キッチンカウンターに背を預けたまま濃い目のブラックコーヒーを一口飲んで、京楽はほうっと大きく息を吐いた。
やはり自宅が一番くつろげると、張っていた肩の力を抜く。
マグカップから上る湯気を何とはなしに見詰めていると、浮竹が去った後に浦原と交わした会話が脳裏に浮かんで来た。
―――『どういう風の吹き回しですか?人間を描かないことで有名な京楽さんが。しかも素人さんにモデルを頼むなんて』
―――『そうだねぇ』
―――『余程彼に惹かれるものがあったんですか?』
―――『さあ、どうかな』
―――『京楽さんを惹き付けることの出来る人ですかぁ・・・・・・モデルとしてか、それとも人間としてですかね?』
浦原の人の悪い笑顔を思い出して京楽は苦々しげに舌打ちする。
浦原は普段は鷹揚としている癖に実は鋭い洞察眼を持っているのだ。
適当にはぐらかしたつもりだったが、結局は自分の内心など見透かされているような気がして少しだけ不愉快だった。
それにしても、今日はたまたま浦原と来月の展覧会の打ち合わせのために画廊を訪れていて、本当に幸運だったと京楽は改めて思う。
美大の後輩だった愛川羅武が来月Gallery Uraharaで個展を開くというので、美大でも浦原とのビジネス上でも羅武の先輩である京楽は手伝いを頼まれたのだ。
どうにも断れなくて渋々引き受けた仕事だったが、やはり善いことはしておくものなのかもしれない。
京楽が偶然あの場にいなければ、きっと浮竹十四郎に出会うことも無かっただろう。
初めて、Gallery Uraharaに絵を置いていることに感謝した。
元々、画家の道を志すと決めたときから、京楽は自分の絵を画廊に置いたり展覧会に出品したりということは考えていなかった。
生活のためでも名声の為でもなく、ただ純粋に自分のためだけに絵を描いている京楽にとって、自分の絵が他人に評価されたり高値で取引されたりといったことは一切興味の範囲外だったのだ。
勿論、そんなことを言っていられるのは自分が経済的に恵まれているからだと京楽は理解しているし、その事実に感謝もしている。
日本でも有数の資産家である京楽家の次男である京楽は、家を出る時に両親から生前贈与という形で絵描きとして暮らしていくには十分過ぎるほどの金を貰っていた。
もっとも、そんなものが無くても、いざとなれば自分の絵を売ったり仕事を見付けたりして何とか生活していくのに必要な分は稼ぐ覚悟はしているが、それでもこうして絵を描くことに専念出来る環境にいられる自分は幸運なのだと京楽はよく知っていた。
そんな京楽がGallery Uraharaに絵を置いているのは、昔から家族ぐるみで付き合いのあった(こちらもまた日本有数の資産家である)四楓院家の夜一嬢に直々に頼まれたからである。
夜一の遠縁にあたるらしい浦原喜助という男は、一体どういった経緯で画廊なんか経営しているのかは知らないが、夜一が推薦するだけあって若いがかなり目が利く上に、なかなかしたたかな商売人でもあった。
その浦原が、何故か京楽の絵を気に入って是非自分の画廊に置きたいと夜一を通して言ってきたのである。
無論初めは断った。
金に困っているわけでもないのだし、そんな風にして他人と関わり合いを持って厄介事を増やしたくなかったのである。
自分はただ、絵が描けさえすればそれで良かったのだ。
しかし、あまり乗り気でないながらも浦原の店に絵を置くことを承知したのは、夜一に頼まれたからだというだけでなく、やはり京楽自身が浦原喜助と言う男を気に入っているからである。
いつもにこにこと笑顔で飄々としている割にどこか食えない浦原が、少しだけ自分に似ている気がしたのだ。
(僕が他人に惹かれる・・・か・・・・・・冗談にしては笑えない・・・)
コトン、と空のマグカップを置くと、京楽は中庭に通じるガラス戸を開けて外へ出る。
ほとんど荒れ地と変わらない庭には、植木鉢が一鉢無造作に置いてあるだけだった。
土がまだ乾いていないことを指で確認してから、京楽は植木鉢をアトリエへと移動させる。
画材以外何も無い殺風景な部屋には鮮やかなヴィリジアンの葉が不釣合いだった。
もう既に夕暮れなのか、開け放した窓から差し込んだ夕陽が床に蜜柑色の光の溜りを作っている。
夕暮れの柔らかい光に満ちた部屋の中央には、イーゼルに固定された一枚のキャンバスがあった。
植木鉢を床に置くと、京楽はキャンバスの前に立つ。
それは京楽が現在取り組んでいる、廃墟をモチーフにした絵だった。
描きかけの絵をじっと見詰めながら、京楽はやはり駄目だとひとりごちた。
今朝まで憑かれたように絵筆を動かしていたというのに、今の京楽はこの絵に対して完全に興味を失っていた。
まるで、激しく燃え盛っていた炎が突風に掻き消されてしまったかのように、京楽がこの絵へ向けていた筈の情熱は悉く消え去っていた。
今朝まではキャンバスの上に自分が描くべき形や色が見えていたのに、今では何の映像も浮かんでこない。
いや、それは違う。
無視することの出来ない事実に、京楽はきつく唇を噛み締めた。
目を閉じれば、瞼の裏にはっきりと浮かんでくる姿がある。
あの、浮竹十四郎という男の姿だ。
そして、浮竹の姿を思い浮かべると同時に、京楽の身体の中心から馴染み深い感覚が湧き上がってくる。
すぐにこの感覚は全身隅々まで行き渡り、京楽の身も心も支配してしまうだろう。
京楽は浮竹に「君を描きたい」と告げたが、正確に言えばそれは真実ではない。
京楽が抱いているのは「描きたい」などという生易しい欲求ではなく、「描かなければならない」という強迫感にも似た思いだった。
京楽の存在全てが、浮竹十四郎を描けと駆り立てるのだ。
それは、とても強く激しい思いだ。
あまりに激しくて、人智を超えた大きな力に突き動かされているような錯覚さえするほどに。
ある種の焦燥感にも似たこの感じは、今こうしている間にもどんどんと強くなっている。
やがてそれは自分の意識すら支配し、自分は寝ても覚めてもあの男の姿をキャンバスに留めることだけを考えるようになるのだろうと京楽は自嘲的に笑った。
勿論それは京楽のよく知る精神状態であるし、そもそもこの衝動が京楽を画家の道に進ませたのだ。
物心つく前からこの激しい本能は京楽の中にあり、京楽に絵を描けと命じてきたのだった。
一体何がここまで自分を駆り立てるのだろうか。
絵を描くことで、自分は何を欲しているのか。
本当は、何を求めているのだろうか。
その答えを見つけるために、京楽は筆を執る。
美の追求や芸術なんてものに興味は無い。
ただ、この自分の魂が求める「何か」を、手に入れたいだけなのだ。
そして、そのためにはどうしても浮竹十四郎が必要なのである。
浮竹を見た瞬間、この男を描くことで自分が追い求めていたものが手に入ると京楽は確信していた。
浮竹の姿をキャンバスに捉えることが出来れば、自分を駆り立てるものの正体を突き止められる、と。
どれ程他人から高い評価を得ようとも、京楽は自分の絵には何かが欠けていることに気付いていた。
身の内から突き上げる衝動を充たすには、まだ何かが足りなくて、だから自分の欲しいものが手に入らないのだと、そう考えていた。
しかし、浮竹を描くことでその何かを見付けることが出来る気がするのだ。
だが、果たして浮竹はモデルになることを承諾してくれるだろうかと京楽は不安になる。
本当のことを言えば、あのまま彼をここに連れて来てスケッチを始めてしまいたかった。だが流石にそんなことは許されないと分かっていたから、逸る心を何とか理性で押し留めたのである。
一応これでも常識をわきまえているつもりだった。もっとも、強引に浮竹を浦原のオフィスに連れ込み取引を持ち掛けたのは突飛な行動だったかもしれないが。
(彼は、電話してくるだろうか)
もし浮竹からの電話が無くとも、どんな手を使っても浮竹の居場所を突き止めると京楽は既に決心していた。
そして、彼がうんと言うまで何度でも頼み込むつもりだ。
それでも、出来ることなら浮竹自身の意志でここに来て欲しかった。
何故そんなことを思うのか、京楽にもよく分からない。
ただ、上手く言葉に出来ないが、浮竹からは自分と同じ匂いがする気がしたのだ。
じっと京楽の描いた絵を見詰める浮竹の瞳には、自分と同じ渇望の光があった。
京楽が絵を描くことで何かを掴もうとしていることを、浮竹は直感的に理解したのではないかと京楽は思う。
それはきっと、浮竹も自分と同じだからなのではないだろうか。
自分が絵を描くことで捕まえようとしている何かを浮竹も求めているからこそ、彼は自分の絵にあれほど惹かれたのではないだろうか。
もしそうならば、浮竹もまた自分のように制御不可能な衝動を心に抱えているのだろうか。
どこか儚げな浮竹の横顔からは、そんな激しい感情を窺い知ることは出来なかったが、それでももしかしたらと京楽は思う。
(これ以上考えていても仕方が無いよね・・・・・・)
大きく息を吐くと、描きかけの絵をイーゼルから降ろし京楽は代わりにスケッチブックを取り出す。
そして、記憶にある浮竹十四郎の姿を記録するべく黒炭を手にしたのだった。
17.01.10
羅武は彫刻家、親友のローズはミュージシャンっていう設定です。
二人とも出てくる予定は無いんですけどね^^;