ぴちゃん、とどこかから水音が聞こえた気がして京楽はゆっくりと瞼を上げた。ぼやけた視界に点々と散らばった淡い光が映る。
身体の下でぱしゃんと地面が揺れる音がして、初めて自分が横になっていることに気が付いた。ゆっくりと身体を起こし辺りを見回す。どうやら自分は水の上にいるらしい。
「これが・・・僕の精神世界か・・・・・・」
京楽がいるのは広大などこまでも広がる漆黒の海と夜空に覆われたほかは何も無い、空虚で薄暗い、閉塞した世界。
それでも完全な闇ではないのは天空で微かに青白く瞬く星屑が、僅かな光源となっているからだった。青白い光は水面の上にもちろちろと弱弱しい輝きを落としている。
全く風の吹くことが無いのか黒い海は気味が悪いほど凪いでいて、時折京楽の動きに合わせてぱしゃぱしゃと水が跳ねる音が逆に静寂を際立たせていた。
「この寂寞とした感じは確かに僕の心の中を上手く表しているかもしれないねえ・・・」
夜空を見上げて京楽は自嘲的に笑う。こんな世界に住んでいる自分の斬魄刀は一体どんな姿をしているのだろうか。あまり捻くれた性格でなければいいのだがと溜息をついた。辺りを見回しても斬魄刀らしき姿はどこにもない。
隠れているにしてもこんなただ広いだけの世界のどこに隠れる場所などあるのかと京楽は当惑した。
「ぬしのそのような姿を見るのは久し振りでありんすなあ」
不意に頭上から女性の声が降ってきた。驚いて京楽が声のした方を見上げると、何と空に亀裂が走りそこから白い手が覗いている。
京楽が呆然としている間に見る見るうちに裂け目は大きくなり、やがてぱりんと何かが割れるような音と共に若い女が空の割れ目から姿を現した。京楽の上にぱらぱらと黒曜石に似た欠片が降ってくる。
その時初めて今まで空だと思っていたものが実際は鉱石で出来た壁なのだと理解した。
す、と音も無く海面に降り立つと、女は物珍しいものでも見るかのように京楽の頭から爪先までを凝視する。
「君が・・・僕の斬魄刀なのか?」
「わっちのことを忘れるなんて薄情なお人でありんすな。でも若い頃のぬしに会えてわっちも嬉しく思いんす」
「若い、って・・・?」
「ここはぬしの心の中。ぬしの心がぬしの姿を決めるでありんす」
そう言われて改めて京楽が自分の身体に目を遣ると、確かに成長しきった大人の体格ではなく腕も胸も見慣れた青年の自分のものだった。
「わっちを嫌っておざんしたのにここに来んしたということは、わっちに用でもありんしたか?」
そう言って女は唇を歪めて皮肉な笑みを浮かべる。京楽がここにいる理由など分かりきっているはずなのにわざわざ知らない振りをする斬魄刀に、一筋縄ではいかない相手であると悟って京楽は小さく舌打ちした。
それでも京楽は斬魄刀の力が必要だった。
「僕は、君の名前を知りたいんだ」
あれ程嫌っていたはずの死神だったが、今の京楽はどうしても力が欲しかった。力を手に入れるためにならどんなことでもする。
そのために死神の力の源である斬魄刀の助けを借りることになったとしてもだ。
「嫌でありんす」
しかし、女はぷいと横を向くとそう言い放った。
あまりに呆気無い拒絶に京楽は一瞬言葉を失う。
「今のぬしにはわっちの名前を教えたくはありんせん」
「なっ・・・どうしてだい?記憶が無くても僕は僕じゃないか。記憶喪失になる前の僕には協力できて今の僕は嫌だなんて一体どういう了見なんだ」
「・・・記憶を失くしんしたぬしは、どうしてわっちの力が欲しいのでありんすか?昔のぬしは死神になど絶対になりんせんと死神を軽蔑していたでありんしょう。
死神になりんした理由を忘れたぬしが、わっちの名を知りたがるのは何故でありんすか?」
「それは・・・・・・」
京楽が力を欲する理由。毛嫌いしていた筈の死神になってまで力を必要とする理由。
それは。
「僕は、十四郎さんと共に戦いたいんだ」
浮竹はたった一人で苦痛に耐え、戦い続ける。
身を裂かれそうな苦しみを内に抱えながら。
京楽には浮竹の病を治すことは出来ないかもしれない。
京楽には浮竹の痛みを和らげることは出来ないかもしれない。
それでも。
守りたいと思ったのだ。
どうしようもない程に愛してしまった浮竹を。
大輪の花が綻ぶような浮竹の笑顔を。
初雪のように真っ白な浮竹という存在を。
そのためには両手を血に染め、数多の屍を越え、この身が穢れることすら厭わない。
浮竹の隣で浮竹に仇なす全てのものを排除する。
そのためになら修羅とも鬼神ともなろう。
浮竹がたった一人で苦しむことの無いように。
浮竹がたった一人で戦うことの無いように。
浮竹の隣にいるために。
力が欲しい。
「十四郎さんの隣で戦えるだけの力が欲しい」
だから君の名前を教えてくれと京楽は頭を下げた。浮竹のためになら形振りなど構っていられない。死神という立場に異議を唱える己の主義を曲げてでも、どれほどの謗りや辱めを受けようとも耐えてみせる。
それだけの覚悟があった。
しかし、女は頭を下げたままの京楽を冷たく見下ろすだけで一向に心動かされた様子は無い。
「ぬしが十四郎に会ってからまだ5日と経っておりんせん。そのぬしがどうして十四郎のためにそこまでしなさるんでありんすか?そんなに十四郎が恋しいでありんすか?」
「・・・・・・時間なんて、関係無い。僕はただ」
「それに、十四郎を守りたいのでありんしたらぬしの記憶を取り戻すのが一番の近道ではありんせんか?」
「それは・・・・・・今の僕じゃ役に立たないってことかい?」
「十四郎は強いでおざんすよ。今のぬしの力など十四郎には必要ありんせんよ」
女の辛辣な言葉に京楽はぎりりと歯軋りをする。女の言葉は真実だからこそ何も言い返せない。無力な己が悔しかった。
「・・・・・それでも、僕は強くなりたい」
怒りに任せて叫びだしそうになるのをやっとの思いでこらえながら声を絞り出す。確かに今の自分は何も出来ない子供かもしれない。それでも何もしないでただ浮竹の優しさに甘えるのは嫌だった。
「・・・十四郎が本当に欲しいのは、ぬしじゃありんせん」
冷たく発せられた刃のように鋭い女の言葉に、京楽の目の前が怒りで真っ白になった。
次の瞬間、ばしゃん!と大きな音を立てて京楽は女を水面に押し倒していた。左手は力任せに細い肩を掴み、右手で女の髪を掴むと、女の顔を水の中へと押し付ける。
無表情で女を見下ろしながら、京楽の頭の中は驚くほど冷めていた。数秒してからざばりと女を引き上げる。
たった今溺れかけたというのに女は眉一つ動かさず、じっと京楽を見上げるだけだった。挑むような瞳に京楽は再び怒りを覚える。
「・・・・・・女相手に、ひどいことをするお人でありんすなあ」
揶揄を含んだ口調に、斬魄刀に男も女もあるかと京楽は暗く哂う。
「関係ないさ。男でも女でも、子供でも老人でも、死神でも人間でも虚でも」
静かに、ゆっくりと京楽は言葉を重ねていく。冷酷な瞳をしているくせにいっそ優しいとさえ言える声音で語りかける京楽に、女は背筋が寒くなるのを感じた。
「僕の邪魔をするものは排除するだけさ」
「どうしてそこまで・・・?それほど十四郎が愛しゅうおざんすか?」
「そうさ」
短く、しかしはっきりと京楽は答える。その言葉に迷いは無い。
「生まれて初めて誰かを愛しいと思ったんだ。守りたいと思ったんだ。確かに僕が十四郎さんに出会って日は浅い。でも、そんなの関係無い。今この瞬間、全身全霊で彼を愛してる。それだけが確かなんだ。
それだけが僕にとって疑いようの無い真実なんだよ。十四郎さんへの想いが、今の僕の全てなんだ。十四郎さんが、僕にとって世界の全てなんだ」
京楽によって立てられた漣はいつの間にか収まり、重苦しい静寂の中に京楽の声が響き渡る。
「彼のためならこの世の全てを敵に回しても構わない。十四郎さんのためになら世界を失うことすら厭わない」
「ぬし・・・」
「十四郎さんさえいれば他には何もいらないよ」
淡々と紡がれた言葉は、狂おしいほどの愛の叫びだった。何の抑揚も無い声で京楽は浮竹への想いを女に語る。
感情の読み取れない凍ったように冷たい瞳は、逆に京楽の内で燃え盛る激情の強さを表していた。
この男は、身の内に狂気を孕んでいる。女は咄嗟にそう感じた。
まるでブラックホールのように終わりの無い、どんな光も逃げ出すことの出来ない暗黒そのものの京楽の瞳は、彼が内に抱えるものの途方も無い重さを女に告げる。
浮竹が自分の全てだという京楽の言葉は例えではなく文字通りの意味なのだと直感した。
「・・・ふ」
ほんの一瞬目を細めると、女は海面に押さえ付けられた不自由な体勢のまま驚いて目を見張る京楽の前でころころと笑い始めたのだった。
「なっ・・・?」
突然笑い出した女に怯み、京楽は思わず女を押さえ付けていた手を離してしまう。それを好機とばかりに女は起き上がって座り直すがその間も笑いが止まることは無い。
くっくっくっと手で顔を覆いながら尚も笑い続ける女を京楽は拍子抜けした気分で呆然と見詰めていた。
ようやく笑いが収まると女は京楽の方に向き直り、にっこりと満面の笑顔で京楽にこう言った。
「やっぱり昔も今もぬしは変わらないでありんすなあ。ぬしの十四郎への想いの強さ、しっかと見せていただきんした」
「・・・え?」
がらりと変わった女の雰囲気に戸惑い京楽は間抜けな声をあげる。
「十四郎のためにそこまでする覚悟がおありんしたら、わっちの力、好きに使っておくんなまし」
「もしかして・・・僕を試したのかい?」
「試すなんて人聞きが悪いでありんすよ。わっちはただ、ぬしが力を欲しいというその訳を知りたかっただけでありんす。もっとも、わっちの納得いく理由でありんしたら何と言われてもぬしに協力はしんしたけど」
ころころと鈴を鳴らすように女は笑う。やっぱり試されていたのではないかと京楽は内心で悪態をついた。やはり自分の斬魄刀だけあって食えない奴だと改めて感じる。
「好きなお人のために戦うなんて、粋じゃあありんせんか。富や権力、力そのもの、なんてくだらないもののために戦うなんてわっちは真っ平御免でありんす。でも、恋のためならこの花天狂骨、いくらでも力になりんしょう」
そして、花天狂骨と名乗った女は優艶な笑みを浮かべた。
遂に斬魄刀に名を教えてもらうことが出来たのだと理解し、一気に京楽の身体から力が抜ける。
これで始解が出来る。浮竹の隣で戦えるのだという喜びが胸を満たした。
「ありがとう、花天狂骨」
安堵に胸が一杯で、やっとの思いで絞り出した声は微かに震えていた。
「ぬしが力を求めるのは、昔も今も十四郎のためなんでありんすなぁ。初めてわっちと『対話』したときも、ぬしは同じことを言ぃんしたよ。記憶があろうと無かろうと、ぬしは十四郎に恋する星のめぐりなんでありんすな」
「・・・・・・そうかもしれないね」
浮竹を愛していると気付く前なら、記憶を失う前の自分と同じ道は歩まないと頑なになっていたかもしれない。しかし今はそんなことどうでもよかった。
浮竹を愛している。
ただそれだけが自分にとって確かなことであり、それだけが大切なことだった。
「ぬしの十四郎に関する記憶は、ぬしが鬼道衆の術に巻き込まれた時にわっちの目の前でこの海に沈んでいきんした。
突然あの空と同じ漆黒の金剛石の柱がそびえ立ち、ぬしの記憶を守るように覆ったかと思うとそのまま海の底に飲み込まれていったんでありんす」
「なんだって!?それじゃあ・・・」
突然花天狂骨の語りだした事実に京楽は急いで海の中を覗き込む。しかし眼下には真っ黒な海水があるだけで何も見えない。
外から見えないのであればと京楽は海に潜ろうとするが、不思議なことにまるで海が京楽を拒絶でもしているかのようにどう頑張っても海に入ることが出来ない。
「無駄でありんす。ぬしはこの海に入ることは出来んせんよ。それに潜っても仕方が無いでありんす」
「でも、その柱さえ壊せば僕の記憶は戻るんだろう?」
「それはわっちにもわかりんせん。そもそもこの海のどこにいったのかさえわからないんでありんす。わっちもぬしの精神世界について全て知っているわけではありんせんから、見つけるのは難しいでありんすよ。
ぬしが現実世界で何とかするしか、記憶を取り戻す方法は無いとわっちは思ぃんす」
「現実世界・・・」
結局、他者との交流によってしか自分の記憶は戻らないのかもしれない。記憶なんてもともと心が外の世界の印象を記録したものなのだ。
美しいと感じた風景、楽しいと思った出来事、嬉しかった言葉、愛した者、傷付いた行動。どれも現実の世界で自分以外の他者や物と触れ合うことでしか生まれない。
だとすれば、記憶を取り戻す切っ掛けも他者との関係の中でしか見つからないのかもしれない。
(記憶が戻った時、『僕』はどうなるのかな・・・)
記憶が戻った暁には、「今」の自分の浮竹への想いはどこへ行ってしまうのだろうか。今と昔の愛は一つに交じり合うのか。それとも自分の中で二つの愛の形は共存していくのだろうか。
同じ相手に二度も恋するなんてまるで陳腐な三文小説みたいだけれど、それでも自分は浮竹を好きになってしまった。
そして「今」の「この」気持ちは、やはり自分にとって尊いのだ。
記憶が戻っても少しはこの感情が自分の中に残っていればいいと京楽は祈るように思った。
「そういうことなら僕はもう戻った方がいいのかな。十四郎さんの様子も見に行きたいし」
「十四郎に宜しゅう言っておくんなまし」
「ああ」
「ぬしに会えて嬉しゅうおざんした、春水」
花天狂骨の声に何か奇妙な響きが含まれているのに気付いて、京楽ははっと顔を上げた。
しかし既に視界はぼやけ始め、朧な霧の中に花天狂骨の姿は掻き消えていくのだった。
*****
次に目を覚ました時、京楽は八番隊道場に戻っていた。京楽がここに入ったのは深夜を過ぎていたが、窓から差し込む光が茜色だというところを見ると今は日暮れ時らしい。
ひとつ大きく深呼吸をすると、京楽はゆっくり床に突き刺さっていた二本の刀を引き抜くと十字に構える。
「花風紊れて花神啼き、天風紊れて天魔嗤う、花天狂骨!」
手の中の日本刀が京楽の目の前で青龍刀のような大振りの刀に変化する。
「これが花天狂骨の本来の姿・・・」
感慨深げに呟いた京楽の視線の先では、燃えるように紅い夕陽を浴びた花天狂骨の切っ先が鋭く光っていた。
12.09.09
京楽さんファンの方ごめんなさい(泣) <そーゆー私も京楽ファン^^;
京楽さんは基本女に優しいとは思いますが一旦キレたら容赦無いと思います(爆)
京楽さんの精神世界捏造しまくりです。海はきっと彼の無意識なのでしょう。