全てが寝静まる夜。昼間の喧騒は息を潜め、穏やかな沈黙が瀞霊廷を包み込む。
真っ暗な闇の中、雨乾堂の寝床で横になりながら浮竹は今日一日の出来事を思い出していた。
断崖での任務、大虚の出現、鬼道の暴走、京楽の記憶喪失、そして京楽との他人行儀な会話。あまりに多くのことが起こりすぎて、とてもたった一日が過ぎただけだとは信じられなかった。
山本と綜合救護詰所で別れた後雨乾堂に戻って報告書を書いていた浮竹は、清音からの報告によって京楽が隊長職を続けることに同意し八番隊隊舎に戻ったことを知った。
本当ならすぐにでも京楽に会いに行きたかったが、今日一日は京楽を一人にした方が良いという山本と卯ノ花の意見に従い取り敢えずは我慢したのであった。
それに、記憶を失った京楽に会って一体何が出来るのかと自問せずにはいられなかったのである。また、自分のことを「浮竹さん」と呼び、他人行儀に接する京楽を前にして取り乱さないという自信が浮竹には無かった。
何の感情も読み取れないガラス玉のような虚ろな瞳で見詰められて、正気を保っていられる保証は無かったのである。
京楽のあんな瞳を見たのは何時以来だろう。
もしかしたら初めて出会ったとき以来かもしれないと浮竹はぼんやりと思った。
浮竹と出会ったばかりの頃の京楽は、ひどく荒んだ生活をしていたらしい。
整った顔立ちと逞しい身体を持った美しい青年は、けれどどこか影のある、浮竹にとっては初めて見る種類の男だった。
才能も富みも健康な身体も、全てを手にしながらそれでいて夢も希望も捨て去ったような、生きることに何の喜びも見出さないような、まるで全てを諦めきったかのような京楽に、
幼かった浮竹は反感を覚え、それでいてどうしようもなく彼の存在が気に掛かった。
それは京楽も同じだったようで、出会いから紆余曲折を経て恋に落ち、そしてお互いの想いを打ち明け結ばれた。
それは、今考えてみれば信じられないくらい数多くの偶然の産物だったのかもしれない。しかし、浮竹にとって京楽との出会いは運命としか言いようの無いものだった。
なぜなら、京楽の出会いによって浮竹の世界は意味を変えたのだから。
京楽は浮竹の世界そのものだったのである。
始まりは偶然だったのかもしれない。だが今は、京楽に恋をしたのは必然だったのだと浮竹は確信を持って言えた。
だからこそ、京楽を失うなんて考えたことも無かった。京楽を失うことは浮竹にとって世界の崩壊を意味していたのである。
だが、京楽は浮竹のことを忘れてしまった。
浮竹の知っている京楽はこの世界のどこにもいなくなってしまったのである。残されたのは京楽の姿形をした別人だった。
零れ落ちそうな涙を手でごしごしと拭いながら、浮竹は寝返りを打った。無意識の内に、手は、あるはずの無い温もりを求めて虚空を切る。
そんな自分の仕草にまた涙が溢れそうだった。
(一人で寝るのがこんなに寂しいなんて・・・)
浮竹一人の体温でではいつまで経っても温かくならない布団が、余計に寂しさを募らせた。
もし京楽の記憶が戻らなかったら、自分達はどうなってしまうのだろうかと浮竹は不安な思いに駆られた。
京楽の記憶が戻らなければ二人の関係は終わってしまうのだろうか。
(京楽・・・俺はどうしたらいいんだ・・・?)
いつも自分を優しく包み込んでくれる腕を失い、浮竹は心細さに胸が押し潰されそうだった。
まるで自分の一部が欠けてしまったかのように、どうしようもなく心が寒かった。
*****
雨乾堂の池の水面に、ぴったりと寄り添う二つの月影が映る。
先程まで雨乾堂を満たしていた熱と激しい息遣いとは対照的に、今はただ静謐な空気が二人を包んでいた。
二人で京楽の着物に包まりながら、京楽と浮竹はただ静かに夜空に輝く星星を見上げていたのだった。
激しい情事の後のこの時間が、浮竹は好きだった。
京楽と愛を確かめ合った直後は疲れてすぐに眠ってしまうことの多い浮竹だが、時折こうやって起きていられることがある。そんな時、二人は黙って二羽の小鳥のように身を寄せ合うのが常だった。
何をするでもなくただ京楽の体温を感じ、息遣いに耳を澄ましていると、まるで世界に二人だけしかいないような錯覚ををした。
「浮竹ぇ、何考えてるの?」
「んん?何だ、突然?」
「ふふ、いいじゃないか。何となく聞いてみたくなったんだ」
「変な奴」
誰かが聞いているわけでもないのに内緒話をするように耳元で囁く京楽に、知らず浮竹の声も小さなものになる。
耳にかかる吐息がくすぐったくて浮竹はくすくすと笑みをこぼした。
「多分、お前と同じことを考えてた」
「僕の考えてることがわかるのかい?」
何年も一緒にいてお互いの考えてることなんて手に取るようにわかるくせに、浮竹に言わせたいのか京楽は驚く振りをしてみせる。
子供みたいな奴だと思いながらも、京楽がそんなわがままを言うのは自分の前だけだと言うことを知っている浮竹は、そんなところもまた愛しいと思うのだった。
「幸せだな、って思ってただろう」
それは問い掛けではなく確認の言葉。
「うん、幸せだって思ってた」
静かに呟かれた言葉は簡潔なものだったけれど、真実に溢れていた。
幸せで幸せで、あまりに幸せ過ぎて怖いくらいだった。
幸せの絶頂にありながら死んでしまいたいと願うのは、もうこれ以上幸せになることが出来ず後は少しずつ不幸になっていくだけなのを知っているだけだからだと言ったのは誰だろうか。
今ここで京楽と死んでしまえたらいいのに、なんて詮無いことを考えてしまうのも幸福だからなのだろうかと浮竹はぼんやりした頭で思うのだった。
「なあ、京楽・・・おれたちずっとこのままでいられるかな・・・?」
不意に不安に襲われてそんなことを呟いたのも、幸せ過ぎたからなのかもしれない。
「そうだねえ、ずっとこのままでいられたら良いねえ。明日の隊首会サボっちゃおうか?」
「そうじゃない。いつかお互いのことを嫌いになったり、飽きてしまったりするのだろうか、ってことだよ」
「うーん、まあ未来のことは誰にもわからないから絶対にありえないとは言えないけどねえ・・・でもさ、もう二千年も一緒にいるのに僕は全然浮竹に飽きてないし、それにまあ喧嘩は数え切れないくらいしたけど、やっぱり僕は浮
竹のことが好きで好きでたまらないよ。もうお互いの内も外も知り尽くしているんだからさ、それでも嫌いになんてなってないってことは、もう嫌いになる可能性なんて無いってことなんじゃないかな。」
「そうだろうか?」
「僕はそう思うよ。それにね、僕は浮竹のことを嫌いになるどころかどんどん好きになっていくばかりなんだ。毎朝目が覚めて腕の中の浮竹の寝顔を見るとね、ああ僕はなんて幸せなんだろうって思うんだよ。そしてやっぱり僕は
浮竹のことが好きだなあって再確認するんだ。それこそ毎日君に恋に落ちるみたいにね。だから僕は昨日よりももっと浮竹のことが好きだし、明日はきっと今日よりもずっと好きになるんだ」
京楽の言葉に、どうしてこいつは恥ずかしい台詞をすらすらと言えるのかと内心で悪態を付いた浮竹だが、不思議とその言葉に納得がいった。
京楽ほどうまく表現することは出来ないけれど、浮竹も同じ想いだったからこそ京楽の答えがすとんと胸に収まったのだろう。
京楽はいつも浮竹の欲しい言葉をくれる。こうやって優しい言葉と不敵な笑顔で浮竹の不安を消し去ってくれるのだ。
ああ、やっぱり俺は京楽が好きだと、浮竹はしみじみと実感した。
「俺は・・・そうだな、京楽が京楽のままでいてくれるなら、きっと何があってもお前を好きでいるのだと思うよ」
「僕のまま・・・?」
「ああ。例え京楽が俺のことを嫌いになっても、例え俺達の関係が変化しても、お前が、お前の本質が変わらない限り、俺はお前のことを好きでい続けるよ。
うまく表現できないんだが、お前を『京楽春水』という男にしているものが失われない限り、俺は京楽春水と言う男を愛し続けると思うんだ」
いつもは飄々として何事にも関心の薄い振りをしているけれど、本当は誰よりも聡明で思慮深く、誰よりも優しくて繊細で、そしていつも愛情に飢えている。
京楽が京楽である限り、浮竹は京楽を愛し続けるだろう。
月日が流れ季節が移り、街並みが変わり二人を知る者がいなくなっても、例え二人が離れ離れになっても、京楽が京楽でいる限り浮竹の想いは変わらない。
「愛してるよ、浮竹」
「・・・うん、俺も」
重ねられた唇は、幸福の味がした。
*****
浮竹が目を覚ますと、外はまだ暗かった。
(・・・夢・・・・?)
起き上がって辺りを見回しても京楽の姿はない。ここには自分しかいないことを思い出して、浮竹は初めて夢を見ていたことを知った。
あれこれと考えている内に、昼間の疲れが出ていつの間にか眠ってしまっていたのだ。
(どうしてあんな夢を・・・もう百年も前のことなのに・・・)
百年前に京楽と交わした他愛の無い会話。
すっかり忘れていた筈なのに、夢の中の出来事は不思議と浮竹の胸に鮮やかな残像として焼き付いていた。
(京楽が京楽のままでいる限り、か・・・)
百年前の自分の言葉が耳の奥で響く。
京楽は何も変わっていないのかもしれない。
記憶を失ってはいるけれど京楽は京楽なのだ。
確かに院生だった頃と比べて沢山の経験を積んだ今、変わった部分もあるかもしれない。
けれど、京楽の本質は今も昔も変わってはいない。
浮竹が恋した京楽は、消えてなどいないのだ。
そして、京楽が京楽である限り浮竹の想いは変わらない。
京楽は浮竹と過ごした日々を忘れてしまったかもしれない。
浮竹を愛したことも忘れてしまったかもしれない。
それでも。
「俺が変わらずお前を好きでいる、それで充分だ。そうだろう、京楽・・・?」
この胸に宿る輝きを失わなければ、自分と京楽との絆は消えはしない。
そう呟いた浮竹の顔に一筋の朝陽が射し込んだ。
05.07.09
ここまで全部同じ日の出来事だったんですね^^;
色々ありすぎて京楽さんも浮竹さんも大変ですが、浮竹さんはちょっと吹っ切れたようです。
次回は急展開!の予定です。