漆黒の海の上に一輪の白い花が咲いている。
隣には愛しげにその花を見詰める京楽の姿があった。
「本当に何も覚えてないのでありんすか?」
「うん、浮竹が僕に刺さった記憶の欠片を引き抜こうとしたところまでは覚えてるんだけどね。次に気が付いたときには雨乾堂で浮竹と布団の中で寝てたんだよ。その間の記憶はすっぽり抜け落ちてるんだ」
背後に突然現れた花天狂骨に驚いた様子も無く、京楽は世間話でもするかのような口調で淡々と語る。視線は白い花に向けられたままだ。
「まあ記憶を失ってもぬしはぬしのままでありんしたが」
「あれ、君のことを忘れていた間もここに来られたんだ?」
「ここはぬしの心の中でありんすからなぁ」
「ふぅん、そういうものかねぇ。何だか不法侵入された気分だよ」
「何を馬鹿なことを」
「でもさ、浮竹とセックスしたことも覚えてないんだよ?ひどい話だと思わない?」
「・・・ぬし、まさか自分に嫉妬しているのではありんすな」
「おいおい、いくら僕でもそこまで嫉妬深くないよ。ちょっと損したなぁ、って思っただけさ。まあ記憶が無くても浮竹を口説いたってところは褒めてあげてもいいかなとは思うけど。やっぱり僕は浮竹に恋する運命なんだねえ」
「惚気るだけなら帰っておくんなまし」
「ははっ、手厳しいねえ」
くすくすと笑いながらその場に屈みこむと、京楽はそっと白い花弁を撫でる。乳白色の淡い光を放ちながら花は京楽の指の動きに合わせて微かに震えた。
「これを守ることが出来て本当に良かったよ。でも・・・」
「でも?」
「やっぱり、僕が一番守りたいのは本物の浮竹なんだよね」
自分の中にある浮竹の記憶も大切だけど、本当に大切なのは浮竹自身だから。
だから、もう二度と浮竹に悲しい思いをさせないと京楽は誓う。
「それじゃあ浮竹の元に帰るとしますか。花天狂骨」
「何でありんすか?」
「また君に会えて嬉しいよ」
「・・・・・・ぬしは本当に馬鹿でありんす」
「全くだよ」
もう二度と愛しい人に会えなくなるかもしれなかったのだ。
本当に自分は大馬鹿者だと京楽は苦笑した。
*****
「ねえ、浮竹。僕に忘れられて悲しかった?」
不意に死覇装をまさぐる手を止めて京楽がそんなことを尋ねるものだから、浮竹は一瞬何を言われているのか分からなくて混乱する。
外気に晒された肌は、京楽の愛撫を求めて熱く火照っていた。
「い、言わせる気か?」
言葉にしなくても分かるだろうと言外に含めて、潤んだ瞳で行為の続きを懇願する。
「それとも、大事な恋人を忘れるなんて、って腹が立った?」
「まさか・・・っっっ!」
胸の突起を指の腹で軽く擦られて浮竹の身体がびくりと跳ねる。
「じゃあやっぱり悲しかったんだ。もしかして僕のために泣いてくれた?」
「お前っ・・・趣味悪過ぎだ・・・!」
感じるところを攻め立てながらそんな質問を重ねて意地悪をする京楽を浮竹はきっと睨み付けるが、快楽への期待に潤んだ瞳では逆に京楽の嗜虐心を煽るばかりである。
にやりと人の悪い笑みを浮かべると京楽は白い首筋に舌を這わせた。たまらず浮竹が嬌声を上げる。
すっかりいつも通りの慣れた手付きで浮竹の快感を煽っていく京楽に、記憶が無かった頃の方が素直で可愛げがあったと浮竹は心の中で悪態を付いた。
京楽の記憶は戻ったが、記憶を失っていた間の六日間の出来事は何も覚えていなかった。
京楽が自分のことを思い出してくれたのは嬉しかったが、それではこの六日間自分の傍らにいた京楽はどこへ行ってしまったのだろうかと浮竹は思う。
やはり「彼」は消えてしまったのだろうか。
愛してると言って形振り構わず浮竹を求めてくれたあの京楽は、もうどこにもいないのだろうか。
確かに彼は存在したのに。
確かに自分は彼を愛したのに。
「十四郎」
欲望に上擦った声で京楽が浮竹の名を呼ぶ。浮竹が顔を上げると雄の顔で自分を見詰める京楽がいた。
琥珀色の瞳は劣情の光に揺らめいている。
(何だ・・・あいつはここにいるじゃないか・・・・・・)
京楽の瞳に宿る光は、「彼」と同じものだった。
そうだ、「彼」は京楽なのだ。
京楽の魂の一部なのだ。
ならば寂しく思うことなどない。
もう会うことは無いけれど、彼は今も京楽の中にいる。
そして、浮竹と共にいるのだ。
だって、京楽の魂は常に浮竹の魂と共にあるのだから。
「春水」
覆い被さってくる京楽の重みを受け止めながら、浮竹は祈るように呟く。
世界で最も美しく、最も尊い言葉を。
「愛してるよ」
厳かに重ねられた唇は、幸せ(エウダイモニア)の味がした。
(the end)
12.09.09
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