Two things fill the mind with ever-increasing awe – the starry heavens above me and the moral law within me.
Immanuel Kant
寝室に近付いてくる良く知った霊圧を感じて、京楽は目を開けた。
「眠れないのかい?」
揶揄を含んだ調子で声を掛けると、答えは無く、代わりに静かに襖が開かれた。
よっ、と起き上がった京楽の前には隊長羽織を着たままの浮竹がいた。
勿論、眠れないのかと問うまでも無く、京楽には浮竹が今夜は寝床に入るつもりが無いことを知っていた。
そういう京楽自身も、寝間着に着替えることなく、長い間暗闇の中で横になって思案してるだけで、眠るつもりなど毛頭無かった。
それに、浮竹がこうして自分を訪れるであろうことを半ば予期していたのだ。
座るように浮竹に促すと、京楽は行灯を灯した。
柔らかな光が京楽と浮竹の影を映す。二人はしばらく互いを見詰め合ったまま無言でいた。
浮竹が京楽のもとに来たという事は、何か話があるということだから、京楽は浮竹を急かすようなことをせず、黙って浮竹が話し出すのを待った。
「18世紀のドイツ哲学者、イマニュエル=カントは、人間の内にある理性が秩序や機構を世界にもたらすと考えたらしい。」
しばらくしてぽつりと浮竹が呟いた。
それは京楽に向けたというよりも、むしろ声に出して考えているようなものだったので、京楽は何も言わず、ただ浮竹の言葉に耳を傾けた。
「カントにとって世界は、それ自体では混沌としたものであり不可知のものだった。しかし、理性によって秩序がもたらされた。
だから人間は理性によって世界の構造を知ることが出来るのだ、と。
もともと世界の秩序は人間の内にある理性が作り出したものだから、世界の秩序は同時に個人の内にもあるわけだ。」
そこまで言って、浮竹は言葉を切った。
京楽には浮竹の言わんとしていることが分かるような気がしたが、浮竹自身の言葉で表現する方が良いと判断して、敢えて言葉を挟まなかった。
「だから、世界の正義は、同時に個人の内にあり、世界の正義と個人の正義は同一のものである。そう考えたんだ。」
「でも僕らはカントが間違っていることを知ってる。」
違うかい、と尋ねる京楽に、浮竹は小さく肯く。
「僕らは死神で、世界の秩序を守る為に存在するけれど、僕らには僕らの正義がある。」
そして個人の正義が世界の正義と衝突することもある。
どちらを選ぶかは己次第だ。
「決めたんだね。」
世界の正義か。
「ああ。」
己の正義か。
「明日、処刑前に双極を破壊する。」
それは静かだが確固とした決意だった。
「中央四十六室への意見も聞き入れてもらえなかった。もう時間が無い。もうそれしか他に朽木の処刑をとめる術は無いんだ。」
「どうしても、朽木ルキアちゃんを助けるのかい。」
「ああ。俺にはどうしても朽木が処刑されるほどの罪を犯したとは思えない。朽木が俺の部下だからだけでなく、俺は、不当に誰かが殺されるのを見過ごすことは出来ない。」
浮竹の声はどこまでも落ち着いていたが、それが逆に浮竹の決意の固さを現していることを長い付き合いで京楽は知っていた。
「山じいに怒られちゃうよ。」
「ああ。」
「山じいと戦うことになるかもしれないよ。」
「努力はするが、きっと先生には話を聞いてもらえないだろうな。」
それほど浮竹のしようとしていることは重大なのである。
それでも浮竹は双極を破壊すると言う。そしてその行いの報いも受けると言うのだ。
「死ぬかもしれないよ。」
一つの命を救うために、己の正義を貫くために、そこまでする覚悟があるのかと、京楽は言外に問う。
「ああ。」
それでも、俺は決めたんだ。そう浮竹は答えた。
浮竹にそこまでの覚悟が出来ているのなら、もう自分には何も言うことが無いと、京楽は思った。
止めようとは、思わない。浮竹が浮竹の正義のために命を掛けるというのなら京楽はそれを受け入れるだけだ。
浮竹は京楽に双極を破壊するのを手伝ってくれとは言わない。
京楽が朽木ルキアを助けるか否かは京楽が自身の信念に従って決めることであり、それ故京楽だけが決められることだからである。
だから、浮竹は京楽から何も求めない。
京楽も何も言わない。
「京楽。」
こうして面と向かって言葉を交わすのは今日で最後になるかもしれない。
それでも、二人の間には悲壮感は無かった。
「今までありがとう。俺はお前と生きてこれて幸せだった。」
別れの言葉を言っているはずなのに、浮竹の声は穏やかだった。
明日も明後日も、京楽と生きていければ良いという願いは、胸の内に仕舞われて言葉にはならなかった。
「僕の方こそ、今までありがとう。僕も幸せだったよ。」
そしてこれからも、僕は幸せであり続けたい。そう京楽は心の内で呟いた。
己の幸福のために、己の正義のために、そして己の誇りのために、決心する時が来たようだと京楽は悟った。
「それでは明日、双極の丘で。」
そう言って、浮竹は立ち上った。
京楽もそれに倣う。
「ああ。明日、双極の丘で。」
寝室を出て立ち去る浮竹の背が見えなくなるまで、京楽は浮竹の後姿を見送った。
明日、双極の丘で自分達を待ち受ける運命に思いを馳せながら。
19.02.09
最初の言葉はカントの墓碑銘からの引用です。その昔ヨースタイン=ゴルデルの「ソフィーの世界」を読んだときにカントの章の冒頭にも使われていたと記憶しています。日本語訳はうろ覚えなのですが、「―夜空に浮かぶ星空と、この胸の内の道徳律」みたいな感じだったのがひどく印象的でした。浮竹さんのカントの解釈は大雑把です。京楽さんも間違ってるってはっきり言ってるし・・・。Bleachの世界観では間違っていると言うだけであってカント批判をしているわけではありませんのであしからず。
「高潔な理性」は椿の花言葉です。