ソフィーの世界
目を開けると私の前には真っ黒な異国の服に身を包んだ青年がいた。
辺りを見回すと、ここはまだ私の寝室で、私はベッドの横に立っているのだった。ベッドで眠るように死んでいる私の体を取り囲んで泣いているのは私の三人の子供達と八人の孫達。
ああ、私は死んだのだとすぐにわかった。
そしてこの黒尽くめの青年は私を迎えに来たのだと。
天使はもっと神々しくて中性的な姿をしているものだと思っていたのに、というのが私の第一印象だった。だって、絵画や物語に出てくる天使は金髪碧眼で背中に真っ白な翼を生やした美しい姿をしているのに、この青年は黒い巻き毛に浅黒い肌のたくましいどこからどう見ても男性の姿をしているんだもの。おまけに髭まで蓄えて。予想と違い過ぎるわ。
「こんにちは。」
ほら、私に挨拶した声もとても低い。天使の声って鈴が鳴るような澄んだ声じゃなかったの?でも、男性としては魅力的な声。
もしかしてこの青年は天使じゃないのかしら?でもそれなら…。
「貴方は天使?それとも悪魔?」
挨拶もせずに私はそう尋ねてしまった。失礼だとは思ったけど、悪魔だったら大変だもの。急いで逃げなきゃ。
「僕はどちらでもないですよ。死神って一応呼ばれてますけどねぇ。貴方のような魂魄をソウルソサエティに導くのが僕達死神の役目です。」
「ソウルソサエティ?それは天国のこと?」
死神だという青年は少し困った顔をして顎鬚に手をやった。どうやらそれが彼の考える時の癖みたい。そんな仕草を見ると、天使や悪魔(じゃなくて死神だったかしら)と言うより人間みたい。
「うぅん、地獄はソウルソサエティとは別の所にありますけど、天国って言うのはどうかなあ。」
「でも地獄ではないのね?」
「地獄ではないです。」
「よかったぁ。」
私は天国に行けるんだわ。ほっとしちゃった。地獄に落とされるようなことをしたつもりはないけど、やっぱりちょっと不安だったの。でも、と言うことはやっぱりこの青年は天使なのね。イメージとはかなり違ったけれど、ハンサムなのには変わりないのだから良しとしましょう。
「それじゃあ連れて行ってください。」
そう言ったら、天使は驚いた顔をして私をじっと見つめた。私何か変なことを言ったのかしら?
「どうしたの?」
「いやぁ、僕はまだ死神としては新人なんですが、貴女の様に落ち着いている魂魄は初めてで。」
「他の人達はどんな様子だったの?」
「そうですねえ、殆どの人は動揺するか怯えて逃げ回るかでした。」
「あらまあ。天使のお仕事も大変なのね。」
でも確かに、突然死んで全身黒尽くめの人が現れたら驚くのも無理は無いかもしれないわ。
「私はね、もう死ぬ覚悟が出来ていてたから、後はお迎えを待つだけだったの。愛する家族に看取られて苦しまずに安らかな最期を迎えられたわ。私の愛しい子供達の顔を見ながら眠るように逝けて幸せだった。別れもちゃんと言えたしね。だからね、私はもう天国に行く準備が出来ているの。」
私の家族は今も私を囲んで泣いている。そうよね、私が死んでから、まだ一時間も経っていないのだから。でもすぐあの子達の涙は乾くわ。そうしてそれぞれの家族のもとに戻って、幸せな生活を送るの。時々は私のことを思い出して悲しくなるかもしれないけれど、きっと孫達が傍にいるから。
私はこんなに沢山の愛を受けて逝くことが出来て幸せだった。私の子供達の上にも私と同じ幸せが降り注ぎますように。それだけを祈っているわ。
でも一つだけ天国に行く前に聞いておきたいことがあるの。
「ねえ、天使さん。私の夫は30年前に死んでしまったのだけれど、天国に行ったらあの人に会えるかしら。」
「…ソウルソサエティはとても広いところです。残念ながら30年前に亡くなった貴方の旦那さんに会うのは難しいです。」
天使は少し悲しそうな表情をしていた。私のために悲しんでくれているのかしら。優しいのね。こんなおばあちゃんのために心を砕いてくれるなんて。
「それで充分よ。
私はあの人が私を置いて逝ってしまったときとても心細かった。もう世界中を探してもあの人に会えないのだと思って絶望したこともあるわ。寂しくて寂しくてあの人の後を追ってしまおうかと思ったこともあるの。子供達がいなければ、私は孤独に押しつぶされて駄目になっていたかもしれない。
でも天国でなら、一生懸命探し続ければいつかあの人に会えるかもしれないのでしょう。私にはそれだけで充分。どれだけ時間がかかろうと探し続けるわ。」
天使は私の眼を真っ直ぐ見詰めるとそっと私の手を取った。
「ソウルソサエティに戻ったら、僕にも旦那さんを探すのを手伝わせていただけますか?」
「ありがとう。でも気持ちだけで充分よ。」
本当に優しい天使様。天国にはこんな天使が沢山いるのかしら。
あの人を迎えに来たのもこんな天使だったのかしら。
「そういえば、私こんなおばあちゃんになってしまったからあの人には気付いてもらえないかしら。栗色だった髪も真っ白になってしまったし。」
きっとこんなおばあちゃんなんか今更いらないって言われたらどうしましょう。
そう私が言うと天使様は微笑んで私の皺くちゃの手を取ると、触れるように口付けをした。
「僕の恋人も貴女のように美しい、雪の様に白い髪をしています。僕の恋人には少し負けるけれど、貴女はとても魅力的ですよ。」
そう言って、彼は片目をつぶって見せた。
「お上手ね。」
こんなに素敵な天使様に会えて、なんて私はラッキーなのかしら。
天国でもまた会えるといいわ。
「ねえ、貴方の名前聞いていい?」
「京楽春水です。貴方は?」
「ソフィー、ソフィー=ウルフ。」
「ソフィー。良い旅を。」
「ありがとう、春水。」
そう言って目を閉じた瞬間、私の身体がふわりと浮かぶのがわかった。
Sophie Elizabeth Woolf
享年81歳。
最後まで京楽を天使だと思い込んでいました。
時代考証適当
Forget-me-not
双魚の理を鞘に収めると、改めて浮竹は辺りを見回した。
今回の虚は大したことなく、始解するまでもなく倒すことが出来た。その為か周囲への影響も無く、虚を目撃した人間もいないようだ。
これならば記憶置換機を使う必要もなさそうだと、浮竹はほっとする。
しかしこの辺りには虚の餌になりそうな魂魄など見当たらない。何故こんな所に虚が現れたのかと浮竹は訝しんだ。
伝令を受けて駆け付けたのは、浮竹が担当している地区でも取り分け人気の少ないところだった。丁度山の麓の辺りに位置するここに住んでいるのは樵の夫婦だけではなかったかと記憶を手繰る。あの夫婦はまだ若く健在の筈だし、山で遭難した者がいたと言う話も聞かない。
魂魄のいない所で虚が出現したとなれば、異例の事態としてソウルソサエティに連絡するべきかもしれない。そう浮竹は考え、それでも念の為この辺り一帯を見回ろうと歩き出したその時だった。
おぎゃあ。
(赤ん坊?)
浮竹は思わず耳を疑った。
こんなところに赤ん坊がいるなど考えられない。
しかし、動揺している浮竹に構わず、その声はますます大きくなるばかり。
それは間違いなく赤ん坊の泣き声であった。
浮竹は急いで声のする方向に足を向けた。
すると、先程虚と戦った場所からそれほど遠くないところに、土の盛り上がった、小さな塚の様なものが見えた。よく見るとそれは色とりどりの花で飾られている。
泣き声はそこから発せられていることに気付き、浮竹は慎重にその塚へと歩を進めた。するとなんとそこには花に囲まれて泣いている赤ん坊の魂魄がいた。
思わず浮竹がその赤ん坊を抱き上げると、まるで安心したかのように赤ん坊はぴたりと泣き止んだ。そのまま浮竹が腕の中で優しく揺すってやると、赤ん坊はしばらくしないうちにすやすやと眠りに付いてしまった。
弟や妹達の世話をしたのがこんなところで役に立つなんて、と浮竹はひとり微笑んだ。しかし、すぐその表情が曇る。
この赤ん坊はどうやら生後三ヶ月ほどであろう。おそらく樵夫婦の間に生まれたのだ。しかし何らかの理由で幼くして死んでしまった。現世では幼児死亡率が高い。赤子の魂魄など珍しくも無いのであろうが、つい最近現世に派遣されたばかりの浮竹にとって赤ん坊の魂魄に出会うのはこれが初めてであった。
おそらく先程の虚はこの子を狙ってやってきたのだろう。確かにこの赤子の魂魄ならあの程度の虚にですら容易く食われてしまったはずだ。
この子が虚に襲われる前に助けることが出来てよかった、と浮竹は胸を撫で下ろした。
傷は負っていないようだが、それでも虚の発する禍々しい霊圧に恐ろしい思いをしたのだろうと、腕の内の小さな存在に浮竹は切なくなった。
この子が何故死んだのかはわからない。
食料も不足し、医療も進んでいない現世では、本当に些細な病が命取りになることもある。幼ければ尚更免疫力も弱かったはずだ。
この子は、両親の顔も、自分の名前すらも覚えることなく死んでしまったのだと思うと、浮竹は泣きたくなった。
この粗末な墓に供えられている花の数を見れば、この子の両親がどれ程この子供を愛していたか、愛しい我が子を失ってどれ程の悲嘆に暮れているかが浮竹にはわかった。
それなのに、こんなに愛されていたこの赤ん坊がどうして死ななければならなかったのだろう。どうしてこの子が家族の温かさを知ることなく死ななければならなかったのだろう。
浮竹の使命はこの子を魂葬して、ソウルソサエティに送ってしまえばそれで終わりである。しかし、ソウルソサエティに行ったからといって、この子の幸せが保証されているわけではないのだ。運が悪ければ治安の悪い区域に送られてしまうかもしれない。この子が成長する保証はどこにもないのだ。
ならば、と浮竹は問いたかった。
この子が生まれてきた意味はどこにあるのだろうか。たった三ヶ月しか現世で生きることが出来ず、死んでしまった今ですらもしかしたら現世以上の苦難を味わうかもしれないのだ。そんな生に何の意味があるのか。苦しむためだけに生まれてきたようなものではないか。なんと言う不条理だろう。
(死神として虚を倒すことは出来ても、この子を幸せにすることすら出来ないなんて…)
死神と言う仕事、魂魄を食らう虚を倒し、虚の罪を浄化し、現世とソウルソサエティの治安を守るというこの仕事に誇りを持っていたはずなのに、浮竹はこのとき初めて、世界の厳しさに比べていかに自分が無力なのかを身に沁みて理解した。
浮竹の腕の中の赤子はこれから待ち受ける過酷な生活など知らず、守ってくれる存在を見つけたことで安心しきって眠っている。
もう少しだけこうしていたいと浮竹は思った。
この腕の温もりを少しでもこの子が覚えていられるように。
現世でのこの赤子の最後の記憶が幸せなものであるようにと、浮竹は願わずにはいられなかった。
第二の性
「どうして落ち込んでるんだ、春水。」
情事の最中だというのに甘さの欠片も含んでいない真剣な声でそう問われて、京楽は白い肌を愛撫する手を止めて、浮竹の瞳をじっと覗き込んだ。
「どうして十四郎にはわかっちゃうのかなあ。」
「当たり前だ。お前のことならなんでもわかる。」
まいったね、どうもと呟きながら、京楽はそのまま倒れこむように浮竹の隣に横たわった。それが合図とでも言うかのように、京楽にすっかりその存在を忘れられていた掛け布団を浮竹が手繰り寄せると、二つの身体を覆った。
「あれ、今日はしないの?」
「こら、話を逸らすな。」
軽口を叩く京楽の頬を浮竹がつねる。しかしその手もすぐに離し、心配そうに京楽の横顔を見詰めた。
京楽も浮竹も非番の日は、その前夜から京楽の馴染みの宿に泊まって二人きりの時間を過ごすのは二人の間の約束のようなものだった。そうでもしなければ、死神になってまだ間もない二人は忙しさのあまり二人だけでゆっくり出来る時間などとても持てないのである。
といっても、二人の所属する隊は異なるためなかなか二人の非番が重なることはない。だからこんな風に二人で会える時はまるで渇きを癒そうとするかのごとく互いの身体を貪り、情事に耽るためにとてもゆっくりなど出来はしないのだ。
しかしいつもの様に宿で落ち合い、挨拶もそこそこに行為を始めてすぐに浮竹は京楽の様子がおかしいことに気付いた。京楽が行為に集中していないというわけではない(というか浮竹の経験ではそんなことがあったためしがない)。むしろ集中しすぎているといってもいいくらいだ。ただ、今日の京楽は非常に丁寧に、まるで触れれば壊れてしまう繊細なガラス細工を扱うかのように浮竹の肌を愛撫し、優しく啄ばむように全身に口付けを落とすという行為を何度も繰り返したのだ。優しくされるのが嫌なわけではない。しかしいつもの激しさを全くといっていいほど欠いたその仕草に浮竹は違和感を覚えずにはいられなかった。
「お前今日現世に行っただろう?そこで何かあったのか?」
院生の頃より少し伸びた巻き毛を弄びながら浮竹がそう尋ねると、京楽は少し驚いたように目を見開くと、ふわりと微笑んだ。
「十四郎には敵わないなあ。」
京楽は浮竹をぎゅうと抱きしめると浮竹の髪に顔を埋めた。髭がくすぐったいぞと浮竹は文句を言いながらも京楽にされるままになっていた。
「あんまり気持ちのいい話じゃないけど聞いてくれる?」
「当たり前だ。それで少しでもお前の気が晴れるなら俺はなんだってする。」
そう言って浮竹は京楽の逞しい胸に顔を押し付けた。白い髪の合間から覗く耳は少し紅い。ふふ、と笑うと京楽は浮竹の額に口付ける。
愛しているよ、十四郎と囁いて京楽はゆっくりと話し始めた。
*****
十四郎も知っての通り、僕の隊は今日現世に虚討伐に向かったんだ。
広範囲で大虚が何百匹も現れたらしいということで、僕たち隊員は各自持ち場に分かれることになった。
僕はすぐに自分の持ち場の虚を倒し終えたから隊長に報告しようと走っていたんだけどね、そうしたら大きな屋敷の屋根の上に座っている魂魄を見つけたんだ。このままここにいては危ない、すぐに魂葬をしなくてはと思ってその魂魄に近付いて見ると、それが年の頃17,8の女の子の魂魄だってのがわかったんだよ。
それでね、驚かせるといけないからと思って彼女から少し放れた所に降りて声をかけたんだ。
そうしたらその子僕の顔を見たとたん物凄く怯えた顔をして逃げ出したんだ。僕はすぐに追いかけてその女の子の肩を掴んで、待ってくれって言ったんだけど、その子は余計に怖がってしまってね。いや、あれはもう殆ど発狂に近かったかな。それこそ死にもの狂いで僕から逃げようとするんだ。でも、近くで見てみたらその子の胸の穴が開きかけているのがわかってね。この子は早く魂葬しないと虚になってしまうと思って、本当は手荒な真似はしたくなかったんだけど、縛道でつかまえたんだ。
でもね、そうしたらその女の子恐怖に引きつった顔で泣きながら来ないでくれ、って叫ぶんだよ。怯えに震えた声で必死に来ないでくれ、触らないでくれって嘆願するんだよ。そんな風に恐怖に慄いている誰かの姿をみるのは生まれて初めてでさ。僕はもうどうしたらいいのかわからなかったんだ。
仕方が無いから僕は彼女に危害を加えるつもりが無いこと、僕は死神で彼女をソウルソサエティに送る者だってことを時間をかけてゆっくり何度も説明したんだ。
だいぶ経った頃かな、やっとその子は落ち着いて僕が敵ではないってこと理解し始めたようでね。僕の話を聞いてくれるようになったんだ。
でもね、僕がソウルソサエティに行くには魂葬されなければいけないって言うと、彼女はそんなところには行きたくない、それより今すぐここで消えてなくなりたいって言うんだ。
…何でもね、彼女は裕福な商家の一人娘だったらしいんだけど、三ヶ月前彼女の家に押し入った強盗一味に使用人を皆殺しにされて、目の前で父親を殺された上に、母親と一緒に暴行されたんだって。それこそ何度も何度も犯されて、抵抗すれば殴られたらしい。母親はその後殴り殺されて、彼女も意識不明の重体だったところを、様子がおかしいと駆け付けた隣家の人達に見つかったらしい。その後彼女は二週間近く治療を受けたんだけど、結局意識が戻らないまま死んでしまった。彼女は処女だったそうだ。
気が付いたら彼女は屋根の上にいて、自分の体が家から運び出されるのを見てやっと何が起きたか理解したらしい。どうやら彼女が生死の境を彷徨っている間に彼女の家族は皆ソウルソサエティに行ってしまったらしくて、彼女は一人ぼっちになってしまった。そしてこの三ヶ月の間ずっと暴行された時のことだけを考えて気が狂いそうなほどの恐怖と戦っていたんだ。
彼女がね、言ったんだ。
目を閉じればあの時の光景が鮮明に蘇ってくるのです。恐ろしくて恐ろしくてたまらないのです。もう肉体の痛みは無いけれど、どれほど抵抗しても嘆願しても、ただ殴られ、服を切り裂かれ無理矢理犯された、あの恐怖を忘れることが出来ません。私の人間としての尊厳を踏み躙られたような屈辱を決して忘れることが出来ません。私を襲った賊が憎くて憎くてなりません。この痛み、苦しみが男の貴方にはわかりますまい。狂ってしまえればどれほどいいか。
あの世になど行きたくはありません。例えあの世に行ったとしても今と同じ様に苦しまなければならないのなら、今すぐ消えてなくなりたい。この身の内を焼き尽くすような苦しみをもうこれ以上感じていたくはありません。
貴方のその刀でこの身を貫いてください、ってね。
僕はもうどうしていいかわからなくてさ。
確かにこのままではソウルソサエティに行ったとしても、彼女は苦しみ続けるだけだ。運が悪ければもっとひどい目にあうかも知れない。
でも死神としての僕の使命は彼女を魂葬することだ。それに例え今僕がここで彼女の望みを叶えたとしても、これから先彼女と同じ様に辛い目にあった魂魄に出会って、同じ様に懇願されたらどうすればいい?その度に花天狂骨で殺すのか?現世とソウルソサエティの魂魄の数を調整するはずの死神が、その掟を破るというのか?
「結局迷った末に僕は彼女を魂葬したよ。ごめんねって謝りながら。」
話し終えた京楽の表情は疲れきったものだった。浮竹にも京楽にも、その選択が正しいものだったのかはわからない。それでもそうせざるを得なかった京楽の辛い気持ちが浮竹には痛いほどわかり、浮竹は京楽の広い背中に手を回して優しくさすった。そうすることで少しでも京楽の心の痛みが和らぐように。
「彼女は僕が帰ってくる前に北流魂街38地区に送られたらしい。そんなに悪い地域ではないはずだけど、傷ついて心がぼろぼろになった彼女には辛いところかもしれない。」
「でも、会いには行かないんだろう?」
それは質問と言うより、むしろ京楽の決意を浮竹が言葉にしたものだった。
その女に会って京楽に何が出来よう。彼女の心を癒す術も、かけてやるべき言葉も、京楽は持たないのだ。死神である京楽には彼女を、いや彼女と同じような辛い目にあった魂魄を、どうすることも出来ない。ソウルソサエティの仕組みが変わらない限り、彼女は流魂街で誰の助けも借りられず毎日を過ごさなければいけないのだ。
「もし僕に力があれば、彼女の様な魂魄の心の傷を癒す手伝いができるのかな。」
「暴行を受けた者達の手助けをする組織を作るとか?」
そっと浮竹の頬に手を添えると京楽は浮竹の双眸を覗き込んだ。
「僕に出来ると思う?」
そう言った京楽に浮竹はふっと微笑んで、頬に添えられた京楽の手をぎゅっと握った。
「当たり前だろう。お前は京楽春水なんだ。それに俺もお前の手伝いがしたい。」
「十四郎…。」
二人でならばきっとどんなことでもできるから。
どんな困難にでも立ち向かっていけるから。
「ありがとう、十四郎。」
今はまだ僕にはあの子の幸せを祈ることしか出来ないけれど、いつかきっと。
きっと十四郎と二人で、世界を変えてみせる。
そう心で誓うと、京楽は恭しく浮竹に口付けたのだった。
Atonement
見渡す限り緑の牧草地に囲まれた小さな家の庭で、その女性は泣いていた。
透けるように白い華奢な手で顔を覆い、細い肩を大きく震わせ、まるで絶望に打ちひしがれているかのように、ひたすら涙を流していた。
そのあまりにも悲愴な姿に浮竹は声を掛けるのを逡巡した。
死神になって随分と経つが、浮竹はどうしてもこういった場面に慣れることが出来ない。
現世に派遣された死神として魂魄を迎えに行くのは重要な役目だということはわかっている。それでも今までに出会った魂魄の中には自分が死んだことを信じられずに半狂乱になるもの、生き返らせてくれと浮竹に懇願するものなどがいて、そんな魂魄を見る度に、彼らに何もしてあげられない己の無力に浮竹の心は痛むのだ。
それでも心を鬼にしてでも己の務めを果たさねばと、浮竹は意を決して今も泣き続けるその女性に声をかけた。
「あの…」
ばっ、と驚いたように上げられた顔は涙でぐちゃぐちゃに濡れていた。栗色の瞳が浮竹の姿を認めると僅かに開かれる。
「怖がらないで下さい。俺は」
「私を地獄に連れて行くのね。」
怯えさせないようにと自己紹介を始めようとした浮竹を遮った声は、動揺の色を微塵も感じさせない、ひどく落ち着いたものだった。
「地獄?俺は貴方を裁きに来たのではありません。貴方を次の世界へ導くために来たのです。」
「では私の行き先は地獄だわ。」
そう言った声は確信に満ちていて、浮竹は一瞬言葉に詰まってしまった。
「どうして貴方は地獄へ行くのだと思うのです?貴方は現世で罪を犯したのですか?」
「私はこの世で最大の罪を犯したの。だから地獄に行って当然だわ。」
「最大の罪?」
こんな優しそうな女性が誰かを殺したのかと、浮竹は一瞬驚いたが次の彼女の言葉にもっと驚いた。
「私は自殺したの。」
呆然としている浮竹に構わず、女性は言葉を続ける。
「神から与えられた命を自らの手で絶つことは、神に作られた人間にとって決して犯してはいけない罪。子供の頃から何度も何度も神父様やシスターに教えられてきたことなのに、私はその禁忌を犯してしまった。だから私は神の祝福を受けることが出来ずに、地獄で永遠の苦しみを味わうのだわ。」
そう言って、彼女はまた両手で顔を覆うとすすり泣いた。
彼女の言葉から浮竹は彼女がカソリック教徒であると悟った。確かにカソリック教徒にとって自殺は禁忌だ。しかしソウルソサエティの理を知る浮竹にすれば、自殺者が地獄に行くなどと言うのは間違った信仰に過ぎない。この女性が地獄に行くことは無いだろうと浮竹は思い、そう告げようとした時ふとあることに気が付いた。話を聞く限り、彼女は地獄に行くことを恐れているようには見えない。だとしたら何故彼女は泣いているのか。何が彼女を悲しませているのだろうか。
「貴方は地獄へ行くことを恐れてはいないのですか?」
女性は力なく首を横に振ると、怖くわないわと小さく呟いた。
「では何故貴方はそんなに悲しそうなのですか?」
俺に出来ることはありませんかと尋ねた浮竹に悲しげに微笑むと、その女性は語り始めた。
「地獄に行くのは怖くない。私は罰を受けて当然だから。地獄の業火に焼かれて永遠の責め苦にあっても、私の犯した罪は決して償えない。神に対して犯した罪は勿論のことだけど、それよりも許されない罪を私は犯してしまったのだから。
…あのね、私には夫と二人の小さな子供がいるの。世界中の誰よりも愛しい私の家族。どんなことをしてでも守ると誓ったのに…それなのに、私は苦しみに負けて自ら命を絶ってしまった。
もう6,7年になるかしら。初めは身体の調子が良くないだけなんだと思ってたの。でも日が経つにつれてどんどん気力が無くなっていって、眠ることも食べることも出来なくなっていったわ。何もしていないのに毎日疲れていて、その内何もかもが嫌になってしまった。絶望の日々を送ったわ。家事をするのでも子供の世話をするのでもなくただぼーっとしていただけなのに、心の中は苦しくて、痛くてどうしようもなかった。まるで光の差さない深海にいるかのように、絶望に心が押しつぶされてしまいそうだった。それだけじゃないわ。ある日頭の中で声が聞こえ始めたの。私を役立たずとか生きている資格の無い女だと罵る声が。苦しくて苦しくてどうしていいかわからなくなってしまった。
夫や子供達のことを思って何とかこの苦しみから抜け出そうとしてきたのだけど、それにももう疲れてしまったの。ただこの苦しみから逃れたいと、この苦しみから解き放たれるのならもう死んでもいいと思ってしまった…
だからある日夫の目を盗んで家を出て、近くの池に身投げしてしまったの。
…でもねこうして死んだ今も私は同じように苦しんでいる。でも辛いのはそんなことじゃない。私が苦しむのは当然の報いだけど、私の家族が苦しむのはどうしようもなく辛いの。夫は仕事と子供達の世話で毎日疲れきっている。子供達だって母親がいなくなって寂しい思いをしているわ。その上私が自殺したから世間から冷たい目で見られているの。
私の家族が苦しんでいるのは全部私のせいなのよ!愛していたのに!絶対に守ると誓ったのに!私が弱かったから、私が諦めてしまったからいけないの!罰なら何でも受けるわ!でもお願いだから私の家族を助けて!全部私がいけないのよ!私のせいなの!だから!だから…!!!」
仕舞いに女性は浮竹に縋るように泣き崩れてしまった。
おそらくこの女性は心の病を患っていたのだろう。そしてある日それに耐え切れなくなって入水自殺をしてしまった。可愛そうな人だ、と浮竹は思った。こんなに苦しんでいる女性を地獄に落とすほどこの世界は非情ではないと浮竹は信じている。
「俺には貴方の苦しみはわかりません。でも、何もかも投げ出したくなる気持ちは少しだけわかる気がするんです。
俺は子供の頃から肺を患っているんです。発作の度に本当に辛い思いをします。息は出来ないし、熱のせいで身体中痛いし。何度も死んだ方がましだと思ったことがあります。それでも俺がこうして今ここにいるのは家族や…恋人がいたからなんです。俺の恋人はどうしようもなく俺に優しくて、俺がどんなに苦しんでいてもいつも傍にいて励ましてくれるんです。諦めないで、僕がついてるよって。俺はそんなあいつが愛しくてたまらない。あいつの傍に居たいっていつも思っています。それなのに発作がひどくて苦しくて苦しくて仕方がないときには、やっぱり一瞬楽になりたいって思ってしまうんですよね。あいつのことを誰よりも、自分よりも愛している筈なのに、苦痛に何もかもわからなくなってしまう時があるんです。」
だから、と浮竹は女性の肩に手を置いたままそっと涙に濡れる瞳を覗き込んだ。
「貴方のせいではありません。いや、誰のせいでもない。貴方の苦しみも貴方の家族の苦しみも誰のせいでもない。ただ、運が悪かっただけなんです。貴方が弱かったんじゃない。貴方は精一杯頑張ったんです。でも、どんなに努力してもどうにもならないことがこの世界にはある。だから、もう自分を責めないで下さい。」
「でも、私はどうやって家族に償えばいいの?!」
女性の頬を伝う涙がぽたぽたと地面に落ちて小さな染みを作る。
「貴方が償う必要などありません。ただ」
「ただ?」
「ソウルソサエティで貴方の家族を待っていてあげて下さい。それまでに少しでも良くなるように努力すればいい。」
そう言って浮竹は微笑む浮竹を、女性は呆気にとられたように見つめ返した。気が付けば涙も止まっている。
「私はまた皆に会えるの?」
そう尋ねた声は喜びと信じられないという思いとで震えていた。
「はい。きっと会えます。」
浮竹の言葉にもう一度女性はわっと泣き出してしまった。
ありがとう、ありがとうと涙の合間に感謝の言葉を述べる彼女を浮竹は静かに抱きしめるのだった。
彼女の信じる神が本当に存在するのだとしたら、こんなに苦しんでいる彼女を許してあげて欲しいと浮竹は祈った。
もうこれ以上彼女が苦しまなくてすむように。
そして、いつかソウルソサエティで彼女が本当の家族の幸せを得ることが出来るように。
09.03.2009