八番隊が満身創痍の体で帰還したという報告を浮竹が受けたのは、その日の昼過ぎのことだった。
件の虚は倒したが、どうやら相当強力な相手だったらしく、八番隊隊士の大半が負傷。重傷者も多く、隊長京楽春水、副隊長矢胴丸リサも綜合救護詰所に運ばれたとのことである。
京楽の容態は、現在不明。
裏廷隊から連絡を受けてすぐ、浮竹は執務中にも拘らず雨乾堂を後にした。
京楽の強さを誰よりも理解していると自負している浮竹だから、心の底では京楽の無事を信じてはいたが、それでも四番隊までの道を急ぐ中、早まる鼓動を抑えることは出来なかった。
*
大きく深呼吸をすると、浮竹はコンコン、と京楽が収容された部屋の扉を叩いた。
乾いた音が人気の無い廊下に響く。しかし、中から返事は無い。
京楽は眠っているのだろうかと考え、浮竹は「春水、入るぞ」と一言言って冷たい取っ手に手を掛けた。
ガチャリ、と無機質な音を立てて扉が開く。
しかし、不安な面持ちで京楽の病室に入る浮竹を迎えたのは、怪我一つ無い様子で寝台に座っている京楽だった。
いつも通りの姿で浮竹に微笑み掛ける京楽に、浮竹の肩から力が抜ける。
「春水!」
寝台まで駆け寄ると、浮竹はぎゅっと強く京楽を抱き締めた。腕の中の確かな温もりに、浮竹は安堵の息を漏らした。震える浮竹の肩に京楽の大きな手が添えられる。
「良かった……無事だったんだな……酷い状況だって聞いたから心配したんだぞ?どこも怪我はしていないのか?」
矢継ぎ早に発せられる浮竹の質問に京楽はふるふると首を振る。しかし、自身は無傷だというのに京楽の表情は晴れなかった。
確かに京楽自身は無事だったが、報告によれば八番隊の被害は甚大だという。
京楽は隊士達のことを想って胸を痛めているのだろうと思い、浮竹は徐に京楽の隣に腰を下ろすと、所々掠り傷の出来た褐色の手を、そっと両手で包み込んだ。
「矢胴丸も負傷したと聞いたが……」
リサの名を聞いて京楽は一瞬辛そうに顔を歪める。
それでもこくりと小さく肯いた京楽に、浮竹は「そうか……」とだけ呟くと京楽の手を握る手に力を込めた。握り返す京楽の手は、僅かに震えている。
そうして二人、しばらくの間黙って互いの手の温もりを感じていたが、ふと何気無く病室を見回した浮竹が不思議な物に気が付いた。
「春水、あれは一体何だ?」
浮竹の視線の先にあるのは、寝台脇の棚に広げられている紙の束。
そこに書かれている文字は、確かに京楽の筆跡である。
手を伸ばしてその中の一枚を取ると、京楽の字で『出発前に浮竹から貰ったのど飴を食べたくらいです』と書かれていた。
「のど飴……?」
訳が分からないといった表情で首を傾げる浮竹に、京楽は困ったように苦笑して自らの喉に手を当てると、口をぱくぱくと開けて何かを喋る振りをして見せた。
京楽が何をしたいのか分からなくて、ちゃんと話してくれと言おうとした時、浮竹は不意にそれまで京楽が一言も発していないことに思い当たった。
「春水、お前……まさか、声が出ないのか?」
半信半疑の浮竹の質問に、京楽はこくりと肯くことで答える。
その顔は参ったよ、とでも言うように苦笑を浮かべてはいるが、鳶色の瞳が不安げに揺れるのを浮竹は見逃さなかった。
「一体どうして――?喉を痛めたのか?」
「いいえ、京楽隊長に外傷はありません」
声が聞こえてきた方向に浮竹と京楽が振り向くと、そこには病室の入り口に立つ卯ノ花と浦原がいた。
「卯ノ花隊長、浦原隊長」
反射的に立ち上がろうとする二人を視線で制しながら、卯ノ花が病室に足を踏み入れる。
その後を「どーも」と暢気な声で挨拶する浦原が続いた。
「卯ノ花隊長、春水に一体何が起こったというのですか?」
予想外の事態に困惑を隠せず、浮竹の声が上擦る。
そんな浮竹と京楽を交互に見遣りながら、卯ノ花は淡々と説明を始めた。
「先程申し上げました通り、京楽隊長に外傷はありません。身体的には健康そのものです。声が出ないという一点を除いては」
「外傷が無いのに、声が出ない……?それは、精神的なものに由来するということですか?」
「いいえ……京楽隊長の声を奪ったのは、虚の『毒』だと思われます」
卯ノ花の所見によれば、負傷した八番隊隊士は皆強力な毒に侵されているとのことだった。只、特殊な毒なのか、霊圧の低いものには毒として作用するだけでなく、魂魄を溶かす酸のような効果を発揮する。
それ故、重症者は内臓だけでなく、四肢に酷い大怪我を負っている者もいるらしかった。
初めて見る症状に、経験豊富な卯ノ花ですら治療に困難を極めたが、浦原と技術開発局の支援もあって何とか毒の主成分を割り出し、治癒術を施して救命に当たったのだという。
一時期綜合救護詰所は戦場のようだったらしい。
そんな状況で、全く苦しむ様子も見せず、一見して無傷だった京楽に注意を払うものはいなかった。
卯ノ花が京楽の異変に気付いたのは、重傷者の治療が一段落した頃のことだった。
八番隊の治療状況を伝える卯ノ花に、京楽は応えることが出来なかったのである。
「京楽隊長の声が出ないと分かってからは、筆談でお話を伺いました。外傷も無く、内臓にも異常が無いようですから、おそらく虚の毒の大部分は京楽隊長の霊圧によって弾かれたのでしょう。
ですが、それでは京楽隊長の容態の説明が付きません。ですから、任務前後に何か普段とは変わったものを摂取されたかと京楽隊長に尋ねました所、浮竹隊長からのど飴を頂いたと――」
そう言いながら、卯ノ花が浮竹の手の中の紙に視線を移す。
これはそういう意味だったのかと、書かれた文字の意味にようやく合点が行った。
「これはまだ推測の域を出ませんが――京楽隊長が声を失った原因は、私の調合した薬と虚の毒が予想外の化学反応を起こしたためだと思われます」
つまり、出発前に浮竹が京楽に渡したのど飴が、京楽の声を奪う間接的な原因になったということだ。
「そんな……それじゃあ、俺のせいで春水は――――」
出発前に京楽と交わした会話を思い出して、浮竹の表情が強張る。
浮竹の顔に翳が走るのを見て何を思ったのか、ひょい、と京楽が浮竹が握る紙を取り上げると、そのままどこかから取り出した筆をさらさらと滑らせた。
数分の後筆を置くと、京楽がぴらり、と浮竹の前に紙を掲げて見せる。
そこに書かれていたのは
『違うよ。虚の毒を避けられなかった僕が悪いんだ。それに、誰もこうなることは予想できなかったんだし、声が出ない以外はこうしてぴんぴんしてるんだからさ。十四郎が気に病むことじゃない』
という、浮竹を安心させるための言葉だった。
「春水……」
だからそんな顔しないで、と言うように京楽はにこりと笑って見せる。
しかし、浮竹は浮かない表情のままだ。
京楽の気遣いを理解はしているが、やはり浮竹は心配で溜まらなかった。予想外の化学反応ということは、治療法が見付かるかも分からないのだ。
そんな浮竹の心情を察してか、それまで黙っていた浦原が不意に口を開いた。
「正確なことは現在技術開発局の方で調べています。直ぐに完全な分析結果が手に入るでしょう。京楽隊長の症状は、毒そのものよりも卯ノ花隊長の薬との相互作用によるものが大きいので、
薬の効果が切れれば自ずと京楽隊長の声も戻ると思います」
「――!それは本当なのかい、浦原隊長?」
「はい、卯ノ花隊長も僕と同じ意見です」
そうですよね、と確認を取る浦原に、卯ノ花は黙って肯く。
「そうですか……――」
(良かった……)
二人が揃ってそう言うのなら大丈夫なのだろうと、浮竹はほっと胸を撫で下ろした。
しかし安心したのも束の間、卯ノ花は「只、声が出ないということは私達死神にとっては重大な問題です」と真剣な表情で続けたのだ。
「重大問題?それは一体どういう意味ですか?」
「死神が声を出すことが出来ない。それはつまり、その死神の戦闘力が大幅に削減されることを意味しています」
卯ノ花の言葉に浮竹は思わずはっ、と息を飲んだ。
確かに卯ノ花の言う通り、京楽にとって声が出ないということは深刻な問題なのだ。
何故なら――――
「鬼道を使うことはおろか、自分の斬魄刀の名を呼ぶことすら出来ないということですね」
死神の戦闘において、言葉は非常に重要な役割を持つ。
例えば、鬼道を放つ際の言霊詠唱は威力を保つためには絶対に必要な条件である。勿論鬼道に長けた者ならば詠唱破棄が可能だが、詠唱破棄においても技名を叫ばなければ鬼道を発動することは出来ない。
しかし死神にとって最も大切な言葉とは、自分の斬魄刀の名前である。
斬魄刀の名を呼ぶことで、初めて死神としての本来の力を引き出すことが出来るのである。
つまり、声を出せない京楽は、自身の能力を最大限に発揮できないということなのだ。
「京楽隊長程の実力でしたら始解しなくても十分戦えるとは思いますが、念のため、薬の効果が切れるまで数日の間は待機するのが得策かと思います。現在の状態の八番隊が実戦任務に派遣される可能性は低いですから、それ程支障は無い筈です」
「筆談での任務は流石に難しいですからねぇ。喋れなければ地獄蝶を使って連絡を取ることも出来ませんし、戦場での指揮を執ることも出来ません。卯ノ花隊長の仰る通り、八番隊はしばらく通常任務からは外されるでしょう」
「そうですか……」
京楽はどう思っているのだろうかとちらりと横目で見ると、浮竹の視線に気付いた京楽は仕方ないね、とでも言うように小さく肩を竦めて見せた。
「卯ノ花隊長。薬の効き目が切れるまで数日というのは確かなのですか?」
「毒の影響が予測不可能なので断言は出来ませんが、普通は二、三日で効果は薄れます」
「毒の成分が分かり次第技術開発局の方から連絡します。その時はまた検査が必要になるかもしれませんが……」
浦原の後半の言葉が自分に向けられているのだと理解して、京楽は了解を示すために軽く手を振った。
「山本総隊長の指示によれば、八番隊が立て直るまで、当面の間京楽隊長には書類業務をこなして頂くとのことです。八番隊隊士の殆どが負傷していますが、幸い当初予想していたよりも重傷者は多くありません。
虚の毒が周囲に拡散するのを防ぐために京楽隊長が張った結界が、隊士達を守ったのでしょう。矢胴丸副隊長も安静にしていれば直ぐに回復する筈です」
卯ノ花の口から出たリサの名前に反応したのか、京楽がそっと浮竹の肩に手を置いた。振り向いた浮竹が目にしたのは、京楽の懇願するような瞳だった。
(春水……お前……――)
京楽の意図するところを察して、浮竹が「矢胴丸に面会は出来ますか?」と尋ねると、肩に置かれた京楽の手がほんの少し強張るのが分かった。
「春水は直ぐ退院出来るんですよね?是非二人で矢胴丸に会いたいのですが……」
黙って京楽と浮竹を交互に見詰める卯ノ花に不安を感じて浮竹がそう続けるが、語尾は弱々しくなってしまう。
八番隊には関係の無い自分には出過ぎた行為だったかと浮竹は少し後悔するが、京楽のためだけでなく、浮竹自身も矢胴丸の容態をこの目で確認したかった。
そんな浮竹の気持ちを悟ったのか、それまで真剣な面持ちだった卯ノ花だが、不意に表情を和らげて
「はい、きっと矢胴丸副隊長も喜ばれますよ」
と笑ったのだった。
きっとお話したいことが沢山あるでしょうから、という卯ノ花の静かな呟きは、良かったと大きく安堵の溜息を吐く浮竹の耳には届かなかった。
01.09.10