「……ろう!十四郎!」
「ぅん……」
浮竹がぱちぱちと瞬きを繰り返すと、ぼやけた視界が輪郭を取り戻して行く。
眼前を覆い尽くす人影に焦点が合うと、浮竹の目に気遣わしげに自分を見下ろす京楽の姿が飛び込んできた。
太陽を背にしているためか京楽の顔は翳って見えるが、浮竹を見詰める瞳は濡れたような光を放っている。
(ああ、俺はあの闇から抜け出すことが出来たのだな……)
優しい光を目にして、浮竹はぼんやりとそんなことを考えた。
「しゅん、すい……?」
「十四郎!良かった……怪我は無い?」
京楽の問いに浮竹は小さく首を振る。その際感じた後頭部の硬い感触から、自分が地面に横たわっていることに気が付いた。どうやらいつの間にか意識を失っていたらしい。
暗闇の空間で起こった不思議な出来事が記憶に新しいせいか、浮竹は京楽の姿を目にしてもどこか非現実的な感覚を意識から拭い去ることが出来ない。
これは全て夢ではないかという疑念すら頭を過ぎった。
しかし、「無事で良かった」と、ほっと安堵の息を吐く京楽の表情を見ている内に、少しずつ現実感が戻って来る。
京楽に触れて彼が確かにそこにいるのだと確かめたくて、浮竹は恐る恐る右手を挙げた。身体に力が入らないせいか、動作がぎこちない。
その手を、京楽の大きな手が力強く握り返した。
掌から伝わる温もりに、帰って来たのだという実感がようやく浮竹の胸に広がった。
京楽の手助けを受けながら浮竹はゆっくり身体を起こすと、首を捻って周囲を見渡す。
瀞霊廷に目立った被害は無く、浮竹がいたあの暗闇らしきものはどこにも見当たらなかった。穿界門も今は閉じている。
だが、あの奇怪な出来事が現実のものであった証拠に、穿界門前の広場ではひよ里を含めた幾人もの死神が倒れ、救護隊が治療に当たっていた。朽木銀嶺と蒼純の姿も見えるが、どうやら二人とも無傷のようだ。
「一体何が起こったんだ?」
「あの焔が黒く染まった途端、爆発的な膨張を起こして穿界門周囲の時空間を歪めてしまったらしいね。僕も辺りが真っ暗闇になったと思ったら、いつの間にか元の場所に戻っていて詳しいことは分からないんだ。
今、技術開発局が調査中だよ」
ほら、と言って京楽が顎をしゃくった方向に視線を移すと、技術開発局員に指示を出している浦原の姿があった。
「あの半虚はどうなったんだ?」
「ああ、あの子なら、皆が気が付いた時には整の姿で倒れていたらしい。今卯ノ花隊長が治療に当たっているよ」
「あの、青い焔は……」
「霊圧の消滅が確認されたってさ」
確かに京楽の言葉通り、浮竹が感覚を研ぎ澄ませてもあの不快な霊圧を感じることは出来ない。あのおぞましい霊圧は、もうどこにも存在しないのだ。
「全部、終わったんだな……」
その呟きに同意するように、浮竹の手を握る京楽の手に力が込められた。
浮竹が遭遇した青い焔は、半虚が手にしていたものと同一だったに違いない。莫大な量の霊圧が凝縮された塊だというそれは、浮竹が双魚理を突き立てたことで浄化されたのだろう。
あの憎悪に満ちた闇は消えてしまったのだ。
一筋の光も射さない暗闇の中、「声」に追い詰められた浮竹は、一度は憎しみに心を飲まれそうになった。そんな浮竹を闇から救ったのは、自分の名を呼ぶ京楽の声だったのだ。
京楽の声が、浮竹を光に繋ぎ止めてくれたのだ。
「そう言えば――」
「ん?」
「春水、お前、声が戻ったのか!?」
あまりに不思議なことが次々と起こり過ぎて忘れていたが、穿界門前で別れの挨拶を交わす時まで京楽は声が出なかったのだ。だが、浮竹が目を覚ましてから京楽と何の問題も無く会話している。
驚いて目を丸くする浮竹に、京楽は「今頃気付いたのかい?」と苦笑した。
「毒を造った本体であるあの焔が消えたから、毒の効果も消えたんだってさ。喋れないって本当に不便だったからさ、ほっとしたよ」
やれやれと言うように京楽は大袈裟に肩を落とす。冗談めかしてはいるが、声が出ないということはやはり苦痛だったらしく、実際にはかなりほっとしているようだった。
「そうか……」
本当に全てが終わったのだ。
自分は、大好きな声を取り戻すことが出来たのだ。
そんな喜びが浮竹の胸をゆっくりと満たしていった。
薄紫色に色付き始めた西の空には、一番星が輝いていた。
22.09.10