10月31日。
それは、ハロウィーン(Halloween、Hallowe’en)と呼ばれる現世の祭事が行われる日である。
ハロウィーンはカトリックの万聖節(All Hallows)の前夜祭(eve)であることからその名が付けられた。しかし、名前の由来はキリスト教だが、ハロウィーンの起源はケルト文化にある。古代ケルト人の一年の終わりが10月31日で、この日には「この世」と「あの世」の境界が曖昧になり、死者の霊が家族を訪ねたり、悪霊が現れたりすると信じられていたのだ。先祖の霊は喜んで迎え入れたいが、悪霊まで入ってきては困ると考えた古代ケルト人は、化け物のような不気味な仮装をすることで悪霊の目から逃れることを考え付いた。これが、現在のハロウィーンにおける仮装の風習に繋がるのである。
現代ではケルト文化は廃れてしまい、ケルト信仰を持つ者は殆どいない。ハロウィーンの起源も今ではすっかり忘れ去られ、10月31日は人間が体よくお祭り騒ぎをするために利用されている。
だが、古代人の迷信だからといって全てが荒唐無稽なものであるとは限らない。
何故なら、10月31日に「あの世」と「この世」の境界が曖昧になるという古代ケルト人の考えは、ある意味正しいものだからである。
5年に一度の10月31日、「現世」と「尸魂界」の間に断界以外の空間が発生し、二つの世界を繋いでしまうという現象が起きる。その空間は地獄蝶を持たずとも通過することが出来るため、時折誤ってその空間――尸魂界は「孔」と呼んでいる――に足を踏み入れた魂魄が、尸魂界から現世へと迷い込んでしまうのだ。
該当の日が近付くと、護廷隊は「孔」について警告を発しそれらしい空間の歪みを見掛けたら決して近付かずに即刻瀞霊廷へ報告するように呼びかける。しかし、残念ながら「孔」の発生場所には法則性が無く、魂魄が間違って「孔」に落ちてしまう事故を完全に防止することは出来ない。従って、この日護廷隊は普段よりも瀞霊廷及び流魂街の警備を強化する。そうすることで、尸魂界から現世へと魂魄が移動するのを最小限に食い止めようというのだった。
そんな5年に一度の特別な10月31日、京楽と浮竹は久し振りの休日を現世で満喫していた。
***
一口大に切ったケーキを銀のフォークに刺すと、ゆっくりと口に運ぶ。口の中に広がるかぼちゃの優しい甘味に、浮竹は満足の溜息を漏らした。テーブルの向かい側では、幸せそうにかぼちゃのシフォンケーキを頬張る浮竹をこれまた幸せそうに見守る京楽がいる。
小さなカフェの片隅で、恋人達は昼下がりの穏やかなひと時を満喫していた。
「……本当に、こんな日に休みを貰ってしまって良いのだろうか」
不意に表情を曇らせて、浮竹がそう呟いた。手にしたフォークが皿に降ろされ、カチャリと音を立てる。
その言葉にコーヒーカップを運ぶ手を宙で止めると、京楽は訝しむように
「まだ気にしているのかい?」
と片眉を上げて見せた。それを見て浮竹は少し困ったように笑う。
「殆どの隊士が働いているのに、俺達だけ休んでいるのは申し訳ない気がしてな」
カップをソーサーに戻した京楽は、テーブルに肘を突き手を組んでその上に顎を乗せると、浮竹をじっと見詰めた。それは、浮竹の話を真面目に聞く時の京楽の癖だった。
「でも、今日の任務は特に危険なものじゃないし、僕達隊長の出る幕でも無いでしょ?」
「それは十分承知しているんだが……」
京楽のもっともな指摘に、浮竹は語尾を濁して俯いてしまった。
今日の尸魂界見回り任務には、普段の倍以上の人数が動員されている。しかし、京楽の言う通り任務内容は見回りに「孔」の探索が加わった以外は特に変わらない。いつもの見回り任務と危険度は変わらないのだ。と言うのも、尸魂界は「孔」からの侵入者に警戒する必要が無いからだ。仕組みは解明されていないが、「孔」を通って尸魂界から現世へ行くことは出来ても、その逆――現世から尸魂界へ来ること――は不可能なのである。つまり、「孔」を通って現世から人間や整、虚が尸魂界へ入り込む事態は絶対に無い。従って、今回の見回り任務は「孔」に落ちる事故から尸魂界に住む魂魄を守ることが主な目的であり、予想外の敵に出くわすことはまず考えられないのであった。
そのような簡単な任務に隊長格が就くことは有り得ない。
浮竹の心配は全く無用なのであった。
浮竹自身も頭では京楽の言うことが正しいと分かっている。
しかし、護廷隊の殆どが忙しく仕事をしている時に自分だけのんびりとしていることに気が咎めるのだ。身体が弱くて仕事を休むことが多い浮竹は、休んだ分を補う意味でも元気な時は人一倍働きたいと思っている。だからこそ、調子が良いにも拘らず、護廷隊にとって多忙な日に休暇を貰ってしまっていいのかと不安になったのだ。
京楽は浮竹のそんな内心の葛藤を熟知しているし、真面目で仕事熱心な浮竹の気持ちを尊重したいとも思っている。しかし、折角の休日なのだから、浮竹には仕事を忘れてのびのびと過ごして欲しいという気持ちもあった。
折角二人きりなのだから自分のことだけ考えて欲しい――そう思わないと言えば嘘になる。
けれど、京楽にとっては自分のそんなささやかな願いなど、浮竹の笑顔に比べれば取るに足らないことだった。
浮竹にずっと笑っていて欲しい。
そう願うからこそ、京楽は浮竹の不安を取り除いてやりたいと思うのだ。
「それに、この所浮竹忙しかったんだから今日ぐらいゆっくりしても罰は当たらないよ」
「そうかな?」
「そうさ。それにちゃんと休養を取るのも、元気で仕事をするためには重要なことだよ。だから休める時に休むのも隊長の仕事の内さ。その点僕なんて隊長の鑑だよ」
「お前が?」
「だって毎日昼寝をして英気を養ってるんだからさ」
そう言って片目を瞑って見せる京楽に、浮竹は堪らず笑い出してしまった。
「そうだな。休日なんだから仕事のことは忘れて、久し振りのデートを楽しまないとな」
「そう言ってもらえると嬉しいねぇ」
再び笑顔になった浮竹を見て京楽も嬉しそうに笑う。
京楽の目尻に出来た笑い皺を見て、浮竹の胸に愛しさが込み上げた。
(やっぱり京楽には敵わないな)
京楽の言葉に元気付けられている自分に気が付いて、浮竹はそう心の中で呟いた。
浮竹の心に小さな棘のように突き刺さっていた不安を、京楽は簡単に拭い去ってくれた。
浮竹の不安を理解しながらも、京楽は適切な言葉で誤りや矛盾点を指摘してくれる。そうすることで、ともすれば袋小路に陥ってしまう浮竹の思考を明瞭なものへと導いてくれるのだ。
こんな所でも自分は京楽に助けられているのだと、浮竹は改めて自分にとっての京楽の存在の大きさを感じていた。
「ん?どうしたの?」
じっと自分を見詰める浮竹に、京楽が不思議そうに首を傾げる。
お前のことが好きだって実感していたんだ、と言ったら、京楽はどんな顔をするだろうか。
驚く京楽の顔を想像しながら再びフォークを手に取ると、浮竹は「何でもないよ」と笑って再びケーキを頬張り始めた。
舌の上で蕩けるケーキは、先程よりもずっと甘かった。
*
「それにしても、本当に街中ハロウィーン一色だね……」
「当たり前だろう、今日はハロウィーンなんだから」
「そうなんだけどねぇ……以前この時期に現世に来たときはここまで盛り上がってなかったじゃない?あんまり様変わりしてるから、びっくりしちゃうよ」
「こういうものは年々お祭り騒ぎに拍車がかかるからな」
違いない、という苦笑交じりの京楽の呟きが、街の喧騒に吸い込まれていく。
二人に注意を向ける人間は、誰一人いなかった。
浮竹と京楽がカフェを一歩出ると、黒とオレンジの装飾に彩られた街並みが二人を出迎えた。
至る所に施されたジャック・オ・ランタンや蝙蝠、蜘蛛の巣などの飾りは、秋の終わりの太陽の下、ミステリアスな雰囲気を醸し出している。通りを歩く人間は、大人も子供も様々な衣装に身を包んでいた。
魔女や魔法使いは勿論、ドラキュラやフランケンシュタインの怪物、悪魔や幽霊、黒猫と言った伝統的な衣装だけでなく、アニメのキャラや映画に出てくるモンスターの姿をしている者までいる。
「確かにこんな日に尸魂界から現世に突然飛ばされたら、迷子になってしまうのも無理はないな」
街に溢れる数々の奇妙な装束は、まるで現世でも尸魂界でもない異世界に来てしまったような気分にさせる。もしこんな日に魂魄が迷い込んでしまったら、生前とは全く様子の違う現世に戸惑い心細い思いをするに違いない。
今年は「孔」に落ちる魂魄がいなければいいと、浮竹は思わずにはいられなかった。
「頻繁に現世を訪れている僕等でさえ現世の変化の速さには驚かされるんだから、ずっと尸魂界で暮らしていた魂魄が突然現世に連れて来られたら右も左も分からないだろうねぇ」
「全くだ……100年もあれば以前の面影も無い程現世の様子は変わってしまう。人間の進歩の速さには頭が下がるよ」
「進歩、か……僕には生きることを急いているようにしか見えないけどねえ」
「人間は短命だからな。輪廻の輪から外れ、長い時間を生きる俺達死神とは、生に対する姿勢が違うのかもしれない」
そんな会話をしながら大通りを歩く二人を、背後から何人もの人間が追い抜いて行く。ウィンドウショッピングを楽しみながらゆっくり歩いているとはいえ、普段歩く速度と比べてそれ程遅く歩いている訳ではない。京楽と浮竹を追い越していく人々は、まるで何かから逃げるように足早に歩を進めるのだった。
人間は生き急いでいると京楽は言ったが、彼等はそんなに急いで一体何処へ向かおうとしているのだろうかと浮竹はふと思う。彼等の目指す先には何があるのだろうか。
今こうして同じ場所で同じ道を歩いているけれど、死神と人間では、全く別の風景を見ているのかもしれない――。
「――人間は、短い生の間で互いに関わりを持ち、その過程で友情が生まれ愛が生まれ、憎しみが生まれる。それは、俺達の知る感情とは別物なのだろうか……?」
「さあ、どうだろうね……僕達みたいに長い時間をかけて関係を育むことは出来ないのは確かだろうけど」
「100年にも満たない友情か……想像出来ないな」
「そうだね、薄い友情にしか思えないよ、僕にはさ――ん?」
「どうした?」
「いや、あそこにいるの、魂魄じゃないかと思ってね」
「魂魄?」
ほら、と言って京楽が指差したのは、5、6m先の横断歩道の真ん中で立ち往生している着物姿の女性だった。歩行者用の信号機はとっくに赤に替わっていて、自動車が次々に横断歩道を横切っていく。しかし、信号が替わるのを待っている人間の中には誰一人女性の身を案じる者はいない。それどころか、女性の存在に気付いている者すらいなかった。
「人間には見えていないようだな。整か?」
「だと思うけど、それにしちゃ着物を着ているなんて妙だねえ。この時代の人間は滅多に着物なんて着やしないのに」
「考えるのは後だ。とにかくあの魂魄を保護するぞ」
「はいはい、分かってますよー」
義骸を脱ぎ捨て死神の姿に戻ると、浮竹は女性の元へ向かって一気に跳躍する。義魂丸にその場に待機するよう指示すると、浮竹の後に続くべく京楽も地面を蹴った。
*
「どうしよう……まさかこんなに変わってるなんて、思ってもみなかった……」
横断歩道を行き交う人の群れに目もくれず、女が思い詰めたような表情で独り言を呟いている。何処へ行こうか迷っているのか、一歩踏み出しては立ち止まり考え込むという動作を何度も繰り返すだけで、一向に前に進まない。その内人の波が途切れ、今度は何台もの車が車道を走り始めるが、女は気に留める様子も無い。それもその筈、車体は空気を切るように女の身体を走り抜けて行くのだ、事故の心配などある訳が無い。
女は紛れも無く魂魄だった。
「君!こんなところにいては危ない!直ぐに移動するんだ!!」
そう言うが早いか、浮竹は女の身体を抱えて瞬歩で移動する。
「え?」
突然視界が一回転したために女は何が起こったのかと驚くが、次の瞬間には地面に降ろされて力なく座り込んでいる自分に気が付いた。いつの間にか大通りから逸れた路地にいるらしく、先程まで女が立っていた筈の横断歩道が遥か彼方に見える。
「え?え?な、何?何なの!?」
「浮竹ェ。別に交通事故に遭うわけでも無いんだから、あんなに急ぐことなかったんじゃないのかい?」
「何を言う、万が一のことがあるかもしれん。それに横断歩道の真ん中にいるなんて、道路交通法違反だろう?」
「うーん、そうかもしれないけどさあ。君、びっくりしたでしょ。大丈夫?」
女に視線を合わせるために屈みこむと、京楽が優しく問い掛ける。しかし、まだ混乱している女は口をぱくぱくさせるだけでまともに話すことが出来ない。
「驚かせて申し訳ない。怪我は無いかい?」
浮竹もまた京楽の隣に屈んで女の顔を覗き込む。
突然現れた二人の大男に次々と質問され、女の混乱は頂点に達したかに思えた。だが――
「!!貴方達……その黒い着物……まさか、死神!?」
訳の分からない状況で唯一見覚えのある物を発見したためか、女は思わず大きな声を上げてしまう。
しかし、驚いたのは京楽と浮竹だった。
人間の中にも一護のように死神を見ることが出来る程の強い霊力を持つ者はごく稀にいるが、そんな人間は例外中の例外である。従って、死神の存在を知る人間など殆どいない。そもそも、死後迎えにやって来た死神を見て「死神」と認識出来る人間すらいないのである。多くの人間が持つ「死神」のイメージは、西洋の伝承にあるような「真っ黒なフードを被り巨大な鎌を手にした人間の白骨」であり、実際の死神とはあまりにもかけ離れているために、死覇装を着て斬魄刀を帯刀する死神を見ても「死神」と認識出来ないのである。
にも拘らず、女は浮竹達を見て「死神」と言った。その事実から考えられる可能性は一つしかない。
「もしや、君は『孔』に落ちて尸魂界から飛ばされて来た魂魄か……?」
この時代の現世には似つかわしくない着物姿、死神に関する知識――。
この女性の魂魄は尸魂界の住人に違いなかった。
浮竹の質問に女はこくりと小さく肯く。まさか本当に「孔」に落ちた魂魄に出会うとは思っていなかったために、京楽と浮竹は予想外の状況に困ったように顔を見合わせるしかなかった。
女は20代後半から30代前半の外見で、肩まで伸びた栗色の髪にはゆるくウェーブが掛かっている。突然連れ去られたショックからまだ回復していないのか、淡褐色の瞳には困惑の色が見える。
「君の言う通り僕達は死神さ。僕は護廷十三隊八番隊隊長、京楽春水。こっちは十三番隊隊長の浮竹十四郎だよ」
「ご、護廷隊の隊長……!?」
「突然見知らぬ場所に飛ばされて怖かっただろう?でももう大丈夫だ。俺達がちゃんと尸魂界まで送るから」
「え……」
急にさあっ、と女の顔が青くなったかと思うと、膝の上で握り締めた女の拳がぷるぷると小刻みに震え出した。もしや具合でも悪いのかと浮竹が慌てて女に駆け寄ろうとすると、女は浮竹を拒むかのように
「お願いです!!見逃して下さい!!!」
と地面に手を付いた。
「どうか、私をこのまま現世に居させて下さい!!」
京楽と浮竹が反応する暇も無く、更に女は言葉を続けるとそのまま深々と頭を下げた。土下座することも辞さない勢いの女に、二人とも気圧されてしまう。そんな二人に気付いていないのか、女は頭を下げたまま何度も「お願いします、死神様」と繰り返す。余程思い詰めているのか、身体中がぶるぶると震えていた。
「と、とにかく頭を上げてくれ」
「そうそう。何やら事情がありそうだし、詳しく話してくれるかな?」
尋常では無い女の様子に何か深い訳があるのだと察した京楽と浮竹は、女の緊張を解すために穏やかにそう告げると、女が起き上がる手助けをした。女はすっかり畏縮してしまい手足が強張っていたが、二人の力を借りて何とか身体を起こす。そして、浮竹に促されるままに近くにあるベンチへと移動した。
「ここならゆっくり話が出来るな」
「あ、ありがとうございます。」
「さて、どうして尸魂界に戻りたくないのか教えてくれるかな?」
「はい――死神様は先程私のことを尸魂界から飛ばされたと仰いましたが、本当は違うんです。私は自分の意志で『孔』を通って現世へやって来たのです……」
礼を言って女は浮竹の隣に腰掛けると、少しずつ自分が現世に居る理由を説明し始めたのだった。
「私が死んだのは約12年前、最初で最後の出産日のことでした。当時私は結婚四年目。仕事も上手くいっていて夫との仲も良好。更に待望の妊娠と、幸せの絶頂にいました」
そこで一旦言葉を切ると、女は昔を懐かしむようにふっと目を閉じた。幸せだった頃を思い出しているのか、口元には微笑が浮かんでいる。
「出産には万が一のことがある、とは聞いていました。でも、それが自分に当て嵌まるなんて思ってなかったんです。あの頃の私は何もかも上手くいっていて、夫と子供との三人の生活を心待ちにしていて……私の人生まだまだこれからという時に、まさか死んでしまうなんて……」
そう言った女の語尾は震えていた。
子供を産んだその日に生を終えてしまった女の心を思い、浮竹は遣り切れない気持ちで目を伏せる。浮竹の隣に立って女の話を聞いている京楽も、苦々しげに笠を目深に被り直した。
「私、自分が死んだ時のことをよく覚えていないんです。陣痛が始まってからとにかく痛くて苦しかったことしか思い出せなくて。無我夢中で医者の指示に従っていたのだと思います……突然呼吸が出来なくなったかと思うと目の前が真っ暗になって、次に目を開けた時には、分娩台の上に横たわる自分の身体を見下ろしていたんです……子供は、元気な男の子でした」
自分は死んだのだと理解した時、女はどんな気持ちだったのだろうか。
こんな時、死んだ人間にどんな言葉を掛ければ良いのかという、もう何度自問したか分からない問いが京楽と浮竹の胸を過ぎった。
最初から魂魄として生を受け、死ねば消滅してしまう京楽と浮竹には、現世で肉体の死を迎えた人間の気持ちが分からない。
余程強い霊力を持たない限り、人間は魂魄とどんな形であれ接触することは出来ない。魂魄の姿を見ることも、声を聞くことも、触れることも出来ないのだ。つまり、生きている人間にとって「死」とは――少なくとも現世に生きている限りは――「別れ」を意味しているのであった。
だが、死んだ人間は違う。肉体を離れても魂魄として存在しているのだから、現世に生きる人間を見ることも声を聞くことも出来る。霊力が強ければ人間に触れることすら出来る。にも拘らず、生きている人々からは自分の姿は決して見えないのだ。魂魄として自分はまだ存在しているのに、愛する者達に自分が傍にいることすら気付いてもらえないのだ。
そんな状況に置かれることが一体どれ程辛いことなのか、二人には理解出来ない。
否、頭では分かっていても、心が理解出来ないのだ。
死神として何人もの整を尸魂界に送ってきたが、二人は未だに女のような魂魄に掛けるべき言葉を持たなかった。
「突然私を失った悲しみ、そして慣れない育児と仕事によるストレスから、夫は見る見るうちにやつれていきました。夜泣きをするあの子と一緒に、毎晩私の名前を呼びながら涙を流す夫を、私は只見ていることしか出来なかった……そして、私が死んで3ヶ月程経ったある日、私は魂葬され尸魂界へと辿り着いたのです」
「そんな……」
「……私は……あの子にお乳をあげることも、あの子が泣いている時に抱き締めてあげることも出来なかった。いいえ、私は自分の息子をこの手に抱くことすら出来なかった……私はあの子のために何もしてあげられなかった……!」
涙の滲む声は、最後には悲痛な叫び声となって京楽と浮竹の胸に突き刺さる。
悲しみのどん底にいる家族を置いて、女は尸魂界に行かなければならなかった。きっと、身を切られるような思いだったに違いない。たとえ子供と夫のために女に出来ることが何一つ無かったとしても、せめて愛する家族の傍にいたかったに違いない。
彼女を魂葬した死神とて、出来ることなら彼女を現世に残してやりたかったのだろう。しかし、死神の務めは虚を倒し、整を魂葬することだ。魂の調整者(バランサー)である死神が、現世を彷徨う魂を野放しにすることは出来ない。世界の理に、感情を差し挟む余地は無いのだ。
それに、魂葬されなければ彼女は虚に襲われるか、あるいは彼女自身が虚へと変化して夫と息子を襲ったかもしれないのだ。
どれ程家族の傍にいたかったとしても、魂魄となった女は既に現世に居てはならない存在なのだ。尸魂界へ行くことが、彼女に残された唯一の道だった。
その事実は痛い程よく分かっている筈なのに、あまりに非情な現実に浮竹も京楽も胸に痛みを覚えずにはいられなかった。
「流魂街に住むようになってからも一日だって息子のことを想わなかった日はありませんでした。誕生日を指折り数え、あの子はちゃんとご飯を食べているだろうか、もう学校へ上がる歳だけど友達は出来ただろうかと考えてばかり……せめてあの子が元気に成長した姿を見たいと、思いは募るばかりでした。でも、現世へ行きたくても流魂街の住人である私が穿界門を使用することは不可能。私には死神になれる程の霊力もありません。どうすればいいのかと途方に暮れている時、ハロウィーンにだけ出現する『孔』の話を耳にしたのです――それからずっと、私は『孔』を探し続けてきました。『孔』に関する情報を尋ねて回ったり、以前『孔』が現れたという場所に行ってみたり……10年前と5年前のハロウィーンでは、一日中『孔』を探して歩き回りましたが、結局見付かりませんでした。でも、今年は偶然私の住んでいる家のすぐ近くで『孔』が見付かったんです。この機会を逃したら二度と『孔』に遭遇することはないと思い、皆が死神様を呼びに行く間に隙を見て『孔』に飛び込んだのです」
「しかし、『孔』を通れば現世へ行けるといっても、現世の何処へ到着するか分からないんだぞ?君の家族が住んでいる場所に到達出来るとは限らないじゃないか」
「はい、それは十分承知しています。だから、歩くつもりだったんです」
「歩く!?!?」
「歩いて家まで戻るつもりだったのかい……やれやれ、そこまで覚悟していたとはねぇ」
「私は霊力が低いですからお腹も空きませんし、現世に来てしまえば後は何とかなると思ったんです。ただ、12年経った現世は私の記憶とは全く違っていて、街は見たことの無い物で溢れかえっていて……それで、何だかちょっとパニックになっちゃって……頭の中がぐちゃぐちゃで、とにかく落ち着かなきゃ、って思っていたら、突然身体が宙に浮いたんです」
「ああ、そこに僕達が現れたって訳か」
「はい」
カルチャーショックを受けて戸惑っていた所をいきなり浮竹に攫われたのだから、先程の女の混乱振りも肯ける。
「話は分かった。つまり、家族に会うために現世に留まりたいと言うんだね?」
「その通りです。お願いします、どうしても息子の顔を見たいのです!」
「そうは言ってもねぇ。何とかしてあげたいけど、死神が現世にいる魂魄を看過するのはまずいんだよ」
「君の気持ちはよく分かるが……」
京楽も浮竹も出来ることなら女の力になりたいのだが、二人には死神としての義務がある。死神が魂魄を見付けたならば、その魂魄が再び輪廻の輪に組み込まれるよう尸魂界に送らなければならない。そうしなければ現世と尸魂界の魂のバランスが狂ってしまうのだ。
それに、女のように現世に未練を残して尸魂界にやってきた人間は他にも沢山いる。女だけを特別扱いすることは出来ない。一度例外を許してしまえば、歯止めが利かなくなるのだ。
しかし――
「京楽――」
俺達に出来ることは無いだろうかと浮竹は助けを求めるような視線を京楽に向ける。
こうして女と出会い、事情を知ってしまったのに、何もしないでいることなど浮竹には出来なかった。
「浮竹……」
浮竹の真っ直ぐな視線に自分と同じ思いを認めて、京楽は参ったねえという風に大きく息を吐いた。しかしその表情は優しい。
「僕達今日は休みなんだからさ、堅苦しく死神の役目に縛られなくてもいいんじゃない?」
「!そうか……そうだよな。今日一日だけなら、死神としてではなく、俺達自身として力になってあげられるかもしれない」
京楽の提案に浮竹の顔がぱっと明るくなる。
確かに浮竹も京楽も今は勤務中では無いのだ。ならばその時間をどう使おうと二人の自由なのである。先程まで仕事を休んでいるからと後ろめたい思いをしていたのに、今は休みで好都合だと考えている自分に浮竹は心の中で苦笑した。
「君を発見した事実を無視することは出来ないが、一目息子さんに会いたいという君の願いを叶えてあげられるかもしれない」
「本当ですか!?」
「ああ、俺達なら穿界門を通って現世と尸魂界を自由に行き来出来るからな。行きたい場所を教えてくれれば連れて行ってあげられるよ」
「あ、ありがとうございます!!!」
「ちょっと待ってよ」
今にも穿界門を開けようとする浮竹を京楽がそう言って引き止める。勢いを削がれた浮竹は不満そうに京楽を見上げた。女はといえば何か問題でもあるのだろうかと、不安げな視線を浮竹と京楽の間に行ったり来たりさせている。
「息子さんに会っても今のままじゃ見てることしか出来ないでしょ?折角会うんだから、話が出来た方がいいと思わない?」
「あの子と話を……?そんなことが出来るんですか?」
「僕に良い考えがあるんだ」
「良い考え?」
不思議そうに自分を見詰める二人に、京楽はいたずらっぽく笑って見せた。
「そうさ。ハロウィーンならではの、ね」
***
30分後、空座町浦原商店の客間には、お茶を啜りながら談笑する京楽、浮竹、浦原の姿があった。
「急な頼みで悪いねえ、浦原君」
「いいえ、京楽サンと浮竹サンにはいつもお世話になってますし、これくらいどうってことありませんよ」
「それに、俺達二人の義骸まで預かってくれてありがとう。後で部下に取りに来るよう頼んでおくよ」
「義骸の回収はいつでも構いませんよ。アタシの倉庫はまだまだ空きがありますから」
何故京楽と浮竹が浦原商店にいるのか?
その謎を解く鍵は京楽の「良い考え」にある。
京楽の考えとは、女が息子と同じ年頃の義骸に入りハロウィーンの夜にお菓子を貰って回る子供の振りをする、というものであった。そうすれば他の子供達に混じって息子に接触する機会があるかもしれないし、子供ならば女の家を突然訪問しても不審に思われない。女は京楽の提案を喜んで受け入れた。
そして、女用の義骸を調達するために京楽と浮竹は女を連れて浦原商店へやって来たのである。
事情を聞いた浦原は快く依頼に応じてくれ、更に女を見守るためには霊体の方が都合が良いだろうということで、二人の義骸を浦原商店の倉庫に保管することまで申し出てくれたのだった。
「それにしても、お二人とも相変わらずですねえ。休みの日にまで魂魄のために働くなんて」
「仕方ないだろう?放っておけないじゃないか」
「浮竹は優しいからねぇ」
「お前だって放っておけないって思っただろう?」
「ん?僕?どうかなあ」
「ははは。京楽サンも、浮竹サンに甘い所は変わってませんね」
と、三人の会話が弾んでいる所に、
「皆さん、お待たせしました」
と言って義骸に入った女が戻って来た。
女は――と言っても外見は少年だが――ハロウィーンの仮装として狼男の格好をしている。どうやら浦原商店では着ぐるみまで売っているようだ。
「どうです、義骸の調子は?上手く身体を動かせますか?」
「はい。手とか足とか小さくて少し不思議な気分ですけど……」
「人間で言えば11、2歳の子供の義骸ですからね。戸惑うのも無理はありません。まあ今日一日だけですから、我慢して下さいね」
「勿論です、息子と話が出来るのなら何でもします!」
「ははっ、頼もしいな」
「全くだね――それにしてもこの義骸……」
女が入っている義骸に京楽は何故か見覚えがあった。
だが、浮竹と違って京楽に子供の知り合いなどいない筈である。
只一人を除いては――
「ああ、そうか!この義骸、日番谷隊長に似てるんだ!」
「日番谷隊長?確かにそう言われてみれば……」
義骸の髪と目の色は女のそれと同じだが、顔立ちは日番谷そっくりなのだ。
道理で京楽に見覚えがある訳だ。
「はい。この義骸は日番谷隊長のデータを元に作りました。急な依頼でしたので、一から顔や身体の造形をする時間が無かったものですから。意外と難しいんですよ、モデル無しに義骸を作るのって」
「成る程ねぇ」
「外見は日番谷隊長と同じですが、素体は霊圧の低い魂魄用のものです。特殊な機能などはありませんので心配無用です」
浦原に礼を言うと、三人は浦原商店を後にした。
***
静かな住宅街の空中に、前触れも無く丸型の障子戸が現れる。
すーっと音も無く開いた扉から、三つの人影が道路へ降り立った。
扉が消えるのを確認すると、京楽と浮竹、そして義骸に入った女は歩き出す。
踏み締められた落ち葉がカサリと乾いた音を立てた。
三人が訪れた通りは、様々な衣装を着た子供達で賑わい始めている。
左右に立ち並ぶ家々の窓やドアにはハロウィーン用の装飾が施されていた。
数歩歩いた後、とある家の前で女の足が止まる。
京楽がちらりと盗み見ると、女の横顔は強張り、唇は微かに震えていた。
「ここで、間違いないんだね?」
「……はい」
「そうかい……」
女は今、12年ぶりに自宅の前に立っている。
それは、女の記憶にある家と同じだろうか。
それとも、最早女が住んでいた当時の面影は残っていないのだろうか。
12年という歳月は死神にとっては瞬く間に過ぎる。
だが、人間だった女にとってそれはあまりにも長い時間だった。
現世を離れて過ごした12年は、女にとってどれ程の重みを持つのだろうか。
複雑であろう女の胸中に思いを巡らしながら、京楽は再び口を開いた。
「僕と浮竹は少し離れた所で見てるから。何かあったらすぐ呼んでね」
「はい、ありがとうございます」
緊張しているのか、女の声は掠れている。乾いた唇を何度も舌で湿らせていた。
「それじゃあね。行こうか、浮竹」
「成功を祈ってるよ」
女の傍から離れると、京楽と浮竹は道路の向かいに移動した。
人間に二人は見えないのだからもっと近くにいても構わないのだが、家族との再会を邪魔してはいけないとの配慮から女と距離をとることにしたのだ。
二人が見守る中、女は門を開けて中に入る。そして玄関のドアの前に立つが、その場に固まってしまったように動かない。どうやらチャイムを押すのを躊躇っているようだった。
「無理もない。12年ぶりに家族に会うのだからな」
「どんな顔をすればいいのか分からないのかもしれないねぇ」
気を落ち着けようとしているのか、女が大きく深呼吸をするのが見える。何度も深呼吸を繰り返す所を見ると、中々決心できないようだ。
「何だか見てるこっちまで緊張しちゃうよ」
「そうだな……ん?」
玄関の前で女が迷っている間に、何処からか5、6人の少年達が女の家の前に集まってきた。少年達は海賊や魔法使い、カボチャやドラキュラといった思い思いの仮装をしている。
この家で集まる予定だったのか、浮竹達の見ている前で少年達は門を開けて敷地内へ入っていった。
「どうする?」
「うーん、困ったねえ」
「おい!」
これは予定を変更した方がいいだろうかと二人が思い始めた時、少年の一人が女に声を掛けた。
「え!?わ、わた、いや俺?」
「他に誰がいるんだよ」
深呼吸するのに集中し過ぎて背後に集まった少年達に気付かなかったのか、女は突然声を掛けられて酷く慌てている。そんな女を少年達は不審げに見詰めた。
「お前もお菓子を貰いに来たんだろう?さっさとチャイムを押せよ」
「え……う、うん」
「お前さ、この辺じゃ見ない顔だな」
「そういえばそうだな」
「この通りに住んでいる子供は全員顔見知りだからな。お前、何処から来たんだ?」
「え?そ、それは……」
子供達に次から次へと質問されて女はどうしていいか分からないのか、言葉に詰まっている。
「出直した方が良いんじゃないか?」
「ちょっと待ちなよ」
女を連れ戻すために駆け寄ろうとした浮竹を京楽が引き止める。
何故止めるのかと問うような浮竹の視線に、京楽は
「もう少し様子を見よう」
と、言って女の方へ顎をしゃくってみせた。
京楽に促されて浮竹が再び女へと視線を向けると、落ち着きを取り戻したのか少年達相手に何とか会話をしている女の姿が目に入った。
「えっ……と、そ、そうだ!実はつい最近この街に越してきたばかりで知り合いはいないんだ。新しい学校には来週から通うことになってる」
「あー、だから一人なのかー」
「この辺の奴は大体皆仲の良い友達同士で集まって家を回るんだぜ」
「お前、一緒に回る奴がいないなら、俺達と一緒に来るか?」
「いいの?」
「人数は多い方が楽しいからな」
「あ、でも後一人この家の奴も一緒なんだ」
そう言うが早いか、海賊の衣装を着た少年がチャイムへと手を伸ばす。
ピンポーン、と小気味良い音が玄関に響いた。
数秒の後ガチャ、と音を立てて扉が開く。それと同時に少年達は
「Trick or Treat!!!!」
と、揃って大声を上げた。
「Happy Halloween!!!」
「皆、いらっしゃい」
「!!」
そう言って家の中から出てきたのは、魔法使いの仮装をした12歳位の少年と、少年の母親らしい赤毛の女性だった。
知らない女性の登場に、女も、そして遠くで見ている京楽と浮竹も動揺を隠せない。
そもそも女の家族が12年間同じ場所に住んでいるとは限らないのだ。引越しの可能性に思い至らなかった自分達の甘さに、浮竹は内心で舌打ちをした。
女――外見は少年だが――が戸惑っている間に、魔法使いの少年はドラキュラの少年とおしゃべりを始め、赤毛の女性は袋詰めにされたクッキーを子供達一人一人に分け与える。気が付くと女の手にも可愛らしくラッピングされたクッキーが乗っていた。
しかし、予想外の出来事はこれだけではなかった。
全員にお菓子が行き渡り、さて皆で出掛けようという時になって、
「おーい、大事なもの忘れてるぞ」
と、家の奥から少年の父親らしき男性が現れたのだ。
その瞬間、身体中に電流が走ったように女がびくっとする。
女の瞳にじわりと涙が浮かぶのを、京楽と浮竹は見逃さなかった。
この男性は女の夫だった人間だ。
二人はそう直感した。
女の夫がいるということは、ここは女の家に間違いない。やはりあの少年は女の息子なのだ。
そして、恐らくあの赤毛の女性は彼の現在の妻だ――。
「あ、ほんとだ」
「これが無いと只の魔法使いになっちゃうじゃないか」
そう言って笑いながら少年の額に稲妻型のシールを張ると、男性はぽん、と少年の頭に手をやる。
父親に頭を撫でられるのは嬉しいが、友達の前ということで気恥ずかしくもあるらしく、少年の笑顔は少し照れたように赤かった。
「ありがとう、父さん」
「楽しんで来るんだぞ」
「いってらっしゃい」
「うん、行ってきまーす!」
元気よく挨拶をして女の家後にすると、少年達は次の家へと向かうべく通りを歩き出した。
女は最後尾にいる。京楽と浮竹はさりげなく女に合流した。隣を歩く二人に気付いても、女は何も言わなかった。
「あれ?こいつ、誰?」
不意に女の息子が不思議そうに声を上げる。仲間の中に見慣れない少年の姿を見付けて驚いたのだ。
「最近越してきたらしいぜ。一人だったから仲間にいれてやったんだ」
「ふーん」
新入りに興味を持ったのか、魔法使いの少年が女の元へ近寄って来た。
母と息子の急接近に、浮竹は思わず息を呑む。女もまた、緊張しているようだった。
「それ、狼男だよな?凄いな、本物の毛皮みたいだ」
「そ、そうかな?そう言えば、元々は特注品だったってお店の人が言ってたかも……」
「ちょっと触ってみてもいいか?」
「え?あ、うん……」
浦原特製の狼男の着ぐるみが相当気に入ったのか、少年は女の肘の辺りの毛皮を撫でては
「フカフカだー」
と、感動している。年頃の子供らしい仕草からは、少年の家族を訪れた不幸など微塵も感じられない。
目の前の少年が死んだ母親などとは夢にも思わず、女の息子は只無邪気にハロウィーンを楽しんでいた。その様子にふと浮竹の目頭が熱くなった。
こんな形とはいえ、あれ程会いたいと願い続けていた息子との再会を女は果たすことが出来た。その胸の内にはどんな思いが渦巻いているのだろうか。成長した息子を目にして、母として何を感じているのだろうか。
「な、なあ」
「ん?」
「このクッキー、お前のお母さんが作ったのか?」
唐突に女が発した問いに、京楽と浮竹ははっとして顔を見合わせた。
女が何を意図してそんな質問をしたのか、痛い程分かる。しかし、返ってくる答えは女を傷付けるだけではないかと、二人は危惧せずにはいられなかったのだ。
それでも、浮竹も京楽も女の方を向こうとはしない。
女がそれを望まないことを承知していたから。
「ああ、母さんの手作りさ。あ、だけどあの人は俺の本当の母さんじゃないんだ。俺の本当の母さんは、俺を産んだ時に死んじゃったんだって」
「……そうなのか?ゴメン、そんなこと聞いちゃって」
「気にすんなよ。母親って言ったって顔も覚えて無いんだぜ?写真は見たことあるけど。今の母さんは俺が5歳の頃に父さんと結婚したんだ。妹もいるぜ」
「へ、へえ……」
自分の死について息子が語るのを、女はどんな思いで聞いているのだろう。
夫と息子が妻であり母である自分の死を乗り越え、前へ進んでいるという事実をどう受け止めているのだろうか。
女は何故あんな質問をしたのかと、浮竹は憤らずにはいられなかった。
悲しむことになると知りながら、それでも尋ねずにはいられなかったのか、と。
同時に、浮竹は女と息子を引き合わせてしまった自分を責めずにはいられなかった。
こんなことになるのなら、無理にでも女を尸魂界へ連れ帰るべきだったのだ。
自分の浅はかさが悔しくて、浮竹はぎりりと唇を噛んだ。
頑なに女から視線を逸らしてはいるが、肩の震えは隠せない。
「……今のお母さんのこと、好きなんだ?」
「ああ!!母さんは本当の母さんじゃないけど、俺にとっては最高の母さんなんだ!」
少年の無邪気な言葉が浮竹の胸に鋭い刃となって突き刺さる。
女はずっと息子に会いたいと願い続け、やっと今日その願いが叶った。
その結果がこれなのだ。
これが、世界が女に与えた運命なのだ。
これが、非情な世界で生まれ、死ぬということなのだ。
母を知らない息子が悪い訳ではない。再婚した夫が悪いのでもない。
只、これが現実だというだけなのだ。
世界の正義は個人の感情など考慮しないのだ。
そんなこと、分かっているつもりだったのに――。
世界の無情さを改めて目の当たりにして、浮竹はどうしようもなく泣きたくなった。
そんな時、す、と横から京楽の手が伸びて浮竹の手を捉えた。そして、そのまま痛い程に強く握り締める。
はっとして浮竹は京楽へ顔を向けるが、京楽の表情は笠に隠されていて見えない。只、浮竹の手を握る力の強さだけが、京楽の心の内を物語っていた。
(この手だけは絶対に離さない――)
そう心に誓いながら、浮竹は京楽の手をぎゅっと握り返した。
女と息子が他愛無い会話を続ける横で、京楽と浮竹は手を繋いだまま黙って歩き続ける。
ハロウィーンのさざめきが、夜の街を満たしていった。
***
そして三人は帰路に着いた。
断界を歩きながら、女はずっと泣いていた。
女の涙に気付きながらも、京楽と浮竹は何も言わなかった。
***
「今日は本当にありがとうございました」
穿界門で義骸を門番に預けた後、自分を流魂街の家まで送り届けてくれた京楽と浮竹に向かって、女は深く頭を下げた。
「いや、こっちこそ、大したことは出来なくて……」
しかし、浮竹は女に礼を言われても複雑な思いだった。
結局自分達のしたことは女を傷付けただけで、礼を言われるようなことは何一つしていない。
二度と顔を見たく無いといわれても仕方が無いとすら思っていた。
「そんな顔しないで下さい。本当にお二人には感謝しているんです。あの子に会えて……幸せでした」
「でも」
浮竹の視線が女の頬にある涙の跡に向けられる。
「ああ、これですか?嬉しくて泣いてたんです。あの子が元気に成長していて、仲の良い家族に囲まれていてるみたいで嬉しくて。あの子、とても良い笑顔をしていました……あの女性も、良くしてくれているみたいですし。親子の仲も上手くいってるみたいで安心しました」
「でも、君はそれでいいのかい?」
堪らず浮竹はそう尋ねた。
自分の息子に忘れ去られても、それでも幸せだと言うのか。
それでも息子を想い続けるというのか。
「はい。あの子が幸せなら、それでいいんです」
そう言って女はふわりと微笑んだ。
美しい笑顔だった。
*
女が家の中に消えた後も、二人はその場に佇んでいた。
「お前はこうなることを予想していたんだろう?」
視線を女の家に向けたまま、浮竹がぽつりと呟く。浮竹の質問の意味を悟って、京楽はこくりと肯いた。
「……人間は、いつまでも一つの所に留まってはいられない生き物だからね。もしかしたら、とは思っていたよ」
「それでもお前は彼女を止めなかったんだな」
「彼女はそれすらも覚悟していたと思ったんだ。浮竹だって、知っていたとしてもきっと止めなかったよ」
「……そうだな、そうかもしれない」
別れ際の女の表情を思い出しながら、浮竹は瀞霊廷への道程を歩き出す。
京楽も浮竹の後に続いて歩き出した。
「いい表情していたね」
「ああ、眩しいくらい綺麗な笑顔だった」
家路を照らす夜空の月は、煌々と銀の光を放っている。
月光に洗われた流魂街は、静寂に包まれて眠っていた。
「人間は凄いな。愛する者が自分のことを忘れてしまっていても、それでも相手の幸せを願い続けられるなんて」
「無償の愛、って奴なのかな」
「なあ」
「なんだい?」
「もし、俺がお前のことを忘れてしまっても、お前は俺を愛してくれるだろうか?」
浮竹の問いに答える代わりに、京楽は前を行く浮竹の手を引いて抱き寄せた。腰に回された腕に応えるように、浮竹もまた京楽の背中へと手を伸ばす。
浮竹には、届かない想いを抱えて生き続ける者の気持ちは分からない。
叶わぬ願いを持ち続ける者の心は分からない。
浮竹に分かるのは唯一つ。
この腕の中の存在を、決して離さないということだけだった。
07.11.10