よく知っている霊圧を戸の向こうに感じて、俺は読んでいた本を閉じると顔を上げた。
「京楽。」
言外に入って来いと伝えると、名を呼ばれた男はゆっくり障子を開けて雨乾堂に足を踏み入れた。
「よ、浮竹。」
普段と変わらない柔らかな口調の京楽だったが、いつもより少しだけ深く被った編み笠を、俺の前に腰を下ろしても取ろうとはしない。
俺の目を、見ようともしない。
「お茶でも勧めたいところだが、生憎冷めてしまっているから何もないぞ。」
「お茶はいらないよ。酒でもあればいいんだけど。」
飲む気分でなどないくせに、京楽はおどけた口調でそんなことを言う。
重症だと思った。
「何を言ってる。今何時だと思ってるんだ。今から飲んだら明日辛いだろう。」
「うん、そうだね。」
言ってみただけだよ、と京楽は口の端を上げて笑う。目は笠の影に隠れたまま。
俺は何も言わずに頷いた。
それっきり沈黙が部屋を支配する。
遠くで真夜中を知らせる鐘が鳴る。
「…ずっと待っててくれたのかい?」
その音に、我に返ったように京楽が尋ねた。
そんなこと、尋ねるまでもなくわかっている筈なのに。
昼前に中央四十六室からの連絡を受けた時、俺には京楽がここに来ることがわかっていた。
だからそれまで待っていようと決めたのだ。
それが、今俺が京楽のためにできる唯一のことだったから。
「当たり前だろう。」
「そっか…ありがとう、浮竹。」
礼などいらない。
俺はお前に何もしてやれない。
そんな言葉は喉の奥に飲み込んだ。
何を言えばいいのかわからなかった。
「…虚化だってさ。聞いたこともなかったよ。」
ぽつりと呟いた京楽の声はひどく虚ろで、それがいかに彼女が京楽にとって大切だったのかを物語っていた。
彼女、矢胴丸リサが。
「ああ。俺も初めて耳にした。それが今までの魂魄消失事件の原因だというのか?」
「そうみたいだね。四十六室によれば浦原君が虚化の実験をしていたそうだ。」
「浦原隊長が…。」
果たして本当なのだろうか。
俺にはどうしても信じられなかった。
あの時、隊首会で猿柿君を助けるために行かせてくれと叫んだ浦原喜助の顔に嘘は無かった。
罪も無い魂魄を使って実験をするような男に、あんな表情が出来るのだろうか。
それとも全て演技だったというのか。
俺たちは皆、彼に騙されていたのだろうか。
「腑に落ちないことが多すぎる。四十六室からの情報は?」
「何も教えてくれないよ。ただ、浦原君と鬼道総長、それから虚化した8人がソウルソサエティからいなくなったってこと以外はね。」
おそらく現世に逃れたのだろう。
しかしやはり何かがおかしい。
脱出するだけなら、どうして実験体となった8人を連れて行く必要がある。
しかもわざわざ彼らの分の義骸まで作った痕跡があると聞く。
もし浦原喜助が今回の事件の首謀者なら、そこまでするだろうか?
「本当に浦原喜助なのだろうか?」
「どうかなあ。確かに噛み合わないことが多いけどねぇ。」
「お前は彼のことを気にかけていただろう。彼がそんなことをする男だと思うか?」
「そんな印象は無かったけどね。まあ、彼の話を聞いてみないことには何とも言えないかな。でも、彼じゃないとしたら誰がこんなことをしたんだろうね。」
本当の敵は別のところにいるのではないか。
そんな考えがどうしても拭えなかった。
それはおそらく京楽も同じ筈。
でも、俺達には何も出来ない。
調べたくとも、四十六室は死神の介入を許さなかったから。
「誰であろうと、僕は許さないよ。」
全く感情の読み取れない声でそう静かに告げた京楽に、俺は思わず身震いした。
その一瞬だけ、怒りで京楽の霊圧は痛いほど鋭いものになったから。
次の瞬間には穏やかなものへと抑えられたけれど、一瞬とはいえ感じた霊圧の変化に、京楽の心の中で渦巻く感情が肌で感じられた。
「京楽、矢胴丸君のことは…」
「僕のせいじゃない。わかってるよ、浮竹。僕はリサちゃんを信じていたし、リサちゃんなら何とかしてくれると思ってた。それに、やっぱりあの時の僕の判断は正しいと思ってるんだ。得体の知れない敵に鬼道総長が出て行くべきじゃない。まあそれに、彼が虚化しなかったからリサちゃん達をあの場所から助けることが出来たみたいだしね。」
鬼道総長は矢胴丸君達を禁術によって十二番隊隊舎まで移動させたことにより、処分を受けたと聞く。だが彼がそうしなければ、矢胴丸君達は消えてしまっていたのではないのか。彼女達を救うためにその方法しかなかったのだとしたら、それでも彼は罰を受けるべきなのか。
掟に拘ることしか出来ない四十六室の連中に、彼を裁く権利などあるのか。
俺にはもうわからない。
何が真実なのか。何が嘘なのか。
ただわかっているのは、京楽が苦しんでいるということだけ。
「彼女は死んだわけじゃないんだ。」
そんな言葉が何の慰めにもならないのはわかってる。
虚化した彼女は虚として扱われ、瀞霊廷に戻ることは出来ないのだから。
死んだほうがマシだったのかもしれない。
でも。
それでも。
「平子君達が一緒でも駄目だったんだ、この結果は仕方の無いことなのかもしれない。ただ…。」
「ただ?」
「僕も一緒に行けば良かったって思うんだ。そうすれば、こんな風に何もわからないまま取り残されることなんて無かったのに。別れも告げずに目の前から消えてしまうことなんてなかったのにって。」
気が付くと、俺は京楽に押し倒されていた。
笠がふわりと舞って、傍らに落ちたのが視界の端に映った。
「ねえ浮竹。もしこれから君が危険な戦いに挑むことがあれば、僕は絶対に君を一人で行かせないから。君と一緒に戦うから。」
俺の胸に顔を押し付けたまま、京楽はそんなことを言う。
子供が親に縋るように俺を抱きしめているくせに、俺と一緒に戦うなんて強がりを言う。
「僕は、君と一緒に戦うから。」
本当に怖いのは、何もわからないでいることだから。
だから、もう二度とこんな恐怖を味わわないために。
自分の目で全てを見極めるために。
「ああ、いつだって、一緒に。」
京楽の髪を優しく梳きながら、俺は何度も何度もそう繰り返した。
子守唄を歌うように、泣いている幼子をあやすかのように。
俺は、何度も何度も繰り返した。
その夜、俺が京楽の瞳を見ることが出来たのは、夜明け近くになってからだった。
25.03.09
結局京楽さんは泣いていたのでしょうか?(>それは浮竹さんだけが知ってればいいのさ!)
兄鰤ではとうとう過去編が終わってしまいました。作画が綺麗でよかったです。まあもっとオリジナルが入ってもよかったんですけどね。
しかし中央四十六室のあまりの横暴ぶりに怒りが…。
怒りのあまり思わずこんなSSを書いてしまいましたよ。京楽さん突然リサが目の前から消えて辛かっただろうなあ。
ああ、早く本編での二人の再会を求む!