれない。イワンは彼のようには笑えない。彼のように無私無欲で人助けなんて出来ない。
(だって、僕がヒーローになったのは自分のためだから……――)
やっと自分がヒーローになった理由に思い至って、イワンは苦い笑みを零した。
イワンはただ、信じてもらいたかっただけだ。
自分は決してNEXTの力を悪事に使ったりしない、と。
イワンはただ、これ以上人々から猜疑の目を向けられるのが辛かっただけなのだ。
イワンが能力を悪用するのではないかと疑う人間は大勢いた。擬態という特殊な能力は人を欺くために使うことが出来る。イワンの周囲の人間が恐れたように、他人のアイデンティティを盗むことなど造作もない。
そんな恐ろしい能力を持った自分を信じられない人が多いのは当然のことだとイワンは思う。イワン自身は、この力を人の為に使いたいと思うことはあっても、犯罪行為に使おうと思ったことは無かった。
信頼されなくてもいい。期待されなくてもいい。
けれど、何もしていないのに疑われるのは辛い。敵意を向けられるのは悲しい。
ヒーローになれば、少なくとも自分を敵視する人間はいなくなると思った。スカイハイのように大勢の人間から愛されなくとも、シュテルンビルトの市民のために日夜戦うヒーローならば、こんな自分でも受け入れられるかもしれないと思ったのだ。
(僕は、市民を助けるためじゃなくて、自分のためにヒーローになったんだ。
最初から、僕にはヒーローになる資格なんてなかったんだ……)
何て卑しい人間だろう。
自分の醜さ、矮小さに耐えられなくなって、イワンは腕で顔を覆いデスクの上に突っ伏した。抑え切れない涙が両腕を伝い、机の上に小さな水溜りを作る。
だが、涙が涸れる程泣いてもイワンの罪は消えないのだ。
エドワードが助けを求めた時、どうしても動くことが出来なかったのは、イワンに覚悟が足りなかったからだ。不純な動機でヒーローになろうとしていたイワンには、誰かのために手を伸ばす勇気が欠けていたのだ。
嗚咽に身を震わせながら、自分はヒーローになるべきではなかったのだと心の底から後悔した。
僕はヒーロー失格だ。
そう自分を責めながらも、同時に、自分にはヒーローをやめることも出来ないとイワンは知っていた。ヒーローになったことで得たものはあまりにも多い。それらを全て手放すことなど、もう出来なかった。ヒーロー失格だと知りながら、それでもイワンはヒーローであることに縋っている。何て卑怯で浅ましいのだと、イワンは自分自身を呪った。
この身体は何にでも姿を変えられるのに、心は決して変わらない。
どんなに美しいものに擬態しても、中身は醜いイワンのままだ。
どんなに強い人間に擬態しても、中身は弱くて泣き虫なイワンでしかない。
イワンは、イワン以外の何者にもなれない――――
そんな当たり前の事実を前にイワンは絶望の涙を流した。
この涙と一緒に自分の心も流れ消えてしまえばいいのにと、愚かな願いを胸に抱きながら。
泣き疲れて眠ってしまうまで、ただ、泣き続けた。
4.
「やあ、折紙君じゃないか!」
「あ、スカイハイさん……おはようございます」
「おはよう!そして、おはよう!」
その日、キースは珍しくロッカールームで折紙サイクロンと鉢合わせた。
いや、「珍しく」というよりは、もしかしたらこれが初めてのことかもしれない。と言うのも、ヒーロー達がジャスティスタワーのトレーニングルームを共有するようになってからも、相変わらずキースは折紙サイクロンと出動時以外で顔を合わせることがなかったからである。守衛によればトレーニングセンターには殆ど毎日のように来ているが、何故か他のヒーロー達とは時間がずれているらしいのだ。
同じヒーローと言えども国籍も年齢も違うのだから生活リズムも違って当たり前だ。トレーニングの時間帯が重ならなくても不思議はないのかもしれない。しかし、トレーニングルームの共有で折紙サイクロンと喋る時間が増えることを期待していたキースとしては、やはり少々がっかりせずにはいられなかった。
本当は、バーナビーのバースデーサプライズだってヒーロー全員で行いたかった。まだ子供でマネージャーに厳しくスケジュールを管理されているドラゴンキッドは急なサプライズに参加するのは難しかったかもしれないが、折紙サイクロンは比較的自由の身なのだ。他のヒーロー達と一緒に少し羽目を外しても許されるのではないか。
結局は犯罪者に計画を台無しにされてしまったが、ワイルドタイガー達と芝居を練習するのは実に楽しかった。まるで、NEXTが発現する前の学生時代に戻ったようだった。ヒーローという職業柄、プライベートでも秘密にしなければならないことが多く、キースにはヒーロー事業関係者以外で親しい友人が殆どいない。実は今まで一般人の恋人も何人かいたが、ヒーローであることを隠しながら付き合いを続けるのは難しかった。かと言って、ヒーローであることを打ち明ければ、初めは快く応援してくれても、やがて危険な事件が起こる度にキースの身を案じることに疲れ果て、耐えられずにキースの元から去って行くのだった。最近では、ヒーローである限り恋人を作るのは無理そうだと達観している。
だからこそ、あんな風に気心の知れた仲間とワイワイ騒ぐのは新鮮だった。浮かれ過ぎて芝居の練習中にアドリブを入れてワイルドタイガーに呆れられてしまったくらいだ。
折紙サイクロンともあんな風に気安く過ごせるようになりたい。改めてそう考えていた所に、本人と遭遇したのである。この偶然が純粋に嬉しくて、挨拶を交わした後もキースは会話を続けるために口を開いた。
「ここで会うのは初めてだね!」
「そう、ですね。あまり皆さんとご一緒する機会がなくて……」
しかし、言葉が上手く出て来ない。
よく考えればそれまで彼とはまともに話したことが無いのである。一体何を言えばいいのか全く分からなかった。
「あの、それじゃあ僕お先に失礼します」
「ま、待ってくれ」
キースが言葉を探して迷っている内に、既にトレーニングウェアーに着替え終わっていた折紙はロッカールームを出て行こうとする。折角の好機を逃してはならないと、キースは未だ折紙と何を話すべきか考え付いていないにも拘らず、自分に背中を向けた彼を咄嗟に引き止めてしまった。案の定、振り向いた折紙は不思議そうな顔をしている。
「何ですか?」
「いや、その……」
早く何か話題を見付けなければと思うのだが、焦れば焦るほど頭が真っ白になって言葉に詰まってしまう。歯切れの悪いキースに、折紙がますます不思議そうな顔をするが、先輩ヒーローに対する礼儀からか黙ってキースが次の言葉を発するのを待っている。早く何とかしなければ、と冷や汗が流れたところで閃いた。
「あ、ああ、そうだ!私は明日サウスメダイユ地区の介護施設に行くのだけれど、折紙君は何処へ行くんだい?」
「……僕は、タイガーさんとバーナビーさんと一緒に、ヒーローアカデミーで特別講義をすることになっています」
「ああ、成程。確か、君とバーナビー君はアカデミー出身だったね」
「はい。僕の方がバーナビーさんより早く卒業しましたけど」
明日は、ヒーローのイメージアップを狙ったイベントが各地で催される。ルナティックの「悪人には死を」という思想にシュテルンビルト市民が同調し始めたことに危機感を抱いた七大企業のCEOが、ヒーローの信頼回復を図るために実施し始めたキャンペーンの一環だ。キース自身は、わざわざヒーローが正義側であることを訴えなくとも、今まで通り街の平和を守るために日夜自分達が努力していれば、自ずと結果は付いてくると信じていたが、司法局やCEO達の考えに反対する気も無かった。ヒーロー活動にはスポンサーが不可欠だし、そのためにヒーローのイメージが悪くなるのは避けなければならないことを承知していたからだ。それに、ルナティックの正義が何であれ、認可を受けていないNEXTがその能力で犯罪者を取り締まることを司法局が見過ごせる筈は無かった。法の後ろ盾の無い者に、誰かを裁く権利など無いのだ。
「未来のヒーロー達にヒーローの心得を伝えるのか。うん、素晴らしいことだね。特にアカデミーの卒業生である君達からの言葉なら、きっと彼等の心に刻まれるに違いない」
「そう、でしょうか……」
「どうしたんだい?顔色が優れないようだが……」
他愛の無い話をしている筈なのに、どんどん折紙サイクロンの表情が曇って行く。仕舞いにはぎゅっと苦しそうに眉を寄せて俯いてしまった。
「折紙君?」
「僕なんかが行っても、ヒーローのイメージアップに繋がるとは思えません」
「え?」
「僕なんかに、ヒーローにとって一番大事なものなんて教えられません」
消え入りそうな声で折紙サイクロンが告げた内容に、キースは思わず「何を言っているんだ」と声を荒げてしまった。
「君は立派なヒーローじゃないか。どうしてそんなことを言うんだい?」
「違います。僕はヒーロー失格なんです……僕よりもルナティックの方がよっぽどヒーローらしい……」
「そんなことはない!そんなことはないよ、折紙君。私は彼の正義は間違っていると思う。どんな理由があろうとも、人を殺してはならない。犯罪者と言えども生きる権利がある。そして、罪を犯した者こそ生きるべきなんだ。生きて罪を償うべきなんだ」
キースの言葉に折紙は弾かれたように顔を上げる。大きく見開かれた瞳は潤んでいた。
「でも、死ぬことでしか償えない罪があるかもしれないじゃないですか。どんなことをしても、生きている限り決して償えない罪があるとしたら?」
「そんなことは……!」
「犯罪の犠牲者が、罪人が死ぬことでしか心の平安を取り戻せないのだとしたら、どうすればいいんですか?」
「折紙君……」
キースには何故折紙がこんなことを言うのか分からない。まるでルナティックの思想に賛同しているかのような折紙の口ぶりに、キースは困惑を隠せない。ただ、今にも涙が零れ落ちそうな瞳から、折紙がどれ程真剣に言葉を紡いでるのかは理解出来た。
「罪を償うためになら、僕は――に殺されてもいいと思っています」
ぽつりと呟かれた言葉にはっとして折紙を見るが、長い前髪に隠れて彼の表情は窺えなかった。
「すみません、僕急いでいますのでこれで失礼します」
そう言って、引き止める暇も与えずぺこりと頭を下げると、折紙は足早にロッカールームを出て行く。去り際に見た折紙の横顔は涙に濡れていたが、キースは茫然と立ち尽くすことしか出来なかった。
+++
しばらくして我に返ると、キースは慌てて折紙サイクロンを追ってトレーニングルームへと急いだ。理由は分からないが自分の言葉で彼の気分を害してしまったようだから、一言謝りたかったのだ。しかし、トレーニングルームに着いても折紙の姿は何処にも見えなかった。キースよりも前にトレーニングを始めたブルーローズに尋ねても、今日は折紙サイクロンを見ていないと言う。仕方なくトレーニングをしながら折紙を待っていたが、結局一時間以上待っても彼は来なかった。
その日はトレーニングに集中出来なくて、ファイヤーエンブレムにいつも以上にぼーっとしているとからかわれながらメニューをこなすのが精一杯だった。
キースがトレーニングを始めてから三時間が過ぎても、折紙は姿を現さなかった。
早めに帰宅してジョンの散歩に出掛けてもキースの心は晴れなかった。散歩をしている間も折紙の泣き顔が頭に浮かんでは消え、キースの足取りは重かった。主の浮かない様子を敏感に察知したのか、今日はジョンも散歩に気が乗らないようで、普段よりも早く家に帰りたがった。
「今日はすまなかったね、ジョン。本当はもっと外で遊びたかったんじゃないか?」
そう声を掛けながらソファの上でキースの膝に頭を乗せて眠るジョンを撫でると、愛犬は甘えるようにキースの手に鼻を擦り付けた。子犬のような仕草が可愛らしくて思わず笑みが零れる。
「ふふ、ありがとう、そしてありがとう。私を気遣ってくれているんだね」
飼い主の私に元気が無いのを心配して、傍にいてくれるんだろう?と目で問うと、ジョンはYesと言うようにワンと一声吠えた。こういう時にジョンがいてくれて本当に良かったと思いながら、キースは
「少し話を聞いてくれるかな」
と、ゴールデンレトリーバの柔らかい毛皮を撫でながら話し始めた。考え事がある時に、ジョンを話し相手にするのはキースの癖だ。頭の中の雑然とした考えを口に出して言葉にすると、思考がクリアになる気がするのだ。幸い、その間ジョンはキースの傍で大人しくしていてくれる。特に今日のような気分の時は、ジョンの体温を感じられるのがありがたかった。
「実は今日、ロッカールームで折紙君に会ったんだ。それで、明日の予定について話していたのだけれど、どうやら私は失敗してしまったようなんだ。彼を……泣かせてしまってね……」
折紙の横顔を思い出して、溜息を吐いた。あれからずっと考えていたが、何故折紙が泣いていたのか分からない。キースはよく天然だと言われるから、気付かない内に彼を傷付けるようなことを言ってしまったのかもしれない。だが、何度ロッカールームでの会話を思い返しても、何がそんなに折紙を動揺させたのか分からなかった。
「彼は自分のことをヒーロー失格だと言っていた。何故そんなことを言うのだろうか。彼は立派にヒーローの務めを果たしていると、私は思う。もしかして、ポイントが取れないことを悲観しているのだろうか。だが、ポイントなんて所詮ただのエンターテイメントのための小道具じゃないか。それに、ポイントに換算されるのは画面に映るヒーローの活躍だけだが、ヒーローは皆画面の外でもヒーローの務めを果たしている。画面に映らない場所で折紙君がヒーローとして人命救助に懸命なのを私は知っている。それなのに、何故彼は自分を否定するようなことを言うのだろう?」
悲しい、そして悲しい、とキースは項垂れる。まるでヒーローそのものを否定されたような気分だった。
「それに、彼はルナティックに同情するようなことも言っていたんだ。ルナティックの自らの正義に基いて行動する姿勢は尊敬に値するが、彼は間違っていると私は考えている。犯罪者を処刑するルナティックの行動は、死刑制度を認めないというシュテルンビルトの法に背いているのだからね。もし、司法に反して個人が私的制裁を加えることを認めれば、この街は混乱の渦に巻き込まれてしまう」
法だけが人を裁くことが出来るのだ。個人が個人を裁くことなど、ましてや命を奪うことなど、決して許されない。許されてはならないとキースは信じている。それに、たとえ理想的な法が存在したとしても、司法機関に属するのは人間だ。残念だが、人間が関わる限り間違いは避けられない。どうしても、冤罪の可能性は消えないのだ。司法局のような大きな機関でさえそうなのだ、個人に誰がどんな罪を犯したのか確実に判断できるとは思えない。
ちなみに、無実の人間が犯罪者として追われることを防ぐために、現行犯逮捕が出来る事件か犯人が確実に分かっている事件の時にしかヒーローに出動要請は来ない。だから、逃走中の犯人の追跡や確保がヒーローの主な仕事になるのだ。武器を所持した犯罪者を相手にする分危険は大きいが、罪の無い人間を追い詰める位なら多少の危険に曝されるなど何でもないことだとキースは考えていた。
「もしかしたら、ルナティックが殺害した者達も、疑問を差し挟む余地の無いほど有罪だと分かっている犯罪者ばかりなのだろうか……?いや、もしそうだとしても、私はやはりルナティックの思想は間違っていると思う。犯した罪は、生きて償うべきだ。生きて自分の罪を悔い、その生を人に尽くすことで贖罪すべきだ。そうだろう?」
罪を犯したのなら、生きてその罪を償うべきだ。キースは心からそう信じている。だが、そう告げたキースに折紙は何と答えただろうか。
「でも、折紙君は死ぬことでしか償えない罪もあるかもしれないと言ったんだ……ジョン、これは推測なのだが、あの時折紙君はヒーローとしてではなく、犯罪者として語っていたように私は思う……まるで、彼自身が、後悔に苦しんでいるようだった……」
それはつまり、彼は罪を犯したということだろうか。だが、犯罪者がヒーローになれる筈がない。それに、彼が悪事を働くような人間だとはとても思えない。だが、あの時の彼の苦悶の表情は本物だった。単純に犯罪者に同情した故の発言とは、どうしても思えなかった。
「折紙君は、罪を償うためになら殺されても構わないと言っていた。それは、ルナティックに殺される覚悟があるということだろうか?」
キースには、折紙が何を思ってあんなことを言ったのか分からない。本当に彼は死をもってしか償えない罪があると信じているのだろうか。本当に、命を奪った者はその命でしか罪滅ぼし出来ないものなのだろうか。
そんなこと、キースは信じたくなかった。どんな罪を犯したとしても、生きて償うことが出来るのだと信じたかった。
悪人にも救いの手を差し伸べたい。そうすることに意味があるとキースは信じている。
そう信じることが、キースの希望の光だった。
「それから、彼は私に犯罪の犠牲者が、犯人の死でしか救われないのだとしたら、どうすればいいのかと聞いてきたんだ。なんと答えていいのか、咄嗟には思い付かなかった……確かに殺人の被害者遺族は犯人を強く憎む者が多い。愛する人を奪った犯人をどうしても許せないと感じるのは当然だ。しかし……」
しかし、の後に言葉は続かない。折紙の問いは凪いだ海に突然現れた漣のようにキースの心をざわつかせた。
いつか、自分もその人の死を願う程誰かを憎むことがあるのだろうか。大切な人を傷付けられたら復讐したいと願うのだろうか。もし誰かにジョンを殺されたら、自分も犯人を殺したいと思うのだろうか。犯人を殺すことでしか救われないと、そう感じるのだろうか。
キースには、そんな自分が想像出来なかった。そんな風に誰かを憎んだことも、憎まれたこともないからかもしれない。
「折紙君、一体君は、どんな罪を犯したと言うんだい?」
私は、君の力になることは出来ないのかい?
許されるなら、この手で彼の涙を拭ってあげたかった。
だが、折紙サイクロンはキースの手を取ってはくれないだろう。あれほど苦しんでいるのに、彼は助けを求めることも差し出された救いの出を取ることも拒絶するだろう。そんな気がするのだ。
「身近にいる人を助けることも出来ないなんて、私はヒーロー失格だな」
苦笑混じりに呟くキースにジョンがくぅんと鼻を鳴らす。
それでも、キースはどんなに拒まれても、きっと折紙サイクロンを放っておけない。
彼と話がしてみたい。
彼の笑顔を見てみたい。
ただ、それだけだった。
5.
抜けるような青空の下、雪のように白い花で統一された花束を手にしたイワンは、一つの墓碑の前で佇んでいた。青々と茂る木々に囲まれた墓地には、イワンの他には誰もいない。時折聞こえる小鳥の囀りは、死者を悼む鎮魂歌(レクイエム)にしてはあまりにも無邪気だった。
おもむろに屈み込み、そっと花束を墓石の上に置くと、イワンは目を閉じて祈りを捧げた。
「突然ごめんなさい。きっと、貴方は僕のことなんて知らないと思います。見ず知らずの人間にお墓参りされても嬉しくないかもしれませんけど、どうしても貴方に一度謝罪したかったんです」
目を開けると死者へ贈られた花が風に揺れるのが目に映った。
死んだ人間の魂が墓で眠っている、なんて本気で信じている訳ではない。だが、この場所でこうして語り掛ける以外に、イワンには彼女に自分の言葉を伝える術を考え付くことが出来なかった。
「僕は、あの事故で貴方を殺してしまった人間の――エドワード・ケディの友人です」
イワンが訪れた墓、それは、エドワードが誤って殺してしまった女性の墓だった。
「本当は、今まで何度もここに来ようと思ったんです。でも、どうしても勇気が出ませんでした。それに、貴方は僕なんかに来られても嫌かもしれないと思うと、余計に……でも、それは言い訳です。僕はただ、自分の罪に向き合う勇気が無かっただけでした」
アカデミーで脱獄したエドワードと邂逅するまで、イワンはずっと逃げていた。エドワードからも、自分の罪からも、ヒーローであることからも。
「僕は、二人の人間の人生を台無しにしてしまった。貴方の人生を奪い、あいつのヒーローになる夢を奪ってしまった。僕はずっと、あの時エドワードと一緒に行動しなかったことを悔いていました。親友だったのに、僕に助けを求めたあいつを、僕は裏切ってしまった……僕のせいでエドは犯罪者となり、何もかも失ってしまいました。僕は、復讐されても仕方ないと思っていた。それであいつの気が済むのなら、殺されてもいいと思っていたんです。実際、殺されそうになりましたしね」
あの日、イワンは二度死を覚悟した。一度目はエドワードに、二度目はルナティックに殺されそうになった時だ。だが、二つの覚悟は全く種類が違っていた。エドワードに殺されてもいいと思ったのは、イワンが弱かったからだ。自分の罪から目を背けるたかったからだ。だが、ルナティックに対峙した時、イワンの心の中にあったのはエドワードを守りたいという願いだけだった。自らを擲ってでも、大切な友人を助けたかった。それは、イワンが初めて誰かのために行動した瞬間だった。
「僕達は、全てを失ってなんかいませんでした。生きているから、僕達にはやり直すチャンスが与えられたんです。もし、あのまま殺されていたら、僕はエドにまた罪を犯させてしまっていたでしょう」
ワイルドタイガーの言う通りだった。確かに自分達は一度過ちを犯した。でも、だからこそ、もう二度と間違えないように、真っ直ぐ前を見据えて歩いていかなければいけないのだ。
「僕達の時間は、あの日からずっと止まったままでした。でも、やっと今、一歩踏み出せた気がしているんです。あれからエドに手紙を書くようにもなりました……
僕達の時間は動き出したけれど、貴方の生きるべきだった時間はもう戻って来ない。貴方が家族と――娘さんと過ごす筈だった時間は永遠に失われてしまった」
イワンは被害者の家族に会ったことがある。いや、正確に言えば、事件の目撃者として法廷に出頭した時、彼女の両親と夫、彼女の兄弟と思われる人々が傍聴席に座っているのを遠目に見たことがある。当時彼女の娘は幼過ぎたためか法廷にはいなかったが、裁判官の言葉から彼女に娘がいることを知ったのだ。
「貴方の娘さんは僕達を許しはしないかもしれない。それでも、一生掛けて僕達は罪を償います。今日は、それを誓うためにここに来ました」
イワンはヒーローだ。ヒーローになりたかった理由は利己的かもしれないけれど、それでもイワンは今、折紙サイクロンという「ヒーロー」だ。だから、ヒーローとして、精一杯頑張ろう。自分に出来ることをしよう。そう、イワンは心に誓う。
もう、後悔するのは嫌だ。自分の弱さのせいで、助けられたかもしれない人間を死なせてしまうのは嫌だ。
だからもう、イワンは助けを求めて伸ばされた腕を掴むことを迷いはしない。そして、いつか本物のヒーローになれるように、努力するのだ。
「それじゃあもう行きますね」
そう言って立ち上がると、軽く一礼する。ピピピ、と遠くで雲雀の鳴く声がした。
いつか、エドワードと一緒に、という言葉は、今はまだ胸にしまっておく。
再びこの場所に来る時は一人前のヒーローになった時だと自らに誓いながら、出口へ向かってイワンは歩き出した。
+
墓参りの帰り道を行くイワンの足取りは軽かった。
勇気を出して彼女の墓を訪れて良かったとほっとする。ずっと目の前を覆っていた霧が晴れたような気分だった。これでまた一つ、イワンは過去の自分と決着をつけることが出来た。
(ワイルドタイガーさんとスカイハイさんのおかげだな……)
自分にヒーローとしての自覚を促した男と、出来ることからこつこつと努力することの大切さを教えてくれた男の顔を思い出してイワンはふふ、と微笑んだ。
実は、エドワードが死なせてしまった女性の墓を訪れようと決心したのは、スカイハイとの会話が切っ掛けである。あの事件以来、イワンは裁判以外で被害者の遺族と接触していない。どんな顔をして彼等に会えば良いのか分からなかったし、彼等が自分に会いたいとも思えなかった。何度か墓参りに行こうと考えたこともあるが、その度にネガティブな思考に沈んでしまい、結局今日まで足を運べなかった。
(自分を変えよう、って決めたんだ。だから、僕はもう彼女からも逃げない)
一度そう決心すると、今まで悩んでいたのが不思議なほどに心が軽くなった。
自分を変えると言えば、先日スカイハイと過ごした休日は随分おかしな休日だったとイワンは思い返す。強くなりたい、自分を変えたいというイワンの相談に乗ってくれたのだが、相手がスカイハイだったからか全てがどこかずれていた気がする。そもそも待ち合わせの場所からおかしかったのだ(と言ったらファイヤーエンブレムに怒られるかもしれないが)。どうしてあんな怪しい店をただの喫茶店と思い込めるのか、天然の感覚がイワンにはよく分からない。しかも、その後ホストに挑戦するという更におかしな体験までしたのだ。正直言って完全にスカイハイのペースに巻き込まれていたと思う。
それでも、ああして彼と話せてイワンは嬉しかった。アカデミーでの特別講義の前日、ロッカールームで彼と会話した時は随分失礼な態度を取ってしまったから、きっと彼に軽蔑されたと思っていた。だから、彼の方から声を掛けてきたのには本当に驚いた。
あの日のことは、思い出すだけでもKOHになんて無礼なことを言ってしまったのだと顔から火が出そうになる。スカイハイは純粋に自分を励まそうとしてくれていただけなのに、彼を責めるようなことを言ってしまった。
彼に同じヒーローとして扱われるのが辛かった。立派なヒーローと言われて罪悪感に襲われた。
僕は、平和のためとか人々を助けたいとか、そんな理由でヒーローになったんじゃない。僕は貴方と同じヒーローと呼ばれる資格なんてない。僕は、自分勝手で弱虫な、最低な奴なんです。
そう、叫びたかった。まるで、優しい彼を騙しているようで苦しかった。
そんな風に引け目を感じていたのは全部自分が悪いのであって、スカイハイのせいではない。けれど、落ち込んでいたイワンには、あの時のスカイハイの言葉は鋭利なナイフに等しかった。
(でも、やっぱりスカイハイさんは正しかった。僕は生きなきゃいけない。生きて、僕の間違いを正さなければいけないんだ)
自分がエドワードに殺されても構わないと思ったのは、罪を償いたかったからではない。弱い自分から目を背けたかっただけだ。そのことに、イワンはやっと気が付いたのだ。
もう自分の弱さから逃げない。強くなろう。
そう決めた瞬間から、イワンの心は鎖から解き放たれたように自由になった。
スカイハイが差し伸べてくれた救いの手を取ってみようと思えたのも、取ってもいいのかもしれないと思うようになったのも、イワンの中に生まれた変化なのだろう。
今の自分は、少し好きになれそうだった。
「拙者、精進するでござるよ!」
ぐっと握り拳を固めて気合を入れる。ワイルドタイガーやスカイハイのような立派なヒーローを目指して、日々努力あるのみだ、と思うと自然とテンションが高くなった。
(何と言ってもスカイハイさんが師匠になってくれたんだもん、絶対頑張らなきゃいけないよね)
ファイヤーエンブレムの店での経験でスカイハイと打ち解けることが出来たが、イワンにとってスカイハイはやはり尊敬の対象だ。いや、むしろイワンの過去を知っても失望しなかったスカイハイに、更に憧れが強まったかもしれない。
エドワードのこと、アカデミーでのこと、そして何故ロッカールームでは失礼な態度を取ってしまったのかを説明したイワンに、スカイハイは失望するどころか
『そうか……折紙君は、そんな苦しみを抱えて今までヒーローの仕事をしていたんだね。辛かっただろう?』
と、慈愛の篭った瞳で言ったのだ。
『君がいつも現場の状況を瞬時に判断し、市民に的確な避難指示を出すことが出来たのは、このエドワード君との経験があったためなんだね。君は若いのに、現場で何が起きているのか冷静に観察することが出来る。私には真似出来ない、全体を見渡す広い視野の持ち主だと以前から思っていたんだ。だがそれは、君が君の親友を助けることが出来なかった経験から来ているのだろう?違うのかい?』
予想もしていなかったスカイハイの言葉にイワンは驚きのあまり絶句した。今までイワンにそんなことを言ってくれる人は一人もいなかったのだ。
あの時、たまたま銀行の立てこもりに出くわしただけで、事件現場の状況も把握していなかったにも拘らず、エドワードは人質の救助を試みた。NEXT能力による不意打ちに成功して、犯人の一人から銃を奪うことは出来たが、もう一人犯人がいたことに気付かず揉み合いになってしまった。その結果があの事故だ。
もしエドワードがもう一人の強盗犯の存在に気付いていれば、違う結果になったかもしれない。その後悔故に、イワンは常に状況判断を最優先するよう心掛けるようになったのだ。勿論、どこで誰が何をしているかを把握していれば、見切れに最適な場所を見付けることも出来るという利点もあるが。
『そ、そんな……僕はただ、見切れることだけを考えているのであって、その、いえ、勿論スカイハイ殿にそう仰って頂けると拙者としても……』
まさかスカイハイともあろう人が、万年最下位の自分の行動を見ていてくれたなんて。
嬉しいやら恥ずかしいやら信じられないやらで、イワンは混乱のあまり折紙サイクロン口調になってしまった。テンションが上がるとヒーロー時の口調になってしまう癖をいい加減何とかしなければと思うのだが、普段ヒーローとしての活動を褒められることのないイワンは、どんな反応をすれば良いのか分からなかった。スカイハイはそんなイワンの困惑に気付いていないのか、にこにこと満面の笑みでイワンを見詰めていた。
『折紙君、君は自分を卑下しがちだが、君は自分の務めを全力で果たしているじゃないか。スポンサーのために役立つことも大切なヒーローの仕事だ。それに、もし君が本当に弱かったら、危険な事件現場で身の危険を冒してまでスポンサーロゴのアピールなんて出来ないだろう?負い目を感じる必要は無い。君は立派なヒーローだと私は思っている。だが、更に自分を磨こうという気持ちは素晴らしい。そして素晴らしい!』
『あ、ありがとうございます』
『だが、本題に入る前に一つだけ言わせて欲しい。ルナティックが君の友人を殺そうとしたのは、やはり間違っていると私は思う。確かにエドワード君の行動のために一人の人間が死んでしまった。だが、それはあくまで事故であり、彼は人を殺めようと意図していたわけではない。そんな彼を私は断罪することは出来ない。彼の優しさを考慮することなく、罪人として処刑しようとしたルナティックの正義を、私は認めることが出来ない』
『スカイハイさん……』
『責められるべきは人質を取った強盗犯だ。銃を手にしていた者達だ。どうか、それを忘れないでくれ』
真剣に、けれど静かにそう語ったスカイハイの表情を、イワンはきっと一生忘れないだろう。
エドワードの短慮を責める人間は大勢いた。イワンには非がないと繰り返す人もいた。けれど、人助けのために自ら危険に飛び込んでいったエドワードの優しさに気付いてくれた人はいなかった。
やはりスカイハイは凄い。
誰よりも強く、誰よりも優しく、公明正大なヒーローの中のヒーロー。
キングの名を冠するに相応しい人。
KOHスカイハイと自分を比べると、イワンはつい癖で
(うう、あんな凄い人が僕なんかの師匠でいいのかな……)
と、ネガティブな思考に陥ってしまうが、太陽のような笑顔で自分を励ましてくれたスカイハイの顔を思い浮かべて気を持ち直す。
「頑張るぞーー!!」
彼と一緒に過ごす日々の中、自分なりの強さを見付けるように、精一杯頑張ろう。
そうすることが、彼の期待に答えることなのだから。
6.
重厚な音楽と共に、カメラが正面に回る。
画面に映し出されたのは、知的なトークで有名な初老のブロードキャスターだ。
「Good eveningシュテルンビルトの皆さん。今日は特別ゲストをお呼びしました。シュテルンビルトの平和を守る、King of Heroスカイハイです」
観客の拍手の音と共に、スカイハイがスタジオに入って来る。勿論、いつもの「ありがとう!そして、ありがとう!」の台詞は忘れない。
「キングに出演して貰えるなんて、光栄です」
「こちらこそ、ミスターのトークショーをいつも楽しみにしています」
握手を交わすと、スカイハイとブロードキャスターはセットの中央に配置されたソファに向かい合って座る。それが、インタヴュー開始の合図だ。
「今日は『Let’s Believe Heroesキャンペーン』についてKOHのお話を直々に伺えるとのことで、私も楽しみにしていました。さて、ヒーローを信じよう、というのがこのキャンペーンのスローガンですが、これは一体何を意味しているのでしょうか?」
「このスローガンには様々なメッセージが込められていますが、私が一番伝えたいのは『ヒーローは、シュテルンビルトの平和を常に願っている』ということですね」
「?ええと、それはシュテルンビルトの市民なら既に知っていることではないでしょうか?」
「はは、そうですね。私の言葉が足りなかったようです。少し長くなってしまいますが説明させて下さい」
「え?は、はい」
「近年シュテルンビルトの犯罪はますます過激になっています。技術の進歩と共に、新たに高性能の武器が開発され、それを使用した犯罪が多発してるのは皆さんも御存知のことだと思います」
「先日ワイルドタイガーとファイヤーエンブレムが高性能のパワードスーツに乗った犯罪者と戦った事件は記憶に新しいですね」
「はい。治安の悪化に伴って、自衛のために銃やライフルを購入する人が増えてきました。しかし、私は市民の皆さんに言いたいのです。武器ではシュテルンビルトの平和を守ることが出来ない、と。
銃を使えば、いとも簡単に人を殺すことが出来ます。引き金を引くだけでいいのですから。しかし、指一本動かすだけで人の命を奪える道具は、その分事故を起こしやすいこともまた事実です。人間は、人間である限り過ちを犯さずにはいられない生き物ですが、取り分け銃に関しては、武器としての性質上取り返しのつかない過ちが多いのです。だからこそ、そんな間違いを起こさないためにも、シュテルンビルトに武器はあってはならないと私は思うのです」
「しかし、銃のおかげで非力な女性や子供でも悪人から身を守ることが出来るとは思いませんか?」
「確かにその通りです。銃は肉体的な力の差を無くしてくれる。それは、か弱い女性や子供達、お年寄りの方にとってはとても心強いことでしょう。そして、犯罪の多発する現状では銃を持ちたいと考える人が多いのも仕方の無いことです。しかし、私達ヒーローは日夜犯罪撲滅のために働いています。シュテルンビルトが銃など必要の無い街になる日を夢見て、日々犯罪者と戦っているのです。だから、市民の皆さんも私達ヒーローと共に、シュテルンビルトから一つでも武器が減るように、協力して欲しいのです」
「ふぅむ、武器の無いシュテルンビルトは確かに理想でしょう。ですが、それではNEXTと非NEXTの差が不均衡になりませんか?NEXTの犯罪者に対抗するのに武器無しでは非NEXTが圧倒的に不利ではないでしょうか?」
「我々NEXTの中には、使い方によっては人を傷付ける能力を持つ者もいます。私のようにね。事実、私も能力に目覚めた当初は、上手く風を操れなくて建物を破壊したり、近くにいた人に怪我をさせてしまったりで苦労しました。恐らく、ヒーロー達は皆、多かれ少なかれ似たような経験をしているのではないでしょうか。能力を制御できない内は、自分の意図に反して周囲の人間を傷付けてしまうことが少なくないですから。
しかし、そんな経験をしてきたからこそ、私達は自分の持つ能力の恐ろしさを知っていると断言出来ます。私は自分の能力で人を傷付けてしまったことで辛い思いをしました。そしてその時に、絶対にこの力を人を傷付けるためには使わないと心に誓ったのです。
とは言っても、これはあくまで理想であって、現実はもっと厳しいと知っています。現に、犯罪者を確保するために攻撃という形で能力を使わなければならないことの方が、圧倒的に多いですからね。しかし、将来的には私や、私だけでなくほかのヒーロー達も、そんな風に力を使わなくてもいい日が来ることを私は信じています。そんな未来の実現のために、どうかヒーローを信じて下さい。そして、ヒーローと一緒にシュテルンビルトの平和を守っていきましょう!」
+
画面一杯にスカイハイのマスクが映し出されたところでファイヤーエンブレムが停止ボタンを押した。スクリーンから聞こえる拍手の音が途切れると、途端に辺りはしんと静まり返る。はぁ。という深い溜息が静かな部屋に大きく響いた。
「おはよう!そして、おはよう!」
と、静寂を打ち破るようにやって来たのは、先程までスクリーンの中でインタビューに答えていた人物、スカイハイその人だった。
「あれ?皆揃って何をしているんだい?」
「……相変わらず空気の読めないキングね。いえ、むしろ貴方にしては絶好のタイミングで登場したことになるのかしら」
「え?え?」
いつものように挨拶をしただけなのに、何故かファイヤーエンブレムに呆れたように溜息を吐かれてしまいキースは困惑を隠せない。トレーニングセンターに入ってみれば、自分以外のヒーローが勢ぞろいで何かをしているようなのだ。キースが不思議に思って質問するのも当然だろう。何故可哀想なものと見るような目で迎えられたのか分からなかった。
「皆でスカイハイさんの昨夜のインタビューを見ていたんです」
と、説明役を買って出てくれたのはバーナビーだ。確かによくよく見ればドラゴンキッドはタブレットPCを抱えていて、そのスクリーンには自分の姿が映っている。
「まさかお前がこんなことを考えていたとはなあ」
見直したぞ、とやや乱暴にキースの背中を叩きながらワイルドタイガーが笑うと、ロックバイソンも同意するように肯いた。
「まさかとはどういう意味ですか。おじさんは一々失礼なんですよ。スカイハイさんは貴方とは違います。でも、本当に素晴らしいインタビューでした。流石KOHです」
軽蔑の眼差しでワイルドタイガーを一瞥したバーナビーだが、キースに向き直ると真面目な顔でそう言った。少し固い表情に、どうやらバーナビーはお世辞ではなく心からそう思ってくれているらしいと気が付いてキースは嬉しくなる。ワイルドタイガーはともかく、まさかバーナビーにまで賛同してもらえるとは思わなかった。
「ハンサムの言う通りよ。ちょっと感動しちゃった」
「ボクも胸がじーんとしたよ!」
「はは、皆にそこまで褒められると照れてしまうね」
「でも、本当に素晴らしいインタビューでした」
「ありがとう。そして、ありがとう。折紙君にそう言って貰えると嬉しいよ」
「そんなことありません……やっぱりスカイハイさんは凄いです」
キースは本心からそう言ったのだが、折紙はただの社交辞令だと受け取ったようだ。キースは基本的に思ったことを口にするし、そもそも社交辞令の言えるタイプではない。キースにとって折紙サイクロンの言葉は本当に他の誰からの賞賛よりも喜ばしかった。
「ホント、天然のスカイハイちゃんにしては立派なインタビューだったわ。しかもこのインタビュー、貴方から持ちかけたんでしょ?」
ヘリオスエナジーのオーナーでもあるファイヤーエンブレムは流石に耳が早い。彼女の言う通り、今回のインタビューはキースが無理を言って企画して貰った物だった。今までキースの方からそういった企画を提案することなどなかったからか、ポセイドンのCEOを含めヒーロー事業部の人間は随分驚いていたが、突然のキースの頼みを快く引き受けてくれた。
実を言えば、キース自身も自分の行動に驚いている。
元々は折紙サイクロンの過去を知って、彼のために出来ることはないだろうかと思っただけなのだ。折紙から事情を聞いた時、まだ若い彼の背負ってきた物の大きさに胸が締め付けられた。
親友に憎まれ、その上殺されそうになるなんて、どんなに辛かっただろう。罪の意識を抱えながらヒーローをしていたなんて、どんなに苦しかっただろう。
それでも彼は親友を責めることもなく、全ての罪を自分で背負おうとしていたのだ。そして、親友を救うためにその命を投げ出そうとしたのだ。
なんて強く優しい子なんだろう。
じわじわと腹の底から湧き上がる感情を何と呼べばいいのか分からない。
ただ、その時キースは、純粋に折紙サイクロンの力になりたいと思ったのだ。
だから、師匠として彼の成長を見守ると約束した。
しかし、他にも別の方法で何か出来ないだろうかとも考えていた。
キースは折紙の親友の境遇に同情していた。市民を守るために行動したのに、様々な偶然から犯罪者となってしまった彼を憐れんでいた。正しい心を持つ人間が、正しいことをしようとして罪を犯してしまうのが悲しかった。
だから、彼のような不幸な人間が一人でも減るように、ヒーローとして自分に出来ることがないかと模索していたのだ。
そうして悩んでいた時に閃いたのが、今回のインタビューだった。
「最近銃器を使った犯罪が増えていることには気付いていたからね。それに、ヒーローと市民の一体感を高めることになるとポセイドンのCEOも賛成してくれたんだ」
犯罪撲滅を訴えるスピーチで、特に銃規制を重点的に呼びかける。折紙の話を聞いて思い付いた案がこれだった。
折紙の話を聞いて真っ先に思ったのは、一番罪深いのは強盗犯一味だということだった。もし彼等が銃で人質を脅さなければあんな事故は起きなかった。そう考えた時に、以前と比べて犯罪が過激化していることに気が付いたのだ。ワイルドタイガーとファイヤーエンブレムを襲ったパワードスーツは、ファイヤーエンブレムと同等の炎が出せるほど高性能だったらしいが、これからも技術の発展と共に殺傷能力の高い武器を使った犯罪は増加していくだろう。
キースは武器や兵器といった類の物が嫌いだ。誰かを殺傷することだけを目的に作り出された道具は、キースの正義に反している。シュテルンビルトにそんなものが存在すると考えるだけで胸が痛む。
だが、武器の流通はヒーローにはコントロール出来ない。需要があるから供給があるのだ。市民が銃の所持を望む限り、シュテルンビルトに銃は存在し続ける。シュテルンビルトから武器を排除するためには、市民が銃を持たないことを選択する必要があるのだ。
今までヒーローとしてシュテルンビルトの平和を守ることに全力を注いできたキースにとって、市民は「守るべき」対象でしかなかった。だが、折紙の話を切っ掛けに、真に街の治安を維持するためには、市民の力が不可欠だということに気が付いたのだ。
「ヒーロー同士の結束だけでなく、ヒーローと市民が結束することがシュテルンビルトの平和に繋がると、私は思うんだ!」
キースの熱弁に感銘を受けたヒーロー達は一様に深く肯く。折紙サイクロンに至っては、顔を高潮させて明らかな尊敬の眼差しでキースを見詰めていた。
「キングの名に相応しい台詞ね!」
「って、尻を触りながら言うな!」
「ボクもスカイハイさんに負けないくらい強くなるよ!」
「おう、頑張れよ、ドラゴンキッド」
「貴方もスカイハイさんを見習って、もっとトレーニングに励んで下さい、おじさん」
「わ、私も頑張るわよ!」
スカイハイの言葉に盛り上がるヒーロー達をよそに、折紙サイクロンだけは少し離れた場所で黙って瞳を輝かせている。自分に向けられた視線に気付いたキースがどうしたのかい、と口を開こうとすると、折紙が
「スカイハイさん」
と、微笑んだ。
「僕は幸せ者です。スカイハイさんみたいに素晴らしいヒーローが僕の師匠だなんて」
「折紙君……」
違う。これも全て折紙君のおかげだよ。君がいたから私はあのインタビューをすることが出来たんだ。
折紙に駆け寄ってそう告げたかったけれど、きっと謙虚な彼は信じてはくれないだろう。
今はまだ、自分だけが知っていればいい。彼がいつかもっと自分に自信が持てるようになった時、彼のヒーローとしての在り方が自分に影響を与えたことを伝えられればいい。
「僕もスカイハイさんに追い付くように頑張ります!」
「ああ!シュテルンビルトの平和を守るために、トレーニング!そして、トレーニングだ!」
「はい!」
いつか来るその日、キースの言葉で折紙が喜んでくれるといい。
彼の笑顔を想像して、キースの胸はほんわりと温かくなったのだった。
7.
うーん、と大きく伸びをしたら、まだ完治していない怪我がずきりと痛んだ。いたたたた、と手すりに凭れ掛かって傷をさする。間抜けな姿を曝した自分に照れながら、今この屋上にいるのが僕だけで良かったとイワンは一人ごちた。
病院の屋上から見下ろすシュテルンビルトの街は活気に溢れている。見上げれば、雲一つない真っ青な空が広がっていた。
平和そのものといった街の雰囲気に、まるで全てが夢のようだとイワンは微笑む。
ウロボロスによるテロが発生して、二ヶ月が経とうとしていた。
たった二ヶ月前、ジェイク一味のためにこの街が壊滅寸前にまで陥ったなんて、一体誰が信じられるだろうか。「いい天気だなぁ」
突如この街を襲ったウロボロスの脅威は去った。
もう、あの事件の面影はどこにもない。
それでも、あの事件によって変わったものは少なくない。両親の復讐を果たしたバーナビーが、憑き物が落ちたように性格が丸くなり、ワイルドタイガーに懐くようになった。イワン自身も、あの事件を経てほんの少しだけ、ヒーローとして成長出来た気がしていた。
チャックマンに擬態してジェイクのアジトに潜入するのは怖かった。スーツも無しに単身敵の巣窟へ乗り込むのだ、一歩間違えれば殺されてもおかしくない。実際、ジェイクに正体がばれた時は死を覚悟したのだ。
だが、イワンは生還した。
(もしかしたらNEXTは殺さない主義だったのかな。タイガーさんも瀕死の重傷だったけど、とどめを刺さなかったし……)
彼の選民思想にはとても賛同出来ないが、彼なりにNEXTのために行動していたのかもしれないと思うと、イワンの心は複雑だった。
カタン。
不意に背後から聞こえてきた金属音にイワンの思考が中断される。
こんな所に誰だろうとびっくりしてイワンが振り向くと、丁度扉を開けたスカイハイと目が合った。
「スカイハイさん」
「折紙君」
まさか立ち入り禁止の場所に人がいるとは思わなかったのか一瞬驚いたようにスカイハイは眼を見開いたが、すぐにふわりといつもの微笑を浮かべると、イワンの隣までやって来た。もう松葉杖なしで歩けるところを見ると、スカイハイも順調に回復しているようだ。
「こんなところで日向ぼっこかい?」
「へへ、ばれちゃいましたね」
「今日は天気が良いから比較的温かいけれど、まだ冬だ。そんな格好では風邪を引くよ」
病院着の上にいつものスカジャンを羽織っただけのイワンを心配したのか、自分の着ているフライトジャケットを肩に掛けようとするスカイハイをイワンは慌てて遮った。
「僕、北の生まれだからこれ位の寒さは平気なんです。だから気にしないで下さい。それよりスカイハイさんこそ、こんな所でどうしたんですか?」
病院関係者以外立ち入り禁止の屋上にスカイハイがやって来るなんて、何か特別な用事でもあるのだろうかとイワンは先程から不思議だったのだ。
「あまりにも良い天気だから、少し空を見たい気分になってね。あ、ちゃんと許可は貰ったよ」
「そうなんですか。僕も、人のいない場所で外の空気が吸いたくなって……看護師さんに聞いたらここを勧められたんです。ヒーローだから特別ですよ、って言われて恐縮しちゃいました」
「私は『お天気だからって、飛んで行ってはダメですよ』と釘を刺されたよ」
「こんな綺麗な空を見たら誰だって空を飛びたくなりますからね。その気持ち分かります。でも駄目ですよ、ちゃんと退院するまで我慢して下さい」
「もう殆ど怪我は治ったのだし、リハビリを兼ねたトレーニングを始めたいから早く退院したいのだけどね。ポセイドンの主治医に折角だから、今まで休み無く働いてきた分しっかり休養しろと言われてしまってね」
「僕も同じことを言われました。スカイハイさんと違って僕の場合は単にCEOが甘過ぎるだけで、休養なんて必要ないんですけどね」
「それだけ大切にされているんだよ。良いことじゃないか」
「うぅ、分かってるんですけど、時々恥ずかしいです……」
スカイハイとこんな風に他愛無い話をするのは随分久し振りだった。そもそもスカイハイと二人きりになるのは、入院以来これが初めてではないだろうか。イワンは個室だがスカイハイはロックバイソン、ワイルドタイガーと相部屋だったし、病室には見舞い客(バーナビーや女子組にアニエス、各企業のCEO達等だ)や医師、その他ヒーロー事業部の面々が常に入れ代わり立ち代りやって来るのだ。気の休まる暇が無い。こうしてゆっくりする時間を持つことすら、今まで叶わなかったのだ。
「ワイルド君は明日退院だけど、私達がここから出られるのはもう少し先になりそうだね」
「タイガーさんの場合はちょっとずるいですよ。ハンドレッドパワーで何度も超回復を繰り返して大怪我を治しちゃうんですから」
「そうだね。初めて彼の能力を羨ましいと思ったよ」
イワンとスカイハイがこんな風に人のいないところでゆっくりおしゃべりが出来るのは、明日のワイルドタイガーの退院準備のために皆の注意が彼に集中しているからだ。退院したら飲みに行くぞ!と張り切っていたタイガーの顔を思い出すと、思わずふふ、と笑みが零れた。そんなイワンの横顔を、スカイハイは眩しそうに目を細めて見詰める。さら、とイワンの前髪が風にそよいだ。
「君が無事に帰って来てくれて、本当に良かった」
ぽつりと囁くように呟かれた言葉は、驚くほどイワンの耳に優しく響いた。はっとしてスカイハイを見上げると、視線の先には頭上に広がる空のように、澄んだ青い瞳があった。
「私がブルーローズ君と出動している間に君の潜入捜査が決まったからね。後で話を聞いて驚いたよ」
「……結局大した役には立ちませんでしたけど……あの時、僕にしか出来ないことでしたから」
「それでも私は君の師匠だからね。弟子の心配をするのは当然だろう?」
「あ、ありがとうございます」
曇りの無い透き通った瞳に見詰められて胸がざわめく。何故かどうしようもなく泣きたくなった。
この人は、こんな瞳をしていただろうか。
穏やかな笑みも優しい光を宿す瞳もイワンのよく知る彼のものなのに、スカイハイを見ていると切なさで胸が苦しい。まるで心に穴が開いてしまったようだ。
「君はよくやったよ。君が命を懸けて得た情報のおかげで、パワードスーツを停止させることが出来たのだから。師匠として私は誇らしいよ」
「スカイハイさん……」
どうしてそんな寂しそうな顔をするのかと問い質したいのに声が出ない。弟子の成長を喜んでくれているのなら、どうしてそんな悲しそうな顔をしているのかと尋ねたかった。
まるで、スカイハイと自分の間に硝子の壁があるようだ。たとえ今彼に触れようと手を伸ばしても、きっと見えない壁に阻まれて彼に届かない。そんな気がした。
「それに比べて私は……師匠なのに、かっこ悪いところを見せてしまったね。失望したかい?」
「まさか!?そんなこと思う訳ないじゃないですか!」
何を馬鹿なことを言っているのか。抑揚無く発せられたスカイハイの言葉はあまりにも突飛で、とっさの感情に駆られてイワンは声を荒げてしまった。イワンがスカイハイに失望するなんて、ありえない。ある筈がない。
「だって、ジェイクの能力も分からなかった状態で戦ったんですよ?向こうはこちらの能力を知ってるのに……最初からこちらが圧倒的に不利な状況だったんです。それなのに、スカイハイさんは果敢に立ち向かっていったじゃないですか!」
「折紙君……」
「スカイハイさんがジェイクのバリア能力を見破って、タイガーさんがジェイクのもう一つの能力に気付いて、斉藤さんが閃光弾を作って。そうやって少しずつ皆の力を集めたからバーナビーさんはジェイクに勝てたんです。あの勝利は、ヒーロー皆の力でもぎ取ったものだと僕は思っています」
ジェイクに勝利したのは、ヒーロー全員の功績だとイワンは信じている。勝者のバーナビーだってそう思っている筈だ。だからこそ、何時に無く強い調子できっぱりと言い切った。
実際、予めジェイクの能力を知っていればスカイハイはジェイクに勝てただろう。確かにジェイクのバリア能力は攻防に優れた能力だが、スカイハイだって風を使えばバリアを作ることが出来るし、彼の攻撃力が高いのは周知の事実だ。それに人の心の声が読めると言っても、遠距離から強風で拘束してしまえばジェイクといえどもなす術もなかった筈だ。
勿論戦闘においてifなど存在しないことは分かっている。それでも、あの絶望的な状況で、それでもシュテルンビルトを守ることが出来たのは、ヒーロー全員のおかげなのだ。だから、誰がスカイハイに失望などするだろう。
しかし、勢いよく捲し立てたイワンの言葉はスカイハイには届いていないようだった。
「ありがとう、折紙君。そうだね、君の言う通りかもしれない……でも、それでも、私はあの状況を打破しなければならなかったんだよ。私はキングオブヒーロー、スカイハイだからね。私が勝つことを市民は望んでいたんだ」
「スカイハイさん……」
そうだろう?と笑うスカイハイに、イワンは言葉に詰まる。
スカイハイの言う通り、確かにイワン自身も、心の何処かでスカイハイなら絶対に大丈夫だと信じていたのだから。彼はスカイハイだ。キングなのだ。スカイハイなら何でも出来る、どんな強い敵も必ず倒してくれるとと信じていた。
だが、ヒーローだって人間なのだ。万能ではない。
失敗もするし、出来ないことだってある。それは仕方の無いことだ。それでもいいのだ。
それが、人間であるということなのだから。
(でも、それをヒーローである僕が、ヒーローであるスカイハイさんに言うのか?万年最下位の折紙サイクロンがKOHスカイハイに?)
自分にスカイハイを励ます資格があるとはイワンには思えなかった。イワンが何を言っても、空虚な言葉にしかならない。
――完璧でなくたっていいんです。貴方は十分戦ったのですから。だから、自分を責めないで。
そう声に出して叫びたいけれど、それはイワンのような若造がKOHであるスカイハイに言っていい言葉ではないのだ。
「おかしな話をしてしまったね。病室でじっとしてばかりだと、どうも変なことを考えてしまうようだ」
「いえ、そんなことありません……」
逡巡するイワンを見て困らせてしまったと思ったのか、スカイハイが話題を変える。普段は呆れるほど空気が読めないのに、こんな時だけ気がきくのだ。
「私はもう戻るよ。そろそろ冷えてきたしね。折紙君はどうするんだい?」
「そうですね、僕も戻ります」
「それじゃあ一緒に病室まで帰ろうか」
「はい」
病室への帰り道、スカイハイの後を歩きながらイワンは屋上での彼の言葉を頭の中で反芻していた。
スカイハイは市民の期待に応えられなかった自分を責めている。ジェイクに負けた自分を悔いている。そんな必要はどこにも無いのに。
NEXTとはいえ、人間であることに変わりはない。ただ、他の人とは違う能力を持っているだけだ。だから、ヒーローといえども完璧ではありえない。それはスカイハイとて同じこと。だから、イワンはスカイハイが負けても失望などしない。
それに、イワンは信じている。スカイハイなら、この経験をバネにしてもっと強くなるに違いない、と。
だから、彼が再びあの大空へ飛翔するためにイワンはどんな協力も惜しまない。スカイハイが悩めるイワンに手を差し伸べてくれたように、今度はイワンがスカイハイの力になりたい。
(でも、僕に何が出来るんだろう……)
弟子のイワンが師匠のスカイハイのために出来ることは少ないだろう。あるとすれば、師匠の名に恥じぬよう、イワン自身が強くなることだ。
(うん、そうだよ。スカイハイさんから学んだことを活かすんだ)
きっと、そうすることで彼も喜んでくれる。
そうすることしか出来ないけれど、それが今のイワンの精一杯だから。
「それじゃあ折紙君、また後で。後でまた」
「はい」
でも、と病室へ消えていくスカイハイを見送りながらふとイワンは気になった。
もしヒーローが市民を守る存在だとしたら、誰がヒーローを守るのだろう?
ヒーローが傷付いた時、誰がその傷を癒すのだろう?
(僕にはスカイハイさんがいたけれど、スカイハイさんは誰を頼るんだろう……)
孤高の王は、誰に助けを求めるのだろうか――――
8.
「最近調子はどう?リハビリは進んでる?」
「入院中に少し体重が落ちてしまったのでウェイトトレーニングを中心にしています。でも、まだ本調子とは言えないですね。無理をするとすぐ腕が痛んでしまいます」
「あんな大怪我したんだから当然よ。ゆっくり回復していけばいいわ」
「出来ればそうしたいのですけどね。事件は待ってくれませんから」
「もう少し休んでから復帰しても良かったのに。難易度の低い事件の時だけ出動させて貰えないのかしら」
「それはCEOが許してくれませんよ」
ポセイドンラインCEOの威圧感のある表情を思い浮かべながら、彼は厳しいですから、とキースは苦笑した。
「それに、もう退院してから一ヶ月経ちましたしね。怠けてはいられません」
「ああいう怪我は退院後のリハビリが肝心なのよ」
全く、分かってるのかしら、とキースに釘を刺しながらDr.シヴァは電子カルテにキースの診断結果を記入していく。今日はキースの定期健診の日だったが、メディカルチェックは早々に済んでしまい、今はDr.シヴァと退院後の経過について話していた。
検査結果によればジェイク戦で受けた傷は完治しているし、リハビリも順調だ。しかし、結果は良好にも拘らずキースは浮かない表情を浮かべる。思うように身体を動かすことが出来なくて自由に空を飛び回れないのが、かなりのストレスになっていた。
「元気ないわね。リハビリっていうのは根気よく続けていかなければいけないのよ。焦っても仕方が無いわ」
と、優しく言い聞かせるように言うドクターに「分かっています」と肯くキースだが、やはりその表情は曇っていた。
「スカイハイ。休養っていうのは、身体を休ませるだけじゃないのよ。人間にとって心の洗濯は大事なの。心が疲れていると、身体も弱ってしまうのよ。たまには映画を観に行くとか、おいしいものを食べに行くとかしてみたら?」
ドクターがキースの私生活について言及するのは珍しい。自分はそんなに疲れた顔をしているのかとキースは心の中で溜息を吐く。
「そうは言っても、私はこれといった趣味が無いから……ああ、そういえばこの前折紙君と一緒にJAPANのSAMURAIの映画を見ましたよ。SAMURAIはとてもかっこよかった!そして、かっこよかった!」
ドクターに心配を掛けたくはないが、キースが私生活ですることと言えばトレーニングとジョンの散歩、そしてパトロールくらいしかない。とても映画を見る暇など無かった。
だが、つい先日折紙サイクロンが自宅に来た時に、日本の映画のDVDを一緒に見たことをふと思い出した。
「折紙って、折紙サイクロンのこと?貴方達仲が良かったの?知らなかったわ」
キースが出した名前が意外だったのか、ドクターが目を丸くする。キース達ヒーロー「年長組」と折紙達「年少組」がそこまで親しいなんて思わなかったのだろう。
「私は彼の師匠なんです」
「ししょう?友達じゃなくて?」
自分と折紙の関係は一応師弟関係ということになっているが、実際はそんな堅苦しいものではない。その点では折紙は友人に近いのかもしれないが、彼との関係を友情で括ってしまうのには違和感があった。
「うーん、友達というよりは弟に近い気がします。ジョンのように懐いてくれているんですよ」
「ジョン、って確か貴方の飼い犬よね?ペットと弟じゃ大分違うわよ」
「ジョンは私のソウルメイトです!それに、折紙君は何となく放っておけないというか、構ってあげたくなる所がジョンに似ているんです。そうだ!折紙君はJAPANのものが好きでして、SUSHIやSOBAを一緒に食べに行ったこともあるんですよ。おいしかった!そして、とてもおいしかった!今度は折紙君の好物のMISO SOUPに挑戦するつもりです」
そうか、折紙君と一緒にいると弟が出来たようで嬉しいのか、と自分の中で納得が行く。今まで年下の同性と親しくなることがなかったから、折紙サイクロンと一緒に過ごすのが新鮮で楽しいのだ。彼を見るとつい何かしてあげたくなるのも、兄が弟を構いたくなるのと同じ感情なのだろう。
犬とは言えジョンはキースにとっては大切な家族だから、折紙に対してジョンに対するものと似たような気持ちを抱いていたとしても、不思議ではないとキースは単純に思っていた。
「そう、何だかよく分からないけど、折紙サイクロンは貴方に良い影響を与えているみたいね。ちょっと安心したわ」
「?折紙君が、私にですか?」
「いいの、気にしないで。私も和食を食べてみたいから、いいお店があったら教えて頂戴」
「了解!そして、了解です!」
「兎に角、あまり根を詰めないで。これは主治医というより、貴方の友人としてのお願いよ」
というドクターの言葉と共に、その日の診療は終了した。
+++
キース自身には無理をしているつもりはない。ただ、もっと頑張らなければという思いに突き動かされているだけだ。以前よりも少しだけトレーニングメニューを増やしたのも、入院中に身体が鈍ってしまった分を取り戻そうとしているだけのことだ。
今だって、もう一時間以上ランニングマシンで走りこんでいるが、それ程疲れを感じていない。
リハビリが必要だということを除けば、キースの体調は万全の筈だった。
(けれど、Dr.シヴァは私の不調に気付いていた。そんなに浮かない顔をしているのだろうか、私は)
自分は隠し事が出来ないタイプだとは知っていたが、そこまで考えていることが顔に出ているとは思わなかった。それとも、ヒーローデビューした時からキースの健康管理を担当してきたドクターだから、キースが何も言わなくとも、最近NEXT能力のコントロールにばらつきがあることに気付いたのかもしれない。
(心の洗濯を勧めてくれたのも、精神状態に能力のコントロールが左右されることを知っているからなのだろうな……)
小さく溜息を吐くと、ランニングマシンの速度を下げてウォーキングに切り替えた。
退院してからというもの、キースは不調続きだった。思うように風が操れないのだ。それまで自分の分身のように感じていた風が、キースの意志に反した動きをするようになったのだ。
今はまだ、10回出動したら一、二度程度でコントロールを失うだけだが、このまま不調が続けばどんどんその頻度は増えるだろう。そうなる前に、何としてもスランプから脱したかった。
原因は分かっている。
ジェイクに負けて以来、キースはそれまで培ってきたヒーローとしての自信を喪失してしまったのだ。
それまでキースはランキングではずっとトップだった。それはつまり、番組内では殆ど失敗したことがないということだ。
(私は慢心していたのだろうか……自分の力を過信していたのかもしれない)
キースはジェイクに完膚なきまでに叩きのめされた。
それは、キースの人生において初めての挫折だった。
もう十分走っただろうとランニングマシンから降りて休憩する。備え付けのベンチに座ってスポーツドリンクに口をつけると、冷えた液体が喉を潤す感覚が心地良かった。
ジェイクに負けたのは悔しかった。キースは戦闘において他のNEXTに遅れを取ることなど今までなかったのだ。
だが、何よりもキースにとって辛かったのは、シュテルンビルト市民の期待を裏切ってしまったことだった。自分を信じて応援してくれた人々を、落胆させてしまったことだった。
自分がペガサス像の下で屈辱的な姿を曝した時、彼らは絶望しただろう。その顔は恐怖に歪んでいたに違いない。
その時のことを想像するだけでキースの心臓に鋭い痛みが走る。羞恥と悔恨に押し潰されそうになる。そして、目の前が真っ暗になるような悲しみに襲われるのだ。
自分に期待してくれた人々を裏切った。
その事実がキースの心に重く圧し掛かり、罪悪感を抱かせる。それはキースの心を覆う暗雲として、あの日から重く垂れ込めていた。
人々の期待を裏切ったのは、キースの、スカイハイの罪だ。キースが償うべき罪だ。
だが、どうすればいいのか分からない。
生まれて初めて、キースは自分が何をすべきなのか、そして自分に何が出来るのかを見失った。
(私は驕っていたのだろうか?……愛され、尊敬されることに慣れきって、賞賛を受けるに値するだけの努力を忘れていたのだろうか?だから、こうして挫折を経験して、市民から幻滅された今、どうしていいのか分からないのだろうか……?)
キースは笑顔を見るのが好きだった。誰かが笑っていると幸せだった。
何時だってキースは人々の笑顔を守りたいと望んでいた。
誰かが泣いていたら、その涙を拭ってあげたいと願っていた。
だから、子供の頃から皆を笑顔にする努力を惜しまなかった。スクールのテストで一番を取れば両親は喜んでくれた。貴方は私達の自慢の息子だと笑ってくれた。困っている友人の頼み事を快く聞き入れれば、素晴らしい友人だと笑ってくれた。
皆が笑う度にキースも笑った。人々の笑顔がキースの心を光で満たした。
そんなキースがNEXT能力に目覚めた時、ヒーローになろうと決めたのは当然のことだった。きっと、ヒーローにならなくても、人命救助に関わる仕事に就いていたのだろう。
キースにとってヒーローであることが自らの存在意義だった。
自分の力で誰かに笑顔をもたらすことが出来ることが誇りだった。
だから、人々の笑顔を守れなかった自分を、キースはどうしても許すことが出来ない。
人々の期待に応えられなかった自分を認められない。
(どうすればいいのか分からないのは、再び失敗することを恐れているからなのだろうな。また皆の期待を裏切ってしまったらどうしようと、怯えているんだ)
私はこんなにも臆病な人間だったのか、と自嘲の笑みを浮かべずにはいられなかった。
「あ、スカイハイさん。こんにちは」
「やあ、折紙君。こんにちは。そして、こんにちは」
キースの気分がこれ以上無いほど落ち込んだ時、折紙サイクロンがトレーニングルームに入ってきた。この時間帯では人がいないと思っていたのか、ベンチに座るキースを見付けて折紙は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにぱっと笑顔になる。以前と比べて彼は良く笑うようになった。
「こんな時間にトレーニングなんて珍しいね」
「今日は夕方からずっと収録が入ってるので、早めにトレーニングを済ませておこうと思って。後で時間が取れるか分かりませんし」
「成程。実に熱心だ」
「ありがとうございます。最近少しずつトレーニングの効果が出てるみたいで、身体を動かすのが楽しいんです。スカイハイさんが組んでくれたメニューのおかげです」
「ありがとう。そして、ありがとう。だが、君の努力が実を結び始めているのだと私は思う。これからも努力を続ければ、君はもっと伸びる」
「スカイハイさんにそう言って貰えると嬉しいです。頑張りますね!」
そう言って微笑んだ折紙の頬は、キースに褒められて照れているのか赤みが差している。きらきらと輝く紫の瞳からは、キースへの憧れと尊敬が溢れていた。
それじゃあ着替えてきます、とロッカールームに向かう折紙の背中を見送りながら、キースは深く息を吸う。そして、さっきまでの暗い考えを吐き出すように大きく息を吐いた。
(折紙君はこんな私をまだ信じてくれているのだな)
折紙はまだ、スカイハイを見捨ててはいない。
彼の期待に応えたい。いや、応えなければならない。
いや、彼だけではない。スカイハイの復活を待っていてくれる人々のために――
(折紙君に自分で気付くことの大切さを説いたのは私だ。この壁は自分の力で乗り越えなければ――!)
何故なら、キースはスカイハイなのだから――――
9.
エドワードの面会日。
刑務所の面会室では、いつものように近況報告をするイワンと、そんなイワンに笑いながら相槌を打つエドワードの姿があった。
「それでね、最近は体術の訓練に力を入れてるんだ。ドラゴンキッドさんは格闘技の達人だからよく手合わせしてもらっててね。ロックバイソンさんもたまに打ち込みに付き合ってくれるんだ。本当はバーナビーさんやタイガーさんと組み手をしてみたいんだけど、最近あの二人忙しくてなかなかトレーニングセンターに来ないんだ」
「タイガー&バーナビーは今大人気だからな。あちこちで引っ張りだこなんだって?」
「そうみたい。今度は水着でグラビア撮影だってさ」
「何だそりゃ」
面会窓越しに交わされる会話は、すっかり親友同士のそれだった。
「ところでさ、お前スカイハイとは相変わらず変な修行してんのか?」
「変な修行って何だよ」
「どう考えてもおかしかっただろう、あれは」
以前ファイヤーエンブレムの店でスカイハイと修行したことを手紙に書いて以来、エドワードは随分とスカイハイを気にしているようだ。「あの天然は作ってたんじゃないのかよ……」とか、「本名がグッドマンって出来過ぎてるだろう」などと言って感服していた。多分、今まで見たことも聞いたこともないタイプの人間だから興味津々なのだろうとイワンは思っている。
確かにスカイハイがマスクを取ってもあのままの性格だという事実は意外かもしれない(むしろ天然度が増している気がする)。彼のように純粋な人が存在するのだと、初めはイワンも驚いたのだ。
「流石にもうあんな修行はしないよ。もっと普通にスカイハイさんのパトロールのお手伝いとか、ジョンのお世話とか。あ、ジョンっていうのは」
「スカイハイのペットのラブラドールだろ?知ってるよ」
「あと、異文化を学ぶのも勉強だからって、一緒にJAPANに関するDVD見たり。この前は和食のレストランに連れて行ったんだ」
「ダチとつるんでるのと大差ないな」
「僕がKOHと友達になんてなれるわけないよ、そんな恐れ多いこと言わないで」
「もうあいつはキングじゃないだろ」
「ちょっと、何言ってるんだよ」
エドワードの言葉にむっとして口を尖らせた。
昨シーズン、スカイハイはKOHの座をバーナビーに明け渡したのだ。それまで不動のTOPだったスカイハイが新人に負けたということでメディアは大いに盛り上がった。
「何だよ、へそ曲げたのか。お前昔っからスカイハイのファンだったからな。ヒーローがヒーローのファンでどうするんだよ」
「……スカイハイさんはすぐキングに返り咲くよ」
「はいはい。頑張って応援しろよ」
エドワードに適当にあしらわれて更にイワンの機嫌は悪くなる。だが、不機嫌の理由は他にあった。
「この前レストランで隣の席の人が話してるの聞いちゃったんだ。スカイハイにはがっかりしたって。キングの名が泣くって。
今までスカイハイさんがどれだけ頑張って来たのか知りもしないでさ。酷いよ。キングキングって持て囃したくせに。スカイハイさんは命を懸けてジェイクと戦ってくれたのに。大体、スカイハイさんはカメラに映ってない時でもヒーローだから、もし彼の活躍を全部ポイント換算したらバーナビーさんのポイントなんて」
「おいおい、ヒーローが市民を悪く言っていいのか?」
「だって……」
「スカイハイはお前にそんなことを思って欲しいのか。違うだろう?」
「分かってるけど……」
分かっている。だが、納得が行かないのだ。
スカイハイが不調だからといって掌を返したように彼を馬鹿にし始めた人々が許せなかった。今までスカイハイがどれだけ一生懸命彼等のために戦って来たのか知りもしないくせに、と怒りが湧いて来るのだ。
スカイハイだってそんな市民の声が耳に入っている筈なのに、彼は何も言わない。彼が何も言わないから、イワンも黙っているしかない。結局イワンは見ていることしか出来ないのだ。
(ヒーローって何なんだろう……)
見切れることしか出来ない自分ならともかく、ちょっと不調なだけでスカイハイまで批判されるようになるなんて理不尽だ。シュテルンビルト市民は、ヒーローを何だと思っているのか。
ヒーローだって、人間なのに。
ヒーローだって、慰めて欲しい時があるのに。
「何か言ったか?」
「え?」
エドワードの声でイワンは我に返る。エドワードの前なのに、また思考の海に沈んでいたようだ。
「うぅん、何でもないよ」
「そうかぁ?お前、またネガティブなこと考えてたんじゃないだろうな。そういう顔してたぞ」
「そういう顔って、僕はいつもこういう顔なの!」
「はいはい。目つきが悪くてネガティブだから道を歩いてるだけで絡まれるような顔なんだろ?」
「酷いよ、エドワード!」
「はははは」
イワンが考え込んでいるのを見て、エドワードはわざと話題を変えてくれたのだろう。そんな心遣いをしてくれた彼にイワンは心の中で感謝した。
これ以上は、不穏な方向に思考が進んでしまいそうで怖かったから。
10.
キースが薔薇の花束を携えて公園に通うようになって五日が過ぎた。キースが恋した彼女はまだ現れない。
「また明日」とは言ったけれど、会う約束をした訳ではないから、再び彼女に会える保証は無い。けれど、きっとまた会えるとキースは漠然と感じていた。
再会の時を想像して心を躍らせながら、キースは今日もあの公園で名前も知らない想い人を待つつもりだった。
「健気ねぇ」
「薔薇を抱えたイケメンが公園のベンチで恋人を待つ、なんて映画のワンシーンみたいね」
「ボクは花束よりもケーキの方がいいと思うけどな」
半ば呆れたように溜息を吐くファイヤーエンブレムとは対照的に、ブルーローズは「ロマンチックじゃない」と興奮している。ドラゴンキッドの発言は少しずれている気がしないでもない。数日振りにトレーニングセンターで女性陣と鉢合わせたキースは、先程から「KOHの恋の行方」について質問攻めにあっていた。
数年振りに感じる胸のときめきに浮かれているのか、キースは彼女のことを逐一尋ねられても煩わしいとは思わない。むしろ、もっと彼女の素晴らしさを語りたいとさえ思っていた。
「何にせよ、スカイハイが元気になって良かったわ。いっつも天然炸裂させてるアンタが落ち込んでると、調子が狂うのよね」
「心配掛けてすまなかった。ブルーローズ君は優しいね」
「べ、別に心配なんてしてないわよ!私はただ……」
「はいはい。でも、スカイハイちゃんが元気になったと思ったら、今度はタイガー&バーナビーの様子がおかしいのよね」
「ワイルド君とバーナビー君が?」
「ええ。数日前から二人とも表情が暗いのよ。貴方が倒したアンドロイドの事件のあった直後からかしら」
「あ、バーナビーさんだ」
噂をすれば、バーナビーが入って来た。ファイヤーエンブレムの言う通り顔色が優れない。今日はバディと別行動なのか、ワイルドタイガーの姿は見えなかった。
「やあ、バーナビー君」
「あ。スカイハイさん、こんにちは。すみません、考え事をしていたもので皆さんに気付かなくて……」
「今日はタイガーと一緒じゃないの?」
「虎徹さんはロイズさんに用があるとかで、少し遅れるそうです」
「ふーん、そうなんだ」
「ところで皆さんお揃いで、何のお話をしていたんですか?」
「あのね、バーナビーさんが最近元気無」
「ちょっと!パオリン、あんた何てことを!」
ファイヤーエンブレムに慌てて口を押さえられてドラゴンキッドはむぐぅと奇妙な声を発したが、当のファイヤーエンブレムはバーナビーに向かって「気にしないでね」とぎこちなく笑う。そんな二人のやり取りを不思議に思いながらキースはドラゴンキッドの言葉を続けた。
「ああ、それはね。例のアンドロイドの事件以降バーナビー君の様子がおかしいから心配していたんだよ」
「ちょっとスカイハイ!」
「そのことですか……大したことじゃないんです。この前スカイハイさんが破壊したアンドロイドは、僕の両親の研究を基にして作られたと知って、少し色々考えてしまっていたんです。両親は人を助けるアンドロイドを作ることを目指していたのに、二人の研究を戦闘用アンドロイドの発明のために使うなんて……」
「成程、それは許せないな。君のご両親の遺志を踏み躙る行為だ」
「それじゃあハンサムも辛いわよね。気落ちするのも無理ないわ」
自分の肩にしなだれかかり「慰めてあげましょうか?」と囁くフィヤーエンブレムに、バーナビーは困ったように笑う。方法は微妙だが自身を元気付けようとするファイヤーエンブレムの優しさを、バーナビーは素直に受け止められるようになった。
「ねえ、そのアンドロイドってハンサムとタイガーも戦ったのよね?どんな奴だったの?戦闘用アンドロイドなんて聞いたこともないけど」
「スカイハイさんはそいつと空中戦したんでしょ?空も飛べるアンドロイドなんているんだね」
ブルーローズとドラゴンキッドはヒーローと互角に戦えるアンドロイドが存在するなど信じられないようだ。実際に戦ったキース自身も、あれ程高性能のアンドロイドは見たことがなかった。
「最初に見た時は人間の女性だと思いました。彼女が建物を破壊するのを見ても、パワー系のNEXTが暴れてるのだと思ったくらいですから。戦う内に人工皮膚が燃えて内部構造が剥き出しになってやっとアンドロイドだと認識出来たのですが、初めはあれが機械だなんて信じられませんでした」
資料を見てみますか?とバーナビーがPDAを弄ると、アンドロイドの映像が浮かび上がった。
「うわ、ホントに人間そっくり。しかもかなり美人じゃない。女の子の外見の戦闘用アンドロイドを作るなんて、これ作った奴どんな趣味してるのよ。気持ち悪い」
「自分好みのお人形さんを作ったんでしょうね。ブルーローズの言う通り、あんまりいい趣味とは言えないわね」
「バ、バーナビー君」
あまりの衝撃に、心臓が止まるかと思った。
そこに映るのはどう見てもキースが公園で出会った彼女だ。いや、まさか。そんなことある筈がない。立ち直る切っ掛けをくれた彼女がアンドロイドだなんて、キースは信じたくなかった。
「この女性がアンドロイドだというのは間違いないんだね」
喉がからからに渇いて掠れた声しか出ない。バーナビーの情報に間違いがある筈がないと分かっているのに、どうしても確認せずにはいられなかった。
「はい。シスという名前だそうです」
「……そうか……」
間違いない。彼女がシスだ。キースはそう確信していた。
パトロール中にアンドロイドを破壊したあの日から、彼女は公園に現れなくなった。リンゴを潰してしまった握力も、どこかぎこちなかった仕草も、彼女があのアンドロイドだというのなら説明がつく。ばらばらだったパズルのピースが一つに収まっていくように、キースの中で彼女の言葉や行動の本当の意味が明らかになっていく。
「スカイハイさん、大丈夫ですか?顔が真っ青ですよ」
黙ってしまったスカイハイを心配したバーナビーの言葉に、他の三人もキースの方を向く。余計な詮索をされたくなくて、キースは無理に笑顔を作って
「急用を思い出したんだ。すまない、これで失礼するよ」
と言うと、出口へ向かって一目散に駆け出した。
今はただ、独りになりたかった。
+++
――――私が恋をした女性は、アンドロイドだった。
当ても無くゴールドステージを彷徨いながら、キースは心の中で何度も何度もそう繰り返す。しかし、頭の中が真っ白で何も考えられない。ただ、彼女はアンドロイドだったのだと熱に浮かされたように反芻するだけだった。
バーナビーのPDAから映し出された写真を目にした時、心を過った感情を何と言い表せば良いのかキースには分からない。あまりの衝撃に呼吸をするのも忘れた。
だってそうだろう。
自分にヒーローとしての自信を取り戻す切っ掛けをくれた女性は、機械仕掛けの人形だったのだ。そして、キースが自身を取り戻したのは、その人形の破壊に成功したからなのだ。
一体何を感じれば良いと言うのだろう。
(彼女はアンドロイドだった……私は、アンドロイドに恋をしたのか……――)
自分は、心を持たない機械に恋をしたのだ。
そう理解した時、目の前が真っ暗になった。頭をガツンと殴られたようなショックを受けた。そして次の瞬間、激しい羞恥心と共に腹の底から吐き気が込み上げた。
堪え切れず、近くの路地裏で吐いてしまう。胃の中のものを全て吐き出して空っぽにしても、嘔吐感は治まらない。胃酸の酸っぱい味が口の中に広がって不快だった。
キースは、恋した相手がアンドロイドだったことよりも、アンドロイドに恋をした自分に嫌悪した。心を持たない空っぽの人形に恋をした自分に失望した。
(私が好きになったのは、好きになったと思ったのは、一体誰だったというのか。私は『誰』に恋をしたのだろう……――?)
口内に残る苦味が不快感を募らせる。
久し振りに、酒が飲みたかった。
+++
その日、イワンはパトロール開始時間を過ぎてもスカイハイの姿をシュテルンビルトの夜空に見付けることが出来なかった。
余程のことが無い限り彼が日課のパトロールを休むことは無いと知っているから、もしや緊急出動要請が入ったのかと自分のPDAを確認するが、事件が起きたという連絡は無い。ならばきっと仕事で遅れているだけなのだろうと思い、ベランダでブログの更新をしつつイワンはスカイハイが現れるのを待っていた。
別にイワンは毎日パトロールするスカイハイを待っている訳ではない。ただ、ここ数日スカイハイに会っていなかったから、今夜はせめて遠くからでもその姿を見たいと思っただけだ。
いや、数日どころでではない。実は、もう一週間以上イワンは出動以外でスカイハイに会っていなかった。更に正確に言えば、スカイハイに好きな人が出来たと聞いた時から会っていない。
別に、故意に彼を避けていたわけではない。何となく「会いたくないな」と思っていたら、たまたまスカイハイがトレーニングセンターにいる時間とイワンの仕事の時間が重なることが多くなって、すれ違いが続いただけだ。
しかし、実際彼と顔を合わせなくて済んだのは好都合だった。スカイハイが恋をしたと知ったイワンの心は複雑で、彼にどんな風に接すればいいのか分からなかったから。
イワンは、彼の恋を素直に応援出来なかった。
スカイハイが好きになる人なのだから素敵な人には違いないだろう。その人のおかげで彼は不調を脱したと言っていたから、きっと彼女はこれからもスカイハイの支えになってくれるのだろう。イワンではスカイハイの力にはなれなかったけれど、その人と一緒になら、きっとスカイハイは迷わずにヒーローを続けられるのだろう。
そんな素晴らしい人とスカイハイが巡り会えたことを喜ぶ気持ちはある。けれど、同時に一抹の寂しさも感じていた。
(――きっと、その人と付き合い始めたら、今までのように僕の修行には付き合ってくれなくなるんだろうな)
と、まるでスカイハイに捨てられたような気持ちになったのだ。
正直、子供じゃないんだから、何を馬鹿なことを考えているのだ、と自分に呆れてしまう。けれど、どうしても自分の心に嘘は吐けなかった。
だから、スカイハイに会いたくなかったのは、純粋に師匠の恋を応援出来ない自分が後ろめたかったからであり、幼稚な自分の心を彼に見透かされるのが怖かったからだった。
しかし、やはりしばらく会っていないとそれはそれで寂しいもので。
だから今日、パトロール中のスカイハイに気付いて貰って、そして手を振って貰えたら、明日からはまた今まで通りに彼と接しよう、とイワンは自分に約束したのだ。師匠の恋を応援するのも弟子の役目だと自分に言い聞かせて。
しかし、今夜に限ってスカイハイの姿はない。
夜の11時を回ってもスカイハイが現れないとなると、流石にイワンも心配になってきた。
イワンの知る限り、事件以外でスカイハイが日課のパトロールを休んだことはない(勿論入院していた時はドクターストップがかかっていたが)。彼が怪我をしたという話は聞いていないし、普段から体調管理に気を遣っている彼が体調を崩したとも思えない。だから、彼がパトロールを休むなんて、余程の理由なのだろう。例えば、大事な家族に何かあったとか――
と、そこまで考えてイワンは息を呑んだ。
(もしかして、ジョンに何かあったとか?)
イワンはスカイハイがどれだけジョンを大切にしているか知っている。ジョンのことをソウルメイトと呼ぶ位なのだから、人間ではなくともスカイハイにとってジョンは本当に大切な家族なのだ。
飼い主に似てどこか抜けたところのある犬の姿を思い浮かべ、イワンは不安になる。事故に遭ったり急に具合が悪くなったりしていないだろうか。もしジョンに万が一のことがあったら……
そう考えるとイワンは居ても立ってもいられなくなり、スカイハイの携帯に電話した。だが、留守番電話に繋がるだけで、本人とは連絡が取れない。PDAにも連絡しても結果は同じだ。
(どうしよう……本当に何かあったのかもしれない……)
ヒーローになってから夜のパトロールを欠かしたことは無いとスカイハイは言っていた。どんなに仕事が忙しくても、絶対にパトロールのための時間を確保すると、ヒーローになった時自分に誓ったのだ、と。だから、スカイハイがパトロールを休むということは、プライベートで大変なことがあったに違いないのだ。
(直接マンションに行った方が良いのかな)
以前と比べてイワンはスカイハイと親しくなったが、こんな風にスカイハイのプライベートに踏み込んでいいものかとイワンは躊躇する。だが、イワンの直感は警鐘を鳴らしていた。
「うん、決めた!」
こんな時間に訪ねて行くなんて非常識だけど、何もしないで後悔するのは嫌だ。
直感に従うと決心すると、イワンはスカジャンを掴み夜のシュテルンビルトに飛び出した。
+++
スカイハイのマンションに着くと、以前に教えてもらった暗証番号でエントランスホールに入る。そのままエレベーターでマンションの最上階にあるスカイハイの部屋に到着すると、意を決してチャイムを押した。
しかし、何の反応も返って来ない。
もう一度チャイムを押してもスカイハイは出て来ない。
やはりジョンに何かあったのだとパニックに陥り始めたイワンは、取り敢えず最寄の動物病院を検索しようと携帯を取り出した。と、その時。
「折紙君か。こんな時間にどうしたんだい?」
カチャリと音を立ててドアが開くと、そこにはいつものシャツとジーンズ姿のスカイハイが立っていた。
「スカイハイさん!どうしたって、僕……」
貴方がパトロールに出ないから心配になってここまで来たんです、と言葉を続けようとして、イワンはふとスカイハイからアルコールの匂いがすることに気付いた。
「スカイハイさん、お酒を呑んでいたんですか……?」
よく見るとスカイハイの頬が少し色付いている。動きもいつもより鈍く、視線も定まっていない。
スカイハイが酔っている姿などイワンは初めて見た。先程までの不安は今度は混乱に変わる。日課のパトロールを休んでスカイハイが部屋で酒を呑んでいるなど、イワンの理解の範疇を超えていた。
「折紙君も呑むかい?」
「え?」
「君が来てくれて丁度良かったよ。誰かと話をしたいと思っていた所なんだ」
そう言って茫然とするイワンをドアの前に残したままスカイハイは部屋の中へ入って行く。まだ混乱しているが、入るように促されているのだと察すると、イワンは一瞬の逡巡の後スカイハイの後を追ってドアを閉めた。
真っ暗なリビングには、ビールの空き瓶が幾つも転がっている。ジョンの姿は見えないが、寝室にいるのだろうと想像する。もしジョンに何かあったのなら、こんな所でスカイハイが酒を呑んでいるとは思えなかったからだ。
「あの、スカイハイさん」
「ビールしかないんだけど、いいかな」
「え?い、いえ、僕は結構です」
「そうかい?」
冷蔵庫からビール瓶を取り出して、キッチンカウンターに蓋を引っ掛けて手で叩くという荒っぽい方法で瓶を開けると、スカイハイは泡が零れるのも構わずにリビングの中央に置かれているソファに腰を下ろした。
「折紙君も座るといい」
スカイハイ宅のソファは大きくて、イワンとスカイハイが座っても十分な余裕がある。恐る恐るイワンはソファの端に腰掛けた。今日のスカイハイはいつもと様子が違っている。まるで手負いの獣のようだった。
「今日、ショックなことがあったんだ」
ぐい、とビールを一口呷ると、スカイハイがそう切り出した。
「少し前に恋をしたと言っただろう?覚えているかい?」
「はい」
まさか失恋して自棄酒を呷っているのかと一瞬疑ったが、それにしてはスカイハイから感じられる雰囲気は危うい。窓から入ってくる明かりだけを頼りに盗み見た横顔は、苦痛に歪んでいるのにどこか儚げだった。
「恋をしたと、思ったんだ……でもね、私が恋をしたと思った女性は、アンドロイドだったんだ。そして、そのアンドロイドを倒したのは、私だ」
「アンドロイド……?まさか、そんな……」
「バーナビー君から資料を見せて貰ったからね、間違いないよ」
スカイハイの告げた言葉はあまりにも意外過ぎて、イワンには対処出来ない。
先日非常に高性能の戦闘用アンドロイドとタイガー&バーナビーが遭遇したと耳にしたが、スカイハイはそのアンドロイドのことを言っているのだろうか。だが、何故スカイハイがアンドロイドと接触したのか。何故そのアンドロイドをスカイハイが倒すことになったのか。
尋ねたいことだらけだったが、スカイハイの口の端に浮かぶ自嘲的な笑みに気付いてしまい、イワンは口を噤む。今は、黙ってスカイハイの話を聞かなければならない。そう感じた。
「それでね、分からなくなってしまったんだ」
ふ、と息を吐くように呟かれた言葉には、驚くほど感情が籠もっていなかった。
「あの時、彼女の真っ直ぐ私を見詰める瞳を見て、心臓が跳ねたんだ。あの時私が感じたものは恋愛感情ではなかったのだろうか?胸のときめきは、恋の始まりを身体が教えてくれているのだと思っていた。違うかい?恋とはそういうものだと、映画や小説でも言われているじゃないか。なら、あの気持ちが恋なのだろうと私が思っても、不思議ではないだろう?」
スカイハイの言葉はイワンにではなくスカイハイ自身に向けられている。イワンは何も言わずに彼の言葉に耳を傾けるだけだ。きっとスカイハイは返事を望んでいない。
「今までの恋人とも同じような経緯で付き合い始めたんだ。皆それなりに可愛かったし、一緒にいても楽しかった。魅力的だと思ったよ。魅力的だと思ったら、恋してるってことではないのかな。ドキドキしたら恋をしてる証拠だろう?」
「ぼ、僕には分かりません。あの人素敵だなと思うことはありますし、セクシーな仕草にドキッとすることはありますけど……」
突然スカイハイはイワンの方を向いてそんなことを尋ねものだから、イワンは意表を突かれておどおどしてしまう。しかし、スカイハイはイワンの返事を聞いてふっと笑うだけだった。
優しい笑みは、いつものスカイハイのものだ。
「ああ、私は恋をしたのだと、納得した。今までだってそうだった。それが恋なのだと信じていた」
遠くを見詰めるスカイハイの瞳は、シュテルンビルトの摩天楼の光を映して星空のように瞬いている。けれどそれは人工の光だ。本物の星は、人工の光に隠れて見えない。
「あれは恋ではなかったのだろうか。恋ではないのなら、一体何だったのだろう……性欲かな?」
「せ、せせせせせせいよく?!」
「うん」
スカイハイの口から飛び出した単語に驚きのあまりイワンは素っ頓狂な声を出してしまう。性欲なんてものとは縁の無さそうな人だと思っていたのに。
「す、スカイハイさんから性欲なんて言葉を聞くとは思いませんでした」
「幻滅したかい?」
「いえ……その……意外だったので……」
「スカイハイは清廉潔白の、性欲とは無縁の存在だとでも思っていたのかい?」
「そ、それは、その」
冷静になって考えれば、スカイハイだって人間なのだ。食欲もあれば性欲もあってもおかしくない。けれど、イワンにとってスカイハイはヒーローだ。人間の醜い欲などは超越した存在だと、どこかで思っていたのかもしれない。
「スカイハイに欲なんてあってはいけないんだろうけどね。なかなか上手くいかない」
難しいね、と笑ったスカイハイの笑顔は、今まで見たことも無いほど悲しい笑みだった。
「折紙君、もしかしたら、私は今まで誰一人愛してこなかったのかもしれない」
え、とイワンは思わず聞き返した。
「私はね、愛が何か分からなくなってしまったんだ。いや、最初から、私は愛を知らなかったのかもしれないんだ。もしそうだとすれば、私は今まで誰も愛してこなかったのではないだろうか」
「そんなこと……!」
「愛を知らないヒーローなんて、愛することの出来ないヒーローなんて、ヒーロー失格だ」
ひゅっ、とイワンの喉が鳴る。
一瞬、呼吸をするのを忘れた。
スカイハイがヒーロー失格だなんて、彼は一体何を言っているのか。彼ほどヒーローらしいヒーローなど何処にもいないのに。彼ほどヒーローに相応しい人など何処にもいないのに。
「愛とは誰かを大切に思うことだろう?ならば愛を知らない私は誰も大切にしていないことになる。そんな私がヒーローでいいのだろうか?
折紙君、私はね、ヒーローになろうと決めてから必死に頑張ってきた。立派なヒーローになるためにはどうすればいいか、ずっと考えてきた。少しでも理想のヒーローに近付くために、ありとあらゆる努力をしてきたつもりだ。
けれど、私にはヒーローとして一番大切な物が欠けていたのかもしれない。
愛を知らない私が、人々に笑顔を齎すことなど出来ない。人々を幸せにすることなど出来ない。違うかい?
私は今まで皆を騙してきたんだ。ヒーロー失格だ」
「……どうしてそんなこというんですか?」
黙ってスカイハイの言葉を聞いていたイワンだが、もう限界だった。呻くように声を絞り出す。
「どうしてスカイハイさんがそんなこというんですか!」
大声で叫ぶイワンに驚いたのか、スカイハイが肩をびくりと震わせる。けれどイワンにはそんなことを気にしている余裕は無かった。
「僕には愛が何かとか、誰かを好きになるのがどんなことなのか分かりません。でも、スカイハイさんは、泣いている人がいたら慰めてあげたいって思うんでしょう?誰かの笑顔のために頑張れるんでしょう?それで十分じゃないですか」
違う。イワンはこんなことを言いたいのではない。だが、心とは裏腹に唇は言葉を紡ぐ。
イワンはただ悲しいのだ。どこまでも「ヒーロー」であり続けようとするスカイハイに、どうしようもなく胸が痛むのだ。
もしスカイハイが本当に愛を知らないというのなら、誰も愛することが出来ないというのなら、それは人として悲しいことだ。人として、悲しむべきことだ。
にも拘らず、スカイハイが感じているのは「ヒーロー」としての苦しみばかりだ。
(あんなに誰かのために一生懸命になれる貴方が、愛を知らないはずが無いじゃないですか!どうしてそんなことも分からないんですか?スカイハイは、貴方の理想のヒーローはアンドロイドに恋をしないからですか?だから何だって言うんです?人間なんだから勘違いすることだってありますよ。それともスカイハイはそんな間違いも許されないんですか?)
「どうして貴方は……」
そこまでして、ヒーローであろうとするのですか?――――
「折紙君……」
もしスカイハイが愛を知らないというのなら、悲しいのはヒーローとしてではなく、人としてだ。
ならば何故、自分のために苦しまないのか。自分のために悲しまないのか。
何故、こんな時までスカイハイであろうとするのか。
「……どうして泣いているんだい?」
いつの間にかイワンの頬を涙が止め処なく流れていた。
スカイハイのことを想うと、後から後から涙が溢れ出てくるのだ。
「寂しいんです」
「寂しい?」
「寂しくて、心が痛いんです」
彼は傷付いているのに、自分が傷付いていることにも気付いていない。だから、自分自身の傷付いた心のために涙を流すこともない。彼は自分の心をとっくに見失っているのだから。
ただただ、彼は自分以外の誰かのことを想うのだ。そして、誰かのために心を砕くのだ。けれど、砕け散った彼の心は、誰が掬い取ってくれるのだ。
ああ。
なんて優しい人なのだろう。
なんて悲しい人なのだろう。
彼が自分のために涙を流せないというのなら、イワンが代わりに泣こう。傷付いた彼の心のために、幾らでも涙を流そう。
ヒーロー・スカイハイのためではなく、
一人の愚かなキース・グッドマンのために――――
気が付くとイワンはスカイハイに抱き締められていた。子供をあやすように背中を撫でられて、イワンの涙はますます勢いを増す。大きな手で優しく髪を梳かれると、心臓が切なさで潰れそうだった。
「折紙君は温かいね」
「スカイハイさんも……とても温かいです」
触れ合った身体から伝わる温もりは、イワンの心を温めてはくれない。キースのために涙を流すイワンの心は、きっとキースの心でしか温まらない。けれど、キースの心は、どこにもない。
不意に頬がくすぐったくなって目を開けると、スカイハイの顔がすぐ近くにあった。目尻にキスを落とされているのだと理解して、また泣きたくなる。
イワンが目を開いたことに気付いて、スカイハイが覗き込んだ。いつもは空のように青い瞳は、今は深海のように深い蒼を湛えていた。吸い込まれそうだ、とぼんやりと思う。
そして、どちらからともなく唇を重ねた。
スカイハイとのキスは、涙の味がした。
「んっ……!」
初めは触れるだけだった唇が、徐々に激しさを増していく。舌を絡められ、息も吐けないくらい咥内を蹂躙される。
深い口付けが気持ちよくて頭がぼうっとし始めた頃、ふとイワンは下半身に固いものを感じた。
ぴたりと密着しているから隠しようがない。キスをしている内にスカイハイの身体が興奮してしまったのだろう。
「っ……すまない!つい」
ぐり、と押し付けられた熱にびくりと身体を震わせるとスカイハイが慌てて謝罪する。だが、言葉に相反して彼はキスを止めなかった。
(酔ってるんだろうな……)
そう冷静に分析しながらも、イワンはされるがままになっていた。
(でも、いいか)
服を弄られ、素肌にスカイハイの手が触れる。彼の手は大きくて、灼熱の太陽のように熱かった。
「折紙く」
「黙って」
私を止めてくれと懇願する彼の瞳に、イワンは自ら彼の腕に首を回すことで応えた。更に近くなった身体をもっと近付けるように、イワンからキスを仕掛ける。遠慮がちに肌を探っていたスカイハイの手が、明確な意志を持って動き始めた。
彼はこの手でシュテルンビルトを守ってきたのだと思うと、涙が零れた。
+++
イワンはずっと、自分が嫌いだった。何も出来ない自分に自信が持てなかった。自分の力が何のためにあるのか分からなかった。
何の役にも立たないNEXTは、気味悪がられ、疎まれるだけだ。だからイワンは、イワンであることが苦しかった。
イワンは自分以外の誰かになりたかった。けれど、どんなに姿形を変えることが出来ても、中身を変えることは出来ない。外側は変わっても、イワンはイワンのままだった。
エドワードに助けを求められた時も、イワンは何も出来なかった。いや、自分には何も出来ないと思い込んでいた。だから、あの時イワンは動けなかったのだ。
イワンはヒーローになってからも、何も出来ないイワンのままだった。
イワンに求められたのは道化としての役割だけで、本物のヒーローとしての活躍は期待されなかった。けれど、卑怯なイワンはヒーローになる夢を捨てられなかった。期待されていないことを知りながら、それでもヒーローである自分に縋っていた。
でも、イワンは変わろうと決心した。
あの日、イワンは昔自分が犯した罪を償うチャンスを与えられた。
あの時エドワードを止めることが出来たのは、きっとイワンだけだった。エドワードを救うことが出来たのは、イワンだけだった。
あの日、イワンは生まれて初めて、自分にしか出来ないことがあるということを信じることが出来たのだ。
「スカイ、ハイさん……」
首筋に舌を這わされ甘い声が漏れる。スカイハイを抱き締める手に力が籠もった。
ワイルドタイガーのおかげで前へ踏み出す勇気を持てたイワンは、すぐに壁にぶつかった。自分にしか出来ないことを探そうと決意したは良いが、それが何かが分からなかったのだ。
悩んでいたイワンに手を差し伸べてくれたのは、キースだった。イワンには何が出来るのかを一緒に考えてくれた。彼は、イワンが自分の足で歩けるように、ずっと傍で支えてくれたのだ。
今なら分かる。
人生で大事なのは、自ら気付くことだという彼の言葉の意味が。
キースはイワンが自分の力で歩き続けることを願ってくれていたのだ。
誰の言葉にも迷わないように、誰の行動にも惑わされないように、イワンがイワン自身の強さを見つけるために、ずっと隣にいてくれたのだ。キースが隣にいてくれたから、イワンは強くなれた。
(それなのに、僕は……)
ずっと見詰めてきたのに、イワンは理解していなかった。
ずっと傍にいたのに、イワンは気付かなかった。
キースは空っぽなのだ。
皆の期待通りに振る舞う内に、彼は自分を見失ってしまった。自分を見失うほど、皆のために一生懸命戦ってきたのだ。
誰の期待にも応えられなかったイワンとは真逆の存在だ。
(僕は僕であることにほんの少し自信を持てるようになったけど、スカイハイさんは……スカイハイのマスクの下には誰もいないんだ。スカイハイの中は空虚(からっぽ)なんだ――)
自分は彼の何を見ていたのだろう。
空っぽになるまで皆の期待に応えて来た優しい人。
悲しい人。
愚かな人。
イワンはずっとキースのことを太陽のような人だと思っていた。そこにいるだけで周囲を温かくしてくれる人。眩しい笑顔で明るく照らすことの出来る人だと思っていた。
でも、違った。
キースは、風の魔術師の二つ名の通り、風のような人だった。
何時だって皆の傍にいるのに、誰も本当の彼を見ることは出来ない。イワン達には、彼が自分達のためにしてくれたことの痕跡をを見ることしか出来ない。
(ねえ、キースさん。貴方はこれまで多くの人の笑顔のために戦ってきました。でも、その中で一人でも貴方の笑顔を求めた人はいますか?
全ての人の幸せを願う貴方。でも、貴方の幸せを願ってくれた人はいますか?
多くの人のために傷付いた貴方。でも、貴方のために傷付いてもいいと思ってくれた人はいますか?)
叶うのならば、イワンはキースに伝えたかった。
彼の優しさだけで充分なのだ、と。
もう頑張らなくてもいい。強くなくてもいい。誰かの期待に応えなくてもいい。
スカイハイでなくてもいい、と。
そう伝えたかった。
「……ん……はぁっ……」
いつの間にかカーゴパンツの前が寛げられて膝まで下ろされていた。スカイハイに促され、邪魔な殻を脱ぎ捨てるようにブーツごと足を引き抜く。
「折紙君……」
これ程までに純粋に人を想うことの出来る貴方。
ああ、なんて
愛しい人……
「折紙君……!」
苦しげに名前を呼ばれて、心の奥で光が弾けた。
――――そうか、僕はこの人が好きなんだ。
それは、あまりにも唐突で、けれど酷く当たり前のようにイワンの心に閃いた想いだった。
彼の苦しみを癒したい。
こうして身体を重ねることで、快楽に身を任せることで、彼の心が満たされるのなら。
持て余す程の快楽の中、自分を見失ってしまった彼が己の生を実感してくれるのなら。
「ここ」にいるのは、ヒーロー・スカイハイではなく、たった一人の「あなた」なのだと、彼が感じてくれるのなら。
そのためになら、こうして肌を重ねることも怖くない。
いつの間にかスカイハイも服を脱ぎ捨てていた。ぴたりと重なった肌が溶けてしまいそうだ。
(きっとスカイハイさんはお互いに慰め合っているのだと信じているのだろう。僕達はどこまでもすれ違う。身体はこんなに近いのに、僕達の心は遠い。交わらない。でも、それでも、今この一瞬でも貴方の苦しみを癒すことが出来るなら、僕は――――)
原始的だが、イワンにはこんな方法しか思い付かなかった。
「スカイハイ」はキースの一部だ。でも、こうして苦しむ彼も、確かにキースなのだ。
そして、イワンはそんなキースが好きだ。
スカイハイでもキース・グッドマンでもある彼を、丸ごと全て愛している。
(これが、誰かを愛するということなんだ……)
つ、と一筋の涙がイワンの頬を流れた。
イワンはKOHの彼に憧れていた。プライベートでも公明正大な彼を尊敬していた。
でも、恋に落ちたのは、苦痛に顔を歪める彼を前にした時。
「スカイ、ハイ……さん……」
貴方が好きです。
愛しています。
声にならない愛の言葉は、星のように瞬きイワンの心を満たす。
この光が彼の闇を照らすことが出来ればいいのにと祈りながら、イワンはスカイハイの手にすべてを委ねた。
11.
翌朝、キースが目覚めた時には折紙の姿はなかった。
昨夜眠ってしまった折紙の身体を軽く拭いた後、寝室から持ってきたブランケットに二人で包まってソファの上で眠ったところまでは覚えている。
あんなことを強いてしまったから、怒って帰ってしまったのだろうか。軽蔑されても仕方ないことをしたのだから、二度と顔を見たくないと思われても当然だった。
自分の浅薄な行動にキースが落ち込んでいると、「おはようございます、スカイハイさん」とタオルで髪を拭きながらシャワー室から折紙が出てきた。
「すみません、シャワー借りちゃいました」
「お、折紙君」
「スカイハイさんもシャワー浴びてきたらどうですか?僕、その間にコーヒー淹れてますね」
何事も無かったかのようにあっさりとした折紙の態度にキースは面食らってしまう。
何が何だかさっぱり分からない。もしかしたら昨夜のことは夢だったのだろうかとも思うが、ソファを降りて生まれたままの姿の自分を見てやはり夢では無いと確信した。
とにかく謝らなければと急いでシャワーを浴びて戻って来ると、キッチンで折紙がジョンに餌をやっていた。そういえば今朝はまだ散歩に行っていないと申し訳なく思うが、今は折紙を優先しなければならない。
リビングに散乱していたビール瓶はいつの間にか片付けられていた。
ダイニングテーブルに向かい合って座り、折紙が淹れてくれたコーヒーを飲む。折紙の落ち着いた様子が逆にキースを緊張させた。裁きが下るのを粛々と待っているかのようだと思いながらコーヒーを飲み干すが、味は分からない。
「僕、ずっと考えていたんです」
来た、とごくりと唾を飲み込む。何を言われても甘んじて受け入れようと覚悟していた。
「スカイハイさん。僕はやっぱり貴方は凄い人だと思います。貴方がヒーローとしての自信を取り戻したのは、他の誰のおかげでもなくて、貴方がとても強い人だったからじゃないでしょうか。」
折紙の言葉に、キースは思わず「へ?」と間抜けな声を出してしまった。てっきり罵倒されるとばかり思っていたのだ。だが、驚くキースを無視して折紙は話を続ける。
「スカイハイさんは公園で出会った女性に立ち直る切っ掛けを貰ったと仰ってましたよね?でも、その女性はアンドロイドだった。ということは、スカイハイさんはアンドロイドと会話をしていたんじゃなくて、自分自信と会話していたんじゃないですか?アンドロイドには心はありません。だから、悩んでいたスカイハイさんに手を差し伸べることは出来ませんでした。でも、心を持たないからこそ、アンドロイドは誰かの心を映す鏡にもなれるのではないでしょうか。だから、スカイハイさんはそのアンドロイドと対話することで、自分の中の魔物と戦っていたんです。少なくとも僕はそう思います」
「折紙君……」
「貴方は貴方自身の力で立ち直ったんです。でも、貴方は優しいからそれが自分の力だとは思わなかった。だから、自分の優しさを彼女に投影したんです」
「では、私は自分の欲していた言葉を、彼女が言ってくれていると勘違いしていただけなのだろうか」
「勘違いだから何だって言うんですか?落ち込んでた時に優しくされたと思ったんだから、勘違いしても仕方が無いじゃないですか!今度はもっとちゃんと相手をよく見て好きになれば良いんです!」
違いますか?と折紙は明るく笑って見せる。
この子はいつからこんな表情が出来るようになったのだろうかと、こんな状況なのにキースは軽い驚きを覚えた。
「スカイハイさんは強いです。僕なんかには想像も付かないくらい強く逞しい人です。でも、どんなに強い人でも、心が弱ってしまう時はあります。人間なんですから、当たり前ですよ」
人間なんだから弱くてもいい。いつも強くあろうとしなくてもいい。
キースはそんな風に考えたことは無かった。いつだって強くあらねばと、ヒーローらしくあらねばと自分を叱咤してきたのだ。折紙の言葉はキースにとって新鮮だった。そんな解釈はキースには考え付かなかっただろう。
「だから、スカイハイさんが辛くなったり、弱音や愚痴を吐きたくなったりしたら、遠慮なく言って下さい。僕でよければいつでも話し相手になりますから」
そう言って、折紙はもう一度にこりと笑った。
その笑顔は、あの時キースの瞼の裏に浮かんだ「彼女」の笑顔に少し似ていた。
+
結局その日、キースは折紙と昨夜の情事について話すことは無かった。
割り切れなさは拭えないが、彼が話したくないのなら自分も黙っているべきなのだろうと思うことでキースは自分の気持ちに折り合いを付けることにした。
それから二人の関係に特に変化は無い。ただ一つ、時折キースはスイッチが入ったように折紙の肉体を求めるようになった。そんな時、折紙は何も言わなくてもキースの表情を見るだけで全てを察するのか、黙ってその身をキースに委るのだった。
彼がキースとの行為について何を思っているのかは分からない。
ただ、キースにとって彼と寝るのは心地良かった。
彼につけ込んでしまったという後悔はある。酒の勢いと言うには、酔いは回っていなかった。
彼が何故突然泣き出したのかもキースには分からない。憧れのスカイハイがとんだ欠陥品だと知って、幻滅したのかもしれない。
何にせよ、あの時キースはただ黙って彼を抱き締めるべきだったのだろう。そうして彼が泣き止むまで、じっとしているべきだったのだ。
キースは彼よりずっと年上で、大人なのだから。
成人しているとは言え、彼はまだ若く未熟なのだから。
大人として、キースは彼を保護するべきだったのだ。
けれど、あの時、彼の涙に濡れた頬に触れた時。
掌から伝わる熱さに、胸が一杯になった。
熱い感情が込み上げて、胸を締め付けた。
そして、まるで突風にさらわれたように正体の分からない激情に襲われ、その熱に身を任せてしまったのだ。
目が合って、ごく自然に唇が重なった。
折紙の肉厚の唇は、思った通り柔らかかった。口付けの甘さに、頭の中が真っ白になっていった。
彼を慰めるつもりだったのに、気が付けばキースの方が行為に夢中になっていた。
触れ合った肌から、折紙の熱がキースの心に流れ込んで来て、冷え切っていた心を温めてくれるようだった。
誰かの体温を感じることで、こんなに心安らかになれるなんて知らなかった。
行為の最中、折紙は涙を流しながらキースの名を呼び続けた。
拒絶しなかったのは、彼もあの行為で慰められたからだろうか。
背中に回された腕に力が入り、彼の短く切り揃えられた爪が肌を掻くのすら快感だった。
快楽も痛みも、何もかもが生きている実感に変換されていった。
多分、若い彼は性衝動を持て余しているのだろう。
それを、キースとこうすることで処理しているのかもしれない。いや、ただ人肌が恋しいだけなのかもしれない。
あるいは単純に快楽を求めているだけなのかもしれない。
ただの性欲解消としてなら、こんな風に抱き合うのは悪くないかもしれないとキースは思っていた。
ヒーローという仕事上、なかなか恋人を作ることも難しいし、かと言ってどこの誰とも分からない人間と関係するよりは、こうする方がずっと安全だ。
戦場では男性同士で性処理をしたとも聞く。
これもその延長のようなものなのかもしれないと、キースは自分に言い聞かせていた。
本当は、それが全部ただの言い訳であるという事実から、目を背けていた。
キースはただ、彼を抱くことに安らぎを覚えているのだ。
彼に触れていると全てを忘れられる。自分がスカイハイであることも、ヒーローであることも。
彼の熱を感じている時、キースは誰でもない自分、自分以外の何者でもない自分になれた。
誰の期待に応える必要もない。
折紙を抱く時、快楽に没頭する時、キースはキース自身を忘れることが出来た。
それはきっと、折紙も同じなのだろう。だから、折紙もこの不毛な行為を受け入れてくれているのだろう。
この行為は、セックスと言うよりは二人で行う自慰のようなものだけど、キースにとってはそれ位が丁度良かった。
彼との行為は、酷く気楽だった。
+++
キースの家で一夜を過ごした日から、イワンはキースに抱かれるようになった。
「抱かれる」というのは語弊があるのかもしれない。互いに性器を刺激し合って射精するだけで、挿入される訳ではないのだから。抱くも抱かれるもないのだろう。
スカイハイが二人の関係についてどう思っているのかは分からない。ただ、彼がイワンを求めるのは精神的に不安定な時だけだということにイワンは薄々感付いていた。バーナビーのクォーターレコード更新のパーティーの直前、突然控え室にやって来てそのまま行為に及んだ時のスカイハイの顔を思い出せば、彼が持て余す不安をイワンにぶつけているだけなのは分かったから。
でも、それでいいとイワンは思う。
彼の苦しみを受け止めたいという願いは本物だから。
たとえ彼にとって自分は単なるセックスの相手で、それ以上の意味は無いとしても、イワンは満足だった。
その筈だった。
+
ブルーローズが逃げるように出て行った後、ワイルドタイガーもバーナビーを追って病院へ向かった。目覚めたクリームに面会しに行ったバーナビーが心配なのだろう。その後はファイヤーエンブレムは会社へ戻り、ドラゴンキッドとロックバイソンは取材があるからと早々にトレーニングを切り上げたので、トレーニングセンターにはキースとイワンだけが残された。
「ブルーローズ、戻って来ませんね」
「あのまま帰ってしまったのかな」
「……ちょっとからかい過ぎましたかね?」
「いや。あれ程ワイルド君の帰りを楽しみにしていたのに嘘を言うのは良くない。そして、良くないよ」
キースの言う通り、ワイルドタイガーが里帰りで不在の間のブルーローズの落ち込みようは凄かった。天然で名高いキースですら彼女の恋心に気付く位なのだ。
にも拘らず、彼女は相変わらずワイルドタイガーの前では素っ気無い態度を取り続けている。恋する女子高生の心は複雑だとイワンは溜息を吐いた。
「もっと素直になればいいのに……」
「恋をするとなかなか思うようには振舞えないものさ」
と、キースは朗らかに笑う。その屈託のない笑顔に、この人は僕の気持ちには気付いていないのだろうなとイワンは安心するのと同時に、ほんの少しの寂しさを感じた。
「僕、実はスカイハイさんは『ヒーローは恋をしてはいけない』っていうタイプかと思ってました。特別を作っちゃいけない、って」
「ヒーローだって人間だ。全ての人を等しく愛することは出来ないさ。大体ヒーローにだって友人もいれば家族もいる。私にジョンがいるように、折紙君にだって大切な友達がいるだろう?市民を愛する気持ちは本物だけど、同時に特別な誰かを持つのは、人間としては避けられないことさ」
「でも、もし市民と大切な人のどちらか選ばなければならない状況になったら、どうすればいいんでしょうね」
「それは勿論、より多くの人が助かる選択をするのさ」
「え」
「ヒーローなのだから、たとえそれで自分の愛する人が犠牲になっても仕方無いよ。ヒーローは、他の者には出来ない辛い決断を下すことも必要なんだ」
違うかい、と爽やかに問うキースに、イワンはぎこちない笑みを返すことしか出来なかった。
+
(僕だったらあんな風に即答出来ない)
熱いシャワーを浴びながら昼間のキースの言葉を思い出す。自分にとって特別な誰かと市民のどちらかを選ばなければならない時、より多くの人間を助ける方法を選択する。それは確かに「ヒーロー」としては模範解答なのだろう。だが、イワンには実際にそんな選択が出来るのか分からない。
今までそんな状況に陥ったことがないからだ。
「大体スカイハイさんなら自分でピンチを切り抜けちゃうだろうし、僕の出る幕なんてないよね」
でも、もし自分がキースの「大切な人だったら」と考えてイワンの手が止まる。
選んで欲しい。そんな思いがあるのは事実だ。
(そんなのフェアじゃないのにね)
イワンは極限状況で選択を迫られることの理不尽さを、その苦しみを知っている。選択を求めること自体、卑怯なのだ。
(バカだなあ、僕って)
キースのためにと口では言いながら、本当は彼に愛して欲しいのだ。彼に選んで欲しいのだ。
こうしてシャワーを浴びながら自慰をするのだって、本当は期待しているからだ。いつか彼に抱かれることを求めているからだ。
だが、キースがイワンを抱くのは、キースの心が崩壊寸前まで陥った時だとイワンは予感していた。
心が不安定になった時、キースはイワンの肉体を求める。
キースが不安になればなるほど、彼はイワンを深く求める。その過程の行き着く先は見えていた。
イワンがキースと一つになりたいと願うことは、キースの絶望を願うことと同義なのだ。
それでも、イワンは夢を見ずにはいられない。
彼ともっと深く繋がりたい、と。
(僕は何て浅ましいんだろう……)
イワンがキースに抱かれる日。
それは、イワンにとって最高で最悪の日になるだろう。
けれど、どうしてもその日を夢見ずにはいられなかった――――
12.
マーベリックの起こした事件に終止符が打たれ、タイガー&バーナビーのヒーロー引退宣言のニュースの余韻も覚めやらぬまま、スポンサー企業の計らいでヒーロー達は休養のために帰宅することを許された。
事情聴取などは明日から始まるが、暫くはHERO TVは自粛することになる。ヒーローも企業の広告活動も自粛することになるだろうということだった。ただし、事件の際は警察から要請があれば出動するのは変わらない。
ヒーロー達の肉体的、精神的な疲労は限界に達していた。それはキースとて例外ではない。
一刻も早く帰って両親と話したいとブルーローズやドラゴンキッドは泣いていた。緊張の糸が切れたのだろう。まだ若い彼女達には今回の事件は衝撃が大き過ぎたのだ。
そんな彼女達とは対照的に、キースの神経はぴりぴりと張り詰めたままだった。
大きな事件の後では気分が高揚したままのことはあるが、今の自分の状態が単なる事件後の興奮状態とは種類が違っていることにキースは気付いていた。
そんなキースの状態を知ってか知らずか、解散する直前に折紙サイクロンが「今夜、泊まってもいいですか?あんなことがあったから、一人になるのはちょっと……」と遠慮がちに切り出してきた。彼がそんなことを言うのは珍しい。その言葉は真実なのかもしれない。過酷な事件の後は一人でいるのが寂しくてたまらない時がある。けれど、聡い彼のことだから自分の先手を打ってそんな提案をしたのかもしれないともキースは考えていた。どちらにせよ、折紙から誘われなければ自分から誘うところだったのだ。ぴりぴりする感情を笑顔の裏に隠して、キースは
「ああ、勿論だよ」
と、明るく肯いた。
+
マンションに着くと、ジョンへの挨拶と食事もそこそこに折紙を寝室に連れ込んだ。
「え、ちょっ、スカイハイさん!」
「教えてくれないか」
突然ベッドに押し倒され折紙は抗議の声を上げるが、キースには今、彼の声に耳を傾ける余裕は無い。
キースにはどうしても、今直ぐ確かめなければいけないことがあった。
だから、困惑する折紙に構わず叫ぶように問うた。
「君は聞いただろう、私の言葉を。あの状況でヒーローとして何をするべきなのか悩んでいた私の言葉を」
常にない低い声に、折紙はびくりとして抵抗を止める。キースの言葉の意味を即座に理解したのだろう。やはり聡い子だと喉の奥で笑った。
ヒーローが全滅するくらいなら、誰か一人でも生き残るべきではないのか。
それは、ヒーローならば考慮するべき選択肢だったとキースは今でも信じている。
ヒーローには市民の安全を第一に考える義務がある。ヒーローとして最善の道は何か、常に冷静に考えなければならない。たとえどれ程辛い選択でも、ヒーローは迷ってはいけない。一瞬の迷いが、判断の遅れが、取り返しのつかない大惨事に繋がることをヒーローは身に沁みて知っているのだから。
「最悪の状況よりは次に繋がる選択を取る。それはヒーローに求められる判断だ。時には冷酷とも思える選択でも、ヒーローは……いや、ヒーローだからこそ、私は決断しなければならなかったのだ。それなのに……」
キースは迷ってしまった。仲間を見捨てることが出来なかった。誰が生き残るとしても、そのために他のヒーローが犠牲になるのが耐えられなかった。
その一瞬の躊躇いを突いて、ロトワングはヒーロー達の互いへの信頼を脅かそうとした。キースのヒーローとしての言葉を、キースが裏切りを考えているとでもいう風に細工し、他のヒーロー達を不安にさせた。
「私のヒーローとしての行動が、結果的に皆を苦しめてしまった……教えてくれ、私は間違っていたのかい?」
何故こんなことを折紙サイクロンに尋ねているのかはキースにも分からない。
ただ、ヒーローとして正しい行動を取ろうとしたばかりに、大切な仲間を傷つけてしまった自分が許せないのだ。
そして、今まで信じて来たヒーローとしての在り方に疑問を持ってしまった。
「スカイハイさん……」
「私はヒーローとして間違っていたのかい?それとも」
ヒーローの存在そのものが間違っているのだろうか。
呻くようにキースが呟いた言葉に、折紙がはっと息を呑んだ。
マーベリックはどこまで仕組んでいた。ヒーローの存在が犯罪を助長していたのか。
ヒーローとは何だ。
ヒーローはシュテルンビルトの人々を守るためにいるのだとキースは信じていた。
だが、それは全て幻想に過ぎず、ヒーローの存在こそが人々の苦しみの元凶だったのだろうか。
「マーベリックは言っていただろう?ヒーローとは、絶望から人々を救うという前提に成り立っている、と。絶望が無ければヒーローの存在意義は無い。正義を守るヒーローが存在するためには、絶望を生み出す悪が必要なのだとしたら。ヒーローに活躍の場を与えるために、マーベリックやウロボロスが犯罪を作り出していたのだとしたら。
ヒーローの存在そのものが、茶番劇だとしたら。
それではまるで、ヒーローがいるから犯罪が無くならないのと同じじゃないか。だとしたら、ヒーローなどいらない。いや、存在してはならない。スカイハイは存在してはならない。
だが、スカイハイではなかったら、私は何だというのだ!スカイハイではない私に、何の価値がある!?君だってそうだろう?スカイハイに憧れてくれているのだろう?スカイハイでなかったら、ヒーローでなかったら、私は誰だというんだ!」
キースの悲痛な叫びが、暗闇に木霊する。苦しくて苦しくて、気が狂いそうだった。
キースにはもう、何が正しいのか分からない。
ヒーローであることは、キースにとって唯一絶対の真実であり、誇りだった。
けれど、キースにはもう、何が真実なのか分からない。
嵐の中に放り込まれたように、混沌の中で怯えることしか出来ない。
ヒーローでない自分など、いなくても構わないのではないか。
いや、ヒーローでない自分など、存在していないのと同じだ。
自分が誰なのか分からないと感じることが、こんなに恐ろしいことだなんて知らなかった。
自分が何をすれば良いのか分からないことが、こんなに不安だなんて知らなかった。
折紙サイクロンにこんな風に自分の不安をぶつけるのは理不尽だと分かっている。けれど、誰かに向かってぶちまけなければ自分が壊れてしまいそうだった。
「貴方は貴方です。スカイハイさん、いえ、キースさんは、こうして今、僕の目の前で苦しんでいる貴方です。それ以外の誰でもありません」
「では、君の前にいる男に何の価値がある!?何も出来ない、迷うことしか出来ないこの私に!!!」
この感情は怒りなのか悲しみなのか。絶望なのか恐怖なのか。キースには分からない。
ただ、苦しくて苦しくて、狂ってしまいそうだった。
とさり、と力なく倒れるようにキースは折紙の胸に顔を埋める。じわりと彼のタンクトップが濡れるのを感じて、初めて自分は泣いているのだと知った。
「キースさん……」
折紙の手がキースの肩に回される。触れるか触れないかの羽根のように軽い感触が肌を滑る。まるで、触れればキースが壊れてしまうかもしれないと躊躇っているようだった。
そして、暫く肌の上を彷徨っていた指が覚悟を決めたようにぴたりと止まると、ゆっくりと、まるで神聖な儀式のように折紙は優しくキースを抱き寄せた。
「価値とか、僕には分からないけれど、僕が今抱きしめてあげたいと思うのは、震えて泣いている貴方です。傍にいたいと思うのは、貴方です」
――それでいいじゃないですか。
そう呟いた彼の声には、涙が滲んでいた。
「折紙君……!」
胸の奥底からぶわりと熱い感情が湧き上がり、キースは堪らず折紙を掻き抱いた。
彼の温もりだけがこの暗闇の唯一の灯火だとでもいうように、彼の身体に縋り付いた。
これはきっと慰めだ。彼はずっとスカイハイに憧れていたのだ。誰よりも強いヒーロー・スカイハイを尊敬していたのだ。それが、こんな弱く脆い男だと知ったら、幻滅したに決まっている。今だって、本当は同情してるだけなのだろう。
それでもいい。今だけ、こうしていたい。
誰かに縋っていなければ、自分が消えてしまいそうだ。
その瞬間だけは、キースにとって折紙だけが唯一確かなものだった。
腕の中の確かな存在をもっと深く感じたくて、キースは無我夢中で折紙を抱いた。
+++
翌日、イワンはキースのベッドで目覚めた。
目覚めと同時に昨夜の情事の記憶が蘇り、顔が真っ赤になる。今までキースと何度か肌を重ねてきてはいるが、挿入されたのは昨日が初めてだった。キースとの行為を受け入れた時から、いつかこんな日は来るのだろうと思ってはいたが、改めてこうなってしまうと羞恥心に襲われる。
覚悟も準備もしていたけれど、予想に違わず挿入は苦しかった。キースが中に入ってくる時の身を引き裂かれるような激痛は、ヒーローとして痛みに慣れているイワンでも耐えるのがやっとだった。リップ用のポケットサイズのヴァセリンを持っていて幸運だったと胸を撫で下ろす。それでも、イワンが我慢することでキースの抱える痛みが少しでも和らぐのなら、イワンは喜んでどんな苦痛も耐えた。
自己犠牲ではない。
イワンはただ、キースに苦しんで欲しくなかっただけだ。
キースと温もりを分かち合いたかっただけだ。
彼の痛みを、苦しみを、分かち合いたかっただけだ。
この思いがただの自己満足なかもしれないと不安になることはある。キースの苦痛を分かち合うなど、イワンの自分勝手な幻想に過ぎないのかもしれない。
キースは、ほんの一時でも快楽によって精神の不安を忘れられるなら相手が誰でもいいのだから。
それでも、彼と共に苦しむことが出来るのなら、それだけでイワンは幸せだった。
+
時計を確認するとまだ午前中だった。イワンとキースは明け方近い時刻に帰って来た筈だから、ほんの数時間しか寝ていないことになる。にも拘らずキースはベッドにはいない。
昨日の戦闘でキースも疲れている筈なのに、一体どこへ行ったのだろうか。適当に後始末をして着替えると、イワンは軋む身体を引き摺ってリビングへ向かった。
リビングではキースがソファに座ってノートパソコンを開いていた。余程作業に集中しているのか、イワンが近付いても気付く様子は無い。あまりに真剣な様子だから邪魔をしてはいけないとイワンが寝室に戻ろうかと思い始めた時、ジョンがイワンの気配に気付いてワン、と嬉しそうに吠えた。
「やあ、折紙君」
「あ、おはようございます」
イワンに気付いたキースはパソコンをコーヒーテーブルに置いて立ち上がった。おはよう、そしておはよう、と続いた挨拶は普段通りだが、キースはどこか顔色が優れない。目の下に隈が出来ているようだが、もしかしたら寝ていないのかもしれない。あんなことがあった後なのに眠らなくて大丈夫なのかと不安になったたが、イワンは敢えて見て見ぬふりをした。
「何、見てるんですか?」
なるべく腰に負担を掛けないようにソファに腰を下ろすと、キースが隣に座るのを見計らってスクリーンを覗き込んだ。映っているのはヒーローグッズを扱っているオンラインショップのサイトのようだ。
何度もキースの部屋に泊まっているが、彼がパソコンに向かっている姿など初めて見た。パソコンを持ってはいるが、ごくたまに調べ物をするくらいでしか使ったことが無いと言っていたのに。しかし、
「実はね」
と、返って来た答えに、イワンは思わず顔を顰めた。
「ヒーローや、NEXTについて市民がどう思っているかを調べてみようと思ったのだけど……慣れないからかな、企業がスポンサーのヒーローイベントやグッズのページばかりで、市民の声のようなものは見付けられないんだ。折紙君はこういったことには詳しいんだよね?良かったら教えてくれるかい?」
「ええ、構いませんが……」
キースがそんなものを調べている理由を察してしまいイワンは口篭る。やはりマーベリックの事件はこの人の心に傷を残したのだと哀しかった。
「でも……」
本当にそんなものを見たいのですか?もっと傷付くだけかもしれませんよ?
そんな言葉が喉に引っかかった。ネットにはヒーローやNEXTに対して好意的な意見だけではない。中には読むのもおぞましい暴言もある。そんなものを心優しいキースが目にしたらどんな思いをするか、イワンには容易に想像が付いた。
そんなイワンの内心を察したのか、キースは大丈夫だよというように笑うと「教えてくれないかな?」と繰り返した。
「知りたいんだ。いや、知らなければならないんだ。だから、お願いだ。そして、お願いだ、折紙君」
そう真剣な瞳で乞われればイワンも断れない。これがキースのヒーローとしての矜持に関わることだと理解したからだ。
「分かりました……」
この人が傷付いた時には僕が隣にいよう。
そう決心してイワンはキースからパソコンを取り上げると、慣れた手つきでキーを打ち始めた。
13.
マーベリックの事件から一週間、キースはトレーニングとジョンの散歩以外の時間を全て情報収集に当てた。
こうして調べてみると、NEXTに対する世間の風当たりは予想以上に強かった。キースは能力に目覚めてから程無くしてヒーローになったから、ヒーローではないNEXTとしていた期間は短い。だからなのだろう、非NEXTが中心の環境で生活するNEXTが、普段どんな扱いを受けているのかについて殆ど何も知らなかった。
折紙サイクロンが探してくれたサイトの中に、NEXTであることを理由に解雇されたり家族にNEXTがいるからと嫌がらせをされ引越しを余儀無くされたりした人々の体験談を集めたものがある。それは、「普通のNEXT」が受けた様々な迫害の記録だった。NEXTの人権を守るために組織された団体が運営するそのサイトは、今まで知らなかった世界をキースに教えてくれた。そこで、キースはこれまで自分がいかに恵まれた環境にいたのかを思い知ったのだった。
もう一つ意外だったのは、キースが思っていた以上にネットにはNEXTに対する憎悪が溢れていることだった。特にその憎悪はNEXTの代表とも言えるヒーロー達に最も激しく向けられている。ネットに書き込まれた何千何万もの罵詈雑言は、キースの心を打ちのめすのに十分だった。
この醜い言葉を書いたのは自分が命を懸けて守ろうとしてきたシュテルンビルトの市民だと思うと、キースは目の前が真っ暗になった気がした。キースは罪の無い人々が苦しまないためにヒーローになった。彼等が犯罪の犠牲にならないように全力を尽くしてきた。だが、実際はどうだ。彼らのどこが「無罪」だと言うのだ。こうしてNEXTを、NEXTだからという理由だけで傷付け、追い詰めているではないか。
何故、NEXTというだけでこれ程までに誰かを憎むことが出来るのか。
ほんの少し違うからと言って、どうしてこれ程までに誰かを蔑むことが出来るのか。
キースにはどうしても分からない。それはキースがNEXTだからなのだろうか。NEXTだから非NEXTの気持ちは分からないのだろうか。
いや、違う。
NEXTは人間だ。
マジョリティの人間とは異なる能力を持ってはいるが、彼らと同じ人間なのだ。
では、何故人間同士で傷付け合うのだろうか。
「折紙君が私にネットの使い方を教えるのを躊躇った理由がよく分かるよ」
「スカイハイさん……」
どさりとソファに凭れ掛かかると、呻くように溜息を吐いて顔を覆った。今日はもうスクリーンを見たくない。
疲れた様子のキースを心配してか、折紙は少し休憩しましょうと言ってキッチンにレモネードを作りに行った。
あれ以来折紙は毎日のようにキースの元を訪れて情報収集の手伝いをしてくれている。君だってショックを受けているのだから私に付き合わなくてもいいのだよ、と告げても「僕が好きでやってることですから」と取り合ってくれなかった。
キースの手際の悪さを見兼ねて手伝ってくれているのか、それとも折紙自身も知りたいのか。
どちらにせよ、ネットの扱いに長けた折紙の手助けは心強かった。
「そういえば、昨夜遅くにマーベリック事件に関する報告書が送られてきましたよね。御覧になりましたか?」
「ああ、取り敢えずざっと目を通しておいたよ」
キッチンから戻って来た折紙からホットレモネードを受け取って一口飲む。いつもよりシロップが多めだった。
昨夜PDAに送られて来た報告書には、これまでに判明したマーベリックの犯罪の詳細が記されていた。武器の横流しからブルックス夫妻の殺害、そしてバーナビーのメイドだったサマンサ・テイラー殺害まで、全てマーベリックの仕業だったのだ。
「バーナビー君にとっては育ての親同然だったマーベリックが、御両親の仇だったのだね」
「ショックだったでしょうね、バーナビーさん……ヒーローをやめたくなるのも無理ありません」
「そうだね……」
家族を失い、ワイルドタイガーとも分かれたバーナビーは、今どこで何をしているのだろうか。ジェイクを倒した時の、あの晴れ晴れとした表情の彼はきっともう戻っては来ないのだろう。
これ程後味の悪い事件をキースは知らなかった。
誰も救われてはいない。
何も解決していない。
バーナビーは家族を全て失い、ヒーローは自分達の存在意義を見失った。更にはこの事件の影響で、それまでヒーローの活躍のおかげで抑制されていた市民のアンチNEXT感情が高まり、NEXTに対する風当たりが強くなってきたのだ。
「ジェイクを倒したことで全てが終わったと思ったのに、結局私達はマーベリックの手の上で踊らされていただけなんだね」
「ジェイクは、バーナビーさんの復讐心の矛先としてマーベリックに利用されただけだったということですか?」
「ああ。しかし、ジェイクが多くの非NEXTを殺した犯罪者には変わりない。そして、シュテルンビルトの市民の命を人質に取ったテロリストだということも」
たとえバーナビーの両親を殺していなくても、ジェイクとクリームはシュテルンビルトの平和を脅かしたテロリストだ。彼等の犯罪を許すことは出来ない。
「あの、僕、タイガーさんがバイソンさんと話しているのを聞いちゃったんですけど、クリームは元々ジェイクに誘拐された被害者だったそうです。NEXTだからという理由で周囲の人々から疎まれていた彼女は、ジェイクに誘拐された時に厄介払いとばかりに両親から捨てられてしまったらしいんです。身代金の受け渡し場所に現れない両親に絶望して、彼女はジェイクに自分を殺してくれと頼みました。でも、そんな彼女を救ったのはジェイクの言葉だったそうです。
NEXTは神から選ばれた人間なのだ。周囲がNEXTを恐れるのは妬みからだ。自分達にない能力を持つNEXTが怖いのだ。だから、お前は悪くない。胸を張って生きろ。
そうジェイクに言われて、彼女は生まれて初めて生きていてもいいのだと思えたそうです」
「もしそれが真実なら、ジェイクの存在がクリームに生きる希望を与えていたことになるのだね。彼女にとってジェイクはヒーローだったのかもしれないな」
ヒーローが人々の希望だというのなら、ジェイクもまたヒーローだったのかもしれない。
セブンマッチでジェイクと対峙した時は彼を単なる犯罪者としか見ることが出来なかった。だが、今は――。
ジェイクは非NEXTを憎んでいた。
もしかしたら、彼は本当にNEXTが統べる理想郷を作ろうとしていたのだろうか。
「そうですね……僕は、少なくともあの二人は本当に愛し合っていたと思います。僕が捕まった時、その……」
そこまで言って突然折紙は真っ赤になって口篭ってしまった。言い難いことなのか口をもごもごさせて「あの、その、ええとですね」とあたふたしている。彼がここまで初心な反応を見せるなんて一体どうしたのだろうか。
「ああ!睦み合っていたんだね」
「え!いえ、まあそうなんですけど……」
どうして爽やかにそんなこと言っちゃうんだろう、と折紙が頭を抱えるのも気にせず、キースは成程、二人の間には確かな絆が存在していたのだなと納得していた。
「と、とにかくですね。、その、二人がそういうことをしているのが聞こえてきたんですけど、その時のジェイクがとても優しい声を出していたので……」
「ジェイクにとってもクリームは大切な存在だったということか……奴がNEXTが非NEXTを支配する世界を作りたがったのは、もしかしたら愛する人が幸せに暮らせる場所を作りたかったのかもしれないね」
もし、ジェイクが本当にクリームを初めとした全てのNEXTが虐げられることのない理想の楽園を作るために戦っていたのだとしたら、キースはジェイクを攻撃することが出来たのだろうか。
方法は違うが、キースだって人々の幸せのために戦っている。だとすれば、ジェイクはキースの同志とも言えるのではないか。
「……僕は、少しだけクリームに同情します。軽蔑しますか?」
「まさか!?」
犯罪者の身の上に同情することはヒーローとしては余計なことなのかもしれない。犯罪者について知れば知るほど、彼等を哀れみ捕らえる腕が鈍ってしまうかもしれないからだ。それでも、キースは犯罪者の境遇に心動かされること自体が悪いことだとは思えない。心を持つ人間だからこそ相手が誰であろうと憐れむことだ出来るのだ。
だから、キースは折紙を軽蔑したりなどしない。
「……スカイハイさんは、NEXTであることを理由に虐げられたことはありますか?」
「いや、幸運なことにそういう経験は無いんだ。はっきりと憎悪を向けられたのはロトワングが初めてだったんだよ」
今なら分かる。キースが今までどれ程恵まれていたのか。NEXTに理解のある人間に囲まれていたから、キースは迷うことなく真っ直ぐ前だけを見てこれたのだ。
「……僕は、擬態能力に目覚めた瞬間から、沢山の人に嫌悪されてきました。僕の能力を知ると、皆薄気味悪がって僕を遠ざけるんです。僕に自分や自分の大切な人が取って代わられると思ったんでしょうね。いくら姿形は変わっても、僕は僕以外にはなれないのに――――」
「折紙君……」
「ジェイクに言われたんです。どうしてNEXTのお前が非NEXTの味方なんてするのか、って。あいつらはNEXTなんてどうでもいいんだ。役に立たなくなったら直ぐに掌を返してお前達を捨てる。そんな奴らのために、どうして命を懸けるのか、って。その時僕は、一瞬ジェイクの言うことに一理あると思ってしまったんです」
確かにルナティックが現れた時市民はヒーローの存在意義に疑問を持ち始めていた。キースが王座から転落した時、市民の心はスカイハイから離れていった。彼等の心は移ろい易い。でも――
「自分を軽蔑する人間を助けることは出来るのかな、僕に」
ヒーローならば、誰であろうと助けるのが使命だ。
だが、守るべき市民がInnocent(罪の無い)な存在などではなかったら。
自分達は何の罪も犯していないと言いながら、本当はどこかで誰かの人生を踏み躙っている者ばかりだとしたら。
だとしたら、キースは救いの手を差し伸べるのを躊躇ってしまうのだろうか。迷ってしまうのだろうか。
ヒーロー・スカイハイは、誰かを助けることに逡巡するだろうか。
「スカイハイさんはどうしてヒーローになろうと思ったんですか?」
「え?どうしたんだい、急に?」
「前から一度聞いてみたかったんです」
「そうなのかい?私は、そうだな。特別な理由はないんだ。ただ、私の能力で人の役に立てるのが嬉しかったのかな」
「スカイハイさんらしいですね」
優しいんだな、と折紙は呟いたが、キースは自分が特別優しい人間だとは思わない。ただ、自分のしたいことをしているだけなのだから。
困っている人を助けるのは、キースの望みなのだから。
けれど。
「僕は、僕の力が何のためにあるのか分かりませんでした。初代ヒーローのレジェンドは、NEXTの力は人を守るためにあるのだというのが持論だったとアカデミーで教わりましたが、僕には自分の力で人を守る事が出来るとは思えませんでした。この力は何の役にも立たない。それどころか、ジェイクにも言われましたけど、犯罪に使う方が向いてるんですよね」
「でも、君は自分の能力で誰かを傷付けようと思ったことはないのだろう?」
「ええ。僕の力を悪用しようと思えば出来ましたけど、僕の力で得をしたいと思ったことはないんです。どうしてだろう、不思議ですね」
「……それは君が強く優しいからさ」
折紙の方が自分よりずっと繊細で、ずっと優しい。
親友のために苦しみ続け、自分の力に自信が無かったにも拘らず、それでも彼は戦場に赴く。
悩み、迷い、苦しみ、傷付きながら、それでも彼はその力を誰かのために使おうとする。
キースには真似出来ないことだ。
「私は君の擬態能力は素晴らしいと思うよ。犬になってジョンと一緒に遊べたらどんなに楽しいだろう、って時々思うんだ」
「スカイハイさんらしいですね。でも、僕も能力に目覚めた頃は色んな動物に擬態して遊んでいました。あの頃はまだ子供だったから、自分の力が特別なものだとも思っていなかったんです」
「ああ、それは分かるよ。私も自分が風を操れると知った時は興奮したよ。嬉しくて何時間も空を飛んでいて、気付いたら全然知らない国にいたこともあるよ」
「そ、そうなんですか……」
「今でも飛ぶのは大好きなんだ。空を飛んでいるとね、地上の世界から離れて何もかも忘れて自由になれる。そんな気がするんだ」
当時を思い出すと自然と笑みが零れる。あの清清しさは空を飛べる者にしか分からないだろう。
空を飛べると知った時、世界が広がった心地がした。
キースが望めばいつだって、今居るこの場所を離れて何処へでもいけるのだ。
それは、全てから解き放たれた気分だった。
「スカイハイさんは、自由になりたいんですか?」
「え?」
「だって、自由になれる気がするって。だから、自由になりたいのかな、って思ったんですけど」
折紙に指摘されてキースは目を丸くする。そんなこと、考えてみたことも無かった。
(だが、言われてみればその通りだ。何故自由になれるなんて思うんだ?私は何から自由になりたいのだ?)
私は今でも十分に自由なのに。
「スカイハイさん?」
黙って考え込んでしまったキースを折紙が不思議そうに覗き込む。彼のアメジストの瞳には、自分はどう映っているのだろうかとふと思った。
彼の目には、キースは自由を求めているように見えるのだろうか。
「折紙君はどうしてヒーローになったんだい?」
「僕は、スカイハイさんのような立派な志じゃなくて、自分のためにヒーローになったんです。この力で気味悪がられてきたから、もうこれ以上嫌われたくなくて……だから、本当はヒーローになる資格なんてなかったんです」
「でも、君はその力を人を傷付けるためではなく、人を救うために使う道を選んだじゃないか。その事実が君をヒーローにしたんだ。君は立派なヒーローだよ」
そうだ。イワン・カレリンは「折紙サイクロン」になることを選んだ。
苦しんだ末に、それでも彼は自分の意志でヒーローになる道を選んだ。
だがキースはどうだ。
キースは今までヒーローである自分に迷ったことは無い。ヒーローであることが当然だと、この力で人を救うのは当然だと思って来た。それが自分の唯一の望みだと信じ、それ以外の道を疑ったことがなかった。
しかし、果たしてそれは正しかったのだろうか。
真っ直ぐ前だけを見て歩んで来た自分は、その過程で多くのものを見過ごしてきたのではないだろうか。
「折紙君は立派なヒーローだよ」
もう一度そう告げると、はにかんだ笑顔が折紙の顔に咲いた。
自分のこと、ヒーローのこと。シュテルンビルトのこと、NEXTのこと。
分からないことばかりでキースの頭の中は滅茶苦茶だけど、折紙の笑顔があれば今はまだ大丈夫。
そう、確信していた。
+
その夜、キースがパトロールから帰って来ると、ソファでジョンを抱き締めたまま眠っている折紙を見付けた。キースが出掛けている間も調べ物をしてくれていたのか、コーヒーテーブルの上のパソコンは開いたままだ。
(疲れたなら、ベッドで休んでくれて良かったのに)
深い関係になった今も、折紙はどこかキースに対して遠慮をしている所がある。自宅にあるものは好きに使っていいと言っても必ずキースの了承を得てから使うし、泊まっていく時もゲストルームで眠る。キースのベッドは大きいのだから同じベッドで眠ればいいのにと言っても、断固拒否するのだ。それは、肌を合わせた後でも変わらない。
恋人ではないのだから当たり前なのかもしれないが、少しだけ寂しかった。
(彼も疲れているのだろうな)
目を閉じると折紙の印象は途端に幼くなる。すやすやと安らかに眠る姿は庇護欲を抱かせた。
折紙を起こさないように隣に腰を下ろすと、キースはそっとその白い頬に手を添えた。彼は以前からこんなに肌の色が白かっただろうかと記憶を探る。一週間前よりも血色が悪い気がしたのだ。
「ぅん……」
キースの手の感触に気付いたのか、閉じられていた瞼がぴくぴくと動いて折紙が身じろぐ。起こしてしまったかと慌てて手を引くが、見る見るうちに折紙の額には汗が浮かび始めた。
「嫌だ……やめ、て……」
「折紙君?」
小さな声で名前を呼んでも返事はない。やはりまだ眠っているようだが、悪夢でも見ているのか折紙の表情は苦悶に満ちている。
「お願い……そんな目で見ないで……」
折紙は苦しげに眉根を寄せ、何かに怯えるように肩を震わせる。乱れた呼吸の合間に、先程までキースが触れていた頬をつぅ、と涙が幾筋も伝って行った。
「折紙君、折紙君!」
「お、ねが、い……だから……」
「折紙君!!!イワン君!!!!」
キースの叫びに応えるかのようにぱち、と折紙の目が開いた。涙に潤んだ紫の瞳は、キースの姿を映すと二、三度瞬いた。
「スカイハイ、さん……?」
目覚めたばかりで混乱しているのか、折紙の視線はキースの顔と肩の辺りを行ったり来たりして焦点が定まらない。折紙の腕の中で眠っていたジョンがくうん、と鼻を鳴らして身体を震わせた。
「あれ、僕……?」
「大丈夫かい?魘されていたよ」
「え……?」
身体を起こしてキースに向き合うと、頬が濡れていることに気付いたのか折紙は両手で顔を挟む。掌を湿らせた涙に、ああ、またか、と小さく呟くのが聞こえた。
「夢を見ていたんです」
「夢?」
「昔の、夢です。もう随分見てなかったんですけど。ロトワングに化け物って呼ばれて、ちょっと昔あった嫌なことを思い出しちゃったみたいですね」
「そんな……」
折紙の過去に何があったかキースは知らない。だが、それが「嫌なこと」なんて簡単な言葉で表現出来るような経験ではない筈だということくらいは分かる。夢の中で彼は恐怖に震え、苦痛に顔を歪めていた。「嫌なこと」なんて体験であんな風に苦しむ筈がない。
「折紙君は、とても辛い思いをしたんだね……」
一体誰が折紙サイクロンをここまで傷付けたのか。彼がNEXTであるというだけで虐げたのか。この心優しい青年が何をしたというのだ。
「私は今ならジェイクの気持ちが少し分かる気がするよ……君を苦しめていた人間を、私は許せないかもしれない。少し他の人と違うからと言って、ここまで誰かを傷付ける権利など誰にもありはしない……!」
「スカイハイさん……」
「頭では分かっているんだ、NEXTを嫌う者達が悪人ではないことを。この世に、根っからの悪人などいないと私は信じているから。犯罪を犯してしまう者にも、何らかの理由があるのだと。でも……それでも君を泣かせた人間達を、私はどうしても許せない。許せないんだ……」
こんな風に名も知らぬ誰かを憎いと思ったことなど無かった。
ヒーローが憎むべきなのは、憎んでも許されるのは、犯罪だけだ。人間ではない。
そう心に刻んでいる筈なのに、キースは今、折紙を傷付けた全ての人間が許せなかった。この手で一人残らず罰したかった。
ヒーローなのに、こんな醜い感情を持ってしまうなんて、とキースは自分を責めずにはいられない。だが、キースのこの感情は、正義を愛するヒーローだからこその感情でもあった。
「ねえ、折紙君。ヒーローに出来ることは何て少ないんだろうね。ヒーローに逮捕権はない。裁く権利もない。
私達にあるのは、犯罪者を捕まえ、司法の手に渡す義務。そして、その後は法の元に正義が執行されることを願うことしか出来ない。
だが、私はマーベリックの事件で何が正義なのかわからなくなってしまった。もしかしたら、今まで私が捕まえた犯罪者の中にも無実の人間がいたのかもしれないと思うと、誰かを捕まえるのが怖いんだ。
それでも、私はシュテルンビルトに住む全ての人を守りたい。けれど、そのためにはヒーローであり続ける以外、どうすればいいのか分からないんだ」
守りたい。許せない。
信じたい。信じられない。
キースの頭の中はぐちゃぐちゃで、もう何が正しくて何が間違っているのか分からなかった。
「折紙君、私はどうすればいい」
赤子のようにキースは問う。けれど、その答えは自分の中にしか無いと知りながら、問わずにはいられなかった。
「僕にも分かりません」
「怖いよ、折紙君。どうすればいいのか分からないんだ」
「僕も、怖いです……怖くて怖くて仕方ありません……」
折紙の手が伸びて来てキースの頬に触れる。
震える指先から伝わる熱が、どうしようもなく愛おしかった。
この混沌とした世界でも、彼の温もりがあれば自分を見失うことはない。
キースが折紙を力の限りぎゅっ、と抱き締めると、折紙も抱き締め返してくれた。彼の体温に包まれていると、「今ここにいる」自分を感じることが出来た。
その夜、二人は抱き合ったまま涙にくれた。
二人して泣き疲れて眠ってしまうまで、ただただ涙を流し続けた。
+
マーベリック事件の後、キースは一つの事件が解決する度にイワンを抱くようになった。
14.
マーベリック事件から三ヶ月が経過して、事件の影響も収まりヒーロー業界の間に少しずつ日常が戻って来た。
相変わらずHERO TVの収録は無いが、アニエスによれば復活も時間の問題らしい。アポロンメディアの人事異動など、内部のごたごたが片付いてきたのだろう。
マーベリック事件の真相が世間に公表されたことで、七大企業とヒーロー達に批判が集中し、ヒーロー人気に翳りが出ている。盛り返すには今まで以上に面白い番組を作らなければと、敏腕プロデューサーは意気込んでいた。視聴率重視のセンセーショナリストな番組を作ったと言うことで彼女も批判の矢面に立たされていた筈だが、全く意気消沈している様子は無い。視聴率のためなら何でもするという彼女の哲学は変わっていないらしい。
最近のヒーロー達はと言えば、暇があればジャスティスタワーでトレーニングをしていることが多かった。
出動要請のある時以外はトレーニングしかすることがないだけでもあるが、やはり他のヒーローと一緒にいることで安心するのだろう。ジャスティスタワーの外で会うことも出来るが、やはりトレーニングセンターが一番落ち着くようだ。女子組などは明らかにトレーニングよりも皆に会うのが目的だろう。
現に、今も休憩と称してブルーローズとドラゴンキッド、ファイヤーエンブレムはおしゃべりに花を咲かせている。
イワンは少し離れた場所に座って水分を補給しながら三人の話をぼんやり聞いていた。
「ねえねえ、カリーナはタイガーさんとは連絡取ってないの?」
「ちょ、いきなり何言い出すのよ!パオリン!」
「だってぇ」
「何で私が、あんな奴に手紙書かなきゃいけないのよ」
「あら、イマドキ手紙なんて、古風なのねぇ、アンタ」
「だ・か・ら、手紙なんて書いてないっていってるでしょ!」
ブルーローズの慌てた様子を見て、くすりとイワンは微笑む。恋するブルーローズは可愛いな、なんて、本人に知られたら氷漬けにされそうなことを思っていた。
そんなイワンに気付いたファイヤーエンブレムが、にやりと悪戯な笑みを浮かべる。何かを良いことを思い付いたという顔をしていた。
「あら、折紙ちゃん、貴方最近良い男になってきたわね」
「え?」
「恋でもしてるのかしら」
「え」
突然話を振られてイワンの思考が追い付かない。さっきまでブルーローズの恋の話をしていた筈なのに、何故いつの間にかイワンがターゲットになっているのか。それに、何故ファイヤーエンブレムが秘密にしている筈のイワンの想いに気付いているのか。これがかの有名な女の勘という奴だろうかとイワンが現実逃避する間もなく、ブルーローズとドラゴンキッドに詰め寄られる。
「「え!!!」」
「折紙が恋!?」
「それホント、折紙さん!?」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
「待てないわよ!あんた今まで人のことからかうばっかで自分の話なんてしなかったじゃない」
「そうだよ。いつの間に好きな人なんて出来たの?」
「誤魔化したって駄目よ。ファイヤーエンブレムはこういうことにかけては鋭いんだから!」
矢継ぎ早に繰り出される質問にイワンは困ったように眉を下げる。二人の剣幕に押されて引き気味だったイワンだが、その内どうせ白状するまで根掘り葉掘り詮索されるのだろうと観念した。それに、ブルーローズの言うように、ファイヤーエンブレムの女の勘からは逃れられない。
「そうですね。してますよ」
認めると同時に、自然に唇が笑みを形作っていた。
今まで誰にも自分の想いを言っていなかったからか、こうして言葉にすると新鮮だった。ああ、本当に恋をしているのだな、と改めて実感して胸がじんわりと温かくなる。
「あら!」
「うっそ!」
あっさりと恋していることを認めたイワンにファイヤーエンブレムとブルーローズは驚きを隠せない。イワンの性格から考えて、慌てて否定すると思ったのだろう。パニックになるイワンをからかって遊ぼうと思ったのに、拍子抜けしたといった雰囲気だ。
「相手は誰?僕達の知ってる人?」
「それは秘密です」
にこりと笑ってパオリンの質問をかわす。これまた大人な対応にファイヤーエンブレムは再び目を丸くした。
「へぇ……」と感心したようなファイヤーエンブレムの視線にイワンは居心地が悪くなる。もしかして彼女はイワンの恋の相手に感付いたのだろうか。
「折紙が恋、ね。何だか意外だわ」
そういうの興味無さそうなのに、とブルーローズが唇を尖らせる。
「……多分、叶わないと思いますけどね。相手は僕のことを恋愛対象として見ていませんし」
「そうなの?」
「折紙さんはそれでいいの?」
「うーん、それはもちろん付き合うことが出来たらいいですけど、僕にとってはその人が幸せであることが重要なんです。僕以外の相手を見付けても、その相手と一緒にいることでその人が幸せになれるんだったらそれが一番なんです」
「そんなの悲しいよ……」
「そうかもしれないけど、その人、今まで自分の幸せのために努力することを知らなかったから」
「そうなんだ」
「でも……見守るだけの恋なんて、そんなの悲しいわ」
イワンの恋を自分の恋に重ねているのだろうか、ブルーローズは今にも泣きそうな表情をしていた。
「ブルーローズ……」
「だって、好きな人には好きになって貰いたいじゃない。折紙は本当にそれでいいの?」
潤んだ瞳からは今にも涙が零れ落ちそうだ。好きな人に振り向いて貰えない辛さを、彼女は知っているのだろう。
「愛には色んな形があるのよ。見守るだけで幸せな愛もあるの」
今にも泣き出しそうなブルーローズを見兼ねてファイヤーエンブレムは三人の傍にやって来ると全員まとめて抱き締めた。ブルーローズは彼女の胸に顔を埋めてしまう。きっと、今はいないワイルドタイガーのことを想って胸を痛めているのだろう。
「でもね、そうやって誰かを想うことが出来るって、とても素敵なことよ。だから、苦しくてもその気持ちを大切にしてあげなさい」
「ファイヤーさん……」
「いつか僕も恋をするのかな?」
「どうかしらね、ドラゴンキッド。でもね、恋愛だけじゃない。親愛も友愛も敬愛でも。誰かを大切に思う気持ちが絆を生むの。その絆のために傷付くこともあるけれど、人間はそうやって誰かと繋がることで生きていけるのよ」
だから、貴方だけは貴方自身の想いを肯定してあげなさい。
そして、その想いを誇りなさい。
最後の言葉は、祈りを捧げるように厳かに告げられた。
(ありがとう、ファイヤーさん……)
見守るだけの愛なんて口では綺麗事を言っても、本当は自分のキースへの感情には醜い欲望が隠れていることをイワンは知っている。知っているからこそ、浅ましい己を嫌悪した。彼の特別になりたい、彼に愛されたい、と求める自分は、汚れていると感じていた。
それでも、この気持ちに嘘は吐けない。
彼が好きだという想いは、確かにイワンの胸にある。
(僕は、スカイハイさんに恋した自分が好きです。彼を好きだと自信を持って言えます)
そして、そんな自分を誇りに思います。
「僕、ファイヤーさんのこと好きです……」
「あら!」
「ファイヤーさんだけじゃない。ブルーローズさんも、ドラゴンキッドさんも好きです。皆さんと一緒にヒーローをやれて、本当に嬉しいです」
「ちょっと、あんたいきなり何言い出すのよ!」
イワンの突然の告白に驚いてブルーローズは涙が引っ込んでしまったようだ。心なしか顔が赤い。
「私もアンタのこと好きよ。アンタ達皆、私の可愛い後輩よ」
「僕も折紙さんのこと大好きだよ!勿論カリーナもネイサンも!!」
「……私だって、まあ、アンタのことは嫌いじゃないわよ。根暗でオタクだけど、やる時はやるし……」
「もう、カリーナったら素直じゃないなぁ」
「う、うるさい!」
あはははは、と明るい笑い声が部屋を満たす。
素晴らしい仲間の存在を、イワンは心の底から感謝した。
+++
勿論キースに立ち聞きするつもりはなかった。
ただ、トレーニングルームに入ろうとしたら、ブルーローズの「折紙が恋、ね。意外だわ」という声が聞こえてきて、思わず立ち止まってしまったのだ。
いや、立ち止まったというよりは、ショックに凍り付いてしまったという方が正しいのかもしれない。
折紙が恋をしていると知って、冷水を浴びせられた気がしたのだ。
完全に出て行くタイミングを逸してしまい、結局四人の話が終わるまでトレーニングルームの外で待つことにした。そのままその場を去ってしまえば良かったのだろうが、その時のキースは混乱のあまり正常な判断が出来なかったのだ。それに、もっと詳しく知りたいという気持ちもほんの少しだけあった。
キースは折紙が恋をしているなんて知らなかった。ずっと彼の傍にいたのに、気付きもしなかった。
どうして彼は何も言ってくれなかったのだろうと寂しくなったが、折紙の口ぶりからだと叶わぬ恋をしているようだから、話したくなかったのかもしれないと思い直す。
(師匠として、いや、人生の先輩として応援すべきなのだろうな)
折紙が恋をしたのは喜ばしいことだ。本人は見込みがないと思っているようだが、何事も挑戦してみなければ結果は分からない。折紙のような魅力的な人間に好かれて嬉しくない人間がいるとは思えなかった。切っ掛けさえあればすぐにでも恋は成就するだろう。
折紙が幸せになるのは嬉しい。辛い過去を背負った彼に、ようやく薔薇色の未来が訪れたのだ。
――――だが、この胸の痛みは何だろう。
(もしその人と恋人になったら、折紙君はもう私の家で過ごすこともないのだろうな。恋人と抱き合う方が良いに決まっているのだから……)
何故か、時折情事の後に折紙が見せる微笑が脳裏を過ぎった。
彼が自分以外の誰かにあんな笑顔を向けるようになるかと思うと、心臓が締め付けられるように苦しい。まともに呼吸が出来なくて、胸を掻き毟った。
(彼にとって私は、好きな人の代わりなのだろうか。好きな人と愛し合えない寂しさから、私といてくれるのだろうか)
そう考えると、何故かとても悲しかった。
いつの間にか恋の話は終わったらしく、気付くと中から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。もう入っても構わないのだろう。しかし、今のもやもやとした気分で人と話す気になれなくてキースはシャワールームへ向かうことにした。シャワーと一緒に、胸のつかえも一緒に洗い流してしまいたかった。
+
「あ、スカイハイさん」
キースがシャワーブースから出てくると、折紙が丁度シャワールームに入ってくるところだった。汗で前髪が額に張り付いているからか、いつもは隠れている瞳がやけに印象だ。
そう言えば、自分を見詰める彼の目はいつもきらきらしていたな、とキースは今更のように気付く。彼が恋の相手を見詰める時その瞳はもっときらきらと輝くのかと思うと、つきりと胸が痛んだ。
「やあ。もう今日のトレーニングはお仕舞いかい?」
「はい。本当は随分前に終わってたんですけど、ファイヤーさん達とおしゃべりしてたらつい夢中になってしまって」
先程の会話を思い出してふわりと笑う折紙に、不意にどうしようもない苛立ちを感じた。
「!スカイハイさん!?」
ぐい、と彼の腕を引っ張ると、ついさっきまで使っていたシャワーブースに連れ戻す。そして、まだ濡れている壁に折紙を押し付けると、噛み付くようなキスをした。
「んっ……!」
初めは驚いて抵抗していた折紙も、キースが深いキスをしながら彼の胸を服の上から弄ると、観念してキースの裸の背に腕を回してきた。シャワーを浴びて火照ったキースの肌を、キースより少し体温の低い折紙の手が滑る。彼の肌は普段はひんやりとしているが、情事の際には炎のように熱くなるのをキースは知っていた。
(本当は、折紙君は好きな人とこういうことをしたいのだろうか)
彼は自分の知らない誰かに恋をしているのだと思うと、キースの心は急速に冷えていった。
「君が私とこうするのは、私が誰かの代わりだからなのかい?」
悲しくて悲しくて、思わずそんな質問をしてしまった。
どうしてこんなに悲しいと感じるのかはキースにも分からない。
自分の愛撫に折紙が応えるのも、この腕が誰か別の人の腕だと想像しているからなのだろうかと考えると、泣きたくなるのだ。
「え?」
「聞いてしまったんだ。君には好きな人がいるんだろう?」
快感に恍惚としていたためか、折紙は初めキースが何を言っているのか分からないようだった。もう一度キースが「君は恋をしているのだろう?」と呟くと、彼は漸くキースの言葉の意味を理解したらしくはっとして目を瞠った。
「そ、それは……」
「私とこうするのも、その人と抱き合えないからなのかい?その人の代わりに、私とこうし」
「違います!!!」
最後まで言い終らない内に折紙がキースの言葉を遮った。折紙の表情は今まで見たことがないほど強張っている。しかし、怒らせてしまったかとキースが息を詰める間もなく、折紙の顔は傷付いたように歪んだ。
「違うんです……貴方は誰の代わりでもありません。だって、僕は、貴方だから抱かれたいと思うのに」
ぼろ、と大粒の涙が菫色の瞳から零れ落ちた。それはまるで、スローモーション映画を見ているように美しい光景だった。
頬を伝う感触に我に返った折紙は、はっと口を押さえたかと思うと、未だに放心状態のキースを力の限り押し退けて逃げ出した。
「折紙君!」
「ごめんなさい!!!」
慌ててキースも折り紙の後を追おうとしたが、折り紙に「来ないで下さい!!!!!」と大声で叫ばれ一瞬怯んでしまう。キースの一瞬の隙を突いて折紙はシャワールームから出て行ってしまった。
15.
久し振りに会った親友からの最初の言葉は、
「うわ、酷い顔だな」
という、落ち込んでいるイワンを更にネガティブの海に叩き込む容赦のないものだった。
「うぅ、酷いよ、エドワード。顔見ていきなりそういうこと言う、普通?」
「わりぃ、あんまりでかい隈目の下に作ってるからつい」
「いいよ……酷い顔してるのは自分でも分かってるから」
ここの所寝不足で体調が悪いのが顔に出ているのだ。元々イワンは睡眠はきちんと取るタイプだし、不眠に悩んだことも無い。しかし、最近は夜になると色々考えてしまい眠れない日が続いていた。
「またうじうじ悩んでるのか?話だけなら聞くぜ」
「う……でも、折角の面会日なのにエドに相談なんて……」
「いいから早く話せよ」
「うん……ありがと、エド」
無理矢理押し切られる形になったが、正直に言えばエドワードに相談出来るのはありがたかった。一人で悩んでいても埒が明かないし、それにやはり誰かに聞いて欲しかったのだ。
イワンの悩み事というのは勿論、キースに関係している。
「マーベリックの事件以来、ずーっとスカイハイさんがヒーローについて悩んでてさ」
「スカイハイの悩みでどうしてお前が凹むんだよ」
「上手くいえないんだけど、ヒーローって何だろう、って僕もずっと考えてて。スカイハイさんなんて、ヒーローになるために生まれてきたような人なのに、今回の事件でヒーローは本当に正義なのかって悩んじゃって」
「まああれだけの大事件のあった後だからな。そう考えるよな、普通」
「ネットにだってヒーローを批判する声が沢山あって。ヒーローだけじゃない。NEXT差別者の言論も溢れてて。スカイハイさんはぼろぼろになりながら人々のために働いてるのに、酷いよ、って思って」
「うん」
「僕はヒーローなのに、市民を憎み始めてるのかな、って思ったら、もうどうしていいかわからなくて。ヒーローなのに、守るべき存在である市民に対してこんなこと思うなんて最悪じゃないか。そしたら僕もヒーローって何なのか分からなくなっちゃったんだ」
「うーん、要するに、お前ら二人とも考え過ぎて混乱してるってことか」
「多分……」
ヒーローとして市民を守りたい気持ちは本当だ。
でも、キースに恋する気持ちも真実で、キースを苦しめる市民が憎いのも本当。
相反する感情で、イワンの心は疲弊してしまったのかもしれない。
「で、それが原因でそんなにぐったりしてるのか?」
「う……」
勿論、それだけが原因ではない。ヒーローについて悩んでいることは確かだが、イワンにとって現在一番の問題はイワンをそんなジレンマに追い込んだ人間である。
「実は……今スカイハイさんとちょっと気まずいんだ」
「はあ?あんなに仲良かったのにか?」
「それはその、色々あって。僕もスカイハイさんも今ちょっと不安定って言うか、ぴりぴりしてるっていうか」
「へええ、あの天然スカイハイでもそんなことあるんだな」
「うん、それで、ちょっとケンカ?みたいなのしちゃってさ。顔合わせ辛くって、しばらく会ってないんだ」
「ふーん」
こんな説明ではエドワードには何が何だかさっぱり分からないだろう。だが、今はあまりキースのことを思い出したくなかった。
ここ最近のイワンの思考パターンはこうだ。
何故あんなことを言ってしまったのだろう。キースだから抱かれている、なんて告白も同然ではないか。幾ら天然のキースでも、イワンの言葉の意味する所は分かるだろう。キースはイワンに恋愛感情など抱いていない。仲間として、年下の友人として好意を持ってくれているかもしれないが、それだけだ。これはイワンの一方的な想いなのだ。
キースにとってイワンとの行為は快楽と安らぎを得るための手段に過ぎず、特別な意味などない。イワンはキースに抱かれることに喜びを感じているけれど、キースにその事実を悟らせてはならなかったのだ。
それなのに、キースにあんなことを聞かれて、つい口が滑ってしまった。適当に誤魔化しておけばよかったのだ。
しかし、イワンは自分がキースとの行為を受け入れているのは、キースを誰かの代わりにしているからだと思われることがどうしても我慢出来なかった。
イワンにとってキースは、たった一人の人なのだ。
代わりなどいない。
たとえそれがキース自身であっても、イワンは自分のキースへの想いを否定されたくなかった。
だから、咄嗟に本音を口走ってしまったのだ。
後悔してもし足りない。
恐らくもう、これからは今までのようにはキースと付き合うことは出来ないだろう。キースには自分の気持ちを知られてしまったのだ。恋愛感情を伴った重い関係なんて、今のキースは必要としていない筈だ。
それに、恋心を知られてしまった今、何事も無かったように振舞えるとはイワンには思えなかった。
だが、そうなるとこれからキースは事件の後どうするのだろう。どうやって彼の不安を解消するのだろう。彼が他の誰かを抱くとは思えない。だとすれば、彼は不安を抱えたまま苦しむのだろうか。
どうしてあんな優しい人が苦しまなければならないのか。あれ程人々のために戦ってきた人が、何故あんなにも傷付かなければならないのか。どうしてシュテルンビルトの市民達は彼の思いを分かってくれないのか。キースはNEXTだが、非NEXTのために全力を尽くして来たではないか。何故NEXTだからと言って憎まれなければならないのか。
優しいキース。
世界で誰よりも愛しいキース。
ずっと彼の傍にいたかった。
彼の隣で、彼が幸せになる手伝いをすることが出来れば、それだけで良かったのに。
それだけでイワンは幸せだったのに――
「何だかもう、頭の中ぐちゃぐちゃだよ」
考えても考えても堂々巡りをするだけで、良い解決法など思い付かない。
「タイガーさんとバーナビーさんもヒーロー辞めちゃったし、スカイハイさんもこのままヒーローを続けるべきか迷ってるみたいだし……僕達どうなっちゃうんだろう…………どうすればいいんだろう……」
じわり、と涙で視界が滲んだ。
「……俺には外がどうなってるか詳しくはわかんねーけど、お前や他のヒーロー達が今大変な状況に立たされてる、ってことは分かる」
うん、と零れそうな涙を耐えながら小さく肯いた。ゆっくりと一言一言を噛み締めるように話すのは、考え込んでいる時のエドワードの癖だ。
「でも、お前は自分のしたいこと、しなければならないことを、ちゃんと分かってるんだろう?」
「エド……」
「お前はもう、あの頃みたいに悩んで立ち止まっているだけのイワンじゃない……お前は、ヒーローなんだから」
「!」
エドワードがイワンをヒーローだと認めてくれた。
一番認めて欲しかった人にヒーローだと認めて貰えたのだ。
あまりに嬉しくて、ここが刑務所の面会室でなかったらイワンはエドワードに思いっ切り抱き付いていただろう。
エドワードはと言えば、照れ臭いのかイワンから視線を逸らしてしまっている。だが、緋色の髪と同じ位真っ赤な頬は隠せない。
「僕、ヒーローを辞めないよ」
「当たり前だろ」
もう二度と後悔はしたくない。そのために、イワンは前を向こうと決めたのだ。
助けを求める人がいれば手を差し伸べる。そうしようと決めたのだ。
キースとのことも、たとえ今までの関係が壊れたとしても、イワンの想いが無くなる訳ではないのだ。
イワンの愛は、決して消えはしない。
「ごめんね、エド。久し振りの面会だっていうのにこんな暗い話ばっかりで。しかも意味分からないことばっかり言っててさ」
「構わねーよ。愚痴くらい幾らでも聞いてやるって」
親友なんだからな。
「うん……ありがと、エドワード」
それはとても小さな声だったけれど、イワンの耳には確かに届いたのだった。
+++
シャワールームでの一件以来、キースは折紙とまともに話をしていなかった。
電話をしてもいつも留守番電話、メールでコーヒーに誘っても「今忙しいから」と断られる。
幾ら鈍いキースでも、折紙に避けられているのだと結論付けるしかなかった。
自業自得なのだろう。
あんな風に不躾に好きな人について尋問すれば嫌われるに決まっている。幾ら親しい間柄だと言っても、キースに折紙のプライベートに立ち入る権利など無かったのだ。
何てことをしてしまったのだと、あれ以来キースは自己嫌悪に陥っていた。
一体どんな顔をして彼に会えばいいのだとずっと悩んでいるが答えは出ない。困り果てたキースは、Dr.シヴァに相談することにした。最初はファイヤーエンブレムを頼ろうと思ったのだが、彼女は今ブルーローズとドラゴンキッドのケアで手一杯のようだったので、自分まで彼女の手を煩わせるのは気が引けたのだ。
相談があるとアポを取ってドクターのオフィスを訪ねると、Dr.シヴァは快くキースを迎えてくれた。
そして、折紙とのこれまでの経緯について洗いざらい話すこと小一時間。
「デリカシーが無さ過ぎてびっくりしたわ」
キースの話を聞き終えたドクターから開口一番飛び出したのは、そんな辛辣な言葉だった。
「……やはり、好きな人のことなど聞くべきではなかったのでしょうか」
「違うわよ。貴方の今までしてきたことが酷過ぎて呆れてるの」
はあ、と呆れ果てたように溜息を吐くドクターに、キースは困惑を隠せない。自分が今までしてきたことが何故酷いと言われなければならないのか分からないのだ。キースは自分なりに折紙を大切にしてきたつもりだった。
キースの眉間に皺が寄るのを見てドクター再び溜息を吐いた。
「スカイハイ。今から私の質問に答えてもらっても良いかしら」
「はい、勿論です」
「貴方、まず最初に彼を抱いた時にコンドームはしたの?ちゃんと慣らしてあげた?アナルセックスは挿入される側が受け入れる準備が出来て無いととても辛いのよ??」
「え」
前触れもなく矢継ぎ早に浴びせられた質問にキースは面食らう。ドクターの質問の内容があまりに直接的であることもキースの混乱に拍車をかけていた。
「ええと、確かその日はマーベリックの事件のことで混乱していて……」
「自分のことで頭がいっぱいで、相手のことまで思いやる余裕がなかったのね」
「そう言えば、次の朝折紙君は随分顔色が悪かったけれど……てっきり前日の戦闘で疲れているのかと……」
「相手が疲労しているのを分かっていてそんなことしたの!?」
「いえ、その時は無我夢中で」
「それじゃあ何の準備もしてなかったってことじゃない!よく折紙サイクロンはそんなこと許したわね。肉体的に相当辛かった筈よ」
「そんな……」
ドクターの言うことが真実ならば、キースに抱かれることは激痛を伴っていた筈だ。しかし折紙サイクロンはキースに何も言わなかった。
そういえば、最初の時もそれ以降も、折紙が潤滑剤やコンドームを用意してくれていた。彼の身体のために必要な準備だったのに、キースは気に掛けるどころか彼に任せ切りにしていた。
「それから、貴方が彼を抱くのはどんな時?」
「それは……出動要請のあった後、ですね」
「つまり、貴方が精神的に不安定な時ってことね?それはつまり貴方は彼を精神安定剤代わりに利用してるだけってことじゃない」
「……それは……否定出来ません……確かに折紙君を抱くと安心します。でも、彼だって……」
「じゃあ聞くけど、貴方彼から求められたことはあるの?」
「……そう言われれば、無い……かもしれません」
「折紙サイクロンは貴方が求めても一度として拒んだことはあるの?」
「……ありません」
「彼は貴方ほどその行為を必要としていなかったということではないの?」
ドクターの言う通りだと気が付いて、血の気が引いた。
互いに合意の上で、一時の快楽を得るために抱き合っているのだと思っていたのに。
気持ち良いと感じていたのはキースだけだったのだ。折紙にとっては、キースとの行為は苦痛以外の何物でもなかったのだ。
「私が平和主義者じゃなかったら貴方を拳で殴っているところだったわ」
殴られても仕方がないことをしたのだから、ドクターの怒りも当然だった。
「……私は彼に最低なことをしていたんですね」
「そうね」
「どうして……どうして彼は何も言ってくれなかったんだ……」
そんなこと、聞かなくても分かっている。
他人の感情の機微に敏感な彼のことだから、自分自身でも気付かなかったキースの心の不安を感じ取っていたに違いない。そして、行き場のない不安を彼にぶつけるキースを、その身体で受け止めてくれていたのだ。
「スカイハイ。もう一つ聞きたいんだけど、彼は貴方を誰かの代わりにしているつもりはないって言ったのよね」
「はい」
「貴方はどうなの?誰でも良かったの?セックスの相手は彼じゃなくても良かったの?」
「そんなことある筈がない!彼だから、彼でなければ……あ……」
そうだ。どうして今まで気付かなかったのだろう。
キースがあんな風に自らの弱さを曝け出すことが出来たのは、相手が折紙だったからだ。
抱き合うことであんなにも慰められたのは、相手が折紙だったからだ。
他の誰かでは駄目なのだ。
折紙サイクロンで無ければ、キースの心は癒せない。
「ドクター……私は……折紙君は……」
「もしまた彼を抱くことがあったら、独り善がりのセックスじゃなくてちゃんと彼のことを見てあげなさい。ま、私だったらとっくの昔に無神経なセックスしか出来ない相手なんて見捨ててるでしょうけど、折紙サイクロンは違うみたいね」
やれやれといった風に肩をすくめるドクターにキースは反論出来なかった。
ドクターの言う通り、キースは自分のことしか考えていなかったのだから。
「過ぎた自己犠牲が美しいのはフィクションの中だけよ。若いから一途になるのも分かるけど、もっと我侭になりなさい、って折紙サイクロンに会ったら伝えておいて」
「……私はまだ、折紙君の傍にいても良いのでしょうか……?」
キースはずっと折紙を傷付けていた。彼が何も言わないのをいいことに、自分の欲求を押し付けるだけで彼の気持ちを知ろうともしなかった。それなのに、折紙は笑ってキースの全てを受け止めていてくれたのだ。
取り返しのつかないことをしてしまったと、キースの心は後悔で一杯になる。
彼だけは傷付けたくなかった。
彼だけは、彼の笑顔だけは、この手で守りたかった。
彼が笑っていてくれれば、キースはどんな苦しみでも耐えられたのだ。
それなのに――
「スカイハイ、いいえ、キース・グッドマン」
折紙サイクロンは許してくれないかもしれないとキースは弱気になる。
そんなキースの頬を両手で包み込むと、ドクターは真っ直ぐキースの目を捉えた。彼女の瞳に映るキースは、今にも泣きそうな顔をしている。
「ヒーローとしてどうあるべきかではなく、今、この瞬間、「貴方」がどう感じるのか、貴方の心に耳を澄ませて。貴方が折紙サイクロンをどう想っているのか。貴方は今何をしたいのか。貴方の心に従って。それが多分、今この世界で唯一確かなことだから。
貴方の心が何を求めているのか、それさえちゃんと分かっていれば、きっと大丈夫」
そう言ってふわりと笑うと、ドクターはキースの額に祈るようなキスを落とした。
+
いつの間に、折紙サイクロンの存在がキースの中でこんなにも大きくなっていたのだろうか。
キースが迷った時、彼はいつも隣にいてくれた。彼がいたから、どれほど心が混乱の渦に巻き込まれても、自分を見失わずにいられた。
――彼の傍にいる時だけ、キースは他の誰でもない、「I」(自分)でいられた。
(そうか、私は彼の前でだけは、「スカイハイ」でも「キース・グッドマン」でもあろうとしなかったのか……彼の前でだけ、ありのままの私でいられたんだ……)
キースにとって折紙は、キースを「ここ」に繋ぎ止める錨だ。
荒れ狂う嵐の中でも行き先を示してくれる羅針盤だ。
キースがどれほど迷い、苦しみ、無様な姿を曝しても、それでも折紙はキースの傍にいてくれた。
キースと共に涙を流し、苦しんでくれた。
ありのままのキースを受け入れてくれた折紙だから、ありのままのキースは折紙を愛しく想うのだ。
(私の折紙君への気持ちは、私の心の一番深い所から生まれたものなんだ――)
これが、愛するということなのだろうか――――
キースの中で答えが見付かりかけた時、まるで天啓が閃くようにピピピ、とポケットの中の携帯電話が鳴った。
16.
「ホントにここでいいの……?」
不安になって手の中のメモを確認するが、そこに書かれた住所は確かにこの場所である。やはり間違えた訳ではないようだと安心して、イワンは再び辺りを見回した。
(屋外コンサートって初めてなんだけど、こんなものなのかな?コンサートって言うより、屋外パーティーっぽくない?)
イワンが訝しむのも無理は無い。
燦燦と輝く太陽の下に広がるのは、ウェディング等で見られる真っ白なパーティーテントなのだ。どうやら中に簡易ステージが設置されているようだが、イワンの想像していた屋外コンサートとは趣が違って随分こじんまりとしている。しかも、よく観察してみると集まっている人々は皆知り合いのようなのだ。家族連れが多く至る所で子供が遊んでいるのもイワンの不安に拍車を掛けた。
本当に自分なんかがこんな場所にいていいのだろうかと、出来ることなら今すぐ帰りたかった。
イワンは現在シルバーステージの中央公園にいる。この中央公園はシュテルンビルトには珍しい、所謂巨大都市型公園である。公園内はまるで本物の自然の中にいると錯覚するほど緑が多く、人工の湖もあるくらいだ。シルバーステージ・メダイユ地区のほぼ中央に位置するこの公園は、シュテルンビルトの喧騒の中のオアシスとして人々の心を癒して来たのである。
普段休日は家に引き篭もってネットをするか、JAPAN関連の店を探索するかくらいしか行動しないイワンが何故こんな場所にいるかと言えば、それは二日前のエドワードからの電話に端を発する。
(――明後日?うん、暇だけど
――じゃあ頼みたいことがあるんだけど、良いか?実はこっちで世話になってるおっさんがいるんだけどよ、そのおっさんの息子がその日中央公園で開催される屋外コンサートに出るんだってさ。で、おっさんは息子の晴れ姿って奴?を見たいからって、おっさんの友達だか知り合いだかにそのコンサートをビデオに撮るように頼んであったんだけど、その人が急に都合が悪くなって行けなくなったんだってさ。急なことだから他に頼める人もいないし、ってことで、おっさん随分落ち込んでるから、じゃあ俺が友達に頼んでみますよって言っちゃったんだよ。
――ああ、それで僕に電話してきたって訳?いいよ、どうせ暇だし。
――悪いな。恩に着るぜ)
滅多にないエドワードからの頼み事だからと快く承知したのだが、やはり来るべきではなかったかもしれないと後悔し始めている。クラシックのコンサートだと聞いているが、そもそもイワンはクラシックに造詣が深くないのだ。
(うぅ……帰りたい……っていうか僕、こんな所でカメラ抱えてたら変態に間違われちゃわない?)
どんどん思考がネガティブな方向へ向かっている。
いっそ木に擬態してしまおうかとイワンが思い始めた時、ぽん、と背後から肩を叩かれた。
「折紙君」
振り返ったイワンが見たものは、太陽の光を凝縮したような黄金の髪と青空を閉じ込めたような鮮やかなセルリアンブルーの瞳だった。
「スカイハイ、さん」
焦がれて、恋焦がれたその人が、そこにいた。
「良かった、本当に会えた」
夢を見ているのだとぼんやりしていたイワンは、キースのその言葉に我に返った。
目の前にいる人物は夢でも幻でもないことに気付いたのだ。
「ど、どどどどどどどどどどどうしてスカイハイさんがここに!?」
「エドワード君に教えて貰ったんだ」
「エドワードが?!」
「今日この時間にここに来れば君に会えるって、電話で教えてくれたんだ」
何故キースがここにいるのかと半ばパニックになっているイワンの問いにキースは至極あっさりと答える。
(え?え?ええええええええええええええ!?
どうしてエドワードとスカイハイさんが電話?っていうかエドワード!?
何?もしかして僕、騙された?)
キースの口からエドワードの名前が出てイワンは更に混乱する。
いつ二人は連絡を取っていたのか。もしかしてイワンが今日ここに来るように言われたのは、エドワードがイワンとキースを引き合わせるために仕組んだことなのか。
聞きたいことは沢山あるが、混乱がピークに達したイワンは口をパクパクさせることしか出来ない。
そんなイワンに構わず、キースはがしっとイワンの手を取ると
「すまない!そして、すまない!」
と、勢いよく叫んだ。
「え?」
「私は今まで君にとんでもないことを強いていたんだね。知らなかったこととは言え、本当にすまなかった!!」
「え?え?あの、スカイハイさん一体何の話を?」
「だから、私に抱かれるのは君の身体には負担だと」
「うわあぁぁぁ!!いきなり何を言い出すんですか!!しかもこんなところで!」
「しかし」
「いいから黙って下さい!!!!」
真昼間から何てことを大声で言い出すのかと、イワンは慌ててキースの口を手で塞いだ。しかも、こんな人が沢山いる所でなど、幾ら天然でも許されることと許されないことがある。
キースとの仲が気まずかったことなどすっかり忘れて、イワンは真っ赤になりながらこれ以上キースが恥ずかしいことを口走らないようにするのに必死だった。
「分かったよ。この話はまた後でしよう」
「……分かって下さればいいんです」
涙目になっているイワンに負けてキースがそう言うと、イワンはやっと手を離してくれた。余程慌てたのか肩でぜいぜい息をしている。
キースの謝罪は予行練習通りには行かなかったが、その結果イワンはこうしてキースと普通に会話してくれている。ということは、まだ完全にイワンに嫌われた訳ではないのだと、キースの胸に希望が湧いた。
「あの、スカイハイさんはどうしてエドと?」
「ああ、先日彼からポセイドンライン・ヒーロー事業部、キース・グッドマン宛に電話があってね。私の本名を知っている人間は限られているし、しかも伝言が『イワン・カレリンについて話がある』というものだったから、取り次いだ者が不思議に思って私の携帯に連絡をくれたんだ。その人はイワン・カレリンが折紙サイクロンのことだと知っていたからね」
「そんな電話があったら不審に思いますよね……」
「それで、君の親友が電話をくれのだと気付いたから、面会に行ったんだ」
「え!スカイハイさんがエドに!?」
「ああ。彼はとても良い人だね。些細なことで友達との仲をこじらせるなんて、バカな人間のすることだと怒られてしまったよ」
「エドの奴……」
イワンの落ち込んだ様子を見てエドワードは一肌脱いでくれたのだ。
まさか直接キースに接触するとは思わなかったけれど、エドワードの不器用な優しさがイワンは素直に嬉しかった。
「それでね、何とか折紙君と話し合う場所を設けるから仲直りしろと背中を押されたんだ。そして、昨日彼から電話でここに来るように指示されたという訳さ」
「そ、そうなんですか……」
「彼は、折紙君のことをとても大切に思っているんだね」
「はい……僕の、大事な親友ですから……」
無邪気にエドワードの好意を喜ぶイワンの頬は、上気して赤くなっている。そんなイワンを見て、キースの胸がちくりと痛んだ。
「そ、それで、折紙君」
「あぁ!」
この前のことなんだが、とキースが続けようとするのを、何かに驚いたようなイワンの声が遮った。イワンの視線を追うと、どうやらキースの背後にあるテントを見ているようだ。そう言えばエドワードは今日ここで屋外コンサートがあるから、真っ白なパイプテントを目印にしろと言っていたと思い出す。イワンのことばかり考えていたから気が付かなかったが、一体どうやって彼はこのイベントを知ったのだろうか。
「あの人……」
イワンの視線の先にいるのは、30代後半の白人男性だった。先程から指示を出している様子を見る限り、このコンサートの責任者のようだ。
「知り合いかい?」
そう尋ねたものの、答えはNoだと直ぐに気付いた。驚愕に見開かれたイワンの目には、恐怖の色が見て取れたからだ。
「あの人、エドが……あの事件の被害者の、旦那さんです」
「何だって!?それは本当かい?」
「間違いありません……忘れる訳、ありませんから……」
「おりが」
「きゃあ!」
茫然とするイワンを心配してキースが声を掛けようとした時、突然キースは背中に軽い衝撃を感じた。
振り返ると、白いワンピースに身を包んだ少女が鼻を押さえて地面にしゃがみ込んでいる。
「大丈夫かい!?怪我は?」
先程の衝撃の原因はこの子がぶつかったのだと気付いて、キースは慌てて少女の傍に屈み込む。イワンも驚いて少女に駆け寄った。
「大丈夫。ごめんなさい」
「痛いところはないかい?」
「ちょっと鼻をぶつけちゃった」
「冷やした方がいいかもしれませんね」
どこかで水を貰って来ようとイワンが辺りを見回すと、丁度こちらに向かって歩いてくる男性と目が合った。
思わずイワンは全身を硬くする。
だが、その男性はイワンの顔が緊張で真っ青になったことに気付いていないようだった。にこりとイワンに向かって微笑むと、更に近付いてきたのだ。
「やあ、娘がぶつかったようですね。すみません、お怪我はありませんか?」
むすめ、とイワンが呆然と呟く。
がくがくとイワンの身体が震え始めたのを見て、キースは落ち着かせるようにイワンの手を握った。
ぎゅっと握り返してきた手は、薄っすらと汗ばんでいる。
「いえ、ぼんやりしていた私が悪いんです。それよりお嬢さんの方は大丈夫でしょうか?」
「だいじょうぶ。もう痛くないよ」
そう宣言して立ち上がると、少女はパパ、と嬉しそうに男性に抱き付いた。それを見てキースも励ますようにイワンを引き上げながら立ち上がる。その際繋いだ手を離してしまったが、イワンの震えは治まっているようだった。
「お手数をお掛けしました」
「こちらこそ、お忙しい所をすみません」
「いえいえ、もう殆ど準備は終わってますから」
「失礼ですが、これは一体何のイベントなのですか?」
パーティーのように見えますが、と首を傾げるキースに、男性は「ははは。まあ似たようなものです」と朗らかに笑って一枚の紙を差し出した。
渡されたのは、「Memorial Concert」と美しい銀色の文字で書かれたリーフレットだった。
「これは死んだ妻のメモリアルサービスなんです。妻は音楽を聴くのも演奏するのも大好きでしたから、生前、良く散歩していたこの公園でコンサートを開きたいと言ったら市が許可してくれましてね。チャリティーも兼ねているので誰でも参加出来るんですよ。そうだ、良かったらお二人も聴いていって下さい」
「で、でも、僕達」
そこで初めて口を開いたイワンだが、少女の「私もお歌うたうの」という笑顔にそれ以上続けることが出来なかった。その代わり、「素敵なアイデアですね」と泣きそうになりながら笑みを作る。今すぐ逃げ出したいのを必死で耐えながら、イワンは少女に「頑張ってね」と語り掛けた。
「青空の下、美しい音楽で故人を悼むということですか。素晴らしい、そし……ではなかった、素晴らしい考えだと思います」
「はははは、晴れてくれてほっとしてますよ。何しろ今年初めて企画したものですから、試行錯誤の連続でして」
「今年が初めてなんですか?」
男性の妻が死んだのは数年前のことだ。何故今になってメモリアルサービスを企画したのかとキースは不思議に思う。不躾かもしれないが、理由を知りたいと思った。いや、知るべきだとキースの第六感が告げていた。
「ええ、元々は親族とごく親しい友人だけで普通のメモリアルを行っていたのですが……去年、あることを切っ掛けに、思う所がありまして……」
男性は言葉を濁すが、キースはここで引いてはいけない気がして
「失礼ですが、その切っ掛けとは何か、お聞きしても?」
と、食い下がった。キースの強引とも言える質問に、イワンが心配そうにキースと男性を交互に見比べる。しかし、男性は気を悪くした様子も見せず、むしろ胸の内を吐露する機会が与えられたことにほっとしているようだった。
「開演まで向こうで遊んでおいで」と、少女をテントの方へ行かせると、男性はぽつりぽつりと語り始めた。
「妻は、ある強盗事件に巻き込まれて死にました。人質に取られた妻を助けようとした少年が、銃を持った強盗犯と揉み合った際に誤って発砲してしまったんです。妻はその流れ弾に当たって、死んでしまいました。それが4年前のことになります……娘は3歳にもなっていませんでした……
去年、いえ、ジェイク事件の前ですから、15ヶ月ほど前のことになるのかな。刑務所から手紙が届いたんです。差出人は、妻を殺した少年からでした」
「え……」
エドが?とでも言うようにイワンの唇が小さく動く。
「何を今頃、と思いましたよ。最初の何通かは封も切らずに送り返しました。お前さえいなければ妻は死なずに済んだのに、と思うと、彼が憎くて憎くて仕方がなかった……でも、彼からの手紙が届くようになって数ヶ月した頃でしょうか、ふと――本当に、何故そう思ったのかは今でも分かりませんが、ふと、彼の手紙を読む気になったんです」
人間とは不思議なものですね、と男性は笑った。その笑みは、どこか悲哀に満ちていた。
「手紙には当たり障りの無い内容が書いてありました。私と娘への謝罪とか、彼がどれだけ後悔しているかとか。彼が刑務所で働いて貯めたお金を、娘の将来のために使って欲しいとも書いてありました……断りましたよ。正直、未だに彼のことは許せませんし、彼から金を貰うなど考えたくも無かった。でもね――」
娘のいる方へと男性は視線を遣る。その眼差しには優しい愛情が溢れ、憎しみの色など何処にも見えない。
「丁度その頃、スカイハイのインタビューを見たんです。ほら、彼が銃規制について呼びかけたあの。それを見て、私も色々考えたんですよ。娘は母親を奪われたが、あの少年もまた、事件によって未来を奪われてしまった。前途有望だった若者が、あんな事件のせいで刑務所に入ることを余儀無くされてしまったのですからね。そう思ったら、何だか悲しくて……それで、彼に『娘に送金するのではなく、親を無くした子供達に寄付をしてくれ』って言ったんです。どうしてそんなことを言ったのかは自分でも上手く説明出来ないのですが、彼に――いえ、私自身がそう望んでいるのでしょう――過去ではなく、未来のために生きて欲しいと思ったのです」
「過去ではなく、未来のために……」
「ええ。それでまあ、彼にそんなことを言った手前、自分も何か行動しなければいけない気になりまして。それでこんなチャリティーを企画したんですよ。ちなみに寄付金はブロンズステージの孤児院に贈ります」
こんなことを語るのは照れ臭いですね、と男性ははにかんで視線を逸らす。すると、まるで俯いてしまった彼を力付けるように「ありがとう!そして、ありがとう!」という甲高い声が響いた。キースとイワンが驚いて声のした方を見ると、先程の少女がスカイハイ人形を持って走り回っているのが目に入る。少女の天真爛漫な様子は、彼女が真っ直ぐ育っていることの証だった。
「お嬢さん、スカイハイのファンなんですか?」
スカイハイ人形を見てキースが身体を強張らせたのを隣で感じながら、イワンは恐る恐るそう尋ねる。まさか、彼女がヒーローを好いてくれているとは思わなかったのだ。
「ええ。誕生日には特大スカイハイぬいぐるみをせがまれているのですが、人気商品だから手に入るかどうか」
「でも、ヒーローは今……」
「ああ、アポロンメディアの事件のせいでヒーロー事業に関して色々言われているのは知っています。反NEXT運動も活発化していると聞きました」
「ええ。ヒーローや……NEXTへの風当たりは日に日に強くなっています……」
「でも、私も娘も、NEXTを……ヒーローを、信じているんです」
「ヒーローを……?」
「何故……今でも信じられるのですか?」
ヒーロー自身がヒーローの存在意義を問い始めているというのに、何故この男性はヒーローを信じていると断言出来るのか。何故そんな澄んだ目で、ヒーローについて語ることが出来るのか。
「それは……エイミー、ちょっとおいで」
キースとイワンの質問に直接答えずに、男性は少女を呼び戻す。
少女はエイミーという名なのかと、イワンはぼんやり思った。
「なあに、パパ?」
「エイミーはどうしてヒーローを信じてるのか、このお兄さん達が知りたいんだって」
「そうなの?」
大きな瞳で少女はキーストイワンを見上げる。二人は一瞬戸惑ったように顔を見合わせたが、互いにこくりと肯くと少女の目線に合わせて屈み込んだ。
「教えてくれるかい?」
「だって、スカイハイが言ってたんだもん」
「スカイハイが?」
「ヒーローが力を使うのは、傷付けるためじゃなくて、一人でも痛くて悲しい思いをする人がいなくなるようにするためだって」
「あ……」
そうだ、それはキースが以前シュテルンビルトに住む全ての人間に向けて発した言葉だ。
それはキースがヒーローとして戦う理由でもあり、希望でもある。いやキースだけではない。イワンも含め、全てのヒーローが戦う理由なのだ。
「その日が来る時まで、皆で一緒に頑張ろうって、スカイハイが言ってたの。だから、スカイハイを信じてるの」
無垢な少女の笑顔には嘘は無い。
そこにはただ、純粋に信じる心だけがあった。
「ヒーローを、信じてるの」
+
開演時間にまた会いましょうといって父娘と別れた後、キースとイワンの二人は公園内を当ても無く歩いていた。
風に吹かれる木々のざわめきや、小鳥達の囀りに耳を澄ませながら歩く時間は、互いに何も言わずとも酷く満たされた時間だった。
「あの子には、スカイハイさんの言葉が伝わっていたんですね」
人通りの少ない小道に出た時、イワンがぽつりとそう言った。溜息を吐くように呟かれた言葉は、様々な想いが込められて震えている。
「あの子はまだ、僕達ヒーローを信じてくれている……スカイハイさんのおかげですね」
「私の……?」
「はい」
イワンがあのインタビューについて言っているのだと理解して、キースは思わず立ち止まった。
「それは違う。違うんだ!折紙君がいたから私はあのインタビューをしたいと思ったんだ。君がいたから……!君のおかげで私は……!」
がしっとイワンの肩を掴んでキースはそう捲し立てるが、焦ってばかりで上手く言葉にならない。
落ち着こうとイワンから手を離すと、キースは大きく深呼吸をした。
「折紙君……私はやはりまだ、ヒーローの存在意義に迷う。でも、今日分かったんだ。
あの子の笑顔を見て、守りたいと思った。これからも、一つでも多くの笑顔を守りたいと思ったんだ……それが私の願いであり、私の中にある確かな思いだ。そのためにヒーローであることが必要ならば、私はヒーローでいたい」
真っ直ぐイワンを見詰める瞳には、もう迷いの影は無い。
雲ひとつ無い空のように透明なキースの瞳は、泣きたくなるほど美しかった。
「僕も……分からないことだらけです。でも、やっぱり憎しみ合うのは嫌なんです。僕が受けたような苦しみを、もう誰にも味わって欲しくないんです」
手を伸ばしても空には届かないのかもしれない。けれど、キースという名の空の下でなら、どれ程無様にもがき苦しむことになっても、イワンはきっと希望を失わないでいられる。
「NEXTも非NEXTも一緒に暮らせる世界が欲しいんです。そのためにヒーローが必要だというのなら、僕は、ヒーローが必要とされなくなるまでヒーローを続けます」
非NEXTにもNEXTにも愛されるキースは、NEXTと人間を繋ぐ希望なのだ。だから、キースがいる限りイワンは諦めない。キースがいる限り、ヒーローであることに絶望しない。
「これからも、私達はきっと迷い苦しみながらヒーローを続けていくんだろうね」
「それでいいんですよ。そうやって迷いながら生きるのが人間なんです。沢山迷って、時に間違いも犯して、後悔することもある。それでも前を向いて生きて行くんです」
「……そうだね」
ヒーローは、英雄(ヒーロー)である前に人間なのだ。人間だから、人間の弱さも苦しみも理解し、共感出来る。自分達もまた一人の弱く愚かな人間だからこそ、ヒーローは救いの手を差し伸べることが出来るのだ。
それが、キースとイワンの出した答えだ。
「でも、一人で悩まなくてもいいんです。一緒に考えましょう。一人では出来ないことも、二人でならきっと出来る。僕にそれを教えてくれたのは、スカイハイさん、貴方です」
イワンが微笑むと、キースの胸は灯が点ったように温かくなる。
その温かさの正体を、キースはやっと理解した。
「でも……もう一つ、確かなことがあるんだ。私の心の中にある、絶対に捨てられない思い」
イワンがキースにくれたもの。
それは愛だ。
暗闇の中迷った時、道を指し示してくれる一筋の光だ。
凍えそうな寒さの中でも、心を温めてくれる灯だ。
「どうしよう、私はヒーローで、スカイハイなのに。
シュテルンビルトの皆の幸せを願うべきなのに。
シュテルンビルトの全ての人を愛するべきなのに。
でも、今、私は君だけを愛したいと思っている。
君さえいれば他に何もいらない。君さえいれば、ヒーローをやめてもいいとすら思っている。
こんな私はヒーロー失格だ。
どうしよう、折紙君」
私は君を、こんなにも愛している。
泣きそうな顔で困ったように愛を告げるキースにイワンは一瞬呆気に取られてから、ぷっと吹き出してしまった。
「お、折紙君!」
「あ、すみません」
酷い、そして酷い、と傷付いた表情のキースにイワンは更に笑いを深くする。
思う存分笑ったら落ち着いたのか、イワンは目に滲んだ涙を拭いながらもう一度キースに向き合った。
「それはどちらも貴方の願いなんですから、受け入れればいいんです。どうして今、どちらかを選ばなければいけないなんて思うんですか?
確かに、いつか選ばなければならない時がくるかもしれません。でも、その時は僕が隣にいます。
一緒に迷い悩み苦しみ傷付いていけば良いじゃないですか。
僕はスカイハイさんの……キースさんの隣で、嬉しいことがあれば一緒に笑って、悲しいことがあれば一緒に泣きたいです。
僕はただ、貴方と一緒に生きていきたい……」
「おりが……イワン君!」
堪らずイワンの手を取ると、キースは自分よりも一回り小さなその手を両手で包み込む。そして、真っ直ぐイワンを見据えた。
「君が好きだ。そして、愛してる。どうか、私を好きになって欲しい!そして愛して欲しい!」
心の底から紡がれたキースの愛の言葉を受けて、イワンは一瞬驚いたように目を瞠ると、次の瞬間くしゃりと顔を歪めた。それを見てキースははっと息を呑む。イワンが泣いてしまうと思ったのだ。
けれど――
「僕も、キースさんが大好きです……――」
涙で瞳を潤ませながらふわりと微笑んだイワンは、太陽よりも輝いていた。
想いを通じ合わせたキースとイワンを祝福するかのように、辺りに美しい調べが響き渡る。
それはコンサートが始まったことを意味するが、今は互いのことしか考えられない二人には、どんな美しい音楽も耳に入らなかった。
愛を手に入れた二人には、互いの心臓の鼓動すらも甘美なメロディなのだから――――
ふたつの魂が恋に落ち
互いに強く結びつきあう
たったひとつの言葉も隠すことなく
そして喜びも悲しみも幸福も不幸も
互いに分かち合い
最初のくちづけから死のときまで
愛の言葉だけを交わすというのは
それはきっと素晴らしいこと