結局、その夜は浮竹も京楽も眠りにつくことはなかった。
二人がお休みの言葉を交わして少ししてから、十三番隊に緊急招集が掛けられたのだ。流魂街の外れで虚が数十匹現れたという報告があり、浮竹の十三番隊に討伐に向かう任務が与えられたのである。
自分の方から泊まっていってくれと頼んだのにこんなことになってしまってすまないと繰り返し謝罪する浮竹を、仕事なんだから仕方が無い、気にしないでくれと笑顔で見送った京楽は八番隊の自室に戻っていった。
朝まで雨乾堂で寝ていればいいのにと浮竹は言ってくれたが、十三番隊隊士が出払っているのに自分だけのうのうと眠るのは気が引けたのだ。
八番隊隊首室に帰って来たのは良いが目が冴えてしまってなかなか寝付けず、布団の中でごろごろと寝返りを打っている内に、気が付くと朝が来て起床時間になっていた。
*****
「それではこちらの書類に目を通してから署名をしてください」
「こ、これ全部・・・?」
「今日という今日はちゃんと仕事をして頂かないと私も困るんです」
問答無用とばかりにどん、と勢いよく書類の山を京楽の前に置くと、七緒はどこからか自分用の机を持ち出してきて京楽の机の向かいに座る。
まるで京楽を見張るかのようなその行動に京楽は逃げ道は無いと観念した。
そもそもこの仕事は二千年後の自分のものであって今の自分とは何の関係も無いのにどうしてこんなことになっているのだろう。護廷隊の仕組みについて無知な自分が訳の分からないまま書類に署名などして良いのだろうかと
京楽は戸惑っていたが、実質的な仕事は全て七緒が済ませているため京楽はただ目の前の書類に署名すればよいだけだったりする。
ちなみに今の京楽は比較的聞き訳が良いことを利用して七緒はここで溜まりに溜まっていた書類を全て終わらせ、ついでにまだ提出日まで間がある書類もまとめて片付けようとしているので京楽の机の上の書類は物凄い量に
なっていた。
「僕、こういう事務仕事は好きじゃないんだけどなあ・・・」
ぶつぶつ小声で文句を言いながらも、七緒には色々世話になっているので仕方なく京楽は目の前の仕事を片付けることに集中し始める。そんな京楽を見て、七緒は密かに上機嫌であった。
そうして紙を繰る音とさらさらと筆が進む音だけが八番隊隊首室を満たす。
どうせ読んでも分からないのだからと京楽は最初から書類内容に目を通すことは放棄していたので仕事そのものはひどく単調だった。自然、思考も彷徨い始める。
淀みなく筆を動かしながら、気が付くと京楽は浮竹のことを考えていた。
昨夜の自分は明らかにおかしかった。確かに浮竹のことは好きになり始めているし、一緒にいてとても心安らぐ存在だとは思う。
目が覚めたらいきなり二千年もの時が経っていて、あまりの出来事に絶望に目の前が真っ暗だった。
そんな時、分厚く垂れ込める雲の隙間から差し込む美しい光のように浮竹はその心と言葉でもって京楽を救ってくれたのだ。
どんな姿でも、記憶を失っても、京楽が存在する、ただそれだけで良いのだと、それだけで京楽を愛しているのだと、浮竹の心は伝えていた。それがどれ程京楽の胸を打ったか、言葉では言い尽くせない。
自分は自分のままでいて良いのだと、それだけで愛される価値があるのだと浮竹は示してくれたのだ。喜びや感動などという言葉では足りないくらいだ。
京楽にとって、それは正に新しい世界の幕開けといっても過言ではなかった。
だから、京楽は自分を認めてくれた浮竹に深い感謝の念を抱いている。いや、感謝だけではないのかもしれない。
浮竹に「お前のの心を愛している」と言われた瞬間に京楽の胸に灯った感情は、感謝と言うにはあまりにも甘く優しく、そして温かった。
今までに経験したことの無いその感情を何と名付ければよいのか京楽には分からない。
だが、少なくともそれは今まで一夜を共にした女達に感じたものとは全く異なるものだった。
だから、浮竹に対して性的な想像をしてしまったことがこれほどまでに京楽を動揺させていたのだ。浮竹には好意を持っているが、それは感謝から来る敬愛のようなものであって決して色恋の好意ではない。
何度も繰り返すが、自分はヘテロなのだ。同性愛に偏見を持っているわけではなく、ただ自分のアイデンティティーにヘテロであることは当然のこととして含まれていただけである。
もしかしたら自分はバイセクシュアルなのだろうかとちらりと思わないでもなかったが、ただでさえ色々大変な時にこれ以上余計なことについてまで考えたくはなかったため京楽は敢えてその可能性を無視した。
今は他に考えるべきことは沢山ある。取り合えず今のところ山本に頼まれた通り京楽は隊長職を続けているが、もし京楽に記憶が戻らなかった場合はどうなるのか。
隊長が三人も出奔したにも拘らず、代わりの隊長が見つかっていないということはやはり隊長格に見合うだけの実力を持つものがいないということなのだろう。だとすれば京楽という戦力を失う痛手は大きいに違いない。
護廷隊の戦力の要は各隊の隊長なのである。京楽が戦線離脱するということは、護廷隊の力の十分の一、もしくはそれ以上が失われるということなのである。
来るべき藍染達との戦闘において、京楽の不在は護廷隊、いやソウルソサエティにとって致命的となるのかもしれないのだ。
だが、京楽にはどうしても自ら斬魄刀を取って戦う決心がつかなかった。
確かに藍染はソウルソサエティにとって脅威である。
藍染が一体何を目的にソウルソサエティの覇権を握ろうとしているのかは分からないが、何にしても藍染がソウルソサエティに侵攻してくれば魂魄達が命の危険に晒されることは確実なのだ。
しかし、殺されるかもしれないと知りながら、京楽にはどうしても危機感が湧かなかった。おそらくそれは、心のどこかで殺されても構わないと思っているからなのだろう。
京楽には生きることに特に関心も無ければ、未練も無い。命を賭してまで守りたいと思うものも無い。
惰性で今まで生きてきたのである、今更失っても惜しくはない命だった。
そういえば、浮竹の守りたいものとは何なのだろうかと京楽は思う。あの優しく清浄な男が己の手を血に染めてまで守ろうとするのは、やはり仲間や自分の部下なのだろうか。
浮竹のことだからきっと自分の隊の隊士達を本当の家族のように大切にしているはずだから。
と、そう考えてふと京楽は十三番隊には副隊長が不在なのだと思い出した。
「伊勢副隊長」
「何でしょう?」
「どうして十三番隊には副隊長がいないんですかね?」
「そうですね・・・十三番隊の皆さんは志波副隊長を慕っていましたから。やはり彼以上に副隊長に相応しい人材が見つからないのではないでしょうか」
「志波・・・?志波ってもしかして五大貴族の?」
「元、五大貴族です。私も理由はよく知らないのですが志波家は没落しました。志波海燕殿は確かに貴族の出ですが、非常に気さくでお優しい方だったと聞きます。十三番隊の隊士からとても慕われていましたから。
浮竹隊長も志波殿をとても頼りにしてらしたとか。彼以外に自分の副隊長はいないと思っていらっしゃるのかもしれませんね」
「へえ・・・」
七緒の話を聞く限り志波海燕という男は余程人徳のある人物だったのだろう。浮竹がそこまで入れ込むのだから、死神としての能力も高かったに違いない。
それなのに、何故自分はこんなにも苛々としているのだろうか。会ったことも無い男の話を聞いて何故機嫌を悪くしているのだろうかと思いながらも、京楽はむかむかとした気分を拭うことが出来なかった。
死後もなお浮竹が執着しているという男がどうにも気に食わなかったのだ。
「嫉妬ですか?」
「え?」
突然核心を突くことを言われ、京楽は思わず手にしていた筆をぽろりと落としてしまう。
「志波副隊長の話が出ると、京楽隊長はいつもほんの少しだけ複雑そうな顔をしますから。浮竹隊長のお気に入りだった志波副隊長が気に入らないのでしょう?」
「そんなこと、あるわけないじゃないですか。僕は十四郎さんのことなんて、なんとも思ってないんですよ?」
「ああ、そうでしたね。でも、先程の隊長は、以前と同じ表情をしていましたから・・・もっとも、今の隊長の方が顔に出てわかりやすいですが」
七緒に自分の考えを簡単に読まれているという事実にも驚いたが、何より京楽にとって衝撃的だったのは「嫉妬」という単語だった。
嫉妬なんて感情を京楽は今までに経験したことが無かった。嫉妬するほど誰かや何かに対して愛着を持ったことが無いからだ。
付き合ってきた女達だって、皆可愛がっていたつもりだがそれでも別れるときに悲しいとは思わなかった。どの女もある程度好意を持ってはいたが、それでも彼女達には執着していたわけではない。
いや、何かに執着するということを京楽は知らないのだ。
大切だと思うものが無いからこそ、来るものは拒まず、去るものは追わずという態度でこれまで生きてきたのだ。
そんな自分が嫉妬しているなど、京楽は容易には信じることは出来なかった。
だが、言われてみれば確かにこの志波海燕に対する腹立たしさは志波に対する浮竹の思い入の深さから来るものであり、それは嫉妬と呼べる感情なのかもしれない。
しかし、もしそうだとすれば自分は浮竹に執着していることになる。
だが、嫉妬するほどの執着だなんて、それはまるで恋のようではないか。
それではまるで浮竹を愛しているようではないか。
そんなことは有り得ないと京楽は苦々しげに舌打ちする。
誰かを愛することなんて自分には出来はしないのだから。自分は愛し方など知らないのだからと、京楽は自嘲気味に笑う。
だから、自分が浮竹を愛することなど有り得ない。こんな感情は全てまやかしなのだ。
そう己に言い聞かせるように繰り返しながらも京楽の心は晴れなかった。机の上に転がったままの筆がじわじわと漆黒の染みを作っていく。
それは京楽の胸の内に広がっていく説明のつかない不可思議な感情を表しているかのようだった。
*****
うだうだと考えていても埒が明かないのだから、実際に面と向かって浮竹に会って自分がどう感じるのか試してみよう。
そう決心すると、京楽は就業時間が終わると直ぐ雨乾堂を訪れることにした。幸い今日一日真面目に仕事に取り組んだため定時前に執務を終えることが出来たのだ(七緒は奇跡が起きたと喜んでいた)。
十三番隊は午前中には虚討伐任務から戻ってきていたようだが報告書の作成など後始末で忙しいだろうからと勤務時間が終了するまでは我慢して待っていたのだ。終業の鐘が鳴ると同時に京楽の足は雨乾堂に向かっていた。
だが、十三番隊隊舎に着いたのはいいが何となく門から入るのが気恥ずかしくなって、京楽は雨乾堂の池を伝って少し離れた場所からそっと浮竹の様子を伺うことにした。
開け放たれた戸からは文机に向かって書き物をしている浮竹の姿が見えた。
「京楽?」
京楽が音も無く雨乾堂の欄干に降り立つと、同時に浮竹が振り向いて微笑んだ。何だか少し疲れた表情をしているのは気のせいだろうか。
「任務、ごくろうさまです」
「ああ、ありがとう。今朝は済まなかったな」
「いえ、お仕事なんだから仕方ないですよ。それより、これ、昨日泊めてくれたお礼です」
そう言って京楽は手土産代わりに持参した酒徳利を浮竹の前に置いた。きっと自分のことだから自室の何処かに酒の一升や二升隠してあるだろうと言う京楽のカンは見事にあたっていた。
どこを隠し場所にするかということも大体予想がついていたため、八番隊隊首室を物色して隠してあった酒を見つけるのにそう時間は掛からなかった。
「そんなこと、気にしなくても良かったのに・・・」
「いいんですよ、一緒に飲みましょうよ。もう仕事は終わったんでしょう?」
いたずらっぽく笑ってみせる京楽に、浮竹はやれやれというように微笑んだ。
「仕方ない奴だな。今何かつまみになるものを用意させるよ」
大げさに溜息を付いては見せたが、浮竹の表情は柔らかい。本心ではこんな風に京楽から飲みに誘われて悪い気はしないのだ。
今日は何だか疲れているから早く休もうと思っていたのだが京楽と一緒に酒が飲めるのなら少しくらい無理をしても構わないだろうと浮竹は思い、人を呼ぶため立ち上がろうと腰を上げた。
その時。
「っっっっ!!!!」
ぐらりと浮竹の視界が揺れて、世界が反転する。
「十四郎さん!!!!!!」
立ち上がりかけて突然崩れ落ちた浮竹の身体を京楽は驚いて抱き留める。
気を失った浮竹は力無くぐったりと京楽の腕に支えられるがままぴくりともしない。顔色は真っ青だった。
「十四郎さん?どうしたんですか?しっかりしてください!!十四郎さん!!!!」
必死になって京楽は浮竹に声をかけるが、反応は無い。
どんどん血の気が引いていく浮竹を抱きしめながら、京楽はなす術も無く、ただ何度も何度も浮竹の名前を叫ぶことしか出来なかった。
05.09.09
一度やってみたかった浮竹さんの病気ネタ(笑)
エウダイモニアは同人小説のお約束ネタばかりで出来ているお話なのです。