辺りを見回すと、京楽は見たことも無い場所にいた。
(・・・ここは、一体・・・?)
そこは、空に浮かぶ奇妙なほどに大きな満月のほかは見渡す限りの雪原が広がるだけの、真っ白な世界だった。
乳白色の月光に洗われて、世界を覆いつくした雪はきらきらと純白の光を放つ。
頭上からは絶え間なく雪が降り続いているというのに、京楽は全く寒さを感じなかった。
そっと手を翳すと、ふわりと掌に一片の雪の結晶が舞い降りた。
しかしよく見てみると、雪花とばかり思っていたそれは実は真っ白な花だった。舞うように降り注ぐ幾枚もの花びらが、世界を純白に染めているのだ。
しんしんと音も無く降り積もる、雪のように白い花弁に、京楽は何故か泣きたい気持ちになった。
ただひたすら白いこの世界は、あまりに美しく、あまりに優しい。そして、何故かどうしようもない程の郷愁を京楽の胸に呼び起こすのだった。
(僕は・・・知っている・・・この花も、この世界も・・・)
京楽が顔を上げると、誰かが遠くの方で佇んでいるのが目に入った。京楽のいる場所からは遠過ぎてよく見えないが、その人影は舞い落ちる花の中で身動き一つせず立ち尽くしているようだった。
不意に、今すぐあの人を追わなければという焦燥にも似た思いに駆られて、京楽は思わず一歩足を前に進めた。
そして、手を伸ばそうとしたその瞬間、物凄い勢いで真っ黒な茨のようなものが視界を覆い始めたのである。
「な・・・!」
見る見るうちに、真っ白だった世界が漆黒に変えられていく。その間も、伸ばされた手の先にいる人影はじっとしてこちらに気付いた様子も無い。
「待って!・・・・」
行かないでくれと京楽が叫ぼうとした瞬間、世界が暗転した。
*****
はっと目を開けて初めて京楽は夢を見ていたのだと知った。
いつの間に眠ってしまっていたのか、どうやらもう朝のようである。外ではちゅんちゅんと雀が元気よく囀り、障子の隙間から朝陽の光が差し込んでいた。
(それにしても、現実的な夢だったな・・・)
白い花の降る世界など現実に存在するわけは無いのに、京楽にはどうしてもただの夢だとは思えなかった。
あそこには自分にとってとても大切なものがある。自分は絶対にあの場所を探し出さなければならないと直感していたのである。
京楽が真剣な表情で先程の夢について考えていると、不意に何かが胸の辺りでもぞもぞと動く気配がした。
「ぅん・・・もう朝か?」
「!!!!!!!!」
何気なく視線を移した先にいたのは、なんと京楽の腕に抱きしめられた浮竹だった。
しかもこの状況に完全に混乱している京楽とは対照的に、京楽が起きているのに気が付くと「おはよう」といって朗らかに笑ったのである。京楽は驚きのあまり声も出ない。
と、そこへ朝になって京楽の霊圧が隊首室に戻っているのを感じ取り、急いで様子を見に来た七緒が「京楽隊長!」と勢いよく障子を開け放った。
突然の出来事に京楽は何の反応も出来ず、浮竹を抱きしめて横になっている格好のまま、眼前の予想外の光景に固まっている七緒とばっちり目が合ってしまった。
「し、失礼しました!!」
「ああ、伊勢君だね。おはよう」
真っ赤になって即座に立ち去ろうとする七緒を浮竹は笑って引きとめた。いつの間にか京楽の腕から抜け出して七緒の前に立っている。
何がどうなっているのかわからず呆然としながらも、浮竹に促されて座る七緒に習って京楽も身体を起こして浮竹の隣に腰を下ろした。
「いやあ、びっくりさせてすまなかったね。京楽が寝てしまってから俺も雨乾堂に帰ろうとしたんだが、こいつが腰にしがみついて離れないものでね。
どうしたものかと考えているうちにそのまま俺も寝てしまったみたいなんだ。おかげで身体の節々が痛い」
「は、はあ、そうですか」
はははとまるで何事も無かったかのように笑う浮竹に、七緒も引き攣った笑いで答える。それに反して京楽は穴があったら入りたいくらいの羞恥で顔を真っ赤にさせていた。
あの後浮竹に抱きしめられて眠ってしまったばかりか、腰にしがみついて離さなかっただなんて、それでは母親がどこかに行ってしまうのをむずかる子供のようではないかと恥ずかしさのあまり憤死しそうになっていたのである。
浮竹の隣で大きな身体を縮込ませてうんうん唸っている京楽と、布団も敷かずに寝てしまったために身体が痛いと肩をこきこき動かしている浮竹を交互に見比べながら、
何だかよく分からないけれど二人の仲に進展があったようだと結論付けて七緒はほっと安心していた。少しだけいつもの二人の雰囲気が戻った気がしたのだ。
やはり京楽のことは浮竹に任せておくのが一番なのだと、七緒は改めて二人の絆の強さに感心したのだった。
「それにしても、昨日は本当に心配したんですよ!」
気を取り直して京楽に向き直ると、七緒は真面目な表情で説教し始めた。いくら身体的には何の異常も見られないからといって行き先も告げず突然消えて、どこかで倒れでもしたらどうなっていたことかわからない。
瀞霊廷内ならまだしも万が一流魂街のしかも治安が悪い地域で倒れたりなどしたらそれこそ想像するのも恐ろしいと。
厳しい口調の七緒だったが本当に京楽の身を案じての発言なだけに京楽も大人しく叱られている。
京楽が八番隊の隊長だからなのではなく、七緒は純粋に京楽という男を心配していたのだということが時折震える語尾から感じ取れたのだ。だからこそ京楽も
「黙って出て行ってしまってすみません」
と、素直に頭を下げることが出来た。そんな京楽に毒気を抜かれたのか、七緒も「分かってくれれば良いんです」と肩の力を抜いたのだった。
「では今日は大人しく自室で待機していて下さいね」
「え!一日中ここでですか?」
自業自得とはいえ事実上の自宅謹慎を命じられて京楽は思わず情けなくも悲鳴をあげた。
確かに昨日黙って行方不明になったことについては反省しているが、だからといって(今の京楽にとっては)他人の部屋で一日過ごすなんて息が詰まること必至だった。
ちゃんと行き先を告げるから外出させて下さいと懇願する京楽に、七緒は厳しく駄目ですと言い放つ。ただでさえ京楽が記憶喪失になって大変なのに、京楽の居場所の心配までしてこれ以上心労を増やしたくなかったのである。
そんな七緒の心情を悟り、尚且つ京楽の気持ちも分からないでもない浮竹は二人に助け舟を出すように
「雨乾堂に来ればいいじゃないか」
と提案した。
「え?でも雨乾堂って・・・」
「それは良い考えですね!流石です、浮竹隊長。浮竹隊長と一緒なら私も安心できます」
「京楽が俺の所でごろごろしているのはいつものことだから不審に思うものは誰もいないよ。大丈夫、好きなことをして時間を潰せばいいさ」
「いや、あの・・・」
「どうせだから朝食も俺の所で食べるだろう?」
「そうですね。でしたら私の方から虎徹三席に伝えておきます」
「助かるよ」
「ぼ、僕の意見は・・・?」
完全に京楽を無視して話を進める浮竹と七緒に、もしかして二千年後の僕ってかなり立場弱いのかなあ・・・などと京楽は当たらずとも遠からずなことを思って苦笑したのだった。
*****
「本当に僕がここにいることを誰も疑問に思わないんですね」
「うーん、まあ確かに今更驚くものは十三番隊にはいないだろうなあ。いつもふらりとやって来ては好きなことをして気が付くとふらりといなくなっているから気を遣うものもあまりいないし。
皆いつものことだと気にも留めていないんだろう」
「はあ・・・」
それじゃあ隊長というより野良猫みたいな扱いだなあと思いながら京楽は味噌汁を一口啜る。京楽家の上品な味付けとは違うが、どこかほっとする優しい味わいに舌鼓を打った。
浮竹と連れ立って十三番隊舎にやってきた京楽を、十三番隊隊士達は特に不思議がることも無く当然のように迎え入れた。
廊下ですれ違うたびに隊士達におはようございますと頭を下げられるのは京楽からすればこそばゆいものであったが、十三番隊隊士の元気の良い、心からの挨拶は快晴の青空に気持ち良く響き、好感の持てるものであった。
十三番隊は、皆心から浮竹を慕う、非常に仲の良い隊なのだろうということが一目で京楽にもわかった。
これも浮竹という男の人徳のなせる業なのだろうかと、自分の向かいでおいしそうに食事をする浮竹を京楽は興味深げに見詰めたのだった。
「あの、ところで浮竹さん」
一言言っておかなければと口を開いた京楽だが、浮竹が眉間に皴を寄せたのに気が付いて言葉を切った。
「どうかしたんですか?」
「いや、その、すまない。どうもおま・・・いや、君に浮竹さんと呼ばれるのは慣れなくて・・・」
がしがしと乱暴に頭を掻きながら浮竹は困ったように眉根を寄せる。
京楽が記憶を失っている今浮竹のことを呼び捨てに出来ないのは育ちの良い京楽にとって仕方の無いことだと頭では理解しているのだが、浮竹にはどうしても納得することが出来なかった。
京楽に「浮竹さん」と呼ばれるたびに悪寒が走るというか身体中がむず痒くなるというか、兎に角気色悪くて堪らないのである。
「一応『友達』なんだから浮竹って呼んでくれないかな?」
「それはちょっと・・・今の僕にとっては貴方は目上の人間なんですから呼び捨ては変ですよ」
「そうは言ってもなあ・・・どうにも落ち着かないというか」
「じゃあ『十四郎さん』っていうのは?」
その瞬間、ぼんっと音を立てて浮竹の顔が真っ赤になった。
「そ、それは絶対駄目だ!」
京楽が浮竹のことを下の名前で呼ぶのは特別な時だけである。そう、例えば閨の中で情事に及んでいる時などの。
そのせいか、京楽に下の名前で呼ばれると身体の芯に火が点くように浮竹は敏感に反応してしまう。とっておきの声で低く甘く囁かれたりなどしたら浮竹に抵抗する術は残されていない。
勿論今の京楽はそんな浮竹の事情など露知らぬはずだが、浮竹の真っ赤な顔を見て何かを察したのかにやりと口の端を持ち上げてにやりと笑うと、もう一度「十四郎さん」と口にした。
「!!!!だからそれはやめてくれと・・・!」
「良いじゃないですか、十四郎なんて素敵な名前ですよ」
そう言って京楽が涼しい顔で笑って見せたため、浮竹は言葉に詰まってしまい結局好きにしろといってまだ少し頬を朱に染めたまま忙しくご飯を口に運んだのだった。
記憶があろうと無かろうと口が上手いのは全然変わっていないと心の中で悪態をつくのは忘れない。
「ところでさっき何を言いかけてたんだ?」
「ああ、それはですね・・・」
と、今度は京楽が頬を染める番だった。
「その・・・昨夜のことなんですが・・・僕、いつの間に眠ってしまったのか全然覚えてなくて、だから迷惑を掛けてしまったかなあ、と思いまして」
しかも今朝起きたらあんなことになってるし、と最後の方は恥ずかしさに耐え切れなくなったのかもごもご口の中で呟くだけだった。
赤子のように浮竹にしがみついて話さなかっただなんて思い返すだけでも恥ずかしく、京楽は羞恥のあまり気を失ってしまいそうだった。
「ああ、そのことなら気にしなくていよ。おま・・・君も色々なことがいっぺんに起きて気が立っていたはずだから、緊張の糸が切れて眠ってしまったんだろう。
それにお前・・・いや、京楽が俺のことを捕まえて離さないのは条件反射みたいなものだから君が気にすることじゃないよ」
それに実を言えば浮竹も京楽に抱きしめらて嬉しかったのだ。眠る時に浮竹を抱きしめるのは京楽の身体に染み付いた癖のようなものだ。
記憶を失った今も以前と変わらない行動をとるということは、心は浮竹に関する記憶を失っていても、京楽の身体は浮竹を覚えているのだと語っているも同然だった。
その上一晩中直に京楽の温もりを感じることが出来たのである。喜びこそすれ迷惑だなどとは欠片も思っていない。自分でも動物的だとは思うが、京楽の体温を直接肌で感じることで随分と浮竹の心は凪いでいた。
記憶を失っても京楽は京楽だと自分に言い聞かせてはいたが、やはり不安はあったのだろう。
京楽の腕の中で京楽の心臓の鼓動に耳を澄まし、独特の京楽の匂いを胸いっぱいに吸い込み、京楽の熱を感じることで、浮竹の心は驚くほど軽くなっていた。
そうして初めて、どれほど自分が精神的に参っていたのかを浮竹は知ったのだ。
昨夜のことを思い出してそっと微笑む浮竹を眺めながら、京楽はますます浮竹という人物に興味を惹かれていく自分に気が付いていた。
浮竹という男は、京楽を拳で持って拒絶するほどの激しさを持ち合わせていながら、同時に怒りと悲しみのあまり混乱して自分を傷付けようとした京楽を許すほどの優しさを内に秘め、
そして聖母のような包容力と慈悲深さで苦痛に歪んだ京楽の心を癒してくれた。だからといって聖者のように穢れを知らぬというわけではないらしい。
京楽の口付けに見せた浮竹の反応は、確かに色情を知っている者のそれだった。しかし性的な事柄に慣れているわけでもないらしく京楽に名前を呼ばれただけで真っ赤になるなどという初心な反応をしてみせる。
かと思えば七緒に京楽と(不可抗力とはいえ)抱擁している姿を見られてもけろっとしているようなどこかズレた感覚の持ち主のようでもある。
兎に角、浮竹という男は、今まで京楽の周りにはいなかった種類の、従って京楽にとって非常に不可解な男なのである。
全くと言って良いほど接点の無い二人なのに、一体どうして浮竹と自分は友達なんて関係になったのだろうと京楽は今更ながらに驚かずにはいられなかった。
普段の自分なら絶対に浮竹のような男には近付かない。あまりに生きている世界が違うからだ。それなのに、どういう経緯でか分からないが浮竹と京楽の運命は交錯し、友情が生まれたのだ。
二人が友人になった切っ掛けを浮竹に尋ねてみたいと京楽は思ったが、今は忘れているとはいえ当事者である自分の口からそんな質問をされることは浮竹にとっても複雑かもしれないと考えるとどうしても躊躇われた。
二人だけの大切な思い出を、まるで第三者にでも語るように(もっとも現在の京楽から見れば記憶を失う前の『自分』は他人のようなものだったが)片割れであるはずの男に話すのは、浮竹にとって辛いはずだから。
(出来るなら、この優しい人を悲しませるようなことはしたくない)
出会ってから何度か浮竹が見せた悲しそうな表情を思い出して、京楽の胸はぎゅっと締め付けられるように痛んだのだった。
15.08.09
8がちょっと重かったので今回は少し息抜きをするためコメディ風になりました^^;
実は京楽さんに「十四郎さん」と呼ばせたいがためにこの話は生まれたと言うのは内緒です(笑)