「春水っ……」
切なげに京楽を求める声が、薄暗い部屋に木霊する。
艶の混じった己の声が酷く大きく耳に響いて、浮竹は堪らず羞恥に頬を染めた。
しかし、絶え間なく京楽から与えられる快楽に浮竹の思考の自由はとっくに奪われている。
京楽の巧みな技術に翻弄される身は、嬌声を抑える術を持たなかった。
「やっ……も、駄目……だ……」
大きく胸を上下させて、限界が近いと浮竹が訴える。
その哀願に応えるように、京楽の動きは一層激しさを増した。
『十四郎』
京楽に名前を呼ばれた気がして、浮竹ははっと目を開ける。
しかし、聞こえてくるのは京楽の熱っぽい息遣いと自分の口から漏れる喘ぎ声だけだった。
(……足りない…………)
こんな時、必ず自分の名を呼んでくれる声が聞こえない。
それだけで浮竹の心にぽっかりと穴が開いたように、どこか心許ない気持ちになる。
京楽の声が聞こえないだけで、浮竹は正体の見えない不安に駆り立てられる。
「しゅん、すいっ……春水……」
貫かれて、一つになって。
追い詰められて、何もかも暴かれて。
おかしくなりそうな程の快感に、身体ごと意識が持っていかれそうになる。
快楽の頂点に達する、その寸前に感じる刹那の恐怖。
もう何度も京楽と身体を重ねたというのに、未だに達する直前に浮竹は僅かな恐怖を感じてしまう。
それはきっと、身体の中に異物を受け入れたまま、全てを他人の前に曝け出すことへの本能的な恐怖だ。
どれ程京楽を愛していても、所詮京楽と浮竹は別個の存在だ。
「他者」同士でしかありえない。
それ故に、京楽を受け入れ二人一緒に同じ高みへと上り詰めるこの行為は、同時に自分達は決して一つにはなれないのだと浮竹に痛感させる。
内も外も、京楽に関することなら全て知り尽くしていると信じているけれど、それはあくまで「浮竹」の知識でしかない。
浮竹が浮竹として得た、京楽という他者に関する知識でしかないのだ。
浮竹は京楽ではない。
浮竹は京楽にはなれない。
他者は何時だって自分とは異質の存在なのだ。
だからこそ、京楽という他者の前で自分を開け放つこの行為には、何時だって恐怖が伴う。
(ああ、そうか……怖くなかったのは、春水が俺の名前を呼んでいたからなんだ――)
京楽が自分の名を呼ぶ声が、何時だって身体の奥底から湧き上がる不安を取り除いてくれていた。
京楽が名前を呼んでくれるからこそ、恐怖を乗り越える勇気が浮竹の胸に生まれるのだ。
そして、その先にある至福の瞬間を二人で分かつことに喜びを感じる。
絶え間なく与え続けられる快感の中、僅かに混じる寂しさにも似た切なさ。
そして、それ以上に胸に溢れる京楽への愛しさに、浮竹の瞳から一筋の涙が零れた。
「愛してるよ」
絡められた指にぎゅっと力が込められる。
浮竹の存在が京楽で満たされた瞬間
愛してる、と声にならない言葉が耳の奥で響いた。
*
かさり、と何かが擦れるような音が聞こえた気がして浮竹は目を開いた。
いつの間に眠ってしまったのだろうかと記憶を探るが、寝起きの頭はふわふわしていて上手く働かない。取り敢えず立ち上がろうと身体を起こした拍子に、纏っていた着物がずり落ちる。
真っ白な羽織に黒く染め抜かれた「八」の文字を目にして、今自分が何処にいるのかを思い出した。
京楽は何処へ行ったのだろうと、浮竹は何気無く先程音がした方向へ目を向ける。すると、文机に座る京楽の姿が目に入った。
部屋着に着替えて髪を解いた寛いだ格好とは対照的に、その顔には深く考え込むように真剣な表情が浮かんでいる。
「何をしてるんだ?」
ごく自然にそう尋ねた浮竹に、京楽は特に驚いた様子もなく振り返る。浮竹を見ると眉間に寄っていた皺は消え、代わりにふ、と柔らかい笑みが現れる。
そしてさらさらと筆を動かしたかと思うと、浮竹の前にこんなことが書かれた紙を差し出した。
『君の事を想う気持ちはこんなにも胸に溢れているのに、いざその想いを言葉にしようとすれば「好きだ」とか「愛してる」とか、そんな在り来たりの言葉しか思い浮かばないんだ。
不思議だね』
「愛してる」とか「好きだ」とか。
それは京楽が自分の想いを浮竹に伝えるための言葉だ。
浮竹に自分の愛が届くようにと、何度も何度も祈るように囁く言葉だ。
京楽がその魔法の言葉を口にする度に、浮竹は幸せそうに笑ってくれる。
その笑顔を見る度に、京楽の胸は浮竹への愛しさで一杯になる。
だからこそ、京楽は何時だって崇高な思いで「愛してる」という言葉を呟くのだ。
しかし、そんな美しい言葉も、紙の上に書き出してみると酷く味気ない。
自分にとって大切な言葉は、実は酷くありふれたつまらないものだったのだろうか。
浮竹が眠っている間、京楽はそんなことを考えながら「愛してる」に代わる言葉を探していたのだった。
「……こんな言葉を聞いたことがあるか?」
黙って京楽の書いた文字を読んでいた浮竹が、ぽつりと呟いた。
顔を上げて真っ直ぐ京楽を見据えた瞳は、熱に浮かされたように潤んでいる。心成しか頬が赤い。
「『たとえば夫が妻に言う「愛しているよ」でも、言い方によって、陳腐なセリフにも、特別な意味をもった言葉にもなりうる。その言い方は、何気なく発した言葉が人間存在のどれくらい深い領域から出てきたかによって決まる。
そして驚くべき合致によって、その言葉はそれを聞く者の同じ領域に届く。それで、聞き手に多少とも洞察力があれば、その言葉がどれほどの重みをもっているかを見極めることができるのである』」
一気に早口で捲くし立てる浮竹に京楽は目を丸くするが、浮竹は構わず言葉を続ける。
身の内から突き上げる思いを、今すぐ京楽に伝えたかった。
眠りに落ちる前にぼんやりと考えていたことが少しずつ輪郭を持ち始め、やがて浮竹の中で確かな言葉となって胸の中で輝き出す。
「言葉は確かに不完全なものだ。でも、言葉は心と心を繋ぐ架け橋にもなり得るとは思わないか?俺は誰よりもお前のことを理解していると思っているし、俺とお前の魂は繋がっているとすら思っている。
それでも、お前が俺の名を呼ぶ時や、俺に好きだと言う時、お前の心をとても近くに感じるんだ。お前の声で『愛してる』と囁かれる時、俺達の魂が本当に一つになる気がする」
そこまで言ってから、浮竹はふぅ、と一息吐いた。京楽は浮竹の勢いに気圧されたのか、瞬きを繰り返している。
そんな京楽に、自分が随分と一生懸命だったことに気が付いて、浮竹は「馬鹿馬鹿しいかな?」と気恥ずかしそうにぽりぽりと鼻の頭を掻いた。
慌てて京楽はぶんぶんと頭を振って否定する。
『ううん、そんなことないよ。十四郎の言う通りだと思う』
急いで筆を走らせてそう書くと、京楽は浮竹を安心させるように笑った。目尻に浮かんだ皺が、京楽の言葉の真実を告げている。
良かった、と嬉しそうに微笑む浮竹を見詰めながら、京楽はやはり浮竹には敵わないと心の中で呟いていた。
何も不安になることなどなかったのだ。
美辞麗句を並べなくても、京楽の想いは確かに浮竹に届いている。
何故なら、京楽が発する愛の言葉は全て、京楽の心の奥底から生まれる浮竹への愛そのものだから。
「愛してる」のたった五文字に、京楽の存在全てが込められているのだから。
そっと浮竹の手を取ると、京楽は「愛してる」と一言一言区切るようにゆっくりと口を動かした。
この胸に溢れる愛が、浮竹に届くようにと願いを込めて。
「俺もだよ」
ぎゅっと京楽の手を握り返すと、浮竹は京楽の想いに応えるように「愛してる」と囁いたのだった。
07.09.10
文中の引用はシモーヌ・ヴェイユ「重力と恩寵」より。