虚の発生現場に到着した八番隊が見たものは、変わり果てた東流魂街五十八地区の街並みだった。
まるで硫酸でもぶちまけたように家屋や街路樹が腐食していたのだ。
地区の住民は見回りを担当していた死神が非難させたのか、辺りには全く人気が感じられなかった。
四肢の焼け爛れた魂魄が、崩れ落ちた瓦礫の上に何体も倒れている。
この累々と連なる死体の道の先に、例の虚がいるはずだった。
京楽達が虚の霊圧の方向に移動するにつれて、黒い霧のようなものが空中を漂い始めた。
霧から感じ取れる禍々しい霊圧から、京楽はそれが虚から発せられているのものだと予想する。
しかし、京楽自身は霧に触れても何の変化も感じなかったため、虚の急襲に注意するよう部下に指示しただけで霧については特に指示を出さなかった。
最初に異変に気付いたのは、霊圧の弱い平隊士の一人が突然呻き声を上げて倒れた時のことだ。
虚からの攻撃かと戦闘準備をするように指示を出した京楽の目の前で、次々と隊士達が苦しみ始めたのだ。
京楽とリサは状況を判断しようと倒れた隊士の元へ駆け寄った。そして、そこで恐ろしいものを目にしたのだった。
倒れた隊士が霧に触れると、京楽とリサの目の前で火傷するように肌が爛れている。肉が焼ける不快な臭いに、京楽は軽く吐き気を覚えた。
先程から霧が濃くなり始めていることに気付いてはいたが、霧の最も濃い場所に虚がいるのだろうと考えていただけで、霧自体にはさして注意を向けていなかった。
その考えが間違っていたことを京楽は悟る。
その異常な状況を前にして、京楽は初めてこの霧が只の霧ではないことを理解した。
特殊な霊圧のため霧の正体は特定出来ないが、負傷した隊士の様子から、何らかの毒のようなものであることは見当がついた。
これ以上隊士達を虚に近付ける訳にはいかないと判断した京楽が、改めて虚の霊圧を探ってみると、予想通り霧の発する霊圧が一番強い場所に、同種の――しかしもっと強くて禍々しい――霊圧が感知出来た。
しかし、どんどん濃くなっていく霧のせいで虚の姿は視認出来ない。
虚は移動速度は遅いが常に広範囲に霧を吐いているらしく、京楽以外の死神は虚の間合いに近付くことはおろか、これ以上先へ進むことすら出来ない。
少々面倒なことになったが、取り敢えず今はこれ以上毒が広がらないようにすることが先決だと判断すると、京楽は虚を中心とした広域結界を張ることを決定した。
そして、京楽の張った結界を、隊士達がリサの指示に従って戦況を見ながら補強し、京楽が虚を遠隔攻撃するという作戦を立てたのである。
京楽が結界を張ると、動ける隊士達が結界の壁を囲み、いつでも鬼道が使えるように両手に霊力を込める。
副隊長であるリサは、一番補強が難しい場所――京楽の攻撃を受けることになる部位――に配置されていた。
京楽の結界鬼道は上手く行き、虚を一時的に結界の中に閉じ込めることに成功する。
そして、京楽は神経を研ぎ澄ませて虚の正確な位置を探ると、破道の五十四、廃炎によって結界内の虚を攻撃したのだった。
京楽の鬼道は虚に直撃。
紅蓮の焔が結界の中央部で燃え上がると同時にリサが結界の補綴に当たり、結界の中で虚が事切れるのを待てば任務完了する筈だった。
しかし、そこで予想外のことが起きたのである。
炎に包まれ咆哮を上げながら悶え苦しんでいた虚が、最後の力を振り絞って膨大な量の毒の霧を噴出したのである。
見る見るうちに結界は漆黒の霧に覆われ、膨張して行く。
隊士達は必死で結界壁の補強に当たったが、彼等の努力も空しく内部からの圧倒的な霊圧に膨張し切った結界に何人かの隊士が弾き飛ばされてしまった。
その瞬間、結界に大きな亀裂が入り、押し込められていた霧が激しい勢いで迸り出る。
その時放出した虚の霊圧が凝縮された霧の影響で、八番隊の大部分が負傷したのである。
これでは結界の修理をするには間に合わないと考えると、京楽は出来る限り霧の噴出を食い止めながら隊士達に即刻現場から退避するよう命じた。
そして、部下が全員安全な場所まで避難したのを確認すると、最初に張った結界よりも一回り以上大きな結界を張ったのだった。
京楽とリサで結界を強化し続けながら、虚の更なる暴走の可能性に注意を払うこと数分の後、虚の霊圧の完全消失が確認された。
以上が、八番隊の報告書に書かれた今回の任務の顛末である。
***
「――で、実際は何があったんだ?」
ぱさり、と床に置かれた報告書と浮竹の顔を交互に見遣ると、京楽は目をぱちくりさせた。
難しい顔をしている浮竹に、京楽は訳が分からないと言う風に首を傾げて見せるが、浮竹は黙って京楽をじっと見詰めたままだ。
「分かってるんだろう?矢胴丸が言っていたことだ」
別れ際に耳にしたリサの言葉は、京楽の自室に二人で戻ってからもずっと浮竹の心にわだかまっていた。
京楽の報告書を読む限り、結界が破られた後、虚の毒は物凄い勢いで広範囲に散布していたようだから、任務中に京楽が毒を吸ってしまっても不思議は無い。
しかし、リサの口振りはどこか浮竹には引っ掛かるものだった。まるで、今回の任務中に京楽が毒を摂取するような機会など無かったと言っているように聞こえたのだ。
もしそうならば、何故京楽は毒にやられ声を失ってしまったのか。
どうしても腑に落ちなかった。
じっ、と自分を見詰める浮竹の視線に居心地が悪くなった京楽が困ったようにぽりぽりと顔を掻くが、浮竹は視線を逸らそうとしない。
本当のことを言うまで浮竹は諦めないと悟った京楽は、くるりと向きを変えると文机の前に座り直して再び筆を執った。筆談では目を見て話せないから不便だな、などと思いながら浮竹は黙って京楽の隣へと移動する。
京楽の少し無骨な手が優雅に筆を滑らせると、
『実は、二重に結界を張る直前に瞬歩で虚に向かったんだ』
という文字が紙の上に現れた。
強力な毒が散布している場に自ら入っていったのだという京楽の告白に浮竹は思わず眉を顰める。
『虚の周辺の毒は特に濃くてね。霧って言うより火山灰のようだったよ。多分その時に少し毒を吸い込んじゃったんだじゃないかな』
そこまで書いて京楽は筆を止めた。どうやらこの先を書くことを迷っているようだった。
止まった筆の先からじんわりと墨が滲んで、白い紙を黒く染めていく。
京楽の逡巡を察した浮竹は「どうしてそんなことを?」と、当然京楽が予想しているであろう質問をすることで先を促そうとする。
しかし、京楽の筆は止まったままだ。
「春水?」
煮え切らない様子の京楽を訝しく思い京楽の顔を覗き込むと、京楽は決まりが悪いのか浮竹と視線を合わせようとしない。
「長い付き合いなんだから、今更何を言われても驚かないぞ」
何を躊躇っているのか、しゃんとしない京楽に痺れを切らした浮竹が更に追い討ちを掛ける。
だから観念してさっさと白状しろ、という圧力を言外に響かせて。
このままでは浮竹の機嫌を損ねかねないと焦った京楽は、仕方なく『あのね』と書き出した。
『廃炎の詠唱をしている途中で、霊圧に当てられたのかふらふらとおかしな飛び方をしている鳥が目に入ってね。結界のかなり上空を飛んでいたから、廃炎が爆発しても影響は受けないと思ったから心配はしていなかったんだ。」でも、報告書にも書いた通り虚の毒が物凄い勢いで放出してしまってさ。その鳥の傍まで瘴気が達してしまったんだよ。それで、とうとうその鳥は気を失って、虚のいる場所にまっさかさまに落ちてきたんだ。
それを見て、危ない!って思ってさ。気が付いたら身体が動いていたんだ』
そこまで一気に書き切ってから一旦カタン、と筆を硯に置くと、京楽は伏目がちに浮竹の方を見遣った。
しかし、ばつが悪いのか、なかなか浮竹と視線を合わせようとしない。
『呆れてる?』
なんて無茶をしたのだと怒られるかと思っていたのに、浮竹は黙したままで何の反応も見せる様子が無い。
怒りを通り越して呆れて物も言えないのだろうかと不安になった京楽が恐る恐る尋ねると、我に返った浮竹は慌ててぶんぶんと首を振った。
「いや、そうじゃない……お前らしいな、と思ったんだ」
浮竹が言葉に詰まったのは、京楽の行動に怒ったからでも呆れたからでもない。
戦闘中でさえ、戦えない者や無力な者の安否を気遣い、身を挺して守ろうとする、そんな京楽の優しさに胸を打たれたからだ。
言葉を話せる者も話せない者も分け隔てなく、京楽は只、今そこに生きている「命」を守ろうとした。
その事実に、浮竹の胸が一杯になる。
確かに危険も顧みずに虚の毒の中に飛び込んでいったのは軽率だったかもしれない。
でも、自分はそんな京楽だからこそ好きになったのだ。
どうやら自分は相当京楽に惚れ込んでいるらしいと改めて実感して、浮竹は心の中で苦笑した。
浮竹がそんなことを考えていると、黙ってしまった浮竹を心配したのか、眉根を寄せた京楽が浮竹の顔を覗き込む。
子犬のような表情の京楽に浮竹は思わず吹き出してしまった。
「心配しなくても呆れてなんかないから、そんな顔をするな。それで、その鳥はどうなったんだ?」
平隊士とはいえ、死神ですら耐えられなかった虚の毒だ。鳥の魂魄が無事でいられるとは思えなかった。
『うん、それがね、少し弱っていたけど、虚から離れた所に避難させて僕の霊力を少し与えたら、直ぐに力を取り戻して飛んで行ったよ。多分、普通の魂魄よりも霊力が強かったんだろうね』
死神になれる程の強い霊力を持つ魂魄は人型のものが多いが、平均的には動物型の魂魄の方が霊力が高い。恐らく、京楽が助けた鳥は少量の毒になら耐え得るだけの霊力があったのだろう。
だからこそ、虚の霊圧に当てられたとはいえ、なんとか飛行を続けていられたに違いない。
真相は何であれ、浮竹は、一つの命が救われたことが純粋に嬉しかった。
京楽も浮竹と同じ気持ちなのか、「そうか、良かったな」と微笑んだ浮竹に、はにかみながらも笑顔で応える。そんな京楽を見て、浮竹は
(何だか、今日は素直だな……――)
と妙な気持ちになった。いつもなら飄々と軽口をたたく京楽が、今は声が出ないせいか一つ一つの反応がどこかしおらしく感じられるのだ。
京楽の巧みな言葉に普段から調子を狂わされている浮竹としては、少し不思議な気分だった。
(それにしても――)
この状況は何かに似ている、と浮竹は考える。
声が出ない京楽と、京楽の表情や仕草から京楽の感じていることを知ろうとする自分。
それはまるで――――
「こうしていると、まるで人魚姫みたいだな」
ぽん、と納得したように手を叩いた浮竹に、京楽が目をぱちくりさせた。
しかし、巧いことを思い付いたと喜ぶ浮竹は、目を白黒させている京楽に構わず「ほら、お前今喋れないだろう?だから人魚姫みたいじゃないか」と、平然と言ってのける。
浮竹の爆弾発言に、京楽は驚きのあまり開いた口が塞がらなかった。
現世のアンデルセンという男が書いた「人魚姫」という童話は知っているし、主人公の人魚姫が人間になる代償として美しい声を失ったことも知っている。
しかし、京楽の記憶によれば人魚姫は初恋の相手を一途に想い続けた「15歳の少女」の筈である。
確かに今は口が聞けないとはいえ、自分のようないい年をした大柄な男を人魚姫に喩えるのは無理があるのではないか。
まさに浮竹にしか出来ない突拍子も無い発想である。
しかし浮竹は京楽の内心の混乱など全く気が付かず、暢気に「でもそうなると俺が王子様だな」と嬉しそうに笑っていた。
それは、京楽が帰還してから初めて浮竹が見せた、心の底から楽しそうな笑顔だった。
(ま、いいか……こうして浮竹が笑ってくれてるんだから――――)
今回の事件では浮竹に随分と心配を掛けてしまったことを京楽は悔いていた。だから、浮竹に笑顔が戻ったことが何よりも嬉しかった。
「ただ、昔から不思議に思っていたんだが、どうして人魚姫は俺達みたいに筆談しなかったんだろうな?王子を助けたのは自分だ、って文字で伝えればよかったのに」
そうすれば失恋することも無かったのでは、と浮竹は首を傾げる。
初めて人魚姫の話を読んだ時から、ずっとこの問いが気に掛かっていたのだ。
何とかして王子への愛を伝えることが出来れば、人魚姫は海の泡になることもなく、王子と幸せになれたのではないだろうか。
しかし、人魚姫の恋に思いを馳せる浮竹とは対照的に、あっさりと
『昔は今ほど識字率が高くなかったから筆談って方法は難しかったのかもね。一応二人とも王族だから教育は受けてるかもしれないけど、そもそも人間に人魚の文字が読めるとは限らないだろう?』
という、酷く現実的な答えを導き出した。
現世の歴史を振り返れば京楽の言うことは的を得ているのかもしれないが、あまりに合理的な説明に浮竹は「そう言われればそうかもしれないが……」と不満の声を漏らす。
京楽ならばもっと浪漫のある答えをくれると期待していたのだ。むぅ、とむくれる浮竹に京楽は苦笑する。
『それに、筆談出来たとしても王子が人魚姫の言葉を信じる確率は低いんじゃない?突然自分を訪ねてきたどこの誰だか分からない娘よりも、出自のはっきりしている人間の娘の方を王子は信じるだろうからね。
娘は人間なんだからどこで生まれ育ったのか調べられるし、恐らく家族も生きていただろうからね。それに、人間の娘が浜辺にいた王子を見付けて助けたのは本当なんだしさ』
「生まれが物を言う、ということか……そうだな、一理あるかもしれない。現実は厳しいからな……」
家族を捨て、国を捨て、種族さえも王子への愛のために捨て去ったというのに、人魚姫は王子に真実を語ることも、信じてもらうことも出来なかったのだろうか。
もう一度王子に会いたいがために、多くの犠牲を払った人魚姫の、悲しい程に真っ直ぐな想いはどう足掻いても伝わらなかったのだろうか。
「それでも、愛していると伝えることは出来たんじゃないか?」
言葉による意志の疎通は出来なくても、別の方法で王子に愛を告げることは出来なかったのだろうかと浮竹は思う。
自分は、京楽の傍にいるだけで愛されていると感じる。
手を繋ぐだけで、京楽の想いを感じて涙が出そうになる。
ぎゅっと抱き締められるだけで、京楽の愛に包まれて幸福に胸が切なくなる。
言葉が無くても心を通わせることは出来ないのだろうか。
浮竹のそんな問いに、京楽は意外な答えを返した。
『人魚姫の想いなら、きっと言葉にしなくたって通じていたんじゃないかな?目は口ほどにものを言うって諺もあるくらいなんだからさ。人魚姫だって王子を熱い視線で見詰めていたんじゃないの?
人魚姫の仕草の一つ一つから、王子は人魚姫が自分に恋をしていることに気付いていたと、僕は思うけどね』
「それじゃあ王子は人魚姫の気持ちに気付いていながらも、人間の娘を選んだというのか?」
『恩を感じたからと言って、それで相手に恋をするほど人間の心は単純じゃないからねぇ。王子が人間の娘を愛した気持ちは、本物だったんじゃないかな。
だから、人魚姫が喋ることが出来たとしても、王子は人魚姫を妹としてしか愛さなかったんじゃないかな』
「人魚姫の恋は、最初から叶わない恋だったってことか……」
人魚姫は、やはり悲劇の姫でしか在り得ないのだ。
そう思うと悲しくなった。
愛する者に愛されない悲劇を知らぬ浮竹には、人魚姫がどんな気持ちで王子の傍にいたのか想像も付かない。
浮竹は、京楽に愛されることを当然のように考えていた。けれど、愛した相手に同じ様に愛されることは、実は奇跡に等しいことなのだ。
京楽に愛していると囁かれ、温かい腕に抱き締められ、口付けを与えられる。
浮竹にとっての日常は、本当は信じがたいほどの幸運の繰り返しで出来ているのだ。
『だから僕が人魚姫なんてこと有り得ないんだよ。僕は十四郎に愛されてるからね。実らぬ恋とは無縁なのさ』
そう書いた紙を浮竹に渡すと、京楽は不敵に笑う。自信満々な態度は、浮竹に愛されていることを確信しているからだ。
「……そうだな」
しばしの沈黙の後、浮竹がそう静かに呟くと、京楽が少し驚いたように片眉を上げた。
浮竹は少し天邪鬼なところがある。普段なら、京楽がこのようなことを言ったら、そんなことはないとムキになって反論する所なのに、今日は素直に肯いたのだ。京楽が意外に思うのも無理は無い。
浮竹自身も普段とは違う自分の行動に気付いていたが、それでも良いと感じていた。他愛の無い駆け引きや戯れよりも、今は只、素直に京楽への想いを口にしたかった。
京楽を愛し、京楽に愛されている自分は、何と恵まれているのだろう。
胸の内でそう反芻する度に、浮竹の心は喜びと、ある種敬虔な気持ちとに満たされる。
「俺は春水が大好きだからな。お前が悲恋の人魚姫なんて、有り得ないよな」
そう言って浮竹は京楽の頭をぎゅっと抱え込むと、栗色の髪に顔を埋めて大きく息を吸い込んだ。肺が、京楽の匂いで満たされる。
縋るように自分を抱き締める浮竹に、京楽は一瞬不思議そうな表情をするが、それ以上詮索することもなくそっと浮竹の背中に手を回したのだった。
「言葉が無くても伝わる思い、か――――戦闘中ならお前の考えや次にどんな行動を取るか、なんて手に取るように分かるんだがな。流石に普段の生活では無理があるだろうか……」
京楽のつむじに口付けを落としながら浮竹がぽつりとそんな言葉を漏らす。
しかし、何気無く呟いただけの浮竹の言葉だが、京楽は何を思ったか二、三度瞬きを繰り返すと、にやりと微笑んだ。
そして、密着していた身体を離すと、左手は浮竹の腰を抱えたまま、机の上に転がっていた筆を右手にとって何やら書き始める。
何をしているのだろうと浮竹が京楽の手元を覗き込むと、『それじゃあ今僕が何を考えているかも分からない?』という文字が目に入った。
「どういう意味だ?」と浮竹が首を傾げると、京楽はいたずらっぽく片目を瞑って見せる。
「春水?」
困惑した様子の浮竹に構わず、京楽は白い頬に触れるとにこりと笑う。もう一方の手は意味深な動きで浮竹の腰を撫で回している。
その行為の意味する所を悟って、浮竹の顔にさっと朱が差した。
「こ、こら!何を考えてるんだ」
浮竹は慌てて腰を引くが、京楽の手にしっかりと捕まえられていて逃げることが出来ない。
京楽は浮竹の慌てふためく様子にも動じないで、赤く染まった頬を指の腹で撫でながら、どうしたの?とでも言うように浮竹の双眸を覗き込む。
「とぼけたって無駄だぞ……!お前、非常事態に何を……って、どこを触ってるんだ!」
首筋の敏感な所を撫でられて、浮竹の身体がびくりと跳ねる。何とかして京楽の拘束から逃げようと浮竹は身を捩って抗うが、京楽の二本の腕にがっちりと抱き留められていて殆ど身動きが取れなかった。
(全くもう……どうして無駄な抵抗を続けるかねえ、この子は……分かってるくせにさ)
と、京楽は心の中で苦笑しながら、まだ何か言おうとする浮竹の口を己の唇で塞ぐと、深い深い口付けを施す。京楽の舌が、まるで生きているかのように浮竹の咥内を蹂躙していく。
「んっ……」
京楽がやっと浮竹の唇を解放した頃には、浮竹の息は完全に上がってしまっていた。潤んだ目はとろんとして焦点が合わない。
すっかり大人しくなった浮竹に気を良くして、京楽は羽織を畳の上に敷くと、ぐったりとした浮竹をその上に横たえた。
「春水、駄目だ。こんな早い時間に……」
それでもまだ理性が残っているのか、浮竹が最後の抵抗を試みる。
陽も落ちていない時分から睦み合うことなど、二人にとっては珍しくない。
何を今更と京楽は思ったが、よく考えるとその殆どは自分が言葉巧みに誘い浮竹がその場の雰囲気に流されてしまう、というものだ。
ふむ、と少し思案すると浮竹の上に覆い被さろうとしていた動きを止める。
そして、目尻が赤く染まった翠の瞳を、じっと見据えると乞うように小首を傾げた。
(駄目かい?)
京楽の言わんとするところを感じ取ったのか、浮竹は視線を逸らして「駄目というわけでは……」と口籠る。
(今朝はいい雰囲気だったのに)
「それは今朝の話だろう?」
(それに、帰って来たら続きをする、って言ったじゃない)
「確かに、約束はしたが」
(だから、ね?)
いつの間にか浮竹は視線だけで京楽の意図するところを理解し応答していたが、本人は気が付いていない。
(ね?)
上目遣いで懇願するような京楽の視線に、浮竹の胸は不覚にもきゅん、としてしまう。
結局の所、浮竹は京楽のおねだりには抗えないのだ。
「全く……仕方の無い奴だな」
大きく溜息を吐くと、嬉々とした笑みを満面に浮かべている京楽の背中にゆっくりと腕を回す。
そして目を閉じると、降りて来る唇を静かに受け止めたのだった。
04.09.10