月光
年に数度、浮竹が雨乾堂に篭る夜がある。
そんな夜、浮竹は堂全体に強固な結界を張り、余程の緊急事態で無い限り誰一人として足を踏み入れることを許さない。
京楽も、その日は雨乾堂を訪れることなく一人自室で苦い酒を飲む。
灯りも点けず真っ暗な雨乾堂で浮竹は何を思うのか、それを知るのは京楽只一人。
*
雨乾堂の床には天窓の形に月の光の溜りが出来ていた。
ゆらゆらと揺れる光の舞は、けれど誰の眼にも触れることは無い。
布団の中でうつ伏せになったまま浮竹は静かに涙を流していた。
部屋を満たすのは、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番第1楽章。
俗に「月光」と呼ばれる曲だ。
一人で泣きたくなる時、浮竹はこの曲を聴く。
「湖の月光の波に揺らぐ小舟のようだ」と形容されたこの曲を、浮竹はそんな幻想的な風景を思い起こさせるような優しい音楽だとは思えなかった。
第2楽章のように愛らしいメロディでもなく、第3楽章のような激しく躍動感のあるリズムを持つわけでもない。繰り返される旋律は確かに美しいが、それはどこか影を帯びた暗い美しさだ。
物悲しい音色を聞く度に、浮竹はどうしようもないほど泣きたくなる。
愁いを含んで響く音は、泣いてもいいのだと浮竹の耳に甘く囁きかける。
けれどその涙は他人のために流されるものではない。
死んでいった家族や部下のためでもなく
この手で斬り裂いてきた虚のためでもない。
荘重な調べに乗って零れ落ちるのは、自分のためだけに流される涙。
自己憐憫
自己欺瞞
そんなことは分かっていた。
それでも――
浮竹は泣かずにはいられない。
京楽が愛しいと
京楽が欲しいと
涙を流さずにはいられない。
それがどれほど無意味なことか知っているはずなのに。
だって、これは二人で選んだ道。
互いの想いを知りながら、それでも現在(いま)の関係を続けようと決めたのは、自分たちなのに。
「親友」という脆弱な肩書きを選んだのは自分たちなのに―
怖かったのだ。
一線を越えてしまった時
「親友」という関係を捨ててしまった時
自分がどうなってしまうのかわからないから。
京楽無しでは生きられない自分を知ることを恐れていたから―――
それでも
浮竹は泣かずにはいられない。
叶わぬ恋を諦めきれず
今はここにいない男恋しさに身も心も引き裂かれそうな苦痛に耐える
愚かな自分自身のために。
湖面に映る月影の様に脆弱な二人の関係を
それでも必死で繕うとする滑稽な自分達のために。
*
漆黒の闇の中、「月光」の哀しい調べが雨乾堂を満たす。
主のすすり泣く声を聞くものは、
湖面に揺れる白銀の月だけだった。
火星の人類学者
京楽の世界には色が無かった。
それは誇張でも比喩でもなく、文字通りの真実だ。
京楽は「色」を視ることが出来なかったのである。
*
京楽の色覚異常が先天的なものなのか後天的なものなのかは今となっては分からない。
ただ一つ言えることは、物心が付く頃には、京楽にとって世界とは黒と灰色の明度によって構成された酷く単調で退屈な場所だったということである。
所謂全色盲であった京楽だが、その事実に京楽本人を始め、周りの者は誰一人気が付くことは無かった。
「色盲」あるいは「色覚異常」という特性が世間に知られていなかったこともあるが、そもそも京楽自身が自分に視えている世界が他人と違うことに気付いていなかったのだ。
幸い、全色盲ではあったが視力は良かったため、明度の違いだけである程度の物を判別することが出来た。
勿論それだけで何とかなるわけはなく、緑と青、赤と黒の識別が出来ずに幼い頃は日常生活で不便なこともあったが、「りんごは赤色」「空は青色」など、何がどんな色をしているかは大体決まっているため知識として覚えてしまいさえすれば他人と話を合わせるのはそれほど難しいことではなかった。
今にして思えば、目に映る世界が灰色一色の退屈で興味が持てない場所だったからこそ京楽は視覚以外の感覚を研ぎ澄ませることを覚えたのだろう。
霊圧の微妙な変化を感知することに長けるようになったのもそのせいだ。そして、自分を取り囲む世界に面白味を感じなかった京楽は、気が付くとひどく内省的な青年になっていた。
要するに、京楽にとって世界とは、現実味の無いひどく虚ろな存在だったのだ。
それでも、灰色の世界で生きてきた京楽は、色を体験したこともなければ「色」という概念そのものが無かったため、特に自分の人生に何かが欠けていると思ったことさえなかった。
ただ、生きることはひどくつまらないことだと諦めに似た気持ちで毎日を過ごしていた。
そんな京楽の世界に初めて「白」が生まれたのは、浮竹と出会った時だった。
所謂正常色覚を持つ者には以外に思えるかもしれないが、明度だけで成り立つ世界の中に「純粋な白」というものは無い。
一般に白いと思われているものでも、京楽の目には煤けた薄い灰色に映った。
だが、浮竹と出会って、京楽は生まれて初めて「白」の美しさを知った。
まるで浮竹の心を象徴するかのように真っ白な髪は、今まで黒と灰色しか視たことの無かった京楽の目にひどく眩しく映ったのだった。
浮竹という「白」の存在を知って、京楽は初めて世界の美しさを知った。
初めて世界を愛しいと感じたのだ。
それだけでも浮竹には感謝してもし足りないくらいだが、更に浮竹は今まで誰も気が付かなかった京楽の色覚異常に気付いて医者に診てもらうようにと京楽を説得してくれた。
きっかけは些細なことで今となっては覚えていないが、京楽には色の区別が付かないのだと理解した瞬間の浮竹の悲しそうな表情を京楽は決して忘れることは無いだろう。
どうしてそんな顔をするのかと驚いて尋ねた京楽に、浮竹は「俺とお前の見ている世界は違うんだな」と寂しげに呟いた。
浮竹のその言葉にひどく心細くなったのは、浮竹と同じ世界に生きていない自分がとても孤独な存在だと感じたからだ。
浮竹と同じ景色を見たい。
浮竹と同じ世界に生きたい。
ただそれだけの理由で、京楽は色覚を取り戻すための手術を受けることを承諾したのだった。
*
包帯を取り、ゆっくりと目を開けた瞬間、押し寄せてきたのは圧倒的な色の洪水。
退屈だとばかり思っていた世界は、京楽の想像以上に表情豊かだった。
しかし、突然飛び込んできた無秩序な色の氾濫は、初めて「色」を経験する京楽にとってはひどく恐ろしいものでもあった。
退屈ではあったがその分興味が無ければ無視することが出来た世界で生きてきた京楽にとって、今の世界は容赦なく色による攻撃を仕掛けてくる凶暴な世界に感じられた。
視るもの全てが「色」として襲いかかって来る世界に放り出されて、京楽は気が狂いそうだった。
そんな京楽を救ったのは、やはり浮竹だった。
浮竹という「白」が視界に現れた瞬間、まるでばらばらだったジグソーパズルのピースが綺麗に嵌るように、混沌としていた筈の色達が意味を持ち始めた。
そして初めて、京楽は「色のある世界」の美しさを知ったのである。
色のある世界でも
色の無い世界でも
京楽にとって世界が美しいのは、浮竹がそこに生きているからなのだ。
*
かつて、京楽の世界には色が無かった。
今、京楽の世界には色がある。
けれど
京楽にとって京楽の世界を彩る色は
―――浮竹という白、只一つだけ。
二重奏
ぎこちない動作で腰を下ろすと、浮竹は眼前の楽器を見下ろした。
爪を嵌めた右手が緊張に微かに震えているのが視界の端に映って、思わず苦笑いが零れる。
風に乗って運ばれてきた紅葉の葉が、傍らに置かれたままの酒盃に舞い落ちる。
それをまるで夢の中の出来事のように浮竹はぼんやりと眺めたのだった。
*
ことの起こりは、瀞霊廷の外れにある朽木家所有の山で行われた紅葉狩りの席に端を発する。
朽木家主催ということで上級貴族や中央四十六室、護廷十三隊の隊長格が招待されたその宴には、勿論京楽と浮竹も出席していた。
実を言えば貴族と関わることをあまり好まない京楽は当初行くのを渋っていたのだが、総隊長山本元柳斎の顔を立てるためにも古参の隊長である自分達が出席しないわけには行かないと浮竹に諭され、渋々承諾したのであった。
実際山一面を彩る赤、橙、黄が織り成す光景はそれは美しいもので、京楽も浮竹も一目で心奪われた。
それは山本や他の死神達も同様だったようで、普段虚との戦いに身を投じ殺伐としがちな彼等だが、この時ばかりは自然の美しさを堪能し、一時の平安を心行くまで楽しんだのだった。
更に言えば、上等な酒に思わず舌鼓を打つほどに美味な料理の数々に、いつもは気難しい山本も機嫌が良かったのかもしれない。
意外なことに山本は宴会の席から少し離れた場所で音楽を奏でている芸者達にある曲を演奏して欲しいと所望したのだ。
しかし、その曲名は女達にとっては初めて耳にするものであったため、誰一人して弾けるものがいなかった。
それもその筈、山本が聴きたいと願った曲はその昔京楽と浮竹が現世に行った時に耳にした曲を演奏してみせたものであり、ソウルソサエティの芸者が知る筈のない曲だったのだ。
浮竹がその旨を山本に説明すると、あろうことか山本は「ではお主達が演奏すればよい」などと言い出したのである。
勿論浮竹も京楽も、こんな大勢の前でなどとんでもない、そもそも披露するほどの腕ではないと必死で辞退しようとしたが、ほろ酔い気分の山本の「総隊長命令じゃ!」という一言で一蹴されてしまった。
しかも宴会の主催者である朽木白哉までが「それはよい。兄達が楽器を演奏する姿を是非拝見したいものだ」と言い出したものだから断ることなど出来なかったのである。
そして、今に至る。
*
酒盃の中でゆらゆらと揺れる楓の葉を見詰めながら、浮竹はふぅと小さく溜息を付いた。
琴を弾くなんて数十年ぶりのことである。果たして身体が覚えているだろうかと不安だった。
隣で三味線を構える京楽に助けを求めてちらと横目で様子を窺うが、どうやら京楽も久し振りに扱う楽器に戸惑っているようだ。
(全く、折角の宴の席だって言うのに、任務の時より気が重いなんて・・・)
色鮮やかな景色の中、京楽と酒を酌み交わす幸福を味わっていたのはつい先程のことのなのにと、浮竹は鬱々とした気分でもう一度視線を盃に戻す。
すると、透明な液体に映る鳶色の瞳と視線がぶつかった。
ふ、と京楽の瞳が細められる。
その優しい眼差しは、浮竹の心から不安を拭うには十分すぎるほどで。
ふわりと柔らかく微笑むと、浮竹は目を閉じて身体中の神経を京楽に集中させる。
そして一つ大きく深呼吸をすると、ぴんと張った弦を勢いよく弾いた。
糸を抑える京楽の爪の動き。
撥を糸に当てる力強い手。
曲のリズムに合わせた息遣い。
京楽の身体の筋肉の一つ一つの動きを身体中で感じながら、浮竹は弦を弾いていく。
それはまるで共に戦う時のように、一糸乱れぬ演奏だった。
意識の全てを京楽に集中させながら、まるで世界に二人きりのようだと浮竹はそっと微笑む。
紅葉の舞い落ちる秋の景色の中、二人の生命が奏でる幸福という音楽に身も心も委ねながら、浮竹は軽やかに指を動かすのだった。
*
「何ていうか・・・完全に二人の世界よね」
「何だか二人の情事を覗き見してるみたいね^^;」
「楽器を演奏してるだけなのにどうしてこんなにエロいのかしら・・・」
「バカップルだからじゃないの^^:?」
モナリザの微笑み
浮竹の笑顔が好きだ。
面白い話を聞いて声をあげて笑う時の楽しそうな笑顔。
おいしいお菓子に思わず綻ぶ笑顔。
隊士達と接する時の慈愛に満ちた父親のような笑顔。
日番谷くんや、草鹿くんと話す時のお兄ちゃんのような優しい笑顔。
仕事をサボって雨乾堂で昼寝しているところを見つかって七緒ちゃんに怒られている僕に向けられる、仕方が無いなあっていう笑顔。
久し振りに現世任務から帰ってきた僕を出迎える満面の笑顔。
発作で倒れた浮竹を心配する僕を、大丈夫だと安心させるために見せる、少しだけ苦しそうな笑顔。
笑顔は浮竹の心を映す鏡だから。
浮竹の綺麗な心を覗き見ることが出来るから。
僕は、浮竹の笑顔が好きだ。
でも――
*
「ねえ、浮竹」
「ん?」
「好きだよ」
「どうしたんだ、いきなり?」
「ねえ、好きだよ」
「俺も、京楽のことが好きだよ」
「違うんだ、そういう意味じゃない。友達としてじゃないんだ、僕が言いたいのは・・・」
「わかってる。でも、それは一時の気の迷いだ。京楽は、俺に対する友情を恋情と勘違いしてるんだ」
「違う。僕は、本気なんだよ」
何度も何度も繰り返した会話。
その度に浮竹は、彼らしくないアルカイックな微笑を浮かべる。
まるで心を閉ざすかのような笑顔に、僕はいつも言葉を失う。
本気にされていないのか
拒絶されているのか
それとも、僕には分からない感情がその笑顔の下に隠れているのか。
僕の想いは浮竹のその笑顔にぶつかる度に行き場をなくしてしまう。
まるで、最初から僕の気持ちなんて存在しないかのような浮竹の態度に
僕はいつも戸惑いを覚えると共に、ほんの少しだけ傷付く。
そんな無機質な笑顔で僕の想いを否定しないでと
声にならない悲痛な叫びで僕の胸は張り裂けそうになるのだ。
*
浮竹の笑顔が好きだ。
笑顔は浮竹の心を映す鏡だから。
浮竹の笑顔を守るためなら僕はどんなことでもするだろう。
でも
あの笑顔だけは、いつか壊してしまうかもしれない。
絵画(片思い編)
「浮竹隊長、これを見て下さい」
「え?」
海燕と共に現世での任務報告を終えた都が差し出したのは、おそらく黒炭で描かれたのであろう一枚のスケッチだった。
「今回退治した虚が棲みついていた屋敷で見つけたんです」
「俺はそんな不気味なもの放っておけって言ったんすけどね」
「不気味だなんて失礼よ、あなた」
「だってなあ・・・偶然にしては出来すぎてるだろ、これ」
「隊長も、そっくりだと思いませんか?」
「あ、ああ・・・」
芸術方面にはとんと疎い俺には、このスケッチが果たしてどれ程上手く描けているのか判断が出来ない。ただ、一つ分かるのは絵の中の人物が誰かということだけだ。
このスケッチに描かれている人物は紛れも無く・・・・・・
「おやあ?皆揃って何見てるんだい?」
「京楽」
「「京楽隊長」」
絵の中に描かれている張本人の登場に、海燕はうろたえ都はにこりと笑顔で出迎える。
「都が現世でこんなものを見つけてきたんだ」
「どれどれ・・・・・・あれぇ?」
俺の手の中のスケッチを覗き込んだ京楽が驚きの声をあげる。
俺も思わず京楽の横顔を見詰めた。
「うわあ、懐かしいなぁ。まさかこんなものが今でも残っているなんてねぇ」
「知ってるのか?」
「うん、勿論さ。だって、この絵のモデルは僕だからね」
「「「え?」」」
他人の空似にしては絵の中の人物と京楽は似過ぎているとは思っていたが、まさか本当に京楽がこの絵のモデルだったなんて。
「だが、この絵は人間が描いたものだろう?」
「うん、まあもう随分と前のことになるんだけどね。当時僕は一般隊士として2ヶ月間現世に派遣されていたんだ。現世の地名はころころ変わるから場所はよく覚えてないんだけどね、多分今で言う地中海の辺りだったかな。
その時、一人の女の子に出会ったんだ」
まるで昔を懐かしむように京楽が柔らかく目を細めるのを俺は見逃さなかった。
優しい京楽の表情に俺の胸がずきりと痛む。
「その子は人間にしては霊力の強い方でね。彼女は魂魄や虚、死神を見て声を聞くことは出来たけれど触れることは出来なかった。
その地方の大地主の娘だった彼女は、身体が弱くてなかなか外には出られなかったから家の者以外と接する機会が無かったんだろうね。寂しくて、誰でもいいから話し相手が欲しかったんだと思う」
「それじゃあ人間の方から接触してきたのか?」
「そうだよ。僕も最初はびっくりしたんだけどね。でも、僕も死神の姿が見える人間が珍しかったし、それに正直言ってその子美人だったからねえ。やっぱり女の子には優しくしないといけないでしょ?」
「京楽隊長らしいといえばらしいっすね・・・」
「身体は弱かったけど、調子の良い日は食べ物を持って近くの村に住む貧しい人々を訪れる、そんな優しい子だったよ。
いつも笑顔で、生きることにひたむきないい子だった・・・・・・ああ、そうそう、彼女はスケッチをするのが趣味だったからモデルになってくれって頼まれたんだよ。それがこの絵って訳さ」
そう言って、京楽は俺の手からスケッチを取り上げた。そして、愛しげにその絵を見詰める。
きっとその当時のことを思い出しているのだろう、その顔には柔らかい微笑が浮かんでいる。
その人間の娘が京楽に恋をしていたのは、この絵を見れば明らかだった。
京楽に触れることが出来なかったという娘は、きっとこの絵を描きながら京楽の頬や唇に触れる想像をしていたに違いない。
京楽の唇に自分自身の唇を重ねたいと願いながら、京楽への想いを込めて一筆一筆を振るったに違いない。
「もしかして、京楽隊長はその娘のことが好きだったんですか?」
まるで俺の心を読んだかのように、海燕が今俺が一番京楽に尋ねたい、でも返ってくる答えを聞くのが怖くて出来ない質問を口にした。
思わず横目で京楽を盗み見る。
そんな俺に気付いたのか、京楽は苦笑して「そんな野暮なこと、聞くもんじゃあないよ」とだけ呟いたのだった。
「それにしてもさあ。浮竹、一体これどうするんだい?」
「え?いや、これは元々都が現世から持ち帰ってきたものだから、俺は別に・・・」
「本当は浮竹隊長へのお土産のつもりでしたけど、話を聞けば京楽隊長にお渡しするべきなのかもしれませんわね。どうしますか、浮竹隊長?」
「お、俺は別にどちらでも・・・」
「京楽隊長の似顔絵なんかもらっても困りますよね、浮竹隊長?」
「言うねえ、海燕君も。でもまあ浮竹がいらないって言うんなら、僕がもらってもいいのかな?」
「え?あ、ああ。勿論だ」
「そう。ありがとね」
そう言って京楽は嬉しそうに笑う。
その笑顔に俺の心臓が一瞬止まる。
だって分かってしまった。
京楽もその人間の娘を愛していたのだということを。
触れ合うことの叶わなかったその恋は、きっと京楽の中で今も綺麗な思い出として輝いている。
敵わない。
敵う訳が無い。
どれほど俺が京楽のことを愛していても
思い出の中の恋人に勝つことなんて出来ないのだ。
京楽が俺のことを一番好きになることなんて、永遠に無い。
「浮竹?どうかしたの?」
「何でもない、ちょっとぼぅっとしてただけだ」
俺の恋は、最初から勝ち目など無かったのだ。
京楽の胸に美しい思い出だけを残して死んでしまった人間の娘が羨ましかった。
*
俺が死んだら、京楽の心の中で俺は永遠に生き続けることが出来るのだろうか。
そんな甘美な狂気が俺の胸に生まれたのは、この瞬間だった。
弦楽のためのレクイエム
京楽が雨乾堂へ続く渡り廊下を歩いていると、目的地の方向から物悲しいメロディが聞こえてきた。
すすり泣くような弦楽器の旋律に、言いようの無い切なさが胸に押し寄せてくる。
「京楽」
浮竹、と一言声をかけながら雨乾堂に足を踏み入れると、泣いているかもしれないという京楽の予想に反して、浮竹はごく普通に京楽を出迎えた。
「優雅に音楽鑑賞かい?」
浮竹は文机に向かってはいるが書き物をしているわけではないらしいことを見て取って京楽はそう尋ねる。京楽の言葉に部屋の隅にあるCDプレーヤーに視線を移すと浮竹は苦笑しながら小さく首を振った。
「朽木が現世の音楽について勉強していたから、俺も少し興味を持ってな。朽木に頼んでCDって奴をいくつか借してもらったんだ」
「ああ、これは現世の音楽だったんだね」
「うるさかったら今止めるから・・・」
「いいよ、このままで」
停止ボタンを押そうとした浮竹の手を京楽の一回り大きな手がそっと握り込む。不意に縮まった距離は、互いの息がかかる程に近い。
何かを言おうと口を開いた浮竹を遮るように京楽は唇を重ねた。
何度も掠めるだけの口付けを交わすうちに、強張っていた浮竹の身体からは力が抜けていく。
「この曲は『弦楽のためのレクイエム』 と言うそうだ」
啄ばむようなキスの合間に浮竹がぽつりとそう漏らした。
「レクイエム?」
「葬送曲とか鎮魂曲って意味さ。元々は死者の安息を神に願うためにカトリック教徒がミサで用いる曲のことを言うらしい」
「死者のための曲ってことかい?」
「そうだな。人間が死んでしまった者達の魂魄に捧げた曲だから、俺達のための曲なのかな」
そう言って浮竹は小さくくすりと微笑んで見せた。
「でも、殆どの人間は魂魄を見ることが出来ないよね?それなのに人間は自分達が死んだ後も、肉体は消滅しても魂魄は残ることを知っているんだね。どうしてだろう?」
片手はまだ浮竹の手を握ったまま、もう一方の手で京楽は浮竹の頬をそっと撫でる。
京楽のそんな優しい仕草に浮竹はうっとりと眼を閉じた。
「一護君や石田君達の様に魂魄が見える人間以外には死後のことなんて分からないさ。魂魄として存在し続けるのか、それとも死ねばそれで終わりなのか……分からないから、人間は死を恐れるのだろうな。
そしてその恐怖を乗り越えるための術が宗教なのかもしれない」
「ああ、成るほどねぇ。僕達ソウルソサエティの住人は、死ねばどうなるか知っているから宗教が必要ないってことか。だから僕達には神様なんて必要ない」
「そういうことだろうな。ソウルソサエティにおいて『神』の名を持つのが俺達死神だけなのも、神なんて言っても所詮出来ることは世界の秩序を守ることだけで、世界の仕組みそのものを変えることなど出来ないのだということを暗に仄めかしているのかもしれない。全能の神なんてものはいないのだと、死神に神の名を冠することで逆説的に教えているのかもしれないな」
「おいおい、何だか今日はやけに哲学的だねえ」
茶化すような京楽の言葉にも拘わらず、浮竹はただ黙って頬を撫でる京楽の手に己の手を重ねるだけだった。
ゆっくりと開かれた眼の中で、碧の焔が静かに燃えている。
「俺達は、死ねば霊子の粒になって消えてしまう。死後に待っているのは無だけだ。何も残らない。まるで最初から存在しなかったかの様に。何もかも、消えてなくなってしまうんだ」
―――確かにあいつは生きていたのに。
震える手が、言葉にならない浮竹の思いを代弁していた。
「…!」
溜まらず浮竹を抱き締めながら、人間は幸せだと京楽は思った。
人間は幸せだ。
死んでしまっても、魂は存在し続けるのだと夢見ることが出来るのだから。
死後に何があるのか分からないからこそ、その先に希望を持つことが出来るのだから。
「……思い出は、残るよ。彼が生きた証は、ちゃんと残ってる。君の中にも、僕の中にも。十三番隊の子達の中に、ちゃんと彼は今も生きている」
一人ぼっちで死ぬなと、彼に教えたのは浮竹だ。
誰かと触れ合うことで心は生まれる。
だから、心を残していくために
決して一人で死ぬなと。
彼はその教えを守って逝った。
浮竹と、朽木ルキアに看取られながら。
だから、彼の心はここにある。
彼が生きた証は、今でも浮竹の心に息衝いている。
「分かってるんだ。でも、それでも、時折こうして胸が苦しくなる……」
「うん、知ってるよ。それが残されるということなんだ。それでも、生き残った者は、前に進んで行かなきゃいけない」
それでも、生きなければならない。
それが、残されたものに課せられた使命だから。
「少しだけ、泣いてもいいか?」
京楽の胸に顔を押し付けたまま、浮竹がくぐもった声で尋ねる。
浮竹を抱く腕に力を込めながら、京楽は小さく頷いたのだった。
「好きなだけ泣けばいいよ。君の泣き顔は、僕が隠してあげるから」
いつの間にか流れていた筈のレクイエムは終わり、浮竹のすすり泣く音だけが雨乾堂に響く。
それはとても哀しいけれど、何よりも美しい鎮魂の調べだった。
絵画(両思い編)
「う・き・た・け~~~」
「都が現世でこんなものを見つけてきた」
挨拶もそこそこに、雨乾堂にやってきた京楽の前に俺は一枚のスケッチをずずいっと突き付けた。
声が普段より低いのが自分でも分かる。
「な、何だいイキナリ…って、あれ?これ、もしかして…」
「この絵のモデル、お前だろう?」
「ええっと、これは、その…いや、だからね」
必死で言い訳を考えようとしている京楽を前にして、只でさえ悪かった俺の機嫌はどんどん下降していく。
「ほ、ほら、前に一度話したでしょ?昔霊感の強い人間の女の子に会った時に、モデルになってくれって頼まれたって」
「ああ、よく覚えてるよ。とても美人な女性だったらしいな」
「え゛!そんなこと言ったっけ、ボク…?」
「ああ、言った」
まだ俺達が只の親友同士だった頃、任務で現世に派遣された時に出会った人間の女性と京楽は関係を持ったことがある。
人間相手に恋をするなんてと眉を顰めた俺に、京楽はどうせ遊びなんだから構わないさと涼しい顔で言ってのけたのである。
……思い出しただけでもムカツク。
「浮竹ぇ」
「何だ?」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「嘘」
「嘘じゃない」
怒ってはいない。只、面白くないだけだ。
だって、そうだろう?
いくら今の京楽は俺にベタ惚れだからと言って、こいつの爛れた昔の女性関係を思い出すのは気分が良くない。京楽と来たら、それこそ女と見たら節操無く声を掛けていたのだ。
当時こいつに片想いしていた俺がどんな気持ちでいたと思ってるんだ!
「ねえ、こんなのすごく昔のことだよ?もう時効だと思わない?今は浮竹だけだからさ」
「うるさい、怒ってないって言ってるだろ!」
「むくれた顔でそんなこと言っても説得力無いよー」
機嫌直してよ~と背後から俺を抱き締めようと伸ばされた手をするりとかわす。
簡単には誤魔化されてなどやるものか。
「十四郎ってば~」
「うるさい!お前が今も昔も女性にだらしないのが悪いんだろう!?」
「今は十四郎一筋だよ」
不意に真面目な声で耳元で囁かれて、不覚にもドキッとする。
そうだ、俺は昔からこいつの声に弱いんだ。
「そ、そんなこと…」
「本気で好きになったのは、十四郎だけだから」
京楽の息遣いを敏感な耳に感じて、身体がびくりと反応する。
顔に血が上っていくのが自分でも分かった。
京楽の声だけでこんなにも心臓がどきどきしてしまうのが悔しくて、変な所で意地っ張りな俺は「そんな言葉には騙されないぞ」と精一杯の強がりを口にした。
「はいはい、素直じゃないんだから」
ぎゅうっと後ろから俺を抱き締めると、京楽は犬みたいに俺の髪に顔を埋めた。俺からは見えないけれど、きっと顔には満面の笑みが広がっているに違いない。
「ヤキモチ焼いてくれたんでしょ?嬉しいなあ」
「ヤキモチなんて、焼いてない」
「またまた~。ボクの昔の恋人のことを思い出して、臍曲げてたんでしょ?」
「臍なんて、曲げてない」
「十四郎に愛されてるなあ、ボク」
「……」
「あれ?否定しないの?」
「うぅ」
嘘でも『嫌いだ』と言えない自分が憎い。
だってどんなに女性にだらしなくて情けなくてヘタレでも、俺はそんな京楽が可愛くて可愛くてたまらない。愛しくて愛しくてたまらないんだ。
「ああああああああああああああ!!!!悔しい!!!!どうして俺ばっかりこんな想いをしなきゃいけないんだ!!!!」
「え!?ちょ、十四郎!待って!!!早まらないでよ!!!!!」
「うるさーーーーーーーーーーーーい!!!!」
怒りに任せて思いっ切り京楽の顔に墨で落書きしたら、少しすっきりした。
その日一日京楽が『バロン』と呼ばれたのは言うまでも無い。
03.01.10
テーマは「芸術」でした。(芸術の秋ってことで)
「レクイエム」の話はいつかどこかでもっと掘り下げてみたいですね。
皆さんリクエストありがとうございました!