「記憶喪失?」
「正確に言えば記憶を失ったのではなく、守るために封印したという方が良いかもしれません」
「貴方は誰?」と衝撃的な言葉を発した直後、京楽は再び意識を失った。
それからしばらくしないうちに卯ノ花率いる四番隊が断崖に到着して京楽の治療を開始した。
忙しく自分たちの周りを動き回る四番隊隊士達をぼんやりと眼で追いながらも浮竹はその場から動くことが出来なかった。京楽の手を握ったまま、浮竹はただ呆然としていたのだ。
何が起こったのか尋ねる卯ノ花の声にも反応しない浮竹に、卯ノ花は一瞬険しい表情で京楽と浮竹を交互に見ると躊躇うことなく浮竹に鎮静剤を投与したのだった。
浮竹が四番隊の医療ベッドの上で意識を取り戻した時、傍らに座っていたのは京楽の診察を終えた卯ノ花だった。
そこで浮竹は卯ノ花から京楽が記憶喪失であると聞かされたのである。卯ノ花は京楽を診断したその足で浮竹のもとへやってきたという。京楽の恋人である浮竹が京楽の容態を一番に知るべきだとの卯ノ花の配慮である。
「外部から侵入しようとした他者の記憶から自らの記憶を守るために、心を一時的に閉ざしたのでしょう。大切な思い出を守るために。ですから京楽隊長は浮竹隊長に関する一切を忘れています」
京楽が記憶喪失であるというだけでも浮竹にとっては相当な衝撃だというのに、卯ノ花によれば京楽は浮竹のことを全く覚えていないという。
あまりのことに浮竹は言葉を失った。
「つまり、浮竹隊長に出会ってからの記憶、院生になってからの記憶を全て忘れているのです。御自分が死神になったことすら覚えていません」
それはつまり過去二千年分の記憶を失くしたということである。
過去二千年、浮竹と共に過ごした全ての時間の記憶を。
「・・・俺のせいですか?」
自分が無理矢理術に干渉したからこんなことになったのか。京楽の記憶を奪ったのは自分なのかと浮竹は絶望に似た思いでそう呟いた。
しかし、卯ノ花ははっきりと首を横に振る。
「それは違います。他人の記憶が京楽隊長の中に入れば京楽隊長の身体はそのショックに耐えられず崩壊してしまっていたことでしょう。浮竹隊長のなさったことは正しい処置でした。
特殊な術が暴走したのです、この程度で済んで幸運だったと言えます。実際京楽隊長には外傷は全く無いのですから。」
そう言って卯ノ花は慰めるようにふわりと微笑んだ。
「浮竹隊長、記憶は確かに京楽隊長の心の中にあるのです。京楽隊長の中で眠っているだけなのですから、切っ掛けさえあれば必ず思い出せるはずです」
「卯ノ花隊長・・・」
卯ノ花の言葉は暗闇の中に差し込む一縷の光のように浮竹の胸に響いた。
希望を捨ててはいけない、諦めてはいけないのだと浮竹は心に刻み込んだのだった。
「卯ノ花隊長、どうすれば京楽の記憶が戻るのでしょうか?」
「・・・それは私にも分かりません。普通に生活をしているうちに突然思い出すかもしれませんし、あるいは思い出の場所や出来事のようなものをもう一度経験する必要があるのかもしれません。
こればかりは私にも言いかねます」
「そうですか・・・」
特殊な術の暴走に京楽の防衛本能が無意識のうちに働いた結果の記憶喪失であるため、どうすれば記憶が戻るのか、その方法は卯ノ花にもわからない。
出来る限り今まで通りの生活を送る中で記憶が戻るのを待つしかないのだ。
対処法が分からなければ浮竹に出来ることは無い。恋人の一大事にただ手をこまねいて見ていることしか出来ないのかと、己の無力に浮竹は歯痒い思いだった。
「卯ノ花隊長、京楽にはもう会えるのでしょうか?」
例え今は何も出来なくとも、京楽の無事な姿を見ればきっと安心できる。例え自分のことを忘れてしまっていても京楽が京楽であることに変わりは無いのだから。
浮竹はそう自分に言い聞かせた。
「・・・心の準備は出来ていますか?」
「はい。」
そう答えた浮竹の声は、微かに震えていた。
「わかりました。私からは、今が京楽隊長の覚えている時代から約二千年経っていること、京楽隊長が護廷十三隊八番隊長であることを話してあります。」
「それは・・・京楽は何と言っていましたか・・・?」
今の京楽は院生以前の記憶しかない。統学院に入った記憶すらないということだ。無理矢理学院に入れられるまで死神になるなんて考えたことも無かったと京楽は言っていた。
おそらく自分が死神になったなんて今の京楽には信じ難いことであろう。
「聡いお方ですから初めは信じられないようでしたが、鏡に映った御自分の姿を見て納得されたようです。ただ、自分が死神であるという事実には相当な衝撃を受けているように見えました」
「あいつは元々死神になる気など無かったようですから・・・むしろ死神を嫌っていたと言っていました。だから自分が死神であることが意外なのでしょう」
「そうですか・・・」
卯ノ花の言葉の後に短い沈黙が続いた。
会話が途切れたのを機に、浮竹はどうしても卯ノ花に聞いておきたいことを切り出した。
「あの・・・卯の花隊長・・・その、俺と京楽のことは・・・」
自分と京楽が恋仲であることを伝えてあるのかと浮竹は言外に尋ねているのであった。
居心地の悪そうにもじもじとしている浮竹を卯ノ花はじっと見つめるとゆっくりと口を開いた。
「私からは何も。それは浮竹隊長が御自分で話すべきことです」
*****
意を決してコンコンと浮竹が扉を叩くと「どうぞ」と言う声が返ってきた。
早鐘を打つ心臓を落ち着かせるためにひとつ大きく深呼吸をすると、浮竹は京楽にあてがわれた個室の扉を開けた。
浮竹が中に入ると、丁度ベッドの上で身体を起こそうとしている京楽が目に入った。
当たり前といえば当たり前のことだが、浮竹の目に映った京楽は、病院着を着ている他は外見上何の変化の無い、浮竹の良く知る京楽だった。
いつも通りの京楽の姿に安堵のあまり浮竹の視界は涙で滲んだ。
「きょうら・・・」
思わず京楽に駆け寄りそうになった浮竹は不意に動きを止めた。
浮竹を見つめる京楽の眼は、知らない者を見る眼だったからだ。
浮竹はそんな瞳で京楽に見つめられたことは無かった。浮竹を捉える京楽の瞳は、いつだって温かく優しい光に満ちていた。
本当に京楽は何もかも忘れてしまったのだと、浮竹の心は悲しみで押し潰されそうだった。
呆けている浮竹に向かって、不意に京楽が微笑んだ。赤の他人に向けるような、作られたようなその笑みに浮竹の心がまた痛んだ。
「卯の花さんから聞いています。浮竹さんですよね?」
「あ、ああ」
浮竹さん、と京楽は浮竹のことを呼んだ。今の京楽にとって浮竹は自分よりも目上の人間なのだからそう呼ばれるのは当然かもしれないが、それでも浮竹は頭を殴られたようなショックを受けた。
違和感、というよりも胃がむかむかするような吐き気がした。
「白い髪の人だからすぐ分かるって言ってました。はじめまして、っていうのもおかしいかもしれませんね。貴方は僕のことを知っているのでしょう?」
「あ・・・そう、だな。俺はおま、いや君のことを良く知っている」
浮竹が自分たちの関係を説明してくれるのを待っている京楽を前にして、浮竹は言葉を濁した。
自分達の関係を恥じているわけでは無いが、女好きで有名だった頃の記憶しかない今の京楽が、二千年後の自分が浮竹を恋人して選んだことを信じられるか分からなかったのだ。
「俺は・・・その・・・お前、いや、君のだな・・・」
考えてみれば京楽が自分に恋するなんて、本当に何かの間違いのようなものだったのだと浮竹は思った。
それでも、例え有り得ないことだったのだとしても、浮竹と京楽は出会って、恋に落ちてしまった。浮竹にとって京楽は何者にも変えがたい存在なのだ。それを言葉にすることに何の躊躇いがあろう。
意を決してぎゅっと固く目を瞑ると、浮竹は思い切って口を開いた。
「俺は・・・君の親友兼恋人だ!」
勢い込んでそう叫んだ浮竹だが、内心では京楽がどんな反応を示すかと怯えていた。
しかし、浮竹の予想に反して京楽は黙ったまま何も言ってこない。
あまりに突拍子も無いことを言われて呆然としているのではあるまいなと思い、浮竹はそぉっと目を開いてみたが、京楽は先程と表情を変えることなく浮竹を見つめているだけだった。手は顎を撫でている。
「ええと、浮竹、さんでしたっけ?下の名前は・・・」
「浮竹十四郎だ」
記憶を失っても癖はそのまま残っているのだなどとぼんやり考えていた浮竹は名を聞かれて反射的に答えていた。
「浮竹十四郎さん。貴方は嘘を付くような人には見えないから、きっとそれは本当のことなんでしょうね。僕はずっと女の子が好きだったはずなんだけど、貴方が僕の恋人ということは僕はゲイになったということですか?」
京楽のもっともな質問に浮竹は言葉に詰まって顔を赤くする。
「いや、おま、君は決して女性より男性の方が好きだと言うことは無い。君のおんなず・・・いや、その君が女性の方を好むと言うのは確かだ」
「でも、貴方が僕の恋人なんでしょう?」
「う・・・・・・それはだな、何と言うか・・・」
二人の出会いから現在の関係に至るまでには紆余曲折があった。とても言葉で他人に説明できるようなものではない(もっとも京楽は当事者であるが)。
「浮竹さんはゲイなんですか?」
「俺もゲイというわけでは・・・」
「それじゃあバイセクシュアル?」
「いや、そう言うわけでも・・・」
そもそも浮竹も京楽も自分たちの関係についてホモセクシュアルとかバイセクシュアルとかという定義を当て嵌めて考えたことが無いのである。二人とも女性の方が好きな筈なのに、気が付いたら互いに恋をしていたのだ。
「俺も何と言って説明すればいいのか・・・」
これでは余計に混乱させてしまうと内心では焦りながらも、浮竹は言うべき言葉が見つからず口を噤むしかなかった。
そんな浮竹を一瞥すると京楽は無表情のままじっと虚空を見つめ何かを考えているようだった。
「浮竹さん」
「な、何だ?」
「すみません、なんだかちょっと混乱してしまって・・・少し一人になりたいのですが」
「え?あ、ああ。そうだな、突然こんなこと言われてもおま・・・君も困るだろう」
無理をさせて悪かったと言いながら病室を出る浮竹の目に最後に映ったのは、張り付いたような笑顔で浮竹に小さく頭を下げた京楽の姿だった。
*****
京楽の部屋を出てからも、浮竹は少しの間扉の前で肩を落として立っていた。
京楽の無事な姿を見て喜ぶ気持ちと、本当に京楽は何もかも忘れてしまったのだという思いとで浮竹の心中は複雑だった。
まさか京楽とあんな風に他人行儀で話す日がこようとは浮竹は思っても見なかった。例え何が起ころうとも二人の仲は永遠不変だと信じていたのである。
浮竹が小さく溜息をついてふと振り返ると、視線の先には浮竹を気遣わしげに見つめる山本元柳斎の姿があった。
「総隊長殿・・・」
労わるような山本の眼差しに、浮竹の緊張の糸はぷつりと切れたのだった。
「・・・元柳斎せんせ、い・・・」
きょうらくが、と言おうとした浮竹の言葉は声にならなかった。
「十四郎」
浮竹の名を呼ぶ山本の声音の優しさに、浮竹の虚勢は脆くも崩れ去った。京楽との会話の間ずっと涙を流すことを我慢していた浮竹は、恩師の前で声を殺して嗚咽したのだった。
「先生・・・京楽が・・・京楽が・・・」
「分かっておる。卯ノ花隊長から全て聞いた」
「俺のこと・・・忘れて・・・京楽が、俺のこと忘れるなんて・・・!」
「まさかこんな事態になるとは予想しておらんかった。わしの責任じゃ、すまなかったな、十四郎」
「先生・・・」
「だが春水のことじゃ、そう長いことお主のことを忘れているはずがあるまい。あやつはお主に関する限り、人一倍の執着心を持っておる。必ずお主のことを思い出すであろう。今はただ待つことに専念するのじゃ」
「でも・・・」
「しっかりせんか、十四郎!お主は護廷十三隊十三番隊隊長であろう。私事に囚われ己の義務を見失うことなどあってはならぬ。春水に死神としての記憶が無い以上、隊長職は務まらぬ。
しかし現在藍染達の出奔により混乱を極めている護廷隊において新たに隊長を一人失うことは致命的である。したがって春水にはこれまで通り隊長として八番隊を指揮してもらう。
もっとも実際の仕事は副隊長の伊勢七緒が取り仕切るため、支障は出るまい。虚討伐にも他の隊を優先的に行かせるであろう。先程緊急隊首会を開いて他隊の隊長格に事情を説明した。
春水の記憶喪失については極秘とし、隊長格以外の前では決して口に出さないよう伝えてある」
恩師としてではなく総隊長として浮竹にそう告げた山本の声は厳しいものだった。
山本の言葉に浮竹は京楽の記憶喪失と言う事実が護廷隊にとって何を意味するのかに初めて思い至った。山本の言う通り藍染、市丸、東仙の三名が抜けた今、京楽までもが隊長職から外れてしまえば大きな打撃となる。
特に京楽は浮竹、山本、卯ノ花と共に古参の隊長である。その分自隊の隊士達だけでなく他の隊の隊士達からの信頼も厚い。例え一時的にしろ京楽が隊長職を退くようなことがあってはならないのだ。
しかし死神としての記憶を失った今、京楽が隊長としての職務を例え形だけでも全うするには他の隊長達からの協力が必要なのである。特に京楽を最も良く知る浮竹の協力が。
京楽に忘れられて心が粉々に砕けそうであろうとも、浮竹は己の務めを全うしなければならない。浮竹は京楽の恋人であると同時に護廷十三隊十三番隊の隊長なのだ。悲しみに打ちひしがれている場合ではないのだ。
京楽を、護廷隊を守るために、己を鼓舞しなければならないのだ。
そう理解した浮竹は、ごしごしと手で涙を拭い真っ直ぐ山本を見つめると
「十三番隊隊長浮竹十四郎、どんな任でも必ずや堪えてみせます」
ときっぱり言ったのであった。
23.05.09
京楽さんに浮竹さんのことを「浮竹さん」と呼ばせたいがために書き始めたのです、このシリーズ(汗)
でも違和感ありすぎ。嫌がらせのようだ・・・