少し早めの夕食を終えて京楽が一息ついた頃には日が暮れていた。
普段ならこの時間帯には花街で遊女と一緒に酒でも酌み交わしている京楽だが、流石に今日はそんな気分ではない。
目が覚めたら二千年も経っていたなんていう洒落にならない事態に思考がついていかなくて、実を言えば京楽は内心では随分と戸惑っていた。
他人から見れば京楽は記憶喪失なのかもしれないが、京楽本人からすれば目が覚めたら突然二千歳も歳をとっていたようなものである。タイムスリップをしたも同然なのだ。
頭では理解していてもどうしても心が受け入れられない。だからこそ、京楽は一人で落ち着いて現状について考える時間が欲しかった。
そうは言っても、あまりに衝撃的な出来事に京楽の防衛本能が無意識のうちに働いているのか、現在自分のおかれている状況が何を意味するのか冷静に分析しようとする京楽だったが
どうしても集中することが出来ないのであった。
人はあまりに辛く苦しい出来事に遭遇したとき、それに耐えられずに精神崩壊をきたすことを回避するため自己防衛本能としてその出来事に関する感情や思考をシャットアウトしてしまうことがある。
もしかしたら今の状況が正にそれなのかもしれないと京楽は溜息をついた。だとしたら無理に考え込むのは得策ではない。
かと言って他に何が出来るでもなく、京楽は手持ち無沙汰に部屋を見回した。本でも読みたいのはやまやまだが、他人の部屋を勝手に物色するような真似は育ちのいい京楽にはどうも気が進まなかった。
正確に言えばこの部屋は京楽の自室なのだから好き勝手に使ってもいいのだが、記憶の無い今の京楽にとってはここは八番隊隊長の部屋であって決して京楽自身の部屋ではない。
居心地の悪さを少しでも忘れるために煙草でも吸いたいものだと京楽は思ったが、部屋中を見回しても煙管どころか火入れも灰吹きも見当たらない。どうやら二千年後の京楽は本当にすっぱり煙草をやめたようだ。
この際だから自分も禁煙するべきだろうかとぼんやり考えていると、ふと文机の横に積まれている本が目に入った。七緒から受け取った八番隊隊士の名簿や他隊の隊長格の名簿である。
正直言って何の面白みも無いただの名簿なんて進んで読みたいとは思わないのだが、何もしないで過ごすには夜はあまりにも長かった。
(ま、どうせ読まなきゃいけないんだから始めるなら早い方がいいかな・・・)
そうひとりごちながら、京楽は八番隊隊士名簿を手に取った。
「えーと、護廷十三隊八番隊。隊長、京楽春水。副隊長、伊勢七緒。隊花『極楽鳥花』、花言葉は『すべてを手に入れる』、か」
京楽の知る限り護廷十三隊の隊花は隊風を表しているはずである。だが「すべてを手に入れる」だけではイマイチよくわからない。
死神としての任務と「すべてを手に入れる」がどう繋がるのか全くわからないのだ。
他の隊はどうなんだろうと興味を持って調べてみると、一番隊の菊(真実と潔白)や六番隊の椿(高潔な理性)などは雰囲気が伝わってくる気がするが、四番隊の竜胆(悲しむ君が好き)や十番隊の水仙(神秘とエゴイズム)は一応治安機関であるはずの護廷隊とは何の関係も無いのではないか。警察なのにエゴイズムはまずいだろうし、軍事機関が全てを手に入れようとすれば死神が台頭し武力による政治がまかり通ってしまうのではないか。
もっとも瀞霊廷の住人が武力を笠に着て流魂街の魂魄達を差別するのは今に始まったことではないが。
と、そこまで考えて自分の思考が当初の目的からかなり外れていることに京楽は気が付いた。
しかし八番隊の隊士の名前を覚えるつもりだったのに気が付けば護廷隊批判に頭を巡らせてしまうのは、やはり「死神」に対して不信感を抱く京楽からすれば仕方のないことであった。
上級貴族の京楽家に生まれながらも、京楽はソウルソサエティの政治形態に疑問を持っていた。王族と少数の貴族と死神が権力を握り大多数の魂魄を支配する。
中央四十六室と護廷隊に司法と軍事が分けられているとはいえ、実質的には貴族と霊力の高い魂魄等の「強者」による「弱者」への弾圧である。
世界の掟を守るためなどと大義名分をかざしてはいるが、結局のところその「掟」とやらは現状維持に一役買い、特権階級の地位を確固のものとしているだけではないか。これでは恐怖政治と変わらない。
仮にも理性を持つ存在として、このような「弱肉強食」「力は正義なり」と言わんばかりのやり方で政治を行うことが正しいことだとはどうしても京楽には思えなかった。
本能のみで行動する虚ではないのだから、暴力以外のやり方でソウルソサエティを治め世界の秩序を守るべきではないのか。
確かに虚の罪を清めることの出来る斬魄刀を持つ死神は稀有な存在ではあるが、突き詰めて言えば単なる特殊技能者でしかないのだ。
それを、戦う力を持っているというだけで威張り散らし、護廷隊の権威を笠に着て横暴な振る舞いをする死神があまりにも多い。貴族とて同じである。
ただ「ある家柄」に生まれただけなのに、何故貴族が優遇されなければならないのか。
そう考える一方で、京楽は上級貴族である自分が階級制度の批判をすることの皮肉にも気付いていた。
子供時代の京楽が明日の食べ物にも困らず読書や思索に耽ることが出来たのは、全てその階級制度によって生み出された貴族の特権のおかげなのである。
もしも流魂街に生まれていたのであればその日の食料を手に入れるのに精一杯で、とてものんびり政治哲学について考えることなど出来なかった筈だ。
貴族である自分が、階級制度を批判するなんて滑稽極まりないと知っていたからこそ、京楽は己のうちにある疑念を声高に叫んだことが無かったのである。
行き場所も無く胸の中で鬱屈する思いを持て余していた京楽は苦しくてたまらなかった。そしてその苦しみから逃れるために酒と女に溺れる生活をしていたのだ。
巨大な霊圧や溢れる才能を無駄にしていると家族は眉を顰めたが、そんなものは貴族や死神としての地位を固めることにしか役立たないのであれば京楽にとって忌まわしい枷にしか過ぎなかった。
だからこそ、京楽は自分が死神になったという事実を未だに信じられないのだ。己の主義を曲げてまで死神になったなど、どうしても納得がいかなかったのである。
(はあ・・・やっぱり僕に死神の振りなんて無理だよ・・・)
大きく溜息をつくと、京楽は八番隊隊士名簿を閉じた。色々考えている内に再び気分が沈んでしまったのだ。とても二百人近いる隊士の顔と名前を覚える気になどなれない。かと言ってまだ眠る気にもなれなかった。
名簿以外に何か読む物はないかと七緒に渡された書物を調べていると、「瀞霊廷の歴史」と書かれた本が目に入った。そう言えばここ二百年の瀞霊廷の出来事も勉強しておくようにと七緒に言われたのだった。
名簿よりはまだ面白いだろうし、何より自分の知らない間にソウルソサエティで何が起こったのか京楽は興味があった。
「まあどうせ大したことは起こってないんだろうけどね。因習の奴隷ばかりだか・・・」
頁を開いた途端目に飛び込んできた文字に京楽は言葉を失った。
「な、なんだいこれは・・・?」
そこに記されていたのは、ほんの数ヶ月前に起こった瀞霊廷を揺るがす大事件の詳細だった。
中央四十六室の勅命による朽木ルキア十三番隊隊士の極刑を阻止するために現世から瀞霊廷に6人の旅禍が侵入、死神との戦闘に及ぶ。
旅禍の内三名は隊長格によって捕縛されるが、旅禍の頭目である黒崎一護と名乗る人間はついに双極の丘で朽木ルキアの救出に成功。双極は八番隊隊長京楽春水と十三番隊隊長浮竹十四郎によって破壊。
旅禍と護廷隊隊長格との戦闘が始まる。しかしその最中に、今回の朽木ルキアの処刑は全て、五番隊隊長藍染惣右介、三番隊隊長市丸ギン、九番隊隊長東仙要によって「崩玉」とやらを手に入れるために企てられたことが四番隊隊長卯ノ花烈によって判明したのである。
中央四十六室が全員殺され、更に護廷十三隊の隊長が3人も反旗を翻してソウルソサエティから出奔したというのである、どうりで山本総隊長が京楽に形だけでも隊長を続けて欲しいと言うわけである。ここで京楽まで失ってしまっては、瀞霊廷の秩序は完全に崩壊してしまうだろう。
しかし、ソウルソサエティを激震させた大事件の顛末を読みながらも、京楽にとって気がかりだったのは藍染達の出奔の理由でも旅禍の正体でも、あるいは事件の発端である「崩玉」のことでもなかった。
(僕が浮竹さんと協力して、双極を破壊したって・・・!?)
結果的には正しかったとしても、京楽と浮竹は中央四十六室、そして護廷隊に刃向かったのである。極刑は免れなかった筈だ。
朽木ルキアは十三番隊隊士である、浮竹が不当な刑罰から部下を救おうとするのは当然と言えば当然のことだ。しかし京楽にはそこまでして朽木ルキアを助ける理由は無い。
自分の命を懸けてまで中央四十六室に背く必要は無いのである。だが、京楽は浮竹に協力した。例えその先に死が待っていようとも。
恋人の浮竹だけを危険に晒すことは出来なかったのかもしれない。朽木ルキアの処刑理由に納得がいかなかったのかもしれない。理由は何であれ、京楽は浮竹と共に死ぬ覚悟をしたのである。
浮竹と二人で死の危機に直面する覚悟が、その時の京楽にはあったということである。
今の自分にそこまでする勇気があるとは京楽にはとても思えなかった。苦悩と憤りに満ちてはいるが自分に何が出来るのか分からず、迷いながら毎日を無為に過ごすことしか出来ない自分は、
愛する誰かのためや自分の信念のために命を懸けるだけの強さを持ち合わせていないことを京楽はよく知っていた。そんな自分に、大切なものを守るための勇気を与えてくれたのが浮竹なのか。
浮竹と共にいることで自分は強くなれたのだろうか。京楽は改めて浮竹と言う人物が「二千年後の自分」に与える影響の大きさに驚嘆したのであった。
「浮竹十四郎・・・」
何度も何度も味わうように浮竹の名前を舌の上で転がしながら、京楽は浮竹の姿を思い浮かべた。「浮竹十四郎」という名は耳に心地よく響いたけれど、京楽はどうしても浮竹のことを思い出すことが出来ない。
七緒にもらった名簿にある浮竹の写真を指でそっと撫でながら、浮竹は記憶を失ってしまった自分でもやはり愛しているのだろうかと京楽は思った。
「十三番隊隊長、浮竹十四郎。八番隊隊長、京楽春水、か。やっぱりぴんとこないや・・・。それにしても」
どうして十三番隊には副隊長がいなくて三席が二人もいるのだろうか。記録によれば志波海燕という副隊長が殉職して以来、十三番隊の副隊長位は不在らしい。
それほど志波という男を失ったことが十三番隊にとって衝撃的だったのだろうか。それほど志波という男は浮竹にとって大切な存在だったのだろうか。
彼の他には自分の副官はいないと思うほど、浮竹は今でも志波という男に執着しているのだろうか。
会ったことも無い筈の志波海燕という男について思いを馳せながら、京楽は苛々とした気分が拭えなかった。しかも、何に対して苛立っているのかわからない分余計に困惑が募るばかりだった。
こんな風に理由もなく感情が昂るなんて自分らしくないと心に言い聞かせながらも、では「自分」とはいったい誰のことを指すのかと、京楽は自問せずにはいられなかった。
外見は中年だが中身は青年の今の京楽は、一体何者なのだろうか。
今の京楽にとって「自分」の存在はひどく脆弱なものだった。自分というものが弱く頼りないもので、今にも消えてしまいそうなのである。
それは、絶望に似た心地だった。
「これじゃあ十三番隊には入れないねえ」
待雪草を象った十三番隊の隊章を見詰めながら京楽は苦々しげに呟いた。
待雪草の花言葉は、「希望」。
その名の通り白雪を思わせるその花も、「希望」という言葉も浮竹にぴったりだと京楽は思った。
死神として虚を斬りその手を血に汚し大事な部下を失うという悲劇に見舞われても、あの真っ白な男は決して希望を忘れない、そんな気がした。
「でも、希望なんてあるから諦めることを知らず、無駄な努力を重ね続けて永遠に希望と共に苦痛を味わなけれならないんだよ」
希望なんて愚か者の自己欺瞞でしかないのだと、とうの昔に未来を夢見ることを諦めた京楽は呟かずにはいられなかった。
14.06.09
藍染たちの出奔についての記録が残っているとは思えませんが、まあそれは大人の事情と言うことで・・・
京楽が海燕のことを考えてイライラするのは、無意識の内に嫉妬しているからですね。
若楽さんは本当に苦悩の人です。色々考えすぎて厭世的になってしまうのですよ。
あ、私もソウルソサエティの政治形態は最悪だと思います。格差社会にも程があるよ。
次回は浮竹さんサイドの話です。