Friendship is far more tragic than love.
It lasts longer.
友情は愛よりはるかに悲劇的だ。
友情の方がより長く続くから。
― オスカー=ワイルド
The Happy Prince
水羊羹片手に雨乾堂を訪れると、熱を出して寝込んでいるとばかり思っていたその部屋の住人は布団に寝転んだまま本を読むのに夢中になっていた。
「浮竹、もう具合はいいのかい?」
お見舞い品だよと言って手にした包みを渡すと、浮竹は子供のように顔を輝かせて身体を起こした。
僕はいつものように勝手に座布団を出して座ると、浮竹の肩が冷えないように枕の傍に畳んであった半纏を掛けてあげた。
「京楽!来てくれたのか。熱は大したことないのだが海燕達が大事を取って寝てろってうるさくてなあ。仕方が無いからこうして床に就いてはいるんだが、どうにもすることがなくて退屈でな。」
「ははは。皆浮竹のことが心配なんだよ。ところで何を読んでいたんだい?」
「ああ、これか?現世で朽木が買ってきてくれたオスカーワイルドの本だよ。これは「ドリアングレイの肖像」で、こっちはワイルドの童話集。
ほら、前に二人で彼の劇を見に行っただろう?とても面白かったと前に言ったのを覚えていてくれたんだな。」
「ああ、The Importance of Being Earnestだっけ?確かに良かったよね。僕はあんまり喜劇に興味が無いけど、あれは素直に面白いと思ったよ。」
どういう経緯で浮竹と劇を観に行くことになったのかは全然覚えていないのだけど、オスカーワイルドというアイルランド人の喜劇を観て大笑いしたのは覚えている。
僕は100年前のイギリスの上流階級の生活がどういうものかよく知らないけれど、ワイルドの風刺が効いた喜劇から察するに礼儀作法にうるさい格式ばった、はたから見れば馬鹿馬鹿しい生活様式
だったんだろう。ま、貴族の生活なんてどこもそうなのかもしれないけれど。
「で、今読んでるのはなんだい?」
「オスカーワイルド語録。ワイルドの数々の名言を本にしたらしい。」
「へええ。本になるほど名言を残したっていうのかい?すごいねえ。」
そう言えば、もし出典がわからないのなら全ての引用文はジョージ=バーナード=ショーかシェイクスピアか聖書かキプリングかワイルドから引用したと言っておけば間違いない、みたいなことを誰か
が言ってたっけ。それくらい有名だったら名言集があっても不思議じゃないのかなあ。
「それで何か面白い名言はあったのかい?」
「ああ、そうだな。これなんかお前にはぴったりじゃないか?」
ぱらぱらと頁を捲ると、浮竹が綺麗な発音で
「Fashion is what one wears oneself. What is unfashionable is what other people wear. (ファッションとは自分が身に着けているもの。ファッショナブルでないのは他人が身に着けているもの。)」
と読み上げた。
「ああ、それいいねえ。わかるなあ。自分の衣服に対する美学みたいなものがあるんだよねえ。」
「そうなのか?俺にはわからないなあ。着られればなんでもいい気がするが。」
「あはは、浮竹はそうだよねえ。ね、他には?」
「そうだなあ…。あ、これはいいぞ。My own business always bores me to death. I prefer other people’s. (自分に関する物事はいつも死ぬほど退屈だ。他人のがいい。)」
「ああすごくわかる!自分のことだと面倒くさいけど可愛い女の子のためならどんな努力も出来るからねえ。いやあ、うまいこと言うよ。」
「少し意味が違う気がするのだが…。ああ、次のは京楽そのままだぞ。I never put off till tomorrow what I can possibly do – the day after. (物事を明日に持ち越したりしない―明後日出来ること は。)」
「うーん、やっぱりワイルドって天才だったのかなあ。ホントうまいこと言うよ。って言うか僕達お友達になれそうだなあ。思考回路が似てるんだよね。」
「俺はWhenever a man does a thoroughly stupid things, it is always from the noblest of motives. (人が全くのばかをやらかす時はいつでもとても立派な動機からなのだ。)って言葉に共感するな。
後先考えてうまく立ち回ることが出来ない性分だから、他人から見ればばかなことをしていることが多いのかもしれない。」
「何言ってるのさ、そこが浮竹の良いところなんじゃないか。それに何が馬鹿なことかは他人が決めるものじゃないよ。」
「そうか?でもそう言われると嬉しいよ。ありがとう、京楽。」
それに、体裁だけ繕う狡賢い奴なんかより、浮竹はずっと真っ直ぐで綺麗な心根を持っているじゃないか。僕はそんな君が好きなんだよ。
そんなこと面と向かって言えないけれど。
「それより、これはどうだい?The old believe everything; the middle-aged suspect everything; the young know everything. (老人は全てを信じ、中年は全てを疑い、若者は全てを知っている。)だっ
てさ。」
「うーん、これはあまり賛成できないなあ。確かに若い頃は何もかも白黒はっきりして融通の利かないところはあったが、歳を取るにつれて信じるべきものもあれば疑うべきものもあると思うようになっ
てきたしなあ。」
「そうだねえ。まあ思考が柔軟になったと言えば聞こえはいいけど、やっぱり若い頃の勢いというか自分に対する絶対的な自信を失ったってことなのかな。」
「うわあ、京楽親父臭いな、その言い方。」
「え!ひどいよ!浮竹が言い出したんじゃないか!」
傷ついた振りをする僕に浮竹が溜まらず笑い出す。
そんな浮竹を横目に、僕は心の中でほっと溜め息をついた。
だって、僕達が今読んでいる頁にあるもう一つの文を浮竹には気付いて欲しくなかったから。
Young men want to be faithful, and are not; old men want to be faithless, and cannot. (若者は忠実になりたいと願うがそうではない。老人は不実になりたいと願うがそうなれない)。
ワイルドっていうのは本当に核心を突く天才だ。
もう千年以上も浮竹だけを想い続けている僕は、きっとこの言葉どおりの不実になりたくてもなれない老人なのだろう。浮竹以外を好きになりたいと願うのに決してそうなれない僕は、愚かな老人のカ
リカチュアだ。
「それにしても、俺にはワイルドの喜劇やこういった皮肉の聞いた言葉の印象が強かったから、幸福な王子の作者がワイルドだと知ってひどく驚いたんだよな。」
「幸福な王子って、あの童話の?あれってこの人が書いたお話なのかい?意外だなあ。」
「そうだろう?俺もてっきりワイルドはシニカルな話ばかり書いたものだと思ってたんだ。ドリアングレイの肖像だって、面白いけれど感動するって話ではないだろう?どちらかというと幸福な王子と一緒に
出版された『ナイチンゲールと薔薇』みたいな話ばかり書くものだと思ってたんだ。」
「ナイチンゲールと薔薇」とは、紅い薔薇がないから教授の娘と踊れないというある学生の嘆きを聞いたナイチンゲールが、白薔薇の棘で自分の心臓を刺すことで薔薇を紅く染めたけれど、その薔薇を
贈っても結局教授の娘は学生と踊ってはくれなかったから、学生は真実の愛なんてものを信じるのはやめ薔薇の花は道端に捨てられてしまったっていう、なんというか非常にシニカルなお話のこと
だ。
確かに浮竹の言うとおり、この話の方が皮肉屋なワイルドらしい気がする。
ナイチンゲールが学生の恋のために命を捧げても報われないどころか、むしろ学生のために死んだナイチンゲールが間抜けみたいな話は、どこかドリアングレイやThe Importance of Being Earenstに
通じるものがある。
なんというか、ワイルドの作品は、幸福な王子のように博愛を賛美するような、ある意味非常に古典的な童話とはほど遠いところにあるものだと思っていた。まあ、確かに宝石や金箔が剥がれてみす
ぼらしくなった王子の像とツバメの死体が捨てられてしまうのだけど。でも二人とも最後には天国へ行ったのだから、やはりハッピーエンドなのだろう。
「なんとなく、だけど俺には幸福な王子を書いたワイルドが真実のワイルドの姿なんじゃないか、って思うんだ。」
「どういうことだい?」
「ほら、ワイルドは自分の性的嗜好を隠さなければならなかっただろう?当時同性愛は違法だったからな。だから本当の自分を隠すために、機知とユーモアに富んだ人間を演じなければいけなかった
んじゃないのかな。皮肉や風刺も本当は誰よりも繊細な心を隠すための仮面だったような気がするんだ。別人を演じることでしか生きていけなかった。だからMan is least himself when he talks in his
own person. Give him a mask, and he will tell you the truth. (人がありのままの姿で語るとき、その本音とははるか遠いところにいる。仮面を与えよ、人は真実を語るだろう。)って言葉は、ありのま
まの姿でいられない自分への皮肉だったんじゃないかと俺は思うんだ。」
そう語る間浮竹はじっと僕を見詰めていて。
僕はその視線の意味を計りかねて、何も言えずに浮竹を見つめ返すことしか出来なかったんだ。
ワイルドも叶わぬ想いを胸に秘めて、それを隠すために道化者の仮面を被っていたのだろうか。僕が浮竹への恋を隠して親友の振りをしているように。
「A man can be happy with any woman as long as he does not love her. (男はどんな女性とでも幸せでいられる、その女性を愛していない限りは。)」
「え?」
突然の浮竹の言葉に、僕は心臓が止まるかと思った。
それもまたワイルドの言葉だというのは頭でわかっていたけれど、まるで僕自身のことを言われているような気がした。
浮竹、どうしてそんなことを言うんだい?
君は、もしかして。
「What is good of friendship if one cannot say what one means? Anybody can say charming things
and try to pleasure and flatter, but a true friend always says unpleasant things, and does not mind
giving pain. (本心を言えないような友情の美点とは何か?誰だっていいことを言ったり喜ばせたり
お世辞を言ったりできるのだ。でも真の友人はいつも不快なことを言って、痛みを与えるのもいとわない。)」
君は、僕の気持ちを。
「なあ京楽、お前はよく俺のことを優しい男だと言ってくれるだろう。でも、その意味を考えたことがあるか?」
浮竹が何を言っているのか、何を言おうとしているのかわからない。
聡明だと言われるこの頭脳はこんな時、何の役にも立ちはしない。
「One can always be kind to people about whom one cares nothing. (どうでもいい人間に対してはいつだって親切になれる。)」
「浮竹…。」
「でも裏を返せば、大切な人ほど傷つけてしまうことが多いってことなんだろう。好きな人ほど執着して、嫉妬してしまうから。」
浮竹の瞳に捕らえられて、僕はまるで金縛りにあったように動けない。
「俺は、お前に対して優しいかな?」
ごくりと唾を飲み込む音が、やけに大きく雨乾堂に響いた。
ああ、こんな時にthe importance of being earnest(真面目が肝心)だと悟るなんて。
やっぱりワイルドは天才だ。
12.03.09