頭の中で真っ白な光が爆発した。
焦がれて焦がれてやまなかった京楽が、これほど近くにいるという事実に感情がついていかない。
呼吸を忘れそうなほどに甘い京楽の唇が、浮竹の思考を完全に奪い去っていた。
ただ
頬を包む掌の温もりと
重ねられた唇の柔らかさを
五感の全てを使って感じるだけだった。
角度を変えては繰り返される口付けに、浮竹はうっとりと目を閉じる。浮竹の身体から力が抜けるのを感じて、京楽はほんの少し開いた唇の間から歯列を割って舌を差し入れた。
まるで意思を持っているかのように口内で動き回る京楽の舌にすぐさま浮竹は翻弄される。待ち望んだ快感に浮竹は我を忘れて溺れていった。
浮竹の意識が朦朧としてきたのを確認すると京楽はす、と浮竹の白い首筋が覗く襟元に手を差し入れる。
瞬間、びくぅと浮竹の身体が大きく跳ね、そして、力一杯京楽を突き飛ばした。
「な、な・・・」
突然の接触に現実に引き戻され、浮竹はひどく混乱していた。何が起こったのかも理解できず、浮竹に突き飛ばされた勢いで文机に背中をぶつけた京楽を信じられない思いで見詰めることしか出来ない。
肩で大きく息をしながら、浮竹は今京楽がしたことの意味を必死になって考えていた。
今浮竹の目の前にいる京楽は、浮竹のことなど何とも思っていないはずである。浮竹を愛した記憶を失い、浮竹と過ごした日々を忘れているはずなのだ。
その証拠に京楽は先程浮竹のことを「浮竹さん」と呼んだではないか。
「何故だ・・・?」
愛していないのなら、何故京楽は口付けなどしたのか。
「何故って・・・貴方はそれを望んでいるんでしょう?」
ゆらり、と再び浮竹に近付いた京楽の眼はぞっとするほど冷たかった。
「浮竹さんは『僕』に抱かれたいんでしょう?」
そう言いながら浮竹の足の間に触れようとする京楽の頬を、浮竹は反射的に拳で殴りつけていた。
「・・・っ!」
殴ったときに唇を切ってしまったのか、真っ赤な血が一筋京楽の顎を伝う。それを手の甲でぐいと拭うと、京楽は暗い笑みを浮かべた。
「見た目と違って、随分乱暴なんですね」
「・・・!・・・いい加減に」
「僕はただ、貴方が望むものを与えただけだ」
「俺は・・・!俺のことを愛してもいない奴に抱かれたいなどと思わない!」
そんな行為は虚しいだけ。どれほど浮竹が京楽を愛していようとも、京楽が浮竹を愛していないのならば、例え身体を重ねても胸の内のどうしようもない渇きは決して癒されることが無いことを浮竹は知っていた。
京楽が好きだからこそ、浮竹にとって京楽と一つになる行為は快楽以上の神聖な意味を持っていた。
そんな浮竹の叫びに、京楽は一瞬驚いたように目を瞠る。そして、次の瞬間額に手を遣ると狂ったように笑い始めたのだった。
まるで地の底から搾り出されるような低い笑い声に、浮竹は息をするのも忘れて目の前の男を凝視することしか出来なかった。
「僕が」
ひとしきり笑いが収まると、嘲るような目で京楽は浮竹の全身を見回した。
「男相手に勃つわけないじゃない」
「おまえっ・・・!」
怒りに震える拳を指の関節が白くなるまできつく握り締めながら浮竹は真正面から京楽を睨み付けた。
しかし京楽はそんな浮竹の迫力にも気圧された様子は無く、ただせせら笑いに端正な顔を歪めている。
「僕は、女の子の柔らかくていい匂いのする肌が好きなんだ。僕よりもずっと小さくてか弱い、思わず守ってあげたくなるようなか弱い女の子がね。
僕はね、どんなに綺麗でも、男を抱いて喜ぶような奴じゃあないんだ。貴方と出会って僕に何があったのかは知らない。どうして僕が変わってしまったのかは分からない。
でも、貴方の知っている京楽春水はもうここにはいないんだ。『死神』の京楽春水も、『浮竹十四郎の恋人』の京楽春水も、もうどこにもいないんだ!」
だんだんと京楽の語気は荒くなっていく。怒りとも痛みともつかない感情を必死で抑えているようにその声音は苦しげに掠れている。
「僕は、貴方のことなんて何とも思っていない・・・今の僕は貴方とは何の関係も無いんだ!それなのに・・・それなのに」
どうしてぼくにつきまとうんだ。
京楽の口が声にならない言葉を形作るのが、まるでスローモーションの映画のように浮竹の目に映った。
次の瞬間、浮竹は京楽に押し倒されていた。同時に京楽の大きな手だ浮竹の白い喉を掴む。
払い除けようとすれば簡単に出来たのにそれをしなかったのは、見下ろしてくる京楽の瞳が涙に濡れている気がしたから。
小刻みに震える両手を浮竹の首に掛けながら、京楽は黙って身体の下に組み敷いた浮竹を見詰めている。浮竹も、何も言わないまま身動き一つせず京楽を見詰め返していた。
「・・・瀞霊廷でも、流魂街でも、僕を知っている者は皆、僕と貴方のことも知っていた・・・・・・道行く女の子に声をかけても、貴方がいるからって相手にもしてくれなかった。
郭の娘達でさえ『浮竹様と喧嘩されたのですか?』なんて聞いてくる始末さ・・・」
ああ、そうか、と不意に浮竹は理解した。
今の京楽には、自分との関係が重いのだ。共に過ごした年月の長さが、今重い鎖となって京楽を苦しめているのだ。
「・・・・・・すまない・・・」
ぽつりと浮竹が漏らした呟きに、京楽の身体が小さく跳ねた。
「どうして、貴方が謝るんだ・・・?」
と、低く抑揚の無い声が問う。長い髪に隠れて浮竹からは京楽の表情はよく見えない。
「・・・・・・お前が、俺のせいで苦しんでいるから・・・」
「でも、貴方が悪いんじゃない」
「そうかもしれない。俺がお前と過ごした年月は、今のお前にとって厭わしいかもしれないけれど、それを変えることは俺には出来ない」
「それじゃあどうして・・・?」
痛みを堪えるように目を伏せると、浮竹は搾り出すように「俺が、お前を好きだという気持ちが、お前に辛い思いをさせているから・・・」と呟いた。
だから、お前のことを好きでいてすまない。
そう繰り返す浮竹に京楽は言葉を失った。
「な・・・」
ぐ、と浮竹の首を掴む指に力が入り、浮竹は痛みに顔を顰めた。
「さっきも言ったでしょう!貴方と生きてきた男は僕じゃない!!!貴方を愛した男は僕じゃない!!!貴方の好きな京楽春水はもうどこにもいないんだ!!!!!!」
悲痛な叫びを上げて『京楽春水』の存在を否定する京楽に悲しげに目を細めると、浮竹はゆっくり首を振った。
「お前は京楽春水だよ。記憶を失っていようと、俺のことを嫌っていようと、関係ない。俺の好きな京楽は、ここにいる」
浮竹の指が優しく京楽の頬に触れる。
「・・・心細くて、辛くて仕方が無いくせに他人に悟られまいと強がってばかりで・・・寂しがり屋で愛情に飢えているのに、傷付くことに怯えて本当の自分を見せようとしない・・・
何もかも一人で抱え込んで、一人で苦しんでばかりの、どうしようもなく優しくて、どうしようもなく愚かな男。それが、俺の知ってる京楽春水だよ」
京楽の頬を撫でながら、ふわ、と微笑む浮竹を信じられない思いで京楽は見詰めた。
そんな風に微笑まれたのは初めてだったのだ。
生まれて初めて自分の存在を許された。生まれて初めて誰かに受け入れてもらえた。そんな思いが京楽の中を駆け巡った。
京楽の全てを受け入れ、それでも尚浮竹は京楽に「ここにいてもいいのだ」とその笑顔で告げていた。
「俺は、お前の魂に恋をしたんだ。お前の心を愛しいと感じているんだ。記憶を失っても、お前の心は変わってなどいない」
だから、俺はお前が好きなんだ。
浮竹の言葉は温かい春の日差しのように京楽を包み、孤独に押し潰されそうだった心を柔らかな白い光で満たしていく。
(・・・そうか。
僕は、この光が欲しかったんだ。)
何かが京楽の中で弾けた気がした。
記憶喪失なのだと聞かされてから、本当は心細くて仕方が無かった。言いようもない恐怖に苛まれ、どこかへ逃げてしまいたかった。
誰も今の自分など必要としていないのだと、死神で無い自分など誰も欲していないのだと思っていた。目が覚めたら見知らぬ場所で見知らぬものたちに囲まれ、「自分」さえ見失っていたのだ。
見ず知らずの他人を愛することを求められ、そうすることが当然だとでも言うように全ての者が振舞う中、最早自分の感情すら自由にはさせてもらえないのかと絶望した。
記憶を失い死神として役に立たない自分が居る場所などこの世界のどこにも無いと、信じ込んでいた。
今の自分はここにいるべきではないのだと、世界に拒絶された思いだった。
でも。
この男は、浮竹十四郎は、そんな自分でも好きだと言ってくれた。
今の自分も、ちゃんと「京楽春水」だと認めてくれた。
突然どさり、と力なく浮竹の隣に崩れ落ちると、京楽はそのまま糸が切れたように動かなくなった。
何が起こったのかわからず慌てて浮竹が起き上がると、ぼんやりと天井を見詰めているのだと思っていた京楽の視線とぶつかった。
「・・・首・・・」
寝転んだまま浮竹を見上げながら、京楽の眉が辛そうに顰められる。
「赤くなってる・・・」
浮竹の首筋の、先程京楽の指が絡みついていた場所には確かに赤い跡が残っていた。
白い肌に薄っすらと散った紅の醜さに、京楽はたまらず顔を逸らせた。
「ごめんなさい、ひどいことして」
「あ、ああ?これか?これくらい何とも無いよ。すぐに治せる」
「でも・・・」
「気にしなくていい。どうせ本気じゃなかったんだろう?俺の方こそ思いっきり殴ってしまって悪かった」
「いや、これは自業自得だから」
「うーん、でも俺も身体が勝手に動いてしまっていたからなあ。痛むだろう?」
鬼道を使って首の痣を治すと、京楽の腫上がり始めた頬に手を翳した。しかし、京楽は平気だとでも言うように首を振る。
「貴方にひどいことをした罰だから、このままでいいですよ」
「何言ってるんだ。俺は気にしてないって言ってるだろう?」
「浮竹さんが良くても、僕は自分のしたことを許せない」
どこまでも強情な京楽に大きく溜息をつくと、平気だと言い張る京楽を無視して浮竹は無理矢理治療を始めた。
初めは抵抗の色を見せていた京楽だが、やがて頬に触れる浮竹のひんやりとした手の冷たさが気持ち良くて大人しく浮竹にされるがままになっていた。
先程までの張り詰めた空気が嘘のように、今はただ、しん、と澄んだ静寂が部屋を満たしていた。
(さっきまであんなに色々な感情が頭の中でぐちゃぐちゃしていたのに・・・)
綜合救護詰所で目覚めて以来、混乱を極めていたはずの京楽の心は、今はまるで霧が晴れたように清明としていた。
他人の言葉にこんなにも心が動かされるなんて、京楽にとっては初めての経験だった。
(不思議な人だ・・・・)
ことあるごとにその存在を示唆されて疎ましく思っていたはずなのに、いつの間にか浮竹に対する憤りは消え、代わりにどこか甘く、どこか優しい、穏やかな感情が京楽の胸を占めていた。
「・・・・・・家族に・・・京楽の人間に会いに行ったんです・・・」
しばらくして虚空を見詰めたまま、静かに京楽が呟いた。京楽の頬に霊圧を送りながら、浮竹は黙って耳を傾ける。
「会いに行ったって言うよりは、いつもみたいに家のものには見つからないように忍び込んだだけなんだけど・・・」
京楽の次の言葉が予想できてしまい浮竹の表情に影が差す。
「でも、両親も兄もどこにもいなかった。家臣達ですら僕の知っている者は一人もいなかった」
京楽の家族も、浮竹の家族もとうの昔に死んで霊子の粒となって消滅してしまった。残されたのは、兄弟の子孫と親類縁者だけだ。
「生きていた時は、正直、煩わしくてろくに顔も合わせなかったのに、いざこうして会えなくなってみると何だか途端に恋しくなってしまって・・・
自分でも驚いているんですけどね、こう、急に寂しさがこみ上げてきて、兎に角誰でもいいから見知った顔に会いたいと思って、それこそ瀞霊廷中を歩き回って、仕舞いには流魂街まで出かけたんですけどね・・・」
ふ、と物悲しげに微笑むと、やっぱり知らない人ばかりでしたと震える声で京楽は囁いた。京楽の気持ちが痛いほどわかる浮竹は、何も言わず瞼を閉じるだけだった。
「・・・何だか自分だけ知らない世界に来てしまってみたいで・・・恥ずかしい話だけど、混乱していたのかもしれないな・・・・・・だから、京楽家の墓の前でずっと自棄酒をしていたんです」
魂魄が死ねば、身体は霊子に帰り遺体は残らない。
それでも、ソウルソサエティの住人が墓や慰霊碑を建てることに固執するのは、今は亡き者達がこの世界に生きていたという証を残したいと思う心理の現われなのかもしれない。
だがそれは逆に、墓に名を刻まれた者が既にこの世にはいないということを冷酷に突き付けることでもあった。
墓の前で独り酒を飲みながら、京楽の胸に去来したはずの感情を想像して浮竹の胸は締め付けられた。
「浮竹さんは・・・」
「ん?」
「寂しくないんですか?」
自分を知る者が次々とこの世を去っていく中で、自分だけ生き続けることは辛くないのか。
言外にそう問う京楽に、自分ひとりだったならきっと寂しさのあまり死んでしまっていたかもしれないと浮竹は思いながら浮竹は首を振った。
「寂しくないよ」
頬に翳していた手が滑るように移動して、京楽の髪をくしゃくしゃさせた。
「京楽がいつも俺の隣にいてくれたから」
だから寂しくないよと浮竹は笑った。
しかし、その笑顔に翳りがあることを見て取って、京楽はゆっくり起き上がると浮竹と向き合うように膝を揃えた。
京楽は浮竹が「いてくれた」と過去形を使った事に気付いていた。
それは最早京楽が傍にいることを期待していないと言う意味なのか。
長い年月を共に過ごしてきた唯一の男を手放すことを覚悟しているのか。
「さっき、僕のこと好きだって言いましたよね?」
「あ、ああ」
「僕は浮竹さんのこと覚えていないのに?」
「ああ」
「僕は・・・浮竹さんの気持ちに答えられないのに?」
「俺のことが好きだから京楽を好きになったわけじゃあないからな。別にお前・・・しまった、つい癖でお前なんて呼んでいたけど、よく考えたら失礼だよな。
兎に角、君が俺に対してそういう感情を持つことを期待してあんなことを言ったんじゃないんだ。君が俺のことをどう思おうとも、俺の気持ちは変わらない。でも、だからといって君が俺に対して義理を感じる必要は無い。
俺のことをそういう目で見ることが出来ない、って言うのならそれで構わないから」
「でも・・・!浮竹さんは、僕・・・と長い付き合いだったんでしょう?それなのに・・・」
「勿論、欲を言えば俺のことを好きになって欲しいけど、俺には君の心を自由にすることは出来ないからな・・・」
浮竹は一瞬悲しそうに目を伏せると、それでも京楽を安心させるかのようににこりと笑った。
「でも、出来れば君にはもっと俺のことを知ってもらいたいかな」
「え・・・?」
「確かに今の君にとってソウルソサエティは見知らぬ世界かもしれない。でも、知らないのなら知る努力をすればいいだけのことだ。知らない人ばかりだと言うのなら、知り合えばいいんだよ。
俺も長く生きてきたから別れもたくさん経験した。でもな、別れの数も多いけど、出会いの数はもっと多いんだよ。昔からの仲間はもう殆どいないけれど、その代わり今は新しい仲間に囲まれているんだ。
だから一人一人知っていけばいいんだよ」
簡単なことだろう?と澄んだ瞳で問われて、京楽は呆気に取られてしまった。京楽には思いも付かなかった発想だが、確かに浮竹の言う通り、知らないのなら知ろうとすればいいだけのことなのだ。
この世には自分独りきりなのだと心を閉ざしてしまう前に、自ら外に向かって手を伸ばせばいいだけなのだ。
躊躇いがちに差し出された手は、目の前にある力強い手が必ず掴んでくれるのだから。
「・・・友達なら・・・」
「!」
「友達から、始めませんか?」
照れて顔を赤くしている京楽に、一瞬きょとんとした表情を見せた浮竹だが、次の瞬間大輪の花が綻ぶような満面の笑みを浮かべた。
「俺も」
京楽があっと思う間も無く、気が付くと頭を抱え込まれるようにして浮竹に抱きしめられていた。
「お前のことをもっと知りたいよ」
ぴたりとくっついた身体から、浮竹の声の振動が伝わって京楽の心に澄んだ音を響かせる。
とくん、とくんと耳の奥で鳴る規則正しい心臓の鼓動は、世界のからくりが動き始める音に似ていた。
「俺は、浮竹十四郎。宜しくな、京楽春水」
京楽は目を閉じると、優しく囁かれた言葉を何度も何度も心の内で繰り返した。
浮竹の心臓の鼓動を聞きながら、何故記憶を失う前の自分が浮竹を愛したのか今やっと理解できたと京楽は笑った。
*****
世界の初めに言葉があったのなら、僕の世界はこの言葉と共に始まった。
彼の言葉が僕の世界に生命を吹き込んだ。
彼は、僕の生命そのものだ。
生命が光だと言うのなら、彼は光そのものだ。
優しく、温かく僕を包み込む、穏やかな真白の光だ。
混沌と闇の中に差し込んだ、一筋の救いの光だ。
僕の世界は、今生まれたのだ。
*****
「ありがとう」
創造の光に抱かれて、京楽は安らかに眠りに落ちた。
01.08.09
やっと二人の距離が縮まった^^;
でもこの若楽さんホントへたれだなあ。京浮というより浮京な気がしてきました(汗)
いや、いいんだ、だって精神的には攻受逆転している二人だから(笑)