浮竹が部屋を出て行った後、京楽はごろりとベッドに寝転ぶと浮竹と交わした会話に思いを巡らせた。
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目が覚めると京楽は知らない部屋で知らない人間に囲まれていた。部屋のそこかしこにある医療機器からそこがどうやら病院であるらしいことはわかったが、どうして自分が病院にいるのか見当も付かなかった。
しかも死神達が忙しなく出入りするところを見ると、ここは四番隊総合救護詰所のようである。何故自分が死神用の病院にいるのだと京楽は驚かずにはいられなかった。
死神相手に揉め事を起こした覚えはないし、例え重病に陥ったとしても京楽家の者である自分なら医者の方から自宅にやってくるはずである。
もっとも、実家にも帰らず花街をねぐらとしていた身としては自宅などあってないようなものだが。
京楽が意識を取り戻したと連絡受けてやってきたのは長い黒髪が美しい妙齢の女性だった。思わずいつもの癖で口説きそうになった京楽だが、すんでのところで押し止まった。
この女性相手には軽薄な態度を取るべきではないと京楽の中の何かが告げたのだ。
意識を取り戻した京楽に明らかにほっとした様子のその女性は、次の瞬間意味不明の問いを発した。
「お気付きになって本当に安心しました、京楽隊長。御加減はいかがですか?」
京楽隊長、とその女性は言った。
親しげな口調から女性は京楽のことを知っているようだったが、生憎と京楽には彼女に会った記憶が無い。
もしや酒に酔った勢いで関係を持った相手ではなかろうかとも思ったが、清楚な雰囲気のこの女性がそんなふしだらな真似を許すとも思えなかったし、
何より理由は分からないがこの女性とは一夜を共にしたことは無いと京楽は確信していたのだ。
何故見ず知らずの筈のこの女性が自分のことを京楽隊長と呼ぶのか分からなかった。
「あのぉ・・・確かに僕は京楽春水ですが、僕は以前貴方に会ったことがあるのでしょうか?」
そう尋ねた瞬間、女性の顔にさっと影が走ったのを京楽は見逃さなかった。
「そうですか・・・では、ここがどこかわかりますか?」
「いえ。病院のようだと言うのは分かるんですがね・・・どうして僕はここにいるのかなあと」
「では、今が何年か覚えていらっしゃいますか?」
どうしてこんな質問をされるのか理解できなかったが、これも医者の尋ねる決まった質問の一種なのだろうとあまり深く考えないで京楽は答える。
京楽の答えを聞くと女性は少しの間考え込んだ後、人払いをして京楽に個室の病室に移るように言いつけた。
一体何が起きているのだろうと不思議に思いながらも、京楽は言われた通りに個室に移って病院着に着替え、再び女性がやってくるのを待った。
「私は護廷十三隊四番隊隊長卯ノ花烈と申します」
少しして京楽のもとを訪れた女性はそう自己紹介をした。成る程確かに良く見れば卯ノ花というその女性は死覇装の上に隊長羽織を羽織っている。
「これから私が申し上げることは、信じられないかもしれませんが全て事実ですのでよくお聞き下さい。あなたは私と同じ、護廷十三隊八番隊隊長京楽春水殿なのです」
京楽は自分の耳を疑った。
こともあろうに卯ノ花は京楽が死神を統べる護廷隊の隊長だと言うのである。死神ですらない自分が隊長だなんて冗談にしては度を越えている。
「は・・・ははは。それは冗談にしては笑えませんよ・・・えっと、卯ノ花さん?」
「何でしょう?」
「僕みたいな若造が隊長だなんて。それにそもそも僕は死神なんかとは関わりないんですよ?」
「信じていただけないのも無理はありません。しかしこれは真実なのです。京楽隊長、今は京楽隊長の覚えている時代から約二千年後の時代になります」
「・・・に、二千年・・・?」
「単刀直入に申しますと京楽隊長は所謂記憶喪失に陥って、過去二千年分の出来事を忘れているのです」
記憶喪失と言う単語に京楽の頭の中は真っ白になった。
あまりのことに言葉を失った京楽は口をパクパクさせながら卯ノ花を見つめることしか出来なかった。
嘘だ、とかそんな馬鹿なことは有り得ない、と言おうにも受けた衝撃が強すぎて声にならないのだ。
「百聞は一見にしかずと言います、御自分の目でご覧になってください」
そう言って卯ノ花は懐から手鏡を取り出すと京楽の目の前に差し出した。
そこに映っていたのは確かに京楽自身の姿だった。しかし京楽の記憶にあるよりもかなり老いた、中年の姿だったのである。
思わず両手で顔に触れると、薄く刻まれた皺の感触が伝わった。髪も記憶にあるよりも随分と長い。手や腕、胸板もずっとがっしりとしていて濃い体毛に覆われ、完全に大人の男のものである。
もともと年齢に比べて身体の発育は良かったが、それでも京楽の覚えている限りではまだ青年の域を出ていないものだった。それが今は随分と体格の良い大男になっているのだ。
「で、でも、さっき着替えたときにはこんなこと・・・!?」
「それはおそらく目から入る情報を脳が『異常なこと』として処理しなかったためでしょう。
京楽隊長の無意識下では現在の京楽隊長の姿も、死覇装を着ていると言う事実も、当然のこととして認識されているため特別注意を喚起されなかったのです」
「僕が・・・死覇装を・・・!」
驚いた京楽が先程着替えたときに脱いで畳んでおいた着物を見遣ると、確かにそれは死覇装だったのである。
「そんな・・・これは何かの間違いだ・・・幻術か何かの術をかけられているのでは・・・」
混乱する頭で京楽は何とかこの信じられない出来事を説明しようと必死に思考を巡らせた。しかし対象を老化させる術など聞いたことも無い上に、もしこれが幻術なら見破る自信が京楽にはあった。
そもそも卯ノ花に京楽を騙す理由があるとは思えないのである。
卯ノ花の言葉を否定するだけの根拠が自分には無いことに気が付くと、京楽は卯ノ花の言葉が真実だと認めるほかに選択肢が無いことを悟ったのだった。
どうやら自分は本当に記憶喪失らしい、と心の中で呟くと京楽は大きく溜息をついた。
二千年という歳月が長いのか短いのかはソウルソサエティの住人である京楽にはよくわからない。
人間の住む現世においては二千年もあれば文明発達著しく変化も激しいであろうが、それは現世の住人が短命だからである。
だがこの二千年でソウルソサエティに大きな変化があったとは京楽には思えなかった。
相変わらず護廷十三隊の統率の下死神は存在しているようだし、死覇装のデザインも自分の知っているものと変わっているとは思えない。
京楽にとっては二千年が経っているという事実よりも、自分が死神であるということの方が重大であった。
死神を嫌っている自分が死神になったなんて、悪い夢を見ているようだった。しかも隊長にまでなっていると言うではないか。
一体この二千年の間に自分に何があったのか。
「・・・卯ノ花さん、僕が記憶喪失だと言うのはわかりました。一体どうしてこんな事態になったのか貴方は知っているのですか?」
「断崖で浮竹隊長と鬼道衆の護衛の任務に当たっていた京楽隊長は、突然の大虚の襲撃により暴走した鬼道衆の術に巻き込まれたのです」
「術の暴走・・・それではどうすれば僕の記憶が戻るかは・・・?」
「現時点では私にもわかりません。私の診断するところ、京楽隊長の記憶喪失は精神的なものですので時間が経てば自然に思い出すかと」
「そうですか・・・」
卯ノ花の言葉が真実なのかそれとも希望的憶測なのかは京楽には分からない。暴走したという術が何であれ京楽の感じる限り肉体的なダメージは無い。
精神的なショックによるものならば、卯ノ花の言う通り時間が経てば記憶が戻ってくる可能性は大きいのだろうと京楽は思った。
「・・・あの、京楽隊長」
「何ですか?」
京楽隊長と呼ばれるのは気持ちが悪いなあと思いながら京楽は卯ノ花に返事をする。
「浮竹隊長のことも、やはり覚えていらっしゃらないのでしょうか?」
「うきたけ・・・?」
「覚えてらっしゃらないのですね・・・そうですか」
卯ノ花の表情には影が差している。
「その浮竹って人はいったい・・・」
「それは・・・私からではなく浮竹隊長の口からお聞きになる方が宜しいかと思います」
卯ノ花の言葉に自分と浮竹との関係に興味を持った京楽だが、それ以上何も話す気の無さそうな卯ノ花の様子に詮索しても無駄だと理解した。
「何だかよくわからないけど、その人に会えばわかるんですね?」
「はい。私はこれで失礼しますが、後で浮竹隊長が御見舞いに来る筈ですので、ゆっくりお話してください。浮竹隊長は白い髪の方ですからすぐ分かります。それまで病室からは出ないでくださいね」
と言うと、卯ノ花は京楽を残して病室を出て行った。
医者の次に真っ先に自分を見舞うことを許される人物ならば、浮竹と言う人は余程自分と親しいのだろうと京楽は考えた。
普通なら家族か恋人が一番に呼ばれるはずである。まさか浮竹と言う人は自分の恋人なのだろうか。恋人のことを覚えていないのは流石にまずいかもしれない。
しかし浮竹(卯ノ花は浮竹隊長と呼んでいたから彼女も死神なのだろう)という女性が京楽の恋人ならば、何故卯ノ花は言葉を濁したのだろうか。しかも白い髪の持ち主だと言っていた。
まさか老女と付き合っているのではあるまいなと京楽は不安になった。確かに京楽は女好きだが年寄りは守備範囲外である。
しかしこの二千年で死神嫌いだった自分が死神になっているくらいだから、女性の好みも変わったのかもしれないと考え、京楽は改めて二千年後の自分の変わりように驚きを覚えた。
(京楽の家の人間は、どうしているんだろう・・・)
不意に家族のことが思い出された。
二千年経ったという今でも父母や兄は生きているのだろうかと、京楽は急に不安になったのである。
そこへ扉を叩く音が聞こえてきた。
扉を開けて中に入ってきたのは京楽の予想に反して、背の高い痩せ気味の男だった。
見たところ「現在」(京楽にとっては二千年後だが)の京楽と同じ年の頃だが、長い髪は雪のように白い。
では彼が浮竹なのかと思い、京楽はどうやら老女が恋人と言うわけではないらしいとほっとする一方で、ますます自分と目の前の男の関係を疑問に思ったのだ。
*****
だからこそ、なのだろう。
浮竹が自分の親友兼恋人だと聞かされて、世界が崩壊するような錯覚に陥った。
浮竹の言葉を信じなかったわけではない。
見るからに実直で人の良さそうな男がこんなことで嘘をつくとは思えなかったし、卯ノ花の言葉を信じたのに浮竹を疑うのは理に適っていないことが京楽にはわかっていたのである。
それに何より京楽の無事な姿を見て喜びに震えた浮竹の瞳は恋人を見る瞳そのものだった。
浮竹の言葉を疑っているのではない。寧ろ信じたからこそ京楽は衝撃を受けたのである。
京楽は、自分は間違いなくヘテロセクシュアルだと信じていた。小さくて可愛らしい女の子が大好きなのである。
柔らかい身体を腕に抱いて、肌を重ねることに快感を覚えるのであって決してごつごつした男の身体に興味は無い。
浮竹は確かに綺麗で儚い感じはしたがれっきとした男なのである。間違っても男に興奮することはないと京楽は確信していた。
しかし浮竹の言葉が真実ならば現在の京楽は男を恋人にしているのである。恋人と言うくらいなら当然何度も夜を共にしたことがあるはずである。
つまり、現在の京楽は男相手に性的に興奮するということである。
京楽には同性愛に関する偏見は無い。同性であろうと異性であろうと、誰かを愛する気持ちに変わりはないと信じている。
ただ、自分は女性が好きなのだと、「京楽春水」と言う男は女性が好きなのだと、そう思っていたのである。
自分のヘテロセクシュアリティを信じて疑ったことの無い京楽にとって浮竹の言葉は自分のアイデンティティを根本から覆すものだった。
(これじゃあお婆ちゃんが彼女だって言われたほうがましだったよ・・・)
死神嫌いの筈が死神になり、女性が好きだった筈が男を恋人に持っている。
二千年後の自分は、今の自分とは似ても似つかない全くの別人だと京楽は思った。京楽の中の自分像が浮竹の言葉によって粉々に打ち砕かれてしまったのである。
自分の知っている「京楽春水」と言う男をは、もうどこにもいない。
京楽には、自分と言う存在が分からなくなった。
それと同時に、突然二千年という月日が重圧を持って京楽に襲い掛かってきたのである。
今の京楽にとって二千年が経ったこの世界は全くの未知の世界だった。京楽の慣れ親しんだ世界は二千年前のものであって、今のこの世界ではない。
ただ一人見知らぬ世界に突然放り出された気分だった。真っ暗な森に迷い込んだ子供のように、不意に京楽は心細さに押し潰されそうになった。
(僕はもう、何も出来ない子供じゃないんだ。気を確かにもたなきゃ・・・!!!)
むしゃくしゃとした気分を晴らすために、京楽は煙草に火を点けようと懐を探った。
しかし煙草入れのあるはずの場所には何も見つからない。今自分が着ているのは病院着であることを思い出すと、今度は先程自分が脱いだ死覇装を探った。
だがやはり煙草入れも煙管もみつからない。ここは病院内で禁煙だから自分が意識不明の間に誰かが勝手に持ち出したのだろうかと思いながら、不意に京楽は自分がニコチンを欲していないことに気が付いた。
いらいらしたり緊張したりする時に気持ちを落ち着かせるために煙草を吸うのは京楽の常であった。ストレスを感じると、いつもニコチンが欲しくてたまらなくなるのだ。
しかし、今の京楽にはあの煙草を吸いたくて吸いたくてたまらないという、どうしようもない焦燥感が無い。ただ癖で煙草を探してしまっただけで別に煙草を吸いたいとは思っていなかったのである。
(禁煙にまで成功したってことか・・・)
ニコチン中毒であったはずの京楽が、煙草を吸わなくても平気なのである。
これもまた、知らないうちに変わってしまった自分の一部なのだろうかと京楽は自嘲的に笑った。
(もう何がなんだかわからないよ・・・)
大きく溜息をつくと京楽は疲れたように目を閉じた。
(浮竹十四郎、か)
他人行儀な京楽の笑みに泣き出しそうに揺れた浮竹の瞳が目蓋の裏に焼き付いて離れない。
傷付いた表情の浮竹を思い出して、京楽の胸はつきんと痛んだのだった。
27.05.09
春水君の苦悩はここから始まっていくのです。
京楽さんはきっと浮竹さんに出会う前には酒も煙草も女も全て覚えていたと思います。
でもきっと浮竹さんの病気のことを知ってきっぱりやめたんですよ。いい男だから。