深い眠りから醒めるように、浮竹はゆっくりと瞼を上げた。
(ここは……どこだ……?)
辺りは真っ暗で何も見えない。
夢でも見ているのだろうかと考えながら、何度か瞬きを繰り返すことで自分の意識がはっきりしていることを確認する。
しかし、浮竹の瞳には何も映らない。
そこには、何も見えない、何も聞こえない底無しの闇が果てしなく広がっていた。
(苦しい……)
天地の境も無い漆黒の空間は、重い空気で満たされている。
息を吸う度に、鉛が肺を満たすような不快な感覚が襲った。
一体何が起こったのだろうかと浮竹は記憶を手繰り寄せるが、黒い焔を目にした所までしか思い出せない。
京楽達の霊圧を探ろうにも、辺り一帯にどんよりとした陰鬱な霊圧が充満していて上手く感知できない。
せめて手探りで周りの様子を知ることが出来ないかと手を伸ばそうとして、指一つ動かせないことに気が付いた。
まるで金縛りにあったように身体が動かないのだ。
――――!
(何だ……?)
遠くで誰かの叫び声が聞こえた気がして浮竹は耳をそばだてるが、耳が痛くなるような静寂が続くだけで物音一つしない。
恐ろしい程の沈黙が、この深い暗闇を支配していた。
まるで、世界に只一人取り残されてしまったようだった。
(春水……――)
心細さに負けそうになる己を奮い立たせようと、浮竹は京楽の名を心の中で呟く。
その途端、ずきりと鋭い痛みがこめかみを襲った。
(な……?)
不意に、小さな蝋燭の灯のような青い光が、浮竹の眼前――丁度胸の高さの位置だ――に現れた。
前触れも無く現れた不思議な光は、初めて見る類のものの筈なのに、どこか懐かしい。
導かれるように浮竹がその光に両手を翳すと、光は浮竹の手の中でちろちろと心許なげに揺れた。
何て冷たい光なのだろう――――
それは暗闇を照らす唯一の光であるにも拘らず、浮竹を安心させるどころか逆に闇を深くし、このまま常闇の深淵から抜け出せないのではという恐怖を植え付ける。
不吉な想像にぞっとして浮竹が身を震わせると、浮竹の恐怖に呼応するかのように青い光が燃え上がった。
それと同時に、こめかみから頭の奥へとずきずきとする痛みが広がって行く。
――この豚め!
突然、割れんばかりの大音響の叫び声が浮竹の頭の中に轟いた。
大音量で脳裡に反響する声に、くらくらしてその場に崩れ落ちそうになる。
――犬畜生!!!
再び聞こえてきた声は、先程と同じように浮竹の頭に直接鳴り響いた。
何千人もの群集が一度に叫んでいるような威圧感を感じて浮竹は悲鳴を上げそうになるが、何故か喉がからからに渇いていて声が出ない。
(誰だ!?何故そんなことを言うんだ!?)
浮竹に浴びせられる叫びは、何千もの声が入り混じって一つの巨大な声を形成している。
個性も人間性も無い無機質な声は、しかし同時に浮竹に対する憎しみと蔑みに充ちていた。
まるで、憎悪という感情が声として実体化したようだった。
――お前達は豚や山羊と同じだな!
――淫らで愚鈍な民族め!
――卑しい奴ら……――!
剥き出しの嫌悪と敵意に、心の底まで凍り付きそうになる。
たまらず両手で耳を塞いでも、おぞましい声は大きく、激しくなるばかりだ。
――毒蛇の民族!
――病原菌!
(やめろ!やめてくれ!!!)
自分が何をしたというのか。
何故ここまで嫌われなければならないのか。
どうしてそんな惨い言葉を投げつけるのか。
完全に混乱した思考では、何一つ理解出来ない。
押し潰されそうな圧倒的な憎しみの前に、浮竹は殆ど錯乱状態に近かった。
今まで一度も感じたことの無い恐怖が浮竹の身体を蝕んでいく。
物理的な攻撃を受けている訳でも無いのに、足が竦んで身動き出来ない。
狂気を孕んだ怒号を前に、浮竹は只耳を塞いで蹲ることしか出来なかった。
――お前達がありとあらゆる国の文化を汚す腐敗を運んでくるんだ!!
――寄生虫!!!
――虱め!!
(嫌だ!聞きたくない!!)
次から次に押し寄せる言葉の刃は、浮竹の心に沢山の血を流させる。
胸を貫く鋭い痛みに浮竹は苦しそうに呻くが、声はそんな浮竹に構うことなく容赦なく襲い掛かってくる。
それどころか、浮竹が苦痛に耐える様を喜んですらいるようだった。
(何故だ……)
何故奴らはこれ程までに残酷なことが出来るのだと、昏い怒りが腹の底に湧いてくる。
すると、それまで浮竹の胸の前で揺らめいていただけの光が一際大きく燃え上がった。
蝋燭の火のようだったそれは、今は拳大の大きさの炎となって青白い光を放つ。
しかし、目をきつく閉じ歯を食い縛って声の攻撃に耐える浮竹は、光が変化していることに気が付かない。
――高利貸しの害虫め!
――豚どもを追い出せ!!
――人類の敵め!!!
(俺が何をしたというんだ!?何故ここまで憎まれなければならない!?)
苦しい。
苦しくてたまらない。
暗く重い憎しみの塊に心を押し潰されそうになりながら、浮竹は声にならない悲鳴を上げる。
しかし、声はそんな浮竹を嘲笑うかのように勢いを増すばかりだった。
嫌悪に充ちた声は、圧倒的な力で浮竹を苦しめる。
理不尽に自分を襲う声に耐え切れなくなり、次第に浮竹の意識は朦朧としていった。
(許せない――)
浮竹の心に隙間が生まれ、そこに憎しみの種が芽吹く。
そして、浮竹の感情に反応するかのように青い炎が大きく燃え盛った。
――・・・・・・は芸術や文化を汚染し、国民経済に潜伏し、権威を失墜させ人々の民族的健康を害する、病原菌の媒介である。
(俺は、今何を考えていた……?)
自分の心に生まれた醜い感情にはっとして浮竹は正気を取り戻すが、一度心に根付いた歪んだ思いを制御する術は無い。
汚い感情に飲み込まれまいと浮竹は必死で己を奮い立たせるが、じわじわと憎しみが浮竹の心を侵食して行く。
――お前達は人々の血をすする蜘蛛と同じだ。血を見るまで互いに戦う野蛮な鼠の群れだ。善良な人々の体内に宿る寄生虫!蛭だ!
(嫌だ!!やめてくれ!!!俺は何も憎みたくない!誰も恨みたくないんだ!!!)
そんな悲痛な叫びも虚しく、浮竹の心は暗い感情に支配されて行く。
――害虫共め!
自分を苦しめる奴らが憎い。
自分を虐げる奴らが恨めしい。
自分を蔑む奴らを許せない。
――肉食獣だよ、人間以下さ。
何もかもが憎い。
全てが忌まわしい。
(聞きたくない!!俺はそんなことを思ったりはしない!!こんな感情を俺に抱かせないでくれ!!こんな気持ちになどなりたくない!!!!)
童のように蹲り両の手で耳を塞ぎ泣き叫ぶ浮竹の前で、青い焔はどんどん激しく燃え上がる。
やがてそれは浮竹の身体を包み込むほどの大きさになっていた。
――絶滅すべき昆虫共め!
――動物以下だ!!
(俺は……俺は……!)
自分を傷付ける物は、全て滅んでしまえばいい。
自分を苦しめる者は、皆死んでしまえばいい。
――畜生共は皆打ち殺されるのがお似合いだ!虫けらを踏み潰すようにな!!
こんな世界など、壊れてしまえばいい――
青白い業火が一際激しく噴き立つると、浮竹を完全に飲み込んだ。
氷のように冷たい火炎に浮竹の意識が奪われていく。
(……しゅん、すい――――)
意識を失う寸前に脳裡を過ぎったのは、愛しい男の名前だった。
***
一体自分は何のために戦っているのか――
戦闘の真っ最中だと言うのに、浮竹の頭の中にあるのは目の前の敵のことではなく、そんな疑問だった。
人類史上最も多くの人間を犠牲にした戦争が終わった。
その戦争の凄まじさは、数々の争いを目にしてきた死神達でさえ戦慄する程であった。
戦争の終結を確認すると、護廷十三隊は直ちに現世へと向かった。
戦争で死んだ人間の魂魄が、今までに類を見ない速さで虚へ変化していたからである。
何万人という人間がほぼ同時期に死亡したために、戦場となった地域では死んだ人間の魂魄が密集して異常な霊圧の高まりを引き起こした。
その結果、普通なら四、五年掛かる筈の整から虚への移行が何倍もの速度で進行してしまったのだ。
この異常な状況に対応するために、護廷隊の約半数にも及ぶ数の死神が現世に派遣されたのだった。
下位席官である浮竹と京楽は、それぞれ急遽編成された30の小隊の隊長として戦闘に参加していた。
「オオオオオオオオオオオ!!!!」
背後に虚の気配を感じて浮竹はくるりと舞うように回転すると、その勢いを利用して双魚理を大きく振り下ろした。刃が肉を切り裂く感触が、刀を握る手にやけにはっきりと伝わる。
「ギャアアアアアアアアアアアアアア」
断末魔の悲鳴を上げて虚が消滅すると、後には虚の流した血溜りだけが残った。
血と土埃の混じった嫌な臭いに吐き気が込み上げた。
次から次へと現れる虚を浮竹は機械的に倒して行く。
斬っても斬っても切りが無い夥しい虚の数に、この戦争でどれ程の人間が死んだのだろうかと浮竹は暗い気持ちになった。
人間は何故こうも互いに殺し合うのだろうか。
街を焼き払い、兵士だけでなく罪の無い子供達まで殺し、何を求めているのだろうか。
何が彼らを駆り立てるのか。
浮竹が見渡す限り、人間の死体が散らばっている。
中には幼い赤子の死体もあった。
浮竹は地獄を見たことは無いが、恐らく地獄ですらこんな凄惨な光景は存在しないだろうと身を震わせる。
あの赤子は生きる喜びすら知らず無残に殺された。
その怨念は、赤子の魂魄を虚へと変貌させたかもしれない。
自分が斬った虚の中にあの赤子がいたかもしれないという考えに辿り着いて、双魚理を握る手が緩んだ。
何故こんな酷いことが起きるのだろう。
この世界に正義は無いのかと浮竹は天に向かって叫びたかった。
罪の無い魂魄を守り、世界の秩序を護るために自分は命を懸けて戦っているのではないか。
だが、自分には何も変えることが出来ない。
人間は常に殺し合いを続け、その度に怒りと憎しみに侵された魂魄が生まれ、虚へと変貌する。
そして、生前愛していた筈の人間を殺し、その魂を貪り食うのだ。
同じことの繰り返しだ。
何も変わらない。
悲劇の連鎖には終わりが無い。
「――!――」
突然覚えのある痛みが胸を突き上げて、浮竹はたまらず身体を折った。
こんな時に、と焦るが、押し上げてくる発作の衝動を鎮めることが出来ない。
浮竹が乱れ始めた呼吸を整えようとする間に、隙が出来たとばかりに何匹もの虚が一度に襲い掛かってくる。
「くっ……」
バサリと一太刀の下に虚を全て斬り捨てるが、その際の衝撃で発作の症状がぶり返してしまった。
ゴホゴホッ、と立て続けに酷い咳が浮竹を襲う。
胸を抉られるような痛みと息の出来ない苦しさに、浮竹は堪らずその場に崩れ落ちた。
はあはあ、と肩で大きく息をしながら、浮竹は縋るように双魚理を握り締める手に力を入れた。
(俺は、一体何をしているんだ……!)
どこまでも広がる死体の山の中、身を切り裂くような咳の発作の痛みに耐えてまで、自分は何のために戦っているのか。
この悲しい世界で、必死に何を守ろうとしているのか。
こんな世界で、生きる意味はあるのだろうか――――。
膝を突き、双魚理を地面に突き立てたまま、浮竹は身動きすることが出来なかった。
息をするのも苦しく、視界が朦朧とし始めていたが、最早助けを求める気力すら無い。
このままここで息絶えても構わないというさえ感じていた。
只、全てを終わらせて楽になりたかった。
「十四郎!」
突然、霞み始めた意識の奥で京楽の声が響く。
はっとして顔を上げた浮竹の瞳に映ったのは、満天の星空だった。
紺碧の夜空に金剛石の星々がちりばめられている。
息を飲んで夜空を見詰める浮竹の頭上では、白銀の尾を引いた流星群が星影の間を滑り抜けていた。
美しい、と呟いた浮竹の頬を、一筋の涙が流れ落ちた。
***
(そうだ、俺は……――)
凍えて何も感じなくなっていた浮竹の心に、小さな光が灯る。
その光が発する温もりが全身に広がって行く。
浮竹が目を開けると、浮竹の身体を包んでいた焔は再び拳大の大きさになって浮竹の前で揺れていた。
(思い出した、俺がこの世界を守りたいと願う理由を……――)
辛く悲しいことは多いけれど、それでもこの世界には美しいものはある。
世界の美しさを知り、愛する者がいる。
だから、守りたいのだ。
この世界を。
この世界に生きる者を。
(そのために、俺は戦うんだ……――!)
だから、こんな所で挫ける訳にはいかない。
憎しみに心を押し潰される訳にはいかないのだ。
身体中に力が漲るのを感じると、浮竹はすらりと双魚理を鞘から抜いた。
そして、両手で強く柄を握り締め、一息に目の前の焔に突き立てたのだった。
パリン
硝子が割れるような音が聞こえたかと思うと、次の瞬間、幾筋もの白い光が焔から放射される。
見る見るうちに白い光は強さを増し、漆黒の闇を真っ白に照らしていった。
17.09.10