会話の途中でふと志波海燕が「先輩、最近悩みでもあるんですか?」と浮竹に尋ねたのは、二人が給湯室でコーヒーを飲んでいた時のことだった。
それまでの他愛の無い雑談から突然個人的なことに話が飛び、面食らってしまった浮竹は一瞬言葉に詰まる。
そんな風に海燕が浮竹の私生活について質問してきたのは初めてだったから、余計に驚きが大きかった。
「俺は悩んでるように見えるか?」
「この所ぼーっとしてることが多いですからね。ま、ぼーっとしてるのは前からですけど」
そう言って海燕はにぃと笑ってみせる。
つられて浮竹も苦笑した。
浮竹の会社の後輩である志波海燕は明るく気さくな性格の好青年である。その人当たりの良さを活かして書店営業を勤める海燕は、本来ならば校正や進行管理を担当する浮竹とはあまり接点がない筈だった。
しかし、二人の会社は学術書を専門に扱う小さな出版会社であり社員数も少ない。そのためどこかアットホームな雰囲気があり、社員同士も仲が良いのであった。
浮竹はすぐ下の弟と同じ年の海燕を気に入っており、同僚の中でも特に親しくしていた。浮竹自身は長男気質を発揮して海燕の面倒をみているつもりだが、やはりこちらも長男である海燕は、自分よりも年上なのにどこか抜けたところのある浮竹を放っておけず、常に気に掛けているのだった。
しかし、親しいといっても浮竹と海燕は仕事上の付き合いしかない。
仕事以外の時間は全て家族のために費やされるため、浮竹の交友関係は皆無に等しかった。
無論、小さな会社だから社員は皆浮竹の家庭の事情について大体のことは知っている。
しかし、浮竹自身がそのことに触れられたくないという意思表示をしているため、浮竹のプライベートに干渉する者はいないのであった。
そんな背景がある中で、海燕が浮竹に立ち入った質問をするということは、それだけ浮竹の様子が普段とは違っているということである。
だからこそ、海燕も今まで通り黙って見過ごすことが出来なかったのだ。
海燕の気遣いに心打たれる浮竹だったが、それでもここ数日自身を悩ます事柄について海燕に相談することは躊躇われた。
留学のこと、家族のこと、京楽春水のこと。
そして、自分自身のこと。
現在浮竹の胸に渦巻く感情は、混沌としていてとても言葉になど出来そうにない。
それに、正直に言えば、そんな自分の胸の内を他人に曝け出すことに怯えていた。
それでも、心配して言葉を掛けてくれた海燕の優しさに甘えてみたいという思いが浮竹の中にはあった。
「なあ志波、京楽春水って画家、聞いたことあるか?」という質問がつい口を吐いて出たのは、そんな深層心理が働いたからなのかもしれない。
「画家ぁ!?そんなこと聞かれても、俺、そういうのに興味無いんスよねぇ。っていうか先輩だってそうじゃないんスか?」
「いや、まあ、それはそうなんだが……」
「じゃあ何でまたいきなり?」
「それは……い、妹に聞かれたんだが、俺も芸術には疎いから答えられなくてな。調べてみるって約束したんだけれど、ネットにも情報が殆ど無くてな。他に誰に聞けばいいのか見当も付かなくて困ってたんだよ」
「はぁ……それで悩んでたって訳ですか?」
「ああ、そうなんだ」
浮竹が咄嗟に考えた言い訳に海燕は納得していないのは明らかだ。胡乱な表情で浮竹を観察している。
浮竹もこれで海燕を誤魔化せたなどとは思っていない。だが、それ以上深く追求してこない海燕に、浮竹は内心でほっと安堵の息を吐いた。
「ネットで調べても分からないってことは、絵画関係の雑誌を当たってみた方がいいってことですかね?そういうのに詳しい人って誰かいたか……って、藍染さん!丁度いい所に!」
そう声を上げた海燕の視線の先にいたのは、海燕と同じく営業担当の染惣右介だった。
「やあ、志波君、浮竹さん。丁度いいって、一体何のことだい?」
「いや、その」
「藍染さんは京楽春水って画家知ってますか?」
「京楽春水?」
「お、おい!志波!突然そんなこと聞かれたら藍染も困るだろう?」
「でもこういうことに詳しいのって、藍染さんくらいしかいないじゃないスか」
「僕もそれほど詳しい訳ではないけれど、その名前なら聞いたことがあるよ」
「え?」
自分の意見などお構い無しに藍染と話を進める海燕に浮竹は慌てるが、藍染の言葉に思わず動きを止める。
「確か、今評価の上がっている画家じゃないかな。数年前にある街の小さな画廊の展覧会で批評家に発見されて一躍有名になったらしいね。彗星の如く現れた期待の新人画家、ってところかな。
でも、相当変わった男らしいという話は聞いてるよ。そもそもその展覧会まで一度も作品を発表したことがないらしいからね」
「画家なのに絵を発表しなかった、ってことスか?そりゃあ変わってるなあ」
「本当だな……」
俺にモデルを頼むような奴なんだから相当変わってるよ、という言葉は心の中で呟いた。
「京楽、か……京楽って名前の資産家の家はあるけど、何か関係があるのかな」
「はは、そんなことある筈無いですよ。そもそも京楽春水、なんて本名かどうかもわからないじゃないスか。いかにも芸名、って名前ですよね。いや、どっちかって言うと源氏名か」
「本名かもしれないのに失礼だよ」と海燕を嗜める藍染だが、そういう自身も顔が笑っている。
しかし、浮竹は二人のジョークに加わる気にはなれなかった。
(でも、確かに「京楽春水」なんて相当凝った名前だが、あの男にはよく似合っている―――)
ふと、京楽の彫りの深い整った顔立ちと逞しい身体を思い出して、浮竹はぞくりと身震いをした。
「あら、皆さん休憩中ですか?」
と、そこへ給湯室の前を通り掛かった編集長の卯ノ花烈がひょこりと顔を覗かせた。顔には満面の笑みを浮かべているが、サボっていないで仕事しろという無言の圧力が感じ取れる。
「あ、い、いや、俺は今戻ろうと思ってたんです」
「え?ちょ、ちょっと、先輩!」
「それじゃあ、志波、また後でな!」
そう言い残すと、浮竹は卯ノ花に軽く会釈をしてから給湯室を後にした。
自分だけ逃げるようで卑怯だとは思ったが、これ以上二人に京楽について追求されるのが怖かったのだ。卯ノ花に恐れをなしている志波には悪いが、藍染がいるから何とかやり過ごしてくれるだろうというい算段もあった。
とにかく、あの場を立ち去る切っ掛けを作ってくれた卯ノ花に浮竹は心の中で感謝した。
デスクに戻った浮竹は、先程まで読んでいた出版企画書に再び目を通し始める。
しかし、どうしても目の前の文字列に集中出来ない。気が付くと同じ部分を何度も読み返していた。
(……駄目だ…………)
ほぅ、と溜息を吐くと、浮竹はこれ以上読み進めるのを諦めてぱさりと企画書を机の上に投げ出した。そして、鞄の中から京楽に貰ったカタログを取り出す。
(あいつに会ってから、もう10日以上経っている―――いい加減、決心しなければ……)
そんなことを考えながら、浮竹はぱらぱらとカタログの頁を捲る。
だが、無造作に紙を繰っていた手がふとある頁の前で止まった。
それは、「希望」と題された一群のスノードロップの花を描いた絵だった。
浮竹の目の前に広がるのは、柔らかな若葉色の葉と透き通るように真っ白な花弁。
鮮やかな色彩は酷く印象的で、同時に何故か浮竹の心を温かくしてくれる。
(希望、か――――――)
――希望に、賭けてみよう。
小さな光が灯るように、そんな思いが浮竹の胸の中に生まれる。
カタログを閉じると、裏表紙に書かれた京楽の電話番号が目に入った。
特徴のある筆跡に、自然と黒髪の男の姿が目に浮かぶ。
よし、と小さく呟いてからデスクの引き出しを開けてダイアリーを取り出すと、浮竹は一番最初の頁に京楽の電話番号を書き写したのだった。
*****
RRRRRRRRRRRRRRRR
RRRRRRRRRRRRRRRR
かチャ。
「はい、京楽です」
「…………俺……浮竹十四郎、です」
「!!!あ、ありがとう。電話してくれて……」
「まだ……俺をモデルに絵を描きたいって思ってるのか?」
「勿論だよ」
「本当に俺でいいのか?」
「君じゃなきゃ駄目なんだ」
「……じゃ、じゃあ……次の日曜日の午後なら空いてるから―――」
「本当?それじゃあ僕の住所は……――――」
…
…
…
ガチャリと受話器をフックに戻すと、緊張していた身体から力が抜けて行くのが分かった。ドアに背中を預けると、浮竹は目を閉じて心臓の鼓動が落ち着くのを待つ。
大きく吐いた溜息は、狭い電話ボックスの中でやけに大きく響いた。
29.04.10
kitchnetteの訳は給湯室でいいのだろうか、とか、学術書専門の出版社って世界中どこでも同じような経営なのだろうか、などという疑問はあるのですがその辺はあまり深く考えないで下さい(汗)
アカデミック関係で出版するのは実際コネが大きいとは思うんですけどね。
次回でやっと進展があるはずです。
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