雨乾堂に朝陽が差し込む。
障子を隔てた柔らかい光が、からからに乾いた砂に染み込む水のように部屋を満たしていく。
窓際を明るく照らす麦色の光は、今はまだ京楽の横たわる場所には届かない。
ほの暗い部屋の奥、ぬくぬくと温かい布団の中で、京楽はすぅ、と一つ深呼吸した。
肺を満たす朝の澄んだ空気が心地良い。
京楽の腕の中では、浮竹がぐっすりと眠っている。
今はまだ、京楽のほかに目を覚ます者はいない。
愛しい恋人の寝顔を見詰めながら、京楽は満ち足りた思いで浮竹の瞼にそっと口付けた。
初夏の早朝の空気には、まだひんやりとした涼しさが残っている。
庭で遊ぶ小鳥達の忙しない囀りが、雨乾堂の静寂を際立たせていた。
そこにあるのは、繭の中で眠るような穏やかな時間。
京楽は、朝のこのひと時が好きだった。
重ね合わせた肌から伝わる体温。
規則正しく繰り返される呼吸。
ほんのりと桜色に染まった肌。
そんな当たり前の小さなことが、酷く幸せだった――
そこには浮竹が寝込んでいる時に時折京楽の心を襲う、もう彼はこのまま目を覚まさないのではないかという不安は無い。
浮竹を失うことへの恐怖は、どこにも無い。
今この瞬間、浮竹は安らかに、無垢な赤子のように満たされた表情で眠っている。
そんな浮竹を見守りながら、京楽は陽だまりのような幸福を感じていた。
それは、浮竹がじきに目を覚ますと知っているからこそ感じる安らぎの時。
短い間しか続かない、けれどだからこそ愛惜しい宝石のような時間。
いつだって真っ直ぐ京楽を見据える若草色の瞳は、今は閉じられた瞼に隠されている。
その瞳の輝きを見たくて、早く目を覚まして欲しいと思う。けれど、この優しい時間を壊したくなくて、もう少しだけこうしていたいとも感じる。
そんな矛盾した思いすら、幸せの証だった。
「……ん……」
ふるふると閉じられていた瞼が震え、長い睫が小刻みに上下すると、ぱちぱちと瞬きをさせて浮竹が目を開けた。
「春水」
京楽の姿を認めて、その名を愛しげに呼ぶ。
そして、花が綻ぶようにゆっくりと微笑んだ。
ああ、世界は何て美しいのだろう――
そんな、水晶の欠片のようなきらきらとした感情が京楽の胸に広がる。
京楽の一日の始まりを告げるのは、己の名を呼ぶ浮竹の声。
浮竹に名を呼ばれることで、京楽にとっての新しい日、新しい世界が誕生する。
(僕は……)
こうして太陽が昇る度に、何度も浮竹に命を与えてもらっているのだ。
浮竹に名前を呼ばれる度に、自分は生まれ変わるのだ――――
どこか敬虔な気持ちでそんなことを考えていると、反応の無い京楽を不思議に思った浮竹が眠そうな声で「しゅんすぃ?」と聞いてきた。
寝起きのためか舌足らずな浮竹が可愛らしくて京楽は思わず微笑えんでしまう。
そんな京楽安心したのか、浮竹は笑って「おはよう、春水」と唄うように囁いた。
「おはよう、十四郎。よく眠れたかい?」
いつものように挨拶を交わす。
これも二人の朝の儀式の一つだ。
しかし、普段は直ぐに肯定の答えが返ってくるのに、今朝の浮竹は京楽の腕の中で何故か沈黙したままだった。
不思議に思ってどうかしたのと京楽が尋ねると、浮竹は「お前の声が……」と形の良い眉を寄せて見せる。
「僕の声?」
「ああ。何だか、お前の声掠れてないか?」
「え?」
そう指摘されて、初めて喉が少し渇いていることに気が付いた。
「本当だ。空気が乾燥してるのかな」
「そんな筈はないだろう。俺は平気だぞ」
「うーん、おかしいなあ」
困惑気味に京楽が喉に手をやろうとした時、不意に咳の発作に襲われた。
咄嗟に浮竹から身を離してごほごほと咳をすると、喉の奥がぴりぴりと痛む。
これなら声が少し掠れて聞こえてもおかしくは無いと思った。
「風邪でも引いたのか?」
「どうだろう……ちょっと喉がイガイガするけど」
「引き始めなのだろうな。ちょっと待ってろ」
そう言うと、京楽が止める間もなく浮竹はさっさと布団から出てしまう。そして、机の横にある箪笥の引き出しを開けると、何やらごそごそと探し始めた。
布団の中で浮竹と過ごす時間をもう少し楽しんでいたかった京楽だが、こうなっては仕方が無いと諦めて上半身だけ起き上がる。言い出したら聞かない浮竹の性格は、誰よりも良く知っているのだ。
そんな京楽の思いになど全く気付いていない浮竹は、探し物が見付かったのか不意に「お、あったあった」と声を上げた。
「春水、手を出してみろ」
「はいはい」
大人しく差し出した掌の上に、薄い紙に包まれた飴玉が三つ、ころんと転がった。
小さなビー玉のような透明な水色の飴玉からは、微かにハッカの匂いがする。
「卯ノ花隊長特製ののど飴だ。よく効くぞ」
そう言った浮竹は、何故かとても機嫌が良い。
浮竹は長男気質だから、こんな風に自分の世話を焼くのが楽しいのだろうかと考えて京楽は苦笑した。
「それにしても珍しいな、お前が風邪引くなんて」
「そうだねえ」
「丈夫だけが取り柄なのに」
「ええ~」
からかうような口調の浮竹に、京楽もわざと胸に手を当てて傷付いた振りをしてみせる。
そんな京楽に溜まらず浮竹は笑みを零した。
「本当のことだろ?」
「ひどいなぁ」
他にも取り柄はあるのに、と京楽はいじけて見せるが、浮竹は「お前が病気になったことなんて殆どないだろ?」と、取り合わない。
「でも」
意地悪な恋人に意趣返しをしたくて、京楽はそっと浮竹の桜貝のような耳に手を添えて唇を寄せた。
「僕は、いつだって恋の病に苦しんでるんだよ……」
意図的に低く、ゆっくりと囁かれた言葉に、浮竹の肩がびくりと揺れる。
京楽の艶のある声に反応して、身体が熱を持ち始めるのが浮竹には分かった。
慌てて「馬鹿は風邪引かないんじゃなかったのか……」と、憎まれ口を叩いて照れ隠しをするが、赤くなってしまった顔まで隠すことは出来ず。
自分の声に可愛い反応を見せる浮竹に満足して、京楽はくつくつと喉を鳴らすと、添えていた手を下ろすことで浮竹を解放した。
「のど飴、忘れるなよ」
まだ照れているのかぶっきらぼうな物言いの浮竹だが、やはり京楽の体調を心配しているらしく真面目な声でそう念を押す。
「喉が痛いと辛いからな」
「うん、分かってるよ。ありがとう、十四郎」
「もっとも」
素直に肯く京楽に安心したのか、不意に浮竹はがらりと雰囲気を変えると、にぃ、と不敵な笑みを浮かべて見せた。
「俺はもう少しそのままでも構わないかもしれない」
「どうしてだい?」
京楽の問いに直ぐには答えずに、浮竹はゆっくりと身体を近付けると、寝間着の襟から覗く京楽の厚い胸板を人差し指でつつ、と撫でた。
その妖しい動きに、京楽の肌がぞくりと粟立つ。
「ハスキーな声の春水もカッコいいから、な。それに――」
そこで一端言葉を切り意味深に目を細めると、浮竹が艶かしく京楽にしなだれかかる。
ごく自然に京楽が浮竹の背に手を回すと、浮竹はそのまま京楽の膝の上に乗り上がった。
そして、内緒話をするように京楽の耳に唇を近付けて、溜息を吐くように囁いた。
――アノ時の、余裕の無い声みたいで、俺は好きだな。
間近で感じる熱い吐息は、情事の時を思わせる。
明らかに挑発を含んだ浮竹の言葉に、京楽は思わず息を飲んだ。
ぞくり、と背筋を馴染みのある感覚が走る。
「いいの?朝からそんなこと言っちゃって」
さっきはあんなに初心な反応を見せたくせに、と心の中で苦笑しながら、京楽は妖艶な笑みを湛えて上目遣いで自分を見詰める浮竹へと手を伸ばす。
はっきりと意志を持って動くその手を、浮竹は押し留めようとはしない。
「本当のことだからな」
不埒な手が、浮竹の腰に伸びる。
浮竹も京楽の肌蹴た胸元に手を伸ばした。
「ハスキーな声の僕『も』ってことは、いつもの声の僕もかっこいいって意味だよね?」
「そうなるかな」
啄ばむようなキスを交わしながら、浮竹を布団に押し倒す。
くすくす笑う声と共に、誘うように浮竹は京楽の首に手を回した。
(春水の声、か……)
触れるだけのキスにうっとりと身を任せながら、浮竹は自分がどれ程京楽の声を愛しているかに想いを馳せた。
京楽の声は、何時だって自分の耳に心地良く響く。
きっと、自分の声以上に身近な声だ。
身も心も溶けてしまいそうな甘い声は、もう自分の一部だと浮竹は思う。
京楽の声を聞くだけで、自分は誰よりも強くなれる。胸に勇気が生まれる。
京楽が守ってくれるから、何も自分を傷付けはしないと安心する。
「十四郎……」
京楽の欲望に染まった声を聞くだけで、火が点いたように身体が熱くなる。
この男が自分を欲しているのかと思うと、どうしようもなく興奮する。
愛の言葉を囁く京楽の声を聞くだけで、愛される喜びに恍惚とする。
京楽を愛していると再確認して、切なさに胸が締め付けられる。
京楽が好きで好きで堪らなくて、泣きたくなる。
(俺は、心の底から春水を愛しているんだ――)
そう心の中で呟くと、胸の中に温かい光が生まれた気がした。
「お前の声、好きだよ」
胸に溢れる想いに、たまらず浮竹がそう告げると、京楽は口付ける行為を止めて身体を起こした。
浮竹を見下ろす瞳には、優しい光が宿っている。
「嬉しいこと言ってくれるじゃない。でも、声だけ好きな訳じゃないでしょ?」
「うーん、どうかな」
「おいおい悩まないでくれよ。意地悪だね」
京楽が白い首筋に触れるだけの口付けを落とすと、浮竹はくすぐったそうに身を捩った。
子供のようにじゃれ合う間にも、京楽の手が浮竹の帯を緩めていく。
互いの愛を確信しているからこその言葉遊びは、前戯の代わりとなって興奮を高めていく。
「愛してるよ、十四郎」
「どうかな。お前は口が達者だから……」
「嘘じゃないよ。君にはいつだって真実を語るって、知ってるだろう?」
耳元で、そんな甘い言葉を囁かれては浮竹に抵抗する術は無い。
京楽の手管に簡単に陥落してしまうのが少し悔しくて、せめてもの仕返しに「馬鹿……」と呟くが、京楽は素直じゃないなあと笑うだけだった。
浮竹がそっと目を閉じると、それが合図かのように柔らかな京楽の唇が、厳かに浮竹の唇に触れた。
初めは触れるだけのキスを繰り返す。
しかし、それだけでは足らずにもっともっとと互いを求め合う内に、口付けは貪るように深くなっていった。何度も角度を変えて、京楽は浮竹の咥内を犯していく。
頭の奥がじん、と痺れるような快感に、二人の意識はゆっくりと奪われていった。
深い口付けに浮竹の息が乱れ始めた頃、京楽はゆっくりと唇を離すと、愛しい恋人の顔をよく見ようと身体を起こした。キスの後の、期待と快感の入り混じった浮竹の表情が京楽は好きだった。
潤んだ瞳で自分を見上げる浮竹に、京楽は満足げに笑みを零す。
可愛いなあ、と心の中で惚気ながら再び口付けようと顔を近付けた時、京楽の視界の端に漆黒の蝶がひらひらと舞い降りた。
嘘だろう?と京楽が息を飲むのとほぼ同時に、地獄蝶から「八番隊に緊急招集命令です。東流魂街五十八地区にて、虚が発生しました。繰り返します。八番隊に緊急招集命令です」と告げる無機質な声が流れ出した。
「……それはないんじゃない?」
命令を伝達し終えた地獄蝶が飛び去ってからしばしの沈黙の後、浮竹の上に覆い被さったままの京楽が情けない声を挙げる。
そんな京楽を無視して浮竹は京楽の下から抜け出すと、肌蹴てしまった衿を直しながら京楽に起きるように声を掛けた。
「うぅぅ……折角いいところだったのに」
「仕方ないだろう、虚は時と場所を選ばず現れるものなんだから」
「それは分かってるよ。でもねぇ、十四郎だってその気だったのに……」
死覇装に腕を通しながらもまだぶつぶつと文句を言い続ける京楽に、浮竹は苦笑しながら内掛けと編み笠を渡す。
浮竹自身も落胆していないと言えば嘘になるが、流魂街の住人達を守る方が先決だ。京楽もそれを分かっているが、不満は残るのだろう。
それ程京楽は自分との時間を大切にしてくれているのだと思い、自然と浮竹の頬が緩む。
可愛い奴だと心の中で笑いながら、浮竹は笠を目深に被る京楽の背をぽんと叩いた。
「早く帰って来いよ。続きはそれからだ」
京楽は一瞬目を丸くした後、「十四郎には敵わないね」と呟いて破顔した。
「すぐに終わらせて戻ってくるよ」
「無茶はするなよ」
「うん、大丈夫。行って来るよ、十四郎」
「待ってるよ、春水」
別れ際の口付けもまた、二人の儀式の一つだ。
名残惜しげに浮竹の唇を軽く啄ばむと、京楽はくるりと身を翻して八番隊隊舎へと歩を進めたのだった。
01.09.10