「雪だ――」
浮竹の唇から零れた呟きが、りん、と鈴のように澄んだ音を立てて響いた。
息を吐くように発せられた呟きが、小さな白い花弁となってふわりと雨乾堂の床に落ちるのを、京楽は確かに見た。
それは、その時京楽が浮竹の横顔を盗み見ていなければ聞き逃してしまっていただろう程の微かなものだったけれど。
「雪?」
「ああ、ほら――」
そう言って浮竹は京楽の腕からするりと抜け出すと、音も無く丸窓の障子を開けてそのまま窓際に腰掛ける。
京楽の指先に残る体温は、窓から入り込んだ冬の風が、夏の日の陽炎のように掻き消してしまった。
浮竹の温もりを失って京楽の身体が急激に冷えていく。
魂が凍えるような寒さだと、京楽は心の中で一人ごちた。
空から降ってくる雪を受け止めようと、浮竹が窓から手を伸ばす。その拍子に着物の袖が巻くれて、細い腕を肘まで露にした。
斬魄刀を優雅に操り、時には虚の返り血を浴びて朱に染まるその腕は、今は銀色の月光を浴びて透けるように白い。
星一つ無い濃紺の空で、猫の目のような細い月が冷え冷えとした光を放っている。冴えた冬の空気の中では、浮竹の吐く息までも白かった。
(浮竹、君は――――)
ふいに言い様の無い感情が京楽の胸に湧き上がり、京楽を浮竹の元へと駆り立てた。
今すぐ浮竹を自分の腕の中に閉じ込めなければ、奪われてしまう。
そんな恐怖にも焦りにも似た思いが、京楽の腸(はらわた)を突き上げるのだ。
祈るように空へと差し伸べられた浮竹の手を捕まえようと、京楽もまた腕を伸ばす。
その時、白い掌に一片の雪花が舞い降りるのが京楽の目に映った。
「雪だ……」
京楽の目の前で、掌の熱がみるみるうちに雪の結晶を溶かしていく。
それは、浮竹が生きている確かな証だった。
(僕はどうかしている……こんなことで、泣きたくなるなんて――)
浮竹が生きている。
ただそれだけで、京楽の目に涙が溢れる。
己の中の制御出来ない感情に戸惑いながらも、込み上げてくる涙を抑えようと京楽は伸ばしかけた手をぐっと握り締めた。
「よく気が付いたね。まだ降り始めたばかりみたいなのに」
「月明かりが障子に雪の影を落とすのを見たんだ」
「成る程」
灯りの無い部屋にいたから、浮竹は外から差し込む光が僅かに作る影に気付くことが出来たのだろう。
(そうやって、君はいつも外の世界を見ているんだね)
浮竹の目は京楽だけを見ているのではない。
浮竹の心は、外の世界に――京楽以外のものに――も向けられている。
浮竹の心を独占することなど、叶わないのだ。
そんなこと、ずっと前から知っていた筈なのにね、と京楽は自嘲気味に心の中で呟いた。
それでも、京楽は願わずにはいられない。
自分達以外の全てを遮断して、二人だけの世界で、永遠にお互いを見詰め合って生きていたいと。
京楽の中から浮竹以外のものを排除し、浮竹の中から京楽以外のものを排除してしまいたいと。
その願いは、以前から京楽の内に巣食っている願いだった。京楽の心の中の、一番どす黒い部分に巣食う、病んだ願いだった。
そしてそれは、藍染との戦いの後、京楽の中で日に日に大きさを増している。
その事実に浮竹も気が付いていた。
空座町での戦いが終わってから、京楽は変わった。
雨乾堂に浮竹を尋ねて来ても、以前のように浮竹に接することが無くなったのだ。夜の営みすら求めてこない。
その代わり、灯りも点けずに暗闇の中、黙って浮竹を抱き締めて過ごすことが多くなった。
浮竹を決して離すものかというように、暗がりの中京楽は浮竹をじっと抱き締めるのだ。
まるで浮竹の体温を自身に刻み込むかのように。
浮竹の心臓の鼓動を、浮竹の呼吸を、記憶に焼き付けようとするかのように。
京楽の変化に気付きながらも、浮竹は何も言わない。
ただ静かに、京楽に自らを委ねるだけだった。
「初雪だな」
振り返った浮竹がそう言って笑う。つられて京楽も微笑んだ。
長い時を生きてきて、もう何度も――それこそ飽きる程に――雪を見てきたにもかかわらず、浮竹は今でも雪を見る度に顔を輝かせる。
雪の時期に生まれたからかもしれないが、雪を見ると何故かわくわくするのだと言っていた。
もっともっとというように身を乗り出す浮竹に、京楽は「冷えちゃうよ」と言いながら羽織っていた打掛を浮竹の肩に掛けた。
京楽のトレードマークとも言うべき桜色の打掛は、浮竹が見慣れた物とは柄が違う。以前のものは第1十刃(プリメーラ・エスパーダ)、コヨーテ・スタークとの戦いで失われてしまったのだ。もっとも、実際は本気を出したスタークを迎え撃つために、京楽が打掛を浮竹に預けたのを、後に参戦した浮竹がどこかへやってしまったというのが正しいか。
帰刃したスタークの容赦ない虚閃の攻撃は予想外に回避するのが難しく、あわや京楽に直撃という所で、浮竹が加勢に入ったのだ。持っていた打掛はその時投げ捨ててしまっていた。後で探せば良いだろうと軽く考えていたのだが、終わってみれば思ったよりも建物の崩壊が広範囲に渡っていて、巨大な瓦礫の山の中から一枚の打掛を見付けることはほぼ不可能な状態だった。
「心配性だな、相変わらず」
浮竹が打掛を失くしてしまったことについて京楽は何も言わない。浮竹も敢えて謝ることはしなかった。そんな必要など無いことは、言葉にするまでも無かったからだ。
京楽が浮竹に打掛を預けたのは、打掛が大切だったからでは無い。少しでも長く浮竹を戦闘から遠ざけておける口実が欲しかっただけなのだ。
浮竹がスタークやリリネットと戦うことを躊躇していることに気付いていたからこその、京楽の優しさだった。
「心配するよ。風邪なんて引いて欲しくないからね」
「大丈夫さ。この所調子が良いんだ。」
「それでも」
浮竹の肩に手を置いたまま、京楽は夜の海のように静かな瞳で浮竹を覗き込んだ。
「大事を取って欲しいんだ」
京楽の視線が束の間浮竹の胸の上を泳ぐ。
一瞬、痛みを堪えるかのように京楽の顔が歪んだ。
ワンダーワイスの腕が貫通したその場所を、京楽は直視出来ない。
卯ノ花の治療のおかげで完治したそこには、傷跡すら残っていないというのに。
雪空に向かって伸ばしていた手で京楽の手を取ると、浮竹はその手を自分の胸へと引き寄せた。
雪に触れた浮竹の手は冷たかったが、京楽の手はそれ以上に冷えていた。
「傷はもう、治ったよ」
浮竹の言葉は、自身の耳にさえ空虚に響く。
そう繰り返せば自分達は元に戻れるとでもいうのかと、浮竹は自嘲気味に哂った。
京楽の手が冷たいのは、心が凍えそうだからだ。
凍えそうなほどに傷付いているからだ。
身体の傷は、確かに癒えた。
けれど、藍染との戦いは京楽と浮竹の心に深い傷を残し、今も二人を苛み続ける。
「結局、俺は何の役にも立たなかったな」
十刃を倒し、藍染達を倒し、空座町を守るのが自分の使命だったのに、自分は結局何も出来なかった。尊敬する師は利き腕を失ってまで藍染と戦ったというのに。
「何言ってるのさ、プリメーラの彼から僕を助けてくれたじゃないか」
「お前はまだまだ余裕そうだったけどな」
「そんなことないよ。彼――いや、彼等は強かった……」
「……そうだな」
プリメーラの二人について触れる度、京楽の顔に翳が差す。それは浮竹とて同じだった。
それはきっと、京楽も浮竹もあの二人に敵意を持てなかったからなのだろう。好意すら、抱いていた。
本当は、スタークもリリネットも殺したくは無かった。
スタークが争いを好まない性格であることは見て取れたし、まだ子供の――破面に年齢など関係無いことは分かっていたが、二人にとってリリネットはやはり子供としか思えなかった――リリネットを、こんなくだらない戦争で傷付けたくなかったのだ。
理性を失った魂である虚は、戦うことと貪り食うことしか知らない。死神である京楽と浮竹にとって、虚との戦いは避けられない。
だが破面は違う。破面には、理性がある。戦わないことを選ぶことが出来る。
ならば、刃を交わさずとも心を通じ合わせることが出来たのではないか。共存出来る道はあったのではないか。
そう問わずにはいられなかった。
「出来れば、彼等には虚圏へ帰って欲しかった」
「……そうだね」
「そして、二度と俺達の前に姿を現さず、虚圏で暮らして欲しかった」
「……でも、僕達は死神で……護廷隊の隊長だ。そして彼等は十刃だ。戦いは避けられなかったさ」
「分かってる。それでも……」
スタークは、自分とリリネットは二人で一人だと言っていた。たった一人で生きる寂しさから、彼等は身体を二つに分けたのだという。
果てしなく広がる虚圏の砂漠で、独りぼっちで過ごすことに耐えられなかったのだ。あれ程の強大な力を持ちながらも、寂しくて寂しくて子供のように震えていたのだ。
孤独から、逃げ出したかったのだ。
「彼等は……彼等二人の元だった虚は、自分を抱き締めてくれる腕が欲しかったのだと思う。そして、自分の腕で誰かを抱き締めたかったのだろう――」
それは、俺達も同じだろう――?
言外に仄めかされた浮竹の問いに、京楽は黙って肯く。そして浮竹の手から自分の手を解放すると、そっと両腕を浮竹の背に回した。
行き場を失くした浮竹の手が自分の心臓の辺りに触れるのを感じて、浮竹を抱く腕に力を込めた。
そうだ。
皆、孤独を恐れているのだ。
誰かに愛されたいと
誰かを愛したいと願っているのだ。
「……あの破面、ワンダーワイス・マルジェラという名前らしい」
不意に浮竹のくぐもった声が耳に届いて、反射的に京楽の身体が強張る。その名を聞くことすら、京楽にとっては苦痛でしかなかった。
「総隊長殿から聞いたよ。彼は藍染に改造された結果、理性も言葉も、知識も記憶も失ってしまったらしい……まるで、生まれたばかりの子供のようだったそうだ――」
「殺気が無かったのは、純粋だったから、か……」
死神の戦士としての本能は、どんな状況でも殺気を敏感に察知し、無意識の内に戦闘体制に入らせる。特に隊長格ともなればその本能は更に鋭敏に研ぎ澄まされている。にもかかわらず、あの時浮竹はワンダーワイスの攻撃に咄嗟に反応出来なかった。それはきっと、ワンダーワイスが「殺す」ことの意味を知らなかったからだ。何も分からぬ幼子が戯れに虫を握りつぶすように、ワンダーワイスには自分が命を奪っているという事実を自覚していなかったのだろう。だとすれば、ワンダーワイスから殺気が感じられなかったのも、浮竹が動くことが出来なかったのも、全て説明がつく。
だがそれが何だというのだ。何故浮竹はこんな話をするのだ。
浮竹の言葉の意図が分からずに、京楽は憤る。
ワンダーワイスのことなど、考えたくも無かった。
「京楽……彼も、藍染の計画の犠牲者だったんだ。藍染は総隊長殿に、虚となった魂に意味など無い、ただ徒に魂を食い漁るだけの存在だと言ったそうだ。だから、己の野望のために改造して、無意味な魂に意味を与えてやったのだと嘯いたらしい」
浮竹の声が怒りに震える。
魂の意味など、第三者が決めることではない。魂の意味は生きる意味であり、生きる意味はそれぞれの魂に特有のものだ。それは他人が侵すことなど許されない、絶対の領域なのだ。理性も記憶も無いワンダーワイスには、生きる意味など見付けられなかったのかもしれない。けれど、ワンダーワイスから生きる意味を探す機会も能力も奪ったのは藍染だ。藍染は、自分の目的のためにワンダーワイスの魂を弄んだのだ。
藍染の非道な仕打ちを、浮竹はどうしても許すことが出来なかった。
「結局、プリメーラの彼等も、自分達の生きる意味を求めていたのだと俺は思うんだ。それが彼等にとっては『仲間』だった。誰かと繋がることを欲していたのだろう――――
そんな彼等と俺達の、何が違うというのだ?何故、俺達は戦わなければならなかったんだ?」
耐え切れずに浮竹は京楽の胸へと顔を押し付けた。浮竹の涙が京楽の肌を濡らす。
この戦いで散っていった哀れな魂を想うと、泣かずにはいられないのだ。
「浮竹は優しいね」
死んでいった破面のために涙を流す浮竹を、京楽は悲しい思いで抱き締めた。
この腕の中の美しい存在は、自らを傷付けた者さえも憐れむというのか――
愚かな程に優しい浮竹が、愛しくてたまらなかった。
「僕には、彼のために涙を流すことは出来ない……あの時僕は、あの破面を殺すのに躊躇しなかった。
僕の目の前で君を傷付けたあの破面を、この手で屠りたかった……」
決して許されない罪を告白するように、京楽は苦痛に満ちた声を絞り出す。
「僕は、君が発作で倒れる所を何度も見てきたのに――
君と共に危険な戦場を何度も乗り越えてきたのに――
それでも僕は、君が僕の目の前からいなくなってしまうなんて、
これっぽっちも思っていなかったんだ」
ぽたり、と涙の雫が浮竹の髪に落ちた。
「僕達は永遠だと、信じていたんだ」
浮竹と永遠に共に在るのだと、京楽は信じていた。
自分達なら「死」すらも乗り越えられるのだと、驕っていたのだ。
「でも、君が……あの破面の腕が君の腕を貫いた時、それがどんなに脆い幻想なのか目の当たりにしたんだ」
あの時、京楽は一度死んだ。
あの時、京楽の世界は粉々に砕け散ってしまった。
浮竹を失うかもしれない。
その可能性に直面した時、京楽を襲ったのは耐え難いほどの恐怖だった。
そして恐怖の残滓は京楽の心を今も蝕んでいる。
「京楽」
もういい、とでも言うように浮竹は京楽の名前を呼ぶ。
いいんだ、分かっているから――
そう言い聞かせるかのように、浮竹は何度も何度も京楽の名を繰り返した。
藍染との戦いは、この世界に生きる全ての命を守るための戦いだった。避けられない戦いだった。
だからこそ、京楽も浮竹もどんな手を使ってでも勝つ覚悟をしていた。
けれど――――
戦いに勝ち、生き残ることは出来たけれど
この無意味な戦争で、二人の心はあまりにも深く傷付いてしまった。
二人の世界は壊れてしまった。
京楽と浮竹は今、壊れた世界の欠片を一つ一つ集めながら、
二人の関係を
二人の世界を作り直そうとしているのだ。
「浮竹……」
「もういい、何も言うな」
ああ、と京楽は溜息を吐く。浮竹が京楽を呼ぶ声が、光に満ちた温かい雪となって京楽の上に降り注ぎ、冷えた心を温もりで満たす。
「俺達が今ここに、こうしている。それだけは確かだ。
それだけは、絶対だ」
永遠のものが存在するかなんて分からないけれど、
二人で紡ぐ「今」だけは確かだから。
明日を知らずに生きる勇気を、「今」が与えてくれるから――
「だから、今この時を、二人で生きていこう」
*
音も無く降り積もる雪が、全てを白く塗り替える。
その白い世界に新たな風景を描くために
二人は今歩き出そうとしていた――――
21.12.10
一応「再生」とか「誕生」がテーマだったのですが、誕生日に全然関係無いですね(汗)
でも愛はたっぷり詰まってます。
浮竹さん、お誕生日おめでとう!