「き、君が画家!?」
驚きのあまり思わず大声を上げてしまい、浮竹は慌てて口を押さえた。
初めて訪れた場所での失態に、思わず顔が赤くなる。
しかしそんな浮竹の様子にも眉一つ動かさず、京楽春水と名乗る男は「信じられないならここを見てくれ」と額のすぐ隣にある小さなプレートを指差す。
そこには「作品名 無題、 作者名 京楽春水」と印刷されていた。
だがこれだけでは目の前に立つ男が本物の「京楽春水」だという証明にはならない。
この男が「京楽春水」を騙って浮竹を信用させようとしているだけかもしれないのだ。
身分証明を見せてくれなければ信じられないと浮竹が言いかけた時、突然背後から「あのぉ」という間の抜けた声が聞こえてきた。
「喜助君」
苦々しげな呟きと共に浮竹の肩に置かれたままだった男の手が離れる。
それまでかかっていた圧力を失って、浮竹は初めてどれ程強い力で男に掴まれていたのか気が付いた。
「どうかしましたか、京楽さん」
浮竹が振り返った先には、品の良いスーツに身を包んだ浮竹よりもやや年下の―おそらく会社の後輩である海燕くらいの年頃の―男がいた。
「ようこそGallery Uraharaへ。私、オーナーの浦原喜助と申します」
そう言ってにこにこと笑いながら浦原は浮竹に右手を差し出す。
人好きのする笑顔に、浦原の手を握り返す浮竹の頬も知らずと緩んでしまう。
目の前の若い男がこの画廊のオーナーだという事実が浮竹には少し意外だった。美術商なんてものはもっと年配の人間がなるものだと思っていたのだ。
もっとも、それも乏しい知識の中から生まれた間違った認識なのかもしれないが。
「こちらの絵がお気に召しましたか?」
「い、いや、俺は別に・・・・・・」
「京楽画伯とはもうお話を?京楽さんは当ギャラリーで一番人気のある画家なんですよ」
「京楽って、じゃあ本当に・・・・・・」
浦原の言葉に男が本当に「京楽春水」なのだとようやく浮竹は理解するが、それでも目の前の男が画家だと言う事実をなかなか受け入れることが出来ない。
京楽という男は浮竹の持っている「芸術家」というイメージからはあまりにも程遠い人物であった。
芸術家というものはもっと禁欲的というか厳粛な雰囲気の人間だと思っていたのだ。芸術の追求に一生を捧げる、ある種世捨て人のようなイメージだった。
だが、京楽春水という男は伊達な外見、と言えば聞こえは良いが、浮竹からすればホストかヤクザのような、明らかに堅気の人間ではない風体の男なのだ。
とても芸術などという高尚なものに携わるような人間には見えないのである。
初対面の相手にかなり失礼なことを考えている自覚はあったが、浮竹はどうしても京楽に対しての警戒心を拭うことが出来ない。
いくら芸術家にはエキセントリックな人間が多いと言っても、突然「絵のモデルになってくれ」などと迫られて不審に思わないほうがおかしいだろう。
「喜助君、紹介なんていいからさ、ちょっと彼と話がしたいから君のオフィスを借りるよ」
浮竹と浦原のやり取りを苛々としながら見ていた京楽だったが、やがて我慢の限界に来たのか、じれったそうにそう短く告げると、「え?ちょ、ちょっと待っ・・・!」と困惑している浮竹の腕を掴み、
そのままどこかへ連れて行こうとする。
「それは構いませんが・・・京楽さん、一体この方はどちら様なんでしょうか?」
「それは後で説明するからさ。ねえ、こっちに来てもらえるかな?」
後半の台詞は京楽の腕から逃れようと抵抗する浮竹に向けられたものである。
「おい、俺はまだお前と話をするなんて言ってないぞ!」
強引な京楽のやり方に、流石に浮竹も苛立ちを隠せず声を荒げた。
浮竹の怒りを滲ませた声に我に返ったのか、一瞬はっとしたように京楽は浮竹を見詰める。
浮竹の手首を掴んだままだった京楽の手の力がほんの少し緩むのが感じられたが、それでも京楽は浮竹を離さなかった。
「頼むよ」
す、と京楽の顔が近付く。
そして真正面から浮竹の瞳を捉えた。
低く囁かれる声に、浮竹の背筋がぞくりと震える。
「話を聞くだけでいいんだ」
懇願するような京楽の瞳が浮竹の心臓を射抜く。
声が、出なかった。
言葉に詰まった浮竹に了解を得たと思ったのか、京楽は浦原に「喜助君。僕が前に個展を開いた時のカタログってまだ残ってるよね?」と尋ねると、浮竹の手を引いて歩き出す。
気が付くと浮竹は抗議をするのも忘れて京楽に導かれるまま歩いていた。
先程京楽に見詰められた時に感じた衝撃にひどく動揺していて、何が起こっているのか理解できなかったのである。
「カタログならラックの中にありますが」
「そうかい、ありがとう」
そう言い残すと、「ちゃんと後で説明して下さいねぇ」という浦原の声を背中で受けながら、京楽は浮竹を連れてオフィスへ通じるドアを押したのだった。
*
ガラス張りのコーヒーテーブルを挟んで、浮竹と京楽は無言で向かい合わせに座っていた。
浮竹の前には一冊のカタログが置かれている。
ギャラリー同様アイボリーホワイトを基調とした落ち着いた色合いの浦原のオフィスは、本来ならばリラックスさせる効果があるのだろうが、浮竹はどうしても緊張をとくことが出来ない。
見知らぬ人間と閉ざされた空間にいるという事実に居心地の悪さを覚えずにはいられなかったが、だからと言って何を言えばよいのかも分からなかった。
カタログの表紙に印刷された文字をぼんやりと眺めながら、浮竹はひたすら京楽が口を開くのを待つ。
何故か顔を上げることは躊躇われた。
不意に浅黒い大きな手が浮竹の視界に入って来ると、そっと撫でるように表紙を覆う。
京楽の視線を身体中に感じながらも、やはり浮竹は俯いたままだった。
「これは去年喜助君に頼まれて個展を開いた時のものなんだ。印刷だから本物を見るのとは随分違うけどね。僕は画家だから自己紹介には僕の描いた絵を見てもらうのが一番だと思うんだ。
ポートフォリオ代わりだと思ってくれればいいよ。モデルを頼むんだから、まず君には僕がどういう人間かを知ってもらうのは当然だからね。それで僕のことを信用できるかどうか決めて欲しいんだ」
そう言うと、京楽はす、と手を引いた。
その動きに導かれるように浮竹は顔を上げる。
浮竹を迎えた瞳は、先程浮竹の胸を射た激しいものではなく、ただ浮竹を見詰める、凪いだ海のような静かな瞳だった。
一体この男は何者なのだろうか。
静と動が交錯しているような印象を与える京楽春水という男に、浮竹は微かな怯えにも似た、しかし自分の中の何かが揺さぶられるような気持ちを抱く。
と同時に、そんなことを感じる自分自身に困惑した。
おそらく京楽は自分が彼の作品を見なければ納得しないだろうと小さく溜息をつくと、浮竹は仕方なく目の前の冊子を手に取ると、ゆっくり最初のページを開いた。
パラ、と浮竹がページを捲る音だけが室内に響く。
初めは躊躇いがちにページを繰っていた浮竹だが、次第に吸い込まれるように京楽の絵に見入っていった。
そんな浮竹を京楽は注意深く観察する。
最後の審判が下るのを待つような張り詰めた思いで、京楽は浮竹の僅かな表情の動きさえも見逃すまいと、ひたすら浮竹を見詰めていた。
「・・・・・・人物画が」
数分ほどしてから、ページを捲る浮竹の手が止まり、同時に小さな呟きが零れる。
「人物画が、一枚も無い」
浮竹の感想はある程度予想していたことだが、正直に話すべきか一瞬京楽は迷う。
しかし、何故かこの白い髪の男を上辺だけの言葉で誤魔化したくないという思いに駆られていた。
「・・・・・・今まで人間を描きたいと思ったことが無いんだ」
だから、結局ありのままを口にすることにした。
「今まで一度も?」
「うん」
「それなのに、何故俺をモデルにしたいなんて言うんだ?」
訝しげな声で浮竹が尋ねる。
それは当然の質問だったが、実を言えばその答えは京楽にも分からなかった。
ただ、浮竹の姿を目にした刹那、金白色の電流が身体中を駆け巡り、この男を描けと京楽に告げたのだ。
「正直言って、理由は僕にも分からない。君が僕の絵の前に立っているのを見た瞬間、君を・・・・・・どうしても君を描きたいって思ったんだ」
「・・・・・・それは、インスピレーションが湧いた、ってことか?」
「うぅん、そうだね。まあそんなところかな」
「今まで一度も人間に対してそんなことを感じたことが無いのに?」
「そうさ」
我ながら随分と説得力が感じられないと思いながらも、京楽はそう伝えることしか出来なかった。
元々「何かを創りたい」という思いは理屈や言葉で説明出来るものではないのだ。突然何の前触れも無く、降って湧いたように生まれては、京楽の全てを支配してしまう。
そして、創作以外のことは考えられなくなってしまうのだ。
それが浮竹に伝わるとは京楽も思ってはいない。
京楽の言葉をどう受け取ったのか、浮竹は黙ったまま再びページに視線を落とす。
その横顔からは何を考えているのか読み取ることは出来なかった。
「頼むよ。勿論モデル料は払うからさ」
そう言って京楽が提示した額は、正規のモデル料をはるかに超えた法外なものだった。
自分の時給を上回る額に、浮竹は驚きのあまり目を瞠る。
一瞬家族の顔が脳裏を過ぎり、生まれて初めて金に心が動かされそうになった。
浮竹の逡巡を感じ取ったのか、畳み掛けるように京楽は「ね、悪くない話だろう?」と浮竹の目を覗き込む。
ほんの少しだけ縮まった距離に、浮竹は怯んだ。
「す、少し考えさせてくれ。こんなこといきなり言われてもすぐには決められない」
とにかく一刻でも早くこの男の視線から逃れたくて浮竹は言い訳じみた台詞を口にする。
時間稼ぎにしかならないとは分かっていたが、こうでも言わなければ京楽は納得しない気がした。
考えさせてくれ、と浮竹が頼むのは今日これで二回目だ。
偶然にしては出来過ぎているが、運命と呼ぶには京楽の提案はあまりにも滑稽だった。
たまたま同じ日の出来事ではあるが、浮竹にとってこの画家と関わることがイギリス留学ほどの価値がある筈が無いのだ。
一度は捨てた夢を叶えるチャンスと、芸術家の単なる気紛れに対して同じ答えを返すことしか出来ない自分に気が付いて、知らず浮竹の顔に自嘲的な笑みが浮かんだ。
「そうか・・・・・・そうだよね。じゃあ決心がついたら電話してくれないかい」
やや落胆の表情で京楽はそう言うと、どこかから取り出した鉛筆で電話番号をカタログの裏にメモする。
「これ、僕の自宅の番号。電話するのは何時でもいいよ」
待ってるから、と告げた京楽の声は、ひどく真剣なものだった。
真っ直ぐ浮竹を見据える瞳には、先程と同じ射るように強い光が宿っている。
まただ、と浮竹は動揺する。
京楽春水という男にこうして見詰められる度に、浮竹の中の一番深い所がざわざわと落ち着かなくなるのだ。
胸のざわめきを振り切るようにして浮竹は立ち上がると、「じゃあ俺はこれで・・・・・・」とドアに向かおうとした。
「待って!」
「まだ何かあるのか・・・?」
明らかに早くこの場を去りたいという口振りの浮竹に苦笑しながら、京楽は「名前くらい教えてよ」と片目をつぶってみせる。
そう言われて初めて、浮竹は自分がまだ名乗ってすらいなかったことに気が付いた。
しかし、まだ京楽に対して不信感を拭えない浮竹は、名を告げるべきかほんの少し迷う。
同時に、何故かこの男に名前を知ってもらいたいという思いが胸の内にあった。
その気持ちの背中を押されたように、浮竹は口を開く。
「浮竹・・・・・・浮竹、十四郎だ」
10.01.10
第一話をアップしてから一ヶ月以上も経っていました(汗)
私の芸術家のイメージって「月と六ペンス」から得たものしかないのですが、まあ実際はいろんなタイプの人がいるんでしょうね。
浦原さん書いたのってはじめてかも!