浮竹の浅い呼吸が雨乾堂を満たす。
窒息しそうなほどの重苦しい静寂が支配する闇夜に、苦しげに繰り返される浮竹の呼吸はひどく大きく響いた。
布団で眠る浮竹の顔は、少し血の気が戻ったとはいえまだ普段よりずっと青白い。
時折苦痛に顰められる眉を見詰めながら、京楽はきつく唇を噛んだ。
突然浮竹が京楽の目の前で倒れた時、京楽に出来たのはただ何度も浮竹の名前を呼ぶことだけだった。
京楽の叫び声に驚いて何事かと駆け付けてきた仙太郎と清音が四番隊に連絡し浮竹を寝かせるための布団を敷く間も、京楽は浮竹を強く抱きしめたまま身動き一つ出来ずにいた。
卯ノ花によれば浮竹が失神したのは寝不足と疲労から来る単なる貧血によるものだということだ。京楽が記憶喪失になってしまってからここの所気が張り詰めていた上に、昨夜は虚の討伐に駆り出され、
更にその前の晩は布団にも入らずに眠ってしまったのだから浮竹が体調を崩しても無理は無かった。
大したことは無いと聞いてがくりと肩の力を抜いた京楽に向かって、こちらもほっとした様子の卯ノ花がこれなら発作の心配は無いから大丈夫ですと笑いかけた。
見るからに不安げな表情の京楽を安心させるために卯ノ花はそう告げたのだったが、それは全くの逆効果で、卯ノ花の言葉を聞いた京楽は安堵するどころか驚きに全身を硬直させた。
発作とはどういう意味なのか。
浮竹は発作を起こす心配がある程の重病を患っているのか。
浮竹が京楽に告げていないのなら自分が話すべきことではないと言葉を濁す卯ノ花を、京楽は無礼とも言える勢いで問い質した。
そして初めて、浮竹の肺病について聞かされたのである。
「十四郎さん…どうして教えてくれなかったんですか……?」
京楽が美しいと感じた白い髪は、浮竹を蝕む病魔が残した傷跡だった。その髪を綺麗だと言われて、浮竹は何を感じたのだろうか。
「どうして……?」
愛煙家だったはずの京楽が禁煙したのは、全て肺を患う浮竹のためだったのだ。
「何も言ってくれなかったんだ……!」
浮竹の病について聞かされたからといって自分に何か出来るわけではないことくらい京楽にも分かっていた。卯ノ花ですら治すことの出来ない病を治癒鬼道を知らない京楽がどうにか出来るわけはないのだ。
それに、優しい浮竹のことだから余計な心配を掛けまいと自分の身体が弱いことを黙っていたのだろうということくらい京楽にも想像がついた。
(僕が無力だから、十四郎さんは何も言わなかったんだ・・・)
肺に巣食う病魔と闘い、虚と戦い、内も外も血の紅に染まりながら、浮竹という男は決して穢れることなく、心荒むことなく、真っ直ぐ生きてきたのだ。
ただ、真っ白に光り輝き続けてきたのだ。
浮竹の強さの前では、自分はあまりにも弱くちっぽけな存在だった。
惨めさに打ちひしがれながら京楽は両手をきつく握り締める。膝の上の拳は記憶にあるそれよりも大きく力強いが、変わったのは外見だけで結局自分は子供のままだった。
ただ守られているだけの、そして自分が守られていることにすら気付かない、無知で無力な子供だったのだ。
悔しくて、情けなくて、涙が出そうだった。
「・・・んん・・・」
浮竹が小さく身じろいだのを感じて京楽は項垂れていた顔を上げる。気が付いたのかと京楽は急いで浮竹の顔を覗き込んだ。
「・・・・・・るし・・・・・・」
「え?」
微かに動いた唇から漏れた声はあまりにも小さくて京楽には聞き取れない。もっとよく聞こえるようにと京楽は浮竹の唇へと耳を近付けた。
「・・・・・・くるし・・・い・・・た・・・けて・・・・・・」
瞳をきつく閉じたまま、苦痛に耐えるように呟かれたうわ言は、助けを求める浮竹の心の叫びだった。
何かを求めるように震える手は虚空を彷徨う。唇は声にならない言葉を何度も何度も形作っていた。
「十四郎さん・・・貴方は・・・」
自分が苦しむ姿を他人に見せないだけで、浮竹だって苦しんでいる。
けれど、苦痛に身を裂かれそうになりながらも助けを求める術を知らないからたった一人で全てを抱え込むことしか出来ないだけなのだ。
誰かに手を差し伸べて欲しくても、どうやってその手を求めればいいのか分からないのだ。
でも、本当は浮竹も苦しいのだ。
何かに縋らずにはいられないほど、苦しくて苦しくて仕方ないのだ。
そう悟った瞬間、どうしようもない程の愛しさが京楽を包み込んだ。
眩しいほどに強い心を持つ浮竹が、ほんの一瞬垣間見せた弱さ。そんな弱さを胸の内に抱えて孤独に苛まれながら、それでも必死で生きている浮竹が愛しくて愛しくて堪らなかった。
こんな感情は知らない。
こんな思いを経験したことなど無い。
ただ一人の誰かを愛おしみ、慈しみたいと思うなんて。
自分の全身全霊を懸けて守りたいと思うなんて。
この崇高な想いが愛だというのか。
空よりも広く
海よりも深く
太陽よりも温かく
月よりも優しく
星よりも美しい
これは宇宙そのものだ。
これが愛なのかと京楽は身震いする。
自分の心にこれ程までに尊い感情が生まれるなんてと畏敬の念を抱かずにはいられなかった。
「僕には貴方を苦しみから救うことは出来ないかもしれない。でも、貴方は一人で苦しむ必要は無いんです。僕は貴方が苦しい時はいつも傍にいると約束します。貴方が辛い時、手を握ると約束します。
貴方は一人じゃない。」
伸ばされた浮竹の手を両手でそっと包むと、京楽は小刻みに震える白い指先に優しく口付けを落とした。
どうしてこんな簡単なことが分からなかったのだろうか。
浮竹が男だからとか、自分がヘテロセクシュアルだとか関係ない。友情だとか恋だとか、名前など関係ない。
愛とは全てを超越したもの。
愛の前では全ては些細なことなのだ。
ただ、浮竹が愛しくて。
浮竹が生きていることが嬉しくて。
浮竹が自分の全てだと感じることが愛するということなのだ。
世界を美しいと思い、生きることに歓びを見出す、それが愛なのだ。
(そうか・・・・・・十四郎さんがありのままの僕を受け入れてくれた時に、僕はもう既に彼を愛していたんだ・・・・・・・)
浮竹が京楽の胸に灯したのは愛の光。愛の炎。
愛とは光。
愛とは生命。
愛は奇跡
愛は恩寵
そして、天から降り注ぐ恵みの雨のように心を潤していく。
「愛しています、十四郎さん」
愛の言葉と共に一粒の水晶のような涙が浮竹の手に落ちる。
堰を切ったように溢れ出す涙は、決して涸れることの無い浮竹への愛のように止め処なく流れ続けるのだった。
*****
浮竹が目を開けて最初に目に入ったのは、心配そうに自分を覗き込む京楽の姿だった。
またお前にそんな顔をさせてしまったのかと、朦朧とした頭で思いながら浮竹は京楽に向かって弱弱しく微笑んだ。
「春水・・・すまない、また、心配をかけてしまったな・・・・・・」
浮竹の言葉に京楽は一瞬驚いた表情をしたが、すぐに口の端を上げて笑みを作る。
「謝るくらいなら早く元気になっておくれよ。そして、また一緒に飲みに行こう」
「酒よりも、甘いものが食べたいな・・・」
「分かったよ。君の体調が良くなったら一緒に甘味処に行こうか。だから今はゆっくり身体を休めるんだよ」
そう言って京楽は浮竹の頭を撫でてにこりと笑った。感じる手の重みの心地良さに、次第に浮竹の目がとろんとし始める。
「お休み・・・・・・十四郎」
既に半分夢の世界にいる浮竹の耳に京楽の声が子守唄のように響く。
ああ、やはり春水に名前を呼んでもらうのはいいと浮竹はぼんやりと思う。京楽の低い声が紡ぐと、自分の名すら壮麗な音楽のようだ。
「ありがとう、春水」
京楽の体温と匂いを感じてふわふわと気持ちの良い感覚に包まれながら、浮竹はそっと目を閉じた。
眠りに落ちる寸前、何か柔らかいものが額に触れた気がした。
*****
「待ってください!京楽隊長!!京楽隊長!!!」
早足で自分の前を歩いていく京楽を七緒は必死で呼び止めようとするが、京楽は全く耳を貸さない。不穏な霊圧を放ち厳しい表情の京楽に、すれ違う八番隊隊士達は皆一様に怯えて壁際に身を寄せる。
そんな周りの様子すら眼に入っていないのか京楽はただひたすら歩き続ける。足は八番隊の道場に向かっていた。
浮竹が目を覚ましてまた眠りに落ちたのを確認すると、浮竹の世話は清音達に任せて京楽はすぐに八番隊の自室に戻った。
そして花天狂骨を掴むと七緒に道場まで案内するように頼み、そのまま脇目も振らずに歩き出したのである。
触れれば切れそうな霊圧を発する京楽に何事かと七緒はうろたえ、何とかして京楽と話をしようと試みたが全て徒労であった。
「ここですね?」
そうしている間に道場の入り口に到着する。
「この道場全体に結界を張ってもらえますか?それから僕が出てくるまでは決して誰もここに近付けないで下さい」
「い、一体、何をなさるおつもりですか?」
振り返って七緒を見詰めた京楽の瞳には暗い光が宿っていた。
まるで底無し沼のような感情の読めない目に、ぞっと七緒の背筋が凍える。
「斬魄刀と、『対話』するんだ」
10.09.09
京楽さんは浮竹さんの強さに惹かれたけれど、愛したのは彼が弱い部分もちゃんと持っていることに気付いたからじゃないかなあと思っています。
というかお互いの強さも弱さも綺麗なところも醜いところも全部ひっくるめてありのままの姿を受け入れることが真実の愛だと信じたいです、はい。
後もう少しだ!