2010年2月1日をもってAd Infinitumはサイト開始から一周年を迎えました。
まさか一年もサイト(&ブログ)を続けることが出来るなんて思ってもみませんでした。
これも、拍手やコメントで応援して下さった皆さんのおかげです。本当にありがとうございます。
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実を言えば、サイト開始当初からずっとサイトを持って自分の言葉をネットに配信することが怖くて怖くて仕方がありませんでした(勿論今も怖くて仕方ありませんが^^;)。
だからこそ、こうやって一周年を迎えることが出来るなんて思ってもみませんでした。
サイトを始めてからずっと心配だったことが二つあります。一つは、誰も私の作品なんて読んでくれないのではないかということ。もう一つは、サイトやブログに批判が多いのではないかということです。
前者の不安はすぐに払拭されたのですが、やはり自分の文章力の未熟さを痛いほど知っているため、今でも私のサイトを訪れてくれる人がいるということが信じられないし、だからこそ読者の方々の拍手やコメントの一つ一つが本当に嬉しくて、いつも涙が出そうになります。
でも、後者の心配は今でも、そしてこれからも消えることはありません。というのも、そもそも(誹謗中傷は別として)私は批判を受けることを当然だとして受け入れているからです。
私のサイトのIndexを見て頂けると分かるのですが、「同人、同性愛表現のお嫌いな方は~」というような注意書きはありません。何故かと言いますと、単に好き嫌いの問題だったらわざわざ嫌いなものを読む人は普通いないと思うのでそんな注意書きは無意味だろうし、それでも私の作品に批判をする人がいるのであれば、やはり何らかの理由があるのだろうと思っているからです。
もし批判する理由があるのならば、私は読者の皆さんの「批判する権利」を尊重したい。
そう考えるからこそ、敢えてそう言った注意書きはしていないのです。
勿論批判されたからと言って必ずしも相手の方の意見に賛成するとは限らないし、実際どれ程議論したとしても平行線を辿るだけで妥協点すら見付からないかもしれない。
それでも、私にとって相手の方の「批判する権利」を尊重するということは、少なくとも相手の方の意見について考え、自分の考えを説明する、そして相互理解を深めるために対話(Discourse)する、という義務を己に課すことだと思っています。それは、対話の結果やはりお互いに賛同できなかったとしても、そこに至るまで自分に出来る限りのことをするという義務を果たすことだと思っているのです。
批判されることは辛いけれど、私が辛いから、傷付くからと言って、相手の意見について耳を傾けないことを正当化出来るだけの、納得行く理由がどうしても私には見付けられない。
だからこそ、不安は大きいけれど批判を受け入れる覚悟をしたのです。
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ここまでだと抽象的なので何を言ってるのかよく分からないと思いますから、実際に例を挙げてみますね。
例えば、同性愛について。
私はキリスト教圏に住んでいるので、同性愛を「悪」だとして、同性愛についてTV小説等で扱うこと自体を悪とする人々にたまに(というかしばしば)出会います。勿論私はそんな意見は間違っていると思うし、何故そう思うかを説明することも出来ます(ここでは割愛しますが)。
でも、そういった意見があるという事実を知っているし、同性愛は私にとっては性の自由の問題だけれど、ある人にとっては非常に重大な倫理問題であるという事実を私は知っている。
だからこそ、そういった意見について思索し、何故何処が論理的に間違っているかを指摘する(あるいはされる)覚悟を持っているのです。
あるいは同人活動について。
これは著作権の問題であり、そもそも著作権とは何か、「アイデア」に果たして所有権という概念は通用するのか、などといった問いが絡んできます。私は同人活動を行っているので著作権についての問題には敏感だし、だからこそこの問題について真剣に考え、批判を受け止める心構えがあります。
(この辺の議論も長くなるので割愛しますが、実際私は所有権という概念に対して懐疑的であり、だからこそ自分の作品に対しても無断転載等は「遠慮」してもらいたいとは思いますが、「禁止」はしていません。自分の作品ですから愛着はあるし、他人の手によって作品がどうこうされるのはやはり気分のいいものではありませんが、やはり著作権に懐疑的なのであれば自分の著作権にも懐疑的なので、私の作品の無断転載等をどうしてもしたいという人がいれば(いるとは思いませんけど^^;)してもらっても構わないと思っています。)
他にも、(私にとっては好みの問題だけど)美学や芸術論に基いて私の作品を表現の仕方云々において批判する人はいるだろうし、ハイデガーやアリストテレスの哲学を創作活動の素にすることに批判的な人もいるだろうとは思います。あるいはBaby Baby Babyで私が用いた「生殖の権利」についての議論に批判的な人もいるでしょう。
こういった可能性を全部考慮した上で、不安に苛まれながらも私は小説やブログ記事を書いています。
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何故ここまで考えているのかといえば、それはやはり私自身、自分の不用意な発言によって誰かを傷付けてしまうのが怖くて怖くてたまらないからです。
あくまでAd Infinitumは趣味のサイトだし、読者数も多いわけではない。
それでも私にとってネットは公の場であり、不特定多数の目に触れる可能性のある場所です。私のサイトは私のものでもあるけれど、同時に公共の場でもあると考えているのです。
公の場で発言するにはそれなりの責任と覚悟が必要であると私は考えています。
というのも、「自分以外の誰か」が私の作品なりブログ記事なりを目にした時に、不快な思いをしたり傷付いたりする可能性があるからです。
このサイトを訪問してくださる方は、ざんぷの展開に一喜一憂し、時には嬉しくて大興奮の時もあれば悲しくて悲しくて何も手に付かないような気持ち、よく分かるのではないでしょうか。あの「浮竹さん胸に穴開き事件」の時、私は本当に立ち直れないかと思うくらい衝撃を受けました。
これらは特に良い悪いの問題ではないのですが、誰かの言葉や表現によって影響を受けてしまうということはありますよね。公の場で発言したり行動したりということは、やはり何処かで誰かに何らかの影響を与えるということなのだと思います。
だからこそ、私は自分の発言には責任を持ちたいと思うのです。
私にとって自分の発言に責任を持つと言うことは、「何故この話、記事を書いたのか」という(少なくとも私にとっては)納得の行く理由を説明できる、そして批判されたら真摯に受け止め議論する準備があるということです。
私には私の信じる道があるし(同性愛の問題とか)、私の信じるものによって傷付いたり不快に感じたりする人がいるのは仕方の無いことです。それは社会に生きていれば避けられないことだろうし、だからこそ、何故そんな人達の存在を知りながらも敢えて彼等を不快にさせる道を取ったのか、ということを説明する責任が私にはあると感じています。
だから、私の無責任な発言や表現で誰かが傷付くことが無いよう、一つ一つの作品は出来る限りのリサーチに基いているし、「何故これをこういう形で書いたのか」ということを精一杯考えてからアップしています。
勿論私はまだまだ未熟なので考えが至らないことは多いですし、だからこそ納得の行く批判は真摯に受け止めようと思っています。
現時点の私にとって精一杯の努力を払うことで、自分の発言に責任を持とうとしているのです。
そして、その責任を持つという姿勢の一端が読者様の「批判する権利」を尊重することなのだと思っています。
でも、やっぱり私は今でも怖くて怖くてたまりません。
私の弱小サイトにそんな大きな影響力など無いことは百も承知なのですが、それでも私の至らなさのせいで誰かが傷付くのではないかと思うと、怖くて怖くて今すぐサイトを消してしまいたくなります。
京浮に出会わなければ、きっと今でもこの恐怖に立ち向かうことは出来なかったと思います。
京浮は私に勇気を与えてくれました。
誰かを傷付ける可能性に怯えて何も出来なかった私に、それでも「書きたい」と「皆さんと萌えを分かち合いたい」と思わせてくれたのです。
そして、拍手やコメントなどで支えて下さった皆さんのおかげで、今まで誰かを傷付ける可能性にばかり目を向けていた私は、「誰かと幸せを共有できる可能性」に気が付くことが出来たのです。
私の作品なんて本当に大したこと無いのですが、それでも一人でも「感動した」と言ってくださる方がいるということが、どれ程私にとっては価値のあることなのか、どれほど嬉しいことなのか、言葉ではとても言い尽くせません。
今でもサイトを続けることは怖くてたまらないけれど、応援して下さる皆さんのおかげで私はここにいることが出来ます。
誰かを傷付ける恐怖に立ち向かう勇気、自分の未熟さと向き合う勇気、自分の未熟さを見詰め、そこから学んでいこうとする勇気を、京浮と読者の皆さんに教えてもらいました。
本当に感謝してもし足りないです。
京浮を好きになって良かった。
サイトを開いて良かったと、心から思っています。
まだまだ未熟で至らない点も多いかと思いますが、これからも精一杯頑張っていくつもりです。
どうかこれからもAd Infinitumをよろしくお願い致します。
2010年2月15日 管理人 Erin