ざり、と乾いた地面を踏み締める音が辺りに響く。
穿界門を抜けた浮竹と京楽が見たものは、深緑の葉を茂らせた樹々に囲まれた緑園だった。
優しい小鳥の囀りに満ちたその場所には、心安らぐ静寂がある。
そんな平和そのものと言った景色の中、至る所に張り巡らされた有刺鉄線が不協和音を奏でている。
鉄の茨に囲まれて、殺伐とした外観の建物が幾つも並んでいた。
「ここかい?」
その中の一棟の前で足を止めた浮竹に京楽が囁くように尋ねると、浮竹は無言で小さく肯いた。
物憂げな眼差しは、手にした革製の手帳に注がれている。
梢から差し込んだ幾筋もの光が、浮竹の横顔にゆらゆらと揺れる影を落としていた。
*
穿界門前での事件が一段落すると、浦原は技術開発局が特定した「無生物」の居場所へと向かった。
当該物質の霊圧は消滅したのだから、最早「無生物」に危険性は無い。
だが、一体どんな物質があれ程までに大きな霊圧を持つに至ったのか、という科学者としての探究心が、浦原を現世へと向かわせたのだ。
現世へ到着した浦原を迎えたのは、廃墟と化したとある施設であった。
そして、そこで一冊の古びた日記帳を見付けたのである。
その日記帳から瀞霊廷に現れた青い焔と同じ霊力の残滓が確認されたため、この日記帳が今回の事件の発端であると浦原は結論付けた。
どうやら日記帳の持ち主は、民族浄化の名の下に行われた残虐非道な迫害の犠牲者だったらしい。
家を追われ、他の多くの人間と共にこの施設へ連行され、満足に食事もさせてもらえないまま過酷な労働を強いられた後、殺されたのだ。
この日記帳は、そんな筆者が密に隠し持っていたものだった。
全ての頁に詳細に記されていたのは、筆者が生きている間に浴びせられた罵詈雑言の数々、居住地や職場での屈辱的な扱い、只街を歩いているだけで受けた謂れの無い暴力等の、差別の歴史だった。
それだけではない。
自分を虐げた全ての人間へ向けられた恨みと憎しみ。
只平穏に暮らしていたいだけだったのに、そんな小さな願いを持つことすら許してくれなかった社会への怒り。
仕舞いには、自分を産んだ世界への憎悪までもが、事細かに書かれていた。
その日記帳は、人と人との憎み合いの記録そのものだった。
浦原は、この日記帳の持ち主は元々強い霊力をその身に秘めていた所に、激しい感情の発露が引き金となって霊力が身体の外部へ放出されたのだろうと分析している。
憎しみと怒りに駆られ、呪いの言葉を書き記すように一文字一文字を綴ることで、無意識の内に日記帳自体に己の霊力を込めていたのだろう。
更に、書かれた文字がそれ自体言霊となって、日記帳に注がれた霊力を増幅させる役目を果たしたのだ。
だが、憎しみの連鎖はそれで終わりではなかった。
力は力を呼び、新たな力を生む。
負の感情が凝縮した日記帳の言霊に惹かれる魂魄は多かった。
この筆者と同じ様に迫害され死んでいった人間達や、理性を失った虚達にとって、「憎悪」と言う感情は最も理解し易く、ある意味心地良いものだったのだろう。
こうして、膨大な数の魂魄と彼等の霊力を吸収して、その日記帳はとてつもない霊圧を持つに至ったのである。
その集大成とでも言うべきものが、浮竹達の見た青い焔であった。
*
浮竹と京楽は今、浦原が日記帳を見付けた廃墟にいる。
日 記帳の分析結果について報告があった後、浮竹は技術開発局まで赴いて日記帳を譲って欲しいと願い出た。
本来ならば事件の証拠品である日記帳は、構成する器 子を霊子に変換した後技術開発局に保管されるべき物である。その事実を知りながら、浮竹は日記帳を譲って欲しいと浦原に告げたのだった。
(十四郎……君は今、何を考えているんだい?)
黙って瓦礫の前に佇む浮竹を横目で見ながら、京楽はそう心の中で呟いた。
幸運なことに、日記帳自体に宿る霊力は既に皆無であったため、浮竹の無茶とも思えた願いは意外にも簡単に叶えられた。
霊力を持たない現世の物質など、それに関する情報さえあれば、物質自体には証拠としての価値も無いということだろう。
浦原から日記帳を受け取ると、浮竹はすぐさま京楽の元へやって来た。
そして、一言「一緒に現世へ来てくれないか?」と言ったのだった。
(どうしてそんな辛そうな顔をしているんだい……)
現世を訪れる目的を簡単に告げた後、浮竹は一言も言葉を発していない。
京楽もまた、それ以上を尋ねようとはしなかった。
あの暗闇の中で何があったのか、浮竹は多くを語ろうとしない。
浮竹が山本に行った簡潔な報告から理解出来たのは、あの闇で浮竹は焔と出会い、倒したということだけだ。
不思議なことに、闇の中で焔を見たのは浮竹だけだった。
あの闇に巻き込まれた者は京楽と浦原を含め何人もいたが、浮竹以外の者は皆、突然目の前が真っ暗になったかと思うと、気が付いたら時間の感覚さえも狂う底知れぬ暗闇の中にいたと口を揃えて語ったのだ。
更に不思議なことに、双魚理を焔に突き立てた際、大量の記憶が浮竹の脳に流れ込んできたという。
それは、穿界門での事件の夜、雨乾堂で京楽と二人きりになった時に浮竹が明かした事柄で、京楽と浮竹以外にこの事実を知るものはいない。
その記憶に何を見たのか、浮竹は京楽にすら語ろうとしなかった。
(……何となく、想像は出来るけどね)
ゆっくりと歩を進める浮竹の背を見詰めながら、京楽はそう独り言ちた。
浮竹が目的の場所を見付けるまで二人は無人の建物の中を歩き回ったが、その間にそこで見たものは、この施設で何が行われていたのかを示すには充分だった。
ぎゅうぎゅうに詰まった貨車を運ぶ線路。
ある部屋に並べられていた―ここに連れて来られた子供達の持ち物であっただろう―沢山の人形。
また別の部屋には山のような靴や眼鏡やトランク。
更には無造作に積まれた大量の毛髪。
そして、瓦礫の山の向こう側にそびえる焼却炉の煙突――――
予め日記を読みこの場所で何が行われていたかを知っている筈の京楽でさえ、圧倒的な量で視覚に迫ってくるそれら「遺品」に寒気を感じずにはいられなかった。
浮竹が見た記憶とは、恐らくここで起きた出来事についてだ。
だからこそ、浮竹は日記を読もうとしないのだろう。
ある民族が、只その民族だと言うだけで徹底的に迫害され、虐殺されたのだ。
生まれた場所や肌の色、宗教が違うだけで、人間はこれ程までに憎み合うことが出来るのだ。
悲しい現実に、優しい浮竹は打ちのめされているのではないか。
醜い世界に、浮竹の綺麗な心は傷付いているのではないか。
浮竹のために何も出来ない自分が悔しかった。
「ここでいいだろう」
そう言うと、浮竹は瓦礫の山から幾つかの煉瓦を取り除き、出来た隙間にそっと日記帳を置いた。
「十四郎……本当にいいのかい?」
「ああ。今は崩れてみる影も無いが、この瓦礫があった場所には元々ここで暮らす人間達の寝所があったらしい。この日記の持ち主も、この部屋で寝起きしていたかもしれない」
「そうじゃないよ」
分かっているんだろう?と京楽は言外に仄めかす。
京楽が尋ねているのは、本当にその日記帳をこの場所に残しても良いのかということだ。
日記帳を残して置けば、いつかここにやって来た人間に発見されるかもしれない。
日記帳が発見されれば、人間はここで起きた悲惨な出来事と、犠牲者達の苦しみを知ることになるだろう。
だが、果たしてそれは人間に何をもたらすのか。
「……この日記は、人間が読むべきものだ。人間が自分達の行いを振り返るために、読まれるべきものだ」
ぱんぱんと手に付いた埃を叩きながら、浮竹は京楽の方へと向き直った。
その顔には、悲しげな微笑が浮かんでいる。
「もう二度とこんな苦しみを味わう人間が生まれないように……そのためには、人間はここで何が起きたかを知らなければならないんだ」
「……人間は、歴史から何も学びはしないよ。もう何百年と見てきたことじゃないか」
「そうかもしれない。それでも……」
京楽の厳しい言葉に、浮竹の瞳が一瞬心許なげに揺れる。
長い年月を生きてきた二人は、何度も人間の愚かさを目の当たりにしてきた。
人間の歴史とは、二人にとっては破壊と殺戮の歴史だった。
「それでも俺は、知って欲しいと思うんだ」
それでも、浮竹は人間を信じたかった。
人間に、この世界に絶望したくなかった。
希望を、捨てたくなかったのだ。
「春水」
「何だい?」
「あの時、暗闇の中でお前の声が聞こえたんだ」
「僕の声が?」
「ああ、お前が俺を呼ぶ声だ」
あの憎しみに塗れた暗闇から浮竹を救ったのは、浮竹の名を呼ぶ京楽の声だった。
悲しみに今にも折れそうだった心は、京楽の声を聞くことで生きる意志を取り戻すことが出来た。
この世界には、辛く悲しいことは多い。
それでも、浮竹はこの世界を愛しいと思う。
京楽と共に生きるこの世界を、守りたいと思う。
この世界で浮竹は京楽と出会った。
そして、京楽は浮竹に愛することの喜びと、世界の美しさを教えてくれた。
だから、浮竹は守りたいのだ。
この美しい世界を。
そして、この世界に生きる全ての者を、信じていたいのだ――――
「名前を、呼んでくれないか?」
京楽に名を呼ばれるだけで、浮竹は満たされる。
心に勇気が生まれる。
生きる喜びに溢れるのだ。
「君が望むのなら、何度でも」
そっと浮竹を抱き締めると、京楽は浮竹の耳元に唇を近付ける。
そして、京楽にとって世界で最も美しい言葉を囁くのだった。
「愛してるよ、十四郎」
<End>
22.09.10