浮竹の右目に雪が降り始めたのは、京楽の行方が分からなくなって三日目のことだった。
右目と左目で視界に入る景色が違うのだと言って四番隊を訪れた浮竹を、最初に診察したのは吉良イヅルだった。
本来ならば隊長格を診るのは卯ノ花か副隊長が妥当なのだが、たまたまその時は二人とも出払っていて手の空いているのは吉良だけだったのだ。
右目が少しおかしいんだ、とだけ簡潔に告げた浮竹はとても冷静だった。だから吉良もそれ程大したことではないのだろうと軽く考えたのだ。
病弱な浮竹は、それ故に医療に関する知識が深い。時に四番隊席官の自分よりも余程医学の造詣があるのではないかと思わせる程に。
その浮竹がこれだけ落ち着いているのだから、右目の異変も直ぐに治療法が見付かる類のものだろうと、安心していたのかもしれない。
他隊の隊長だというのに、不思議と浮竹の判断は無条件で信頼出来ると感じるのだ。これも浮竹の人柄のおかげだろうか。
「取り敢えず、右目を見てみましょう」
最初は単純に眼球に傷が付いたのかと考えた。
だが、失礼しますと断って、緊張でほんの少し手を震わせながら浮竹の眼球を検分しても、綺麗な翠の瞳には変わったところは見られない。
息がかかるくらいに顔を近付けて、どんな小さな傷も見逃さないように注意深く調べても異常はない。少し白目が充血している気がしたが、ここ数日寝不足なのだと言われて納得した。
寝不足の理由は聞かなくても察することが出来る。
八番隊から選出された選抜隊が、大虚討伐のために流魂街の外れに出掛けてから行方が分からなくなったのだ。
選抜隊の消息が途切れて今日で四日目。捜索隊を出すべきかを検討する隊主会がそろそろ開かれる頃合いだろう。
選抜隊を率いていたのは八番隊隊長京楽春水だ。浮竹と京楽が無二の親友であることは周知の事実である。その親友の行方が分からないとなれば、眠れない夜を過ごすのも道理と思えた。
十番隊の松本乱菊によれば二人は親友以上の仲だと言うが、真相は知らない。興味が無い訳ではないが、他人が詮索するようなことでもないし、それに、長い年月を共に過ごしてきた二人の間に、自分達のような若輩者には到底理解出来ない絆があったとしても不思議ではないと思うのだ。
吉良は浮竹や京楽と殆ど関わったことがないが、たまに二人が一緒にいる所を遠目に見かけることがある。そんな時、二人の間に横たわる雰囲気は、彼等をよく知らない吉良の目にも美しいものに映った。
無条件の信頼とでもいうのだろうか。互いが互いの魂を補完している、などと柄にもなくロマンチックなことを思う程、二人の関係は傍目にも完璧だった。
いつかあんな風に心を許せる誰かが自分にも見付かるだろうかと、淡い期待を未来に抱いたことは、胸の内に大事に閉まってある。
そんな二人のことだ。京楽の行方が知れなくなって浮竹がどれほど胸を痛めているか、たとえ浮竹がそんなことおくびにも出さなくとも、容易に想像出来たのだった。
「眼球自体に異常は見られませんね。一応血管と視神経の様子も調べてみましょう」
「助かるよ。日常生活にちょっと不便な程度で大したことではないが、やはりいざ戦闘になった時に目が見えないとなったら困るからね」
ははは、と朗らかに笑う浮竹は戦闘とは全く無縁に見えるが、いざ刀を取ると鬼神の如き強さを発揮すると教えてくれたのは誰だったろうか。
特に京楽と二人で、花天狂骨と双魚理という尸魂界でただ二振りの二刀一対の斬魄刀を振るう姿は圧巻だと聞く。
検査のための器具を取り出しながら、いつか自分も彼等と同じ戦場に立つ日が来るのだろうかと吉良はぼんやりと考えた。
四番隊にいる限り、戦場にいても後方支援が多くなる。必然的に直接戦闘の機会は減る。だが、だからといって四番隊の隊士が他隊と比べて戦闘的に劣っている訳ではない(十一番隊の隊士達は誤解しているようだが)。
実際、吉良は密かに自分の斬魄刀の能力に自信を持っている。戦いに対する自分の信念をそのまま映した鏡のような斬魄刀だと思っているし、愛着がある。四番隊に来てからめっきり使う機会が減ったが、毎日の対話を欠かしたことはない。いつでも戦場に立てるだけの実力はあると自負しているのだ。だから、いつか浮竹と京楽の二人が戦う様を間近で見ることが出来るかもしれない。そう思うと胸が躍った。
勿論、それには京楽が無事帰還することが前提だが。
そこまで考えてはたと我に返った。検査機器を用意しながら別のことに気を取られていたらしい。これでは医療者失格だ。
浮竹に気付かれないように自嘲気味に溜息を吐くと、気を取り直して浮竹の右目の検査に取り掛かった。
「やはり異常は見られませんね」
結果は、血管にも神経にも異常なしだった。浮竹の右目に外傷は見られない。勿論念のために卯ノ花に再検査をしてもらうことも出来るが、吉良は自分の診察が正しいとほぼ確信していた。
「外的な要因ではないとすれば、他に考えられるのは精神的な何かが原因となっている場合ですが……右目がおかしいと仰っていましたが、もう少し詳しく症状を教えて頂けますか?」
精神的にショックを受けると一時的に目が見えなくなることがあるとは話に聞いていた。
肉体的には何の問題もないのに、脳が視神経を伝って送られてくる情報を処理出来なくなるらしい。いや、脳が映像として処理しているのに心がそれを認識しないのだったか――兎に角、精神的な要因で視覚に異常を来すことがあるというのは知識として知っていた。可能性は低いが、浮竹の場合がそれなのかもしれない。
「それが、右目の視界だけ、雪が降っているんだ」
「……雪?」
鸚鵡返しにそう言ってしまったのは、こともなげに返ってきた答えに面食らったからだ。
「いや、不思議に思うのは当然だよ。実際俺も自分の身に起こっていることなのに信じられないからな。でも、本当に俺の視界ではずっと雪が降っているんだ。
勿論今は初夏だからそんなことはありえない。第一地面に雪は積もっていない。だからこれは俺にだけ見えているのだとすぐに分ったよ。不思議だろう?」
浮竹の話す内容は吉良の想像を超えていて、あまりのことに絶句するしかなかった。
「今まで気が付かなかったんだが、右目には右側だけ、左目には左側だけ見えるというものではないんだな。今こうやって両目で外の景色を見ると、雪が降っているんだ。
だから君の目には良く晴れた青空が、俺の目にはひらひらと粉雪の舞う雪空に見える。空は青いんだけどな。
右目を隠して左目だけで見ると雪なんて降っていないことが分かる。逆に左目を隠して右目だけで見ると雪が降っている。だから右目がおかしいとわかったんだ」
何故浮竹はそんな異常な状況の真っただ中にいてこれ程までに落ち着いていられるのだろうか。吉良が浮竹の立場だったら、異常事態に動転してとても普通に会話などしていられないだろう。
だが、浮竹は少しもパニックしている様子が無い。まるで世間話でもしているかのように穏やかな口振りなのだ。しかもその顔には微笑みすら乗せている。
「そ、それはつまりそこにある筈のないものが見える、ということになるのでしょうか……」
「うん、多分そういうことになるんじゃないかな。雪というのが少し不思議な気もするが、むしろ分り易くて助かったかもしれないよ。これが雨だったら、すぐに気が付かなかったかもしれない」
「た、確かに、そういう考え方も、出来るかもしれませんが……」
「それで、原因は分りそうかい?」
「あの、僕ではやはり知識不足なので、卯ノ花隊長にきちんと診察して貰うべきだと思うんです」
これは吉良の手に負える事態ではない。軽く考えたことを後悔し始めていた。
「それでは原因は全く分からないということかい?」
「いえ、そういう訳では……ただ、確実なことは卯ノ花隊長に診て貰った方が」
「君の意見で良いんだ、聞かせてくれないかい」
「ですが……」
「お願いだ」
「……恐らくですが、精神的なものが原因ではないかと……」
「精神的……」
吉良の言葉を聞いて浮竹は何かを考え込むように黙ってしまった。何か思い当たることがあるのかと尋ねたかったが、踏み込んだ質問をするのは憚られた。
護廷隊の隊長ともなれば並大抵の精神の持ち主ではないだろう。そんな浮竹の心を乱すものが何なのか、興味が無いと言えば嘘になる。
だが、異常な状況にも順応してにこにこ笑っている男の精神構造を知ることに恐怖も覚えた。
「……そうか。よし、分かった。どうもありがとう。このことは内密にしておいてくれるかな」
「え?でも……」
「二、三日待ってみて治らなかったら卯ノ花隊長に診て貰うよ。だが、それまでは誰にも何も言わないでほしい」
「ですが……」
「頼むよ」
浮竹の口調も表情も柔らかいのに、何故か圧迫されるようだった。優しい笑顔は時に仮面の役割も果たすのだと初めて知った。
「分りました……でも、三日経っても変化が無いようでしたら、卯ノ花隊長に診て貰って下さいね」
結局吉良は浮竹の頼みを承諾するしかなかった。
「ありがとう」
と、言って四番隊を後にする浮竹の横顔からは、全ての感情が削ぎ落とされていた。
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次の日、技術開発局の方角へ歩いて行く浮竹を見掛けた。
右目の具合を尋ねるべきか迷ったが、自分のような者がわざわざ声を掛けるのは怪しまれるかもしれないと考えて止めた。
浮竹は右目の異常を秘密にしておいてくれと言ったのだ。それはつまり、右目に関する話題を一切避けることなのだろうと解釈したのだ。
いや、そう無理矢理自分を納得させただけだ。
本当は浮竹の去り際の表情が頭にちらついていたから、彼に近付くのが怖かったのだと心の奥底では分かっていたが、そんな考えは無理矢理打ち消した。
優しい男を一瞬でも不気味だと感じてしまった臆病な自分を、認めたくなかった。
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浮竹が目の異常を訴えて四番隊を訪れた三日後、京楽率いる八番隊討伐隊が帰還した。皆一様に疲弊していたが、大きな怪我をした者もいなかったらしい。
今頃浮竹は京楽の元を訪れているのだろうか。
八番隊無事帰還の知らせを聞いた時、ふとそんなことを思った。
+++
「吉良君、だよね」
それから一週間程経った頃、廊下を歩いていた所を後ろから呼び止められた。振り返ると、そこにいたのは京楽だった。
完璧に気配を消していたのか、名を呼ばれるまで背後を取られたことに気付かなかった。
「はい。僕が吉良ですが……」
「ちょっと話があるんだけど、いいかな」
頼みごとをするような口調ではあったが、これは自分に対しての命令だと吉良は直感していた。他隊とはいえ隊長の命令を只の席官が断れる筈もない。
じゃあ着いてきてくれるかい、と有無を言わせぬ足取りで歩き出した京楽の後を黙って着いて行く。京楽と言葉を交わしたのがこれが初めてだが、やはり掴み所の無い男だという印象を持った。
吉良の前を歩く京楽は、迷いのない足取りで人気の少ない方向へ進んで行く。人には聞かれたくない話をするのだろう。何となく、内容は想像出来た。
「君は、浮竹の右目を診てくれたんだよね」
周囲に誰もいないことを確認すると、前置きもせずに京楽はそう話を切り出した。やはり、という気持ちと、何故、という疑問が胸に浮かぶ。
他隊の隊長である京楽がわざわざ自分のような只の席官に声を掛ける理由などそれしか思い付かない。だが、京楽が一体自分を呼び止めてまで何を聞きたいのか、そして何を言いたいのかが分からなかった。
「はい……あの、その後浮竹隊長のお加減は……?」
「ああ、もう何ともないみたいだよ」
「そうですか。それは良かった」
もう浮竹の右目に雪は降らない。浮竹の右目が治ったと聞いて少しほっとする。
秘密にしておいてほしいと頼まれてはいたが、本当は卯ノ花に報告すべきではないかと悩んでいたのだ。だが、もう異常が無いのなら報告の義務はないだろう。
「君は、彼の右目の異常は精神的なものが原因だと考えているんだよね?」
「はい。断定は出来ませんが、その可能性が高いかと……」
「そうかい……」
「あ、あの……京楽隊長は、浮竹隊長の目がおかしくなった理由をご存じなのですか?」
驚いたように京楽が目を丸くした。それを見て、好奇心に負けて聞いてはならないことを聞いてしまったかもしれないと後悔するが、後の祭りだ。
だが、秘密を守ったのだから少しくらい質問しても構わないのではないかと思ってしまったのも事実だった。
「いや、本人にも原因は分からないみたいだからねえ」
「そうですか……」
「ただ……今回の任務に出る前に浮竹と喧嘩してね。仲直りしないまま出掛けちゃったんだよ。それでしばらく連絡が取れなかっただろう?そのせいかなとボクは思っているんだけどねぇ」
そんなことで?と思わず口にしそうになった。だってそうだろう。護廷十三隊の隊長ともあろう者が、友人と喧嘩をしたから身体に異常を来すなんて、あまりにも下らないのではないだろうか。
「でも、似たようなことは以前にも何度かあったけど、その時は何ともなかったからねえ。本当にそれが原因なのかは分からないよ。それに、本人もそんなに気にしていなかっただろう?それ程苦では無かったみたいだよ。
あの子は体調不良には慣れているからね」
「そうですか……」
それではやはり原因は別の所にあるのだろうか。一度きちんと卯ノ花に診て貰った方が良いのではないかと思ったが、恐らく京楽も浮竹もそんなことは百も承知だろう。吉良が口を出すべきでことではない。
「それでは京楽隊長が御帰還されたら浮竹隊長の右目も良くなったということですか?」
「ん?いや、ボクが帰ってくる前にはもう治っていたみたいだよ。何でも阿近君のおかげらしいけどね」
「阿近さん……技術開発局の……?」
「そう。君に診て貰った次の日、技術開発局に出掛けて行ってボクの義骸のコピーを作って貰ったんだってさ。ボクの義骸は随分前に作ったものだから、
最近出来た傷跡なんかは再現されていないだろう?だからそのコピーに一つ一つ傷を付けて貰ったんだってさ。そうしている内に右目は治ったみたいだね」
「そ、それは……」
京楽は笑い話のように語るが、その内容は余りにも狂気に満ちていた。初夏の日差しは暖かいというのに、吉良は恐怖で背筋が凍るのを感じた。
安否の分からぬ京楽の身体を模した人形を前にして、どこにどんな傷があるのかを淡々と述べる浮竹を想像すると眩暈がした。常軌を逸した執着が無ければ、とてもそんなことは出来ないのではないか。
そうやって、京楽の傷を一つずつ数えて行く内に、浮竹の心は冷静さを取り戻したのだろう。
己の記憶の中にある京楽の姿を魂を持たぬ人形に刻む間、浮竹の胸をどんな思いが過ったのだろうか。京楽と二度と会えないかもしれないという恐怖と戦いながら、京楽の姿を模した虚像にどんな思いを込めたのか。
吉良には想像出来ない。想像するのが怖かった。
「それで結局義骸が一つ余分に出来たから、今度のボクの誕生日のプレゼントにするつもりだってさ。等身大の自分の人形なんて貰っても、あんまり嬉しくないけどねえ」
京楽は困ったように眉根を寄せるが、その口元は笑っている。
ああ、この男は気付いているのだと、その時電流のような衝撃が吉良を貫いた。
浮竹自身気付いていないかもしれない京楽への狂気を帯びた執着を、京楽は何もかも分かった上で、そんな執着を向けられることを喜んでいるのだ。
自分には到底理解出来ない関係が二人の間にあると思ったのは、正しかったのだ。京楽と浮竹の関係は、吉良には理解出来ない。理解しようとも思わない。それはきっと、二人だけに許されたものなのだ。
「そういう訳で浮竹もすっかり良くなったから、彼の右目のことは他言無用だよ。浮竹にも右目のことは尋ねないで欲しいな」
京楽が吉良を呼び止めたのは口止めをするためだったのだと、そう言われてやっと理解した。
浮竹の右目の異常は、やはり京楽が原因なのだろう。京楽はそれを理解していて、浮竹には教えないのだ。そして、浮竹の右目のことを知る自分が余計なことを喋らないように牽制しているのだ。
「承知しました……」
やっとの思いで口にした返答は、自分でも情けない程震えていた。
浮竹の執着が、彼の右目に初夏の雪を降らせたのなら、それはきっと、世界の摂理を曲げる程に強い想いなのだろう。
06/07/2016
こんな経緯があって、浮竹さんは等身大のフィギュアを誕生日プレセントに贈ると喜ばれると勘違いしたのではないか、というお話。
全然京楽さんの誕生日と関係ない…
09/08/2020
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