桜の樹の下には
満開の枝垂桜の下、女は男を見下ろしていた。
月の見えない夜だった。
女の足元―桜の大木の根元―で、男は跪き嗚咽していた。
「この桜の木の下には、私の死体が埋まっているのです」
前触れもなく姿を現した浮竹に驚いた様子も見せず、女はそう呟いた。
それはまるで、ずっと前から決まっていたことを繰り返すような口振りだった。
女の視線は男に注がれたまま。
「私は、この人に殺されたのです。そして、この桜の木の根元に埋められた」
自分を殺した男を無表情に見詰めながら女は淡々と語る。
浮竹は黙って女と男を見比べた。
「それから私はずっとここにいるのです」
「何故――――」
この男は君を殺したのかと浮竹は問う。
自分を殺した男と対峙しているにも拘らず、女の声からは恨みも憎しみも感じられなかった。
「分かりません――――ただ、私を殺したその日から、この人は夜毎この桜を訪れてこうして泣くのです」
「君を殺したことを後悔して?」
「それも分からない――けれど、泣きながら『愛している』と繰り返すのです」
その時初めて女は顔を上げた。
その表情からは、やはり怒りも困惑も感じられない。
女の透き通った菫色の瞳が湛えているのは
深い深い悲しみだった。
愛している筈の女を殺した男と
自分を殺した男を憐れむ女。
二人の上に舞い落ちる桜の花弁は、宵闇に白く淡く光っていた。
女の話に拠れば、彼女は親に言われるままに遠縁の親戚に当たるこの男に嫁いだのだという。
彼女はまだ若く少女とすら呼べる年頃で、男は女より一回り以上も年上だった。
恋など知らず無邪気そのものだった女は、自分よりもずっと年上で知識豊かな男を兄のように慕っていた。男もまた、幼さを残す妻を慈しみ、大切にした。
二人の結婚生活は、夫婦というよりは兄妹のような穏やかなものだった。
「幸せでした……あの人に会うまでは――」
それは男の無二の友人で、女より五つほど年上の青年だった。
女は一目で恋に落ちた。
「それまで私が男女の愛だと思っていたものは、家族愛なのだということに、その時初めて気付いたのです。私が夫に抱いていた感情は英雄崇拝に近かった……それは、恋情ではなかったのです」
青年と顔を合わせる度に、女の想いは烈しくなるばかりだった。
更に不幸なことに、青年もまた、女を愛していたのだった。
いつしか二人は男の目を盗んで逢瀬を重ねるようになった。
「誰も気付いていないと思っていたけれど、夫は知っていたんです……私の心が、あの人のものになってしまったことを――」
そう言って女は再び男に視線を移す。
長い睫がふるふると震えていた。
男の咽び泣く声が夜の静寂に響き渡る。
はらはらと降り注ぐ桜が、男の涙のようだと浮竹は思った。
「『愛しているんだ。誰かのものになどしたくなかった。君の心が僕の手に入らないのなら、他の誰にも君を渡しはしない』……私の身体を土に埋める間、この人はずっとそう言っていました。
その時初めて、私はこの人の本当の気持ちを理解したのです」
男は、女を愛していた。
物静かだった男は、その愛情を表す術を知らなかった。
しかし、穏やかな外観とは裏腹に、男の内では愛の炎が深く、烈しく、燃えていた。
男は、女が自分へ向ける愛情が、少女の憧れにしか過ぎないことを知っていた。
女としての愛情ではないと気付いていた。
女を愛していた男は、同時に自分を男として愛さない女を憎んだ。
「私は、この人がそんな風に思っていたなんてちっとも知らなかった。この人がそこまで私を愛していくれていたなんて知らなかった。
私が兄のように慕っていたように、この人も私のことを妹のように可愛がってくれているものだとばかり思っていた……私は、何も分かっていなかった――」
女を愛すれば愛するほど、男の苦しみは募るばかりだった。
こんなに愛しているのに、何故自分の想いに応えてくれないのかと、心の中で女を責めた。
そして、女が自分の親友に恋したことに気付いた時、男の胸は嫉妬の闇に呑まれた。
「私がこの人を追い詰めてしまったのでしょうか?私がもっと早くにこの人の想いに気付いていれば……」
か細い声でそう呟くと、女は両手に顔を埋めた。
女のすすり泣く声は、絶望の底から聞こえてくるようだった。
震える女の肩を見詰めながら、浮竹は心臓を鷲掴みにされたような痛みを感じた。
「……でも、君がこの男の想いをしっていたとしても、君にはこの男を愛することは出来なかった筈だ……君の心は、君が誰を好きになるのかは、自由にはならないから…………」
こんなことを聞かされても、女にとっては慰みにはならない。
そう知りながらも、浮竹は言葉を続けずにはいられなかった。
女は男を愛していた。
男も女を愛していた。
ただ、愛の種類が違っていたのだ。
そして、女の愛は男の望む愛ではなかった。
それはきっと、誰にも変えられない運命だったのだ。
「だから、君のせいではないよ。愛故に、愛する者を殺してしまう者もいるんだ……好きで好きで堪らなくて、相手が自分以外の誰かのものになるのが許せない、そんな愛もあるんだ――――」
桜の木の下で繰り広げられるのは、歪んだ愛が生んだ悲劇――
狂ってしまった運命の歯車が、一人の男に殺人を犯させ、一人の女の命を奪った。
それは誰の罪でもない。
罪があると言うのなら、きっと愛そのものに罪がある。
けれど
愛することを止めることなど誰にも出来はしない。
愛する女を殺した男と
愛する男に殺された女
そして、愛の悲劇を目の当たりにした死神。
桜の木の下に佇む三人の上には
とめどなく零れ落ちる涙のように、白い花弁が舞い降りていた。
花盛りの君たちへ
うわあ、いい天気だ。
桜も咲き始めているぞ。やはり桜の花を見ると、春って感じがするな。
え?花見?
うん、そうだな、満開になったら皆で花見もいいかもしれない。
こらこら、酒を楽しみにするのはいいがあまり呑み過ぎるなよ?全く、主と一緒で酒に目が無いな、君は。
大体あいつは限度って物を知らないんだよ。花天狂骨からも注意してやってくれないか?
…………美しい花を愛でて美味しいお酒を呑むのが粋なんだ?
って、京楽も同じようなこと言ってたぞ。
確かに桜を見ていると幸せな気分になるのは分かるけどな…………
へ?
ど、どどどどどうして分かったんだ?!
桜を見る俺の横顔が優しかったから?
どうしてそれだけで俺が京楽のことを考えてるって分かるんだ?
そうか――――
参ったな……目敏いところまで主そっくりなんだな、君は。
で、何を考えていたか、だって?
実はな……こんなことを言うのは何だか恥ずかしいな――
笑わないでくれよ?
いや、その、あのな?
京楽と初めて口付けを交わした時も、こんな風にいい天気で、綺麗な桜が咲いていたな、なんて考えてたんだよ。
……そんな呆れた顔をしないでくれ。
確かに大昔の話だけど、俺にとっては忘れられない大切な思い出なんだ。
あれは統学院卒業後の護廷隊での配属先が発表されたすぐ後のことだった。
花天狂骨は俺と京楽が別々の部隊に配属されたのは知ってるよな?
その知らせを聞いて、正直俺はかなりショックを受けてたんだ。
ほら、それまで俺達六年間ずっと同じ組だっただろう?寮でもよく一緒にいたしさ。だからさ、馬鹿な話なんだけど、何となく護廷隊でも俺と京楽は一緒にいるんだって信じて疑ってなかったんだ。
でも、現実はそうじゃなかった。
護廷隊に入ったら京楽と離れ離れになるから、前みたいにあいつと会うことも出来なくなる。統学院よりももっと多くの出会いがあるはずだ。
もしかしたらあいつは俺よりももっと気の合う奴を見付けてしまうかもしれない、って思って焦ったんだ。
何でそんな心配をしたか?
だって……俺はずっと前からあいつに片思いをしていたから――――
疎遠になってしまう前にどうしても好きだって伝えておきたかったんだ。
とにかく、その日はあいつに告白するつもりで、俺は入隊前のある日学院最後の思い出に二人で院の裏山に行こうって京楽を誘ったんだ。
ほら、京楽のお気に入りの桜の木、覚えてるだろう?あいつは授業を抜け出してはよくあそこで昼寝してたっけ。
その日は本当に良い天気だったよ。雲一つ無い青空が気持ちよくてさ。
桜が満開で、春の陽射しはぽかぽかして……
桜の木の下に立つと、花弁が雪みたいに後から後から降って来て、夢のように綺麗だった――――。
今でも眼を閉じればあの時の光景が蘇ってくるよ。
そして俺が満ち足りた気分で顔を上げたら、京楽が俺の隣で、やっぱり満ち足りた表情で笑っていたんだ。
あの時のあいつは、とても優しい眼をして俺を見ていた――――
幸せだったな……
本当に幸せで、この瞬間が永遠に続けばいい、死神になんてならなくてもいい、なんてことまで考えたんだ。
でも、そう思ったら、途端に京楽に告白するのが怖くなったんだよ。
完璧な時間を壊したくなかったんだろうな。
怖気付いてしまった俺は、何も言わずに頭上の桜を見上げた。
そうしてしばらく二人して桜の幹に凭れ掛かりながら、黙って花見をしていたんだ。
どれくらい経ってからかな、不意に京楽が「こうやって二人でゆっくり出来るのも、これが最後かもしれないね」ってぽつりと呟いたんだ。
その声があんまり寂しそうで、俺はその時、ああ、京楽も俺と同じように俺達が離れ離れになることを悲しんでるんだ、って気付いたんだ。
そう思ったらもうどうしようもなくなってさ。
京楽が好きだ―って気持ちが胸の中一杯に広がって…………
さっきまで告白する勇気なんて無かったのに、不思議だろう?今度は京楽に好きだって伝えたくてたまらなくなったんだ。
それで、さ。
今思い返せば自分でも笑ってしまうくらい声が裏返ってたと思うけど、とにかく思い切って「好きだ」って言ったんだよ。
……
そしたらな、何と京楽も俺と同時に「好きだよ」って言ってくれたんだ。
おかしいだろう?
二人の声が重なって聞こえて。
びっくりして顔を見合わせてさ。
二人とも間抜けな顔をしてただろうなあ。
ちゃんと話を聞いてみたら、京楽もずっと俺のことが好きで、入隊前に何とかして想いを伝えようと思ってたそうなんだ。
二人ともおんなじことを考えていたんだよな。
ずーっと両想いだったのに、遠回りをしていたんだよ、俺達。
バカみたいだろう?
やっぱり若かったんだなあ。
それで、京楽が折角両想いになったことだし、今を逃したら今度いつ二人でゆっくり過ごす機会があるか分からないから、なんて言うんだ。
……次の瞬間には、京楽に唇を奪われていたんだよ。
心の準備が出来てなかったから俺はびっくりして眼を開けたままでさ。
ムードも何もあったもんじゃないだろ?
まあ、それから後のことは頭に血が昇って殆ど覚えてないんだけどな。
唯一記憶に焼き付いているのが、風に揺れる桜の木の枝と、その間から覗く青空だった、って訳さ。
だから、こんな風に雲一つ無い青空の下で桜を見ると、あの時のことを思い出すんだ。
もうあれから何百年と経つのに、不思議だよな。
ああ、でも、一つだけ確信してることがあるんだ。
薄紅の雲のような桜の花と
泣きたくなるくらい真っ青なあの日の空を
俺はきっと一生忘れない。
01.05.10
「桜」がテーマの日記SS集。