ただいま、と声を掛けた浮竹が玄関で靴を脱いでいると、ドアの音を聞き付けた末の双子の秀と小百合が走って出迎えにやってきた。
「お帰りー!」
「お帰りなさーい、お兄ちゃん!」
「ただいま、小百合、秀」
くしゃりと頭を撫でてやると、二人とも嬉しそうに笑う。
もうすぐご飯だよ、今日はカレーなんだって、と交互に喋りながら、双子はリビングへと足を向ける浮竹の後をついて行く。
双子達の言う通り、家の中にはおいしそうなカレーの匂いが満ちていた。
「ただいま」
リビングに入ると、ぐつぐつとカレーを煮込む小気味いい音が耳に飛び込んでくる。
「あら十四郎、お帰り」
「お帰りー」
「母さん、千尋、ただいま」
LDKのキッチンでは、母と長女の千尋が夕食の支度をしている。大きな鍋からは白い湯気が立ち昇り、炊いたばかりのご飯の匂いが食欲を誘う。
明るい蛍光灯に照らされた平凡な光景は、今日一日の出来事で精神的に疲れきっていた浮竹をほっとさせるには十分だった。
「じゅ、じゅーしろーか、おかえり」
「ただいま、父さん」
リビングのソファで五男の征士と双子と一緒にテレビを観ていた父が、ぎこちなく身体を浮竹の方に向ける。
脳梗塞の後遺症で片半身が麻痺している父だが、それでも浮竹の姿を見ると少し引き攣ってはいるが満面の笑顔を浮かべてくれた。
「あれ?伸と当麻は?」
次男の遼は今日は仕事で遅くなると朝言っていたのでまだ帰ってくる時刻ではないが、三男の伸と四男の当麻は夕飯までには帰ってくる筈だった。
浮竹家では日曜日は出来る限り家族全員で夕食をとることになっているのだ。
「当麻はさっきバイトから帰って来て今お風呂に入ってるわ。伸はまだバイト。もうすぐ帰って来ると思うけど、先に食べてていいって出掛けに言ってたから、御飯にしましょう」
「分かったよ。俺はちょっと着替えてくる」
「私お皿出すねー」
「秀、小百合、手は洗ったか?」
「あ、まだだった!」
「洗ってくるねー」
一旦部屋に戻って着替えると、浮竹は風呂から出てきた当麻と一緒に父が立ち上がる手助けをする。双子達は歩行器が倒れないようにと支えてくれていた。
浮竹の見守る中、父は歩行器に摑まってゆっくりダイニングテーブルへと歩を進める。足取りはまだ少し覚束ないが、それでも歩行器があれば一人で歩けるようになるまで父は回復したのだと、改めて実感した。
家族皆で声を揃えて「いただきます」を言うと、一斉にスプーンがカチャカチャ鳴り始める。
どこにでもある家庭の、穏やかな日曜日の夕食の光景だった。
浮竹の向かいの席に座る父は、こぼさないように持ち易く柄が工夫されているスプーンを慎重に動かしている。
―――本当に、よくここまで来たものだ。
談笑しながらカレーを頬張る家族の姿を見詰めながら、浮竹は感慨深げにそう心の中で呟いた。
まさかこうして家族皆でテーブルを囲んで食事が出来るなんて、あの頃の浮竹にはとても想像できなかった。
勤め先の会社で父が倒れたと連絡を受けたのは突然のことだった。
その時大学の研究室にいた浮竹に、母から電話をもらった山本はすぐに搬送先の病院へと向かうようにタクシーを手配してくれた。
混乱している頭で山本に言われるがまま乗り込んだタクシーの、その窓越しに見た景色を、自分は一生忘れないだろうと浮竹は思う。
病院に運ばれた時点で父の容態は相当悪かったらしく、担当医から覚悟した方がいいと告げられた。
膝の上で固く握り締められた母の震える手は、今も浮竹の脳裏に焼き付いている。
それでも、医師達の迅速な投薬治療のおかげで父は奇跡的に一命を取り留めた。後遺症として半身不随、言語障害、感覚障害は残ったが、浮竹達にとっては父親が生きていてくれるだけで十分だった。
その後、再発防止のためのバイパス手術やリハビリを経て退院にこぎつけるまで、大変な日々が続いた。母は毎日病院と家の往復で家を空けることが多くなり、浮竹自身も仕事を始めたばかりで毎日帰りが遅く、まだ幼かった弟妹達は伯母や叔父の家に預けられることが多くなった。顔には出さなかったけれど、遼や伸達も家を離れて親戚とは言え他人の世話になるのは不安だっただろう。
しかし、本当に苦しいのは父が退院してからだった。
病院でのリハビリで少しは動けるようになったとは言え、一人では歩くことも出来なかった父は二十四時間完全介護が必要だった。そのために母はパートを止めなければならず、稼ぎ手を失った浮竹家を支えるのは浮竹の役目になった。それだけではなく、親代わりとして仕事の合間を縫って母と交代で家事を務め、叔父や伯母と協力してあの頃まだ三歳だった秀と小百合の面倒を見ていたのだ。
今にして思えば母も自分もよく倒れなかったと思う。
子供達も辛かっただろうけれど、我侭も言わずよくやってくれた。
幸い祖父母が遺してくれた家があったから、住む所には困らなくて済んだ。それに保険や貯金のおかげで何とか学費を出すことも出来たのだ。
家族皆が一致団結してこれまで頑張ってきて、やっと今のこの「平凡な日常」を手に入れることが出来たのだ。
裕福ではないが、浮竹家は愛に溢れていた。
「お兄ちゃん、どうしたの?お腹空いてないの?」
「え?あ、ごめんごめん。ちょっと考え事をしていたんだ」
「早く食べないとおかわり無くなっちゃうよー?」
「こら、秀!ちゃんとニンジン食べなきゃ駄目だろう?」
「分かってるよー」
家族の笑顔を噛み締めながら、浮竹はようやくスプーンを動かし始める。
一口掬ったカレーは、子供の頃から変わらない母の味がした。
****
父の風呂の介助を終えた浮竹がリビングに戻ってくると、母がお茶を用意して待っていてくれた。
弟妹達は皆それぞれの部屋にいるのか、リビングには浮竹と母だけだ。
双子達がいないとここも静かだね、と冗談を言いながら浮竹は母から湯呑みを受け取る。掌に感じる温度が心地良かった。
「山本先生はお元気だった?」
「うん。でも、やっぱり御歳を召されててさ、少し複雑な気分だったよ」
「貴方が卒業してから10年近く経つものね・・・お父さんが倒れた時も、わざわざお見舞いに来てくださったわよね。覚えてる?」
「勿論だよ」
「山本先生、何の御用だったの?」
昼間の山本との会話が脳裏を掠め、浮竹の表情が一瞬翳る。
留学の件を母が知れば、何と言うかは分かり切っていた。
自分でもまだどうしたいのか分からないのに、母に余計な心配を掛けることは出来ない。
「たまたま近くまで来たから、懐かしくなって寄って下さっただけだよ」
「そう・・・・・・」
ごめんね、母さん、と心の中で頭を下げた。
子供の頃は母に隠し事なんてしなかったのに、大人になるに連れていつの間にか嘘をつく回数が増えてしまった。
「ねえ、十四郎」
黙ってしまった浮竹を気遣う様に、母の手が湯呑みを持つ浮竹の手にそっと重ねられる。
家事や介護で荒れてしまった手は、浮竹の手よりずっと小さい。
ああ、母さんも年を取ったんだな、と今更のように気が付いて切なくなった。
「何、母さん?」
「貴方には・・・・・・苦労を掛けるわね」
「何言ってるんだよ、俺は苦労なんてしてないよ」
「でも・・・・・・」
「大丈夫だって。心配性だな、母さんは」
不安げに自分を見詰める母を励ますために、浮竹は無理に微笑んでみせる。
誰よりも優しく力強いと信じていた母は、今はこんなにか弱くなってしまった。
母を守ることが出来るのは自分しかいないのだと自身に言い聞かせながら、浮竹は母の手をやんわりと包み込むともう一度安心させるように笑って見せる。
悲しそうな母の瞳には、気が付かない振りをした。
***
「やっぱり、皆を置いてイギリスになんて行けないよな―――」
浴槽から立ち昇る湯気を見詰めながら、浮竹はぽつりと呟いた。
狭い浴室では、思いの外声が大きく響く。
大きく溜息を吐くと、ちゃぷりとたっぷりと張られたお湯が波立った。
元柳斎先生には申し訳ないけど、留学の件は断ろう。
小さくなってしまった母の姿を瞼の裏に浮かべながら、浮竹はそう決心していた。
遼は仕事を始めたばかりで今が大事な時だ。
兄として、傍に付いてやらなければならない。
父だって随分良くなったとはいえ、まだまだ母や弟妹達に介護を押し付けるのは酷だ。
自分がしっかりしなければいけないのだ。
自分が両親を支え、弟達の成長を見守らなければいけないのだ。
でも。
でも―――
それが自分の長男としての務めだと分かっている筈なのに、浮竹には胸を刺す痛みを無視することが出来ない。
(どうして、こんなに胸が苦しいんだろう―――これが正しい選択の筈なのに、どうして俺は迷っているんだ―――?)
本当は、心のどこかで自分はイギリスへ行きたいと思っているのか。
本当は、まだ哲学を諦め切れてはいないのか。
そんな馬鹿なと思いながらも、心の奥底ではそれが真実であることを浮竹は知っていた。
母に嘘は吐けても、自分に嘘を吐くことは出来ない。
(はっ・・・!滑稽だ―――)
自分の中にある分不相応な願望に、思わず自嘲的な笑みが零れる。
夢物語に憧れるには、浮竹は現実の厳しさを知り過ぎていた。
イギリスに行ったとして、その間の生活費は誰が稼ぐのか。
遼や伸に父親役をさせるのか?
辛い思いをするのは自分ひとりで十分だった。
何より、今更哲学を勉強してどうなると言うのだと浮竹は問わずにはいられない。
今の自分が哲学など学んで、何が得られると言うのか。
そこに何の意味があるのか、と。
(それに・・・・・・俺にはもう、あの頃のような情熱は無い・・・・・・)
それなのに―――
ぎゅっと苦しげに眉根を寄せると、浮竹は自分自身を抱き締めるようにきつく両手で肩を掴む。
そうでもしなければ、叫び出してしまいそうだった。
―――目を閉じると、身体の奥底で何かが疼く。
―――意識の深淵で、何かがざわめく。
それは落ち着かないようでいて、それでいてどこかわくわくする、不思議な感覚だった。
こんな感覚は忘れていた。
自分の存在の中核に火が点いたような、脳の中心がじりじりと焼け付くような、そんな感覚。
物心つく頃には既に浮竹の中にあったその感じは、忙しい日々に追われている内に消えてしまったものだと思っていた。
けれど。
(全部あいつのせいだ―――!)
強く握り締めた拳で水面を打つ。
ぱしゃん、と大きく水飛沫が上がった。
そうだ、全てあの男のせいだ、と浮竹は憤る。
あの京楽春水という男が、浮竹の中の忘れていた何かを呼び覚ましたのだ。
*
京楽の絵を目にした瞬間、心臓がどくりと一際大きく脈打つ音を確かに耳にした。
そして京楽に肩を掴まれ現実に引き戻される瞬間まで、浮竹の世界に存在していたのは自身とあの絵だけだった。
あの時自分を襲った感覚をどう表現すればいいのか浮竹には分からない。
何と呼ぶべきなのか分からない。
それは今まで経験したことの無い程に激しく鮮烈な衝撃でありながら、同時に―――逆説的だが―――ひどく懐かしくて、温かく優しい感覚だった。
例えば、それはからからに乾き切った大地に落ちてきた一滴の雨粒。
永い間狂おしいほど求めていたものを、やっと与えられた瞬間に感じる心地良い衝撃。
そして、恵みの水によって渇きが潤されていく喜び。
その感覚は、静かな水面に漣が立つように静かに浮竹の心を震わせ始め、いつの間にか浮竹が忘れていた筈の「何か」を目覚めさせた。
だが、それは決して不快な感覚ではない。
むしろ、やっと居場所を見付けたのだという安堵感にも似た思いだった。
(―――!―――)
だが、ごく自然に胸に浮かんだ言葉に、浮竹は愕然とする。
(居場所、だって―――?)
一体自分は何を考えているのか、何故そんな馬鹿なことを思うのかと、浮竹の心臓が早鐘を打つ。
自分の居場所はここなのに。
家族のいるこの家が自分の居場所なのに。
そう信じている筈なのに、どうして「居場所を見付けた」などという世迷い言が脳裏を過ぎるのか。
(俺の居場所はこの家だ―――この家で、家族皆の笑顔を守るのが、俺の幸せなんだ―――)
そう自分に言い聞かせながらも、浮竹はある言葉が小さな棘のように胸を刺すのを感じていた。
その言葉とは、『幸せ』―――。
(……俺は、幸せなのだろうか―――?)
家族の幸せこそが自分の幸せなのだと信じてきた。
自分の望みも願いも、両親や弟妹達の幸せのためになら犠牲にしても構わない。
皆の笑顔を見ることこそが自分にとって一番の喜びなのだ、と。
だが、昼間の山本との会話を思い出して、浮竹はふと、果たしてそれは自分の本当の気持ちなのだろうかと疑問に思う。
家族の幸福が本当に自分自身の幸福なのだとしたら、何故「犠牲」などという言葉を思い浮かべるのだろうか。
(俺は、俺の幸せを探すことを諦めてしまったのだろうか……?)
悲痛な思いに駆られて浮竹は思わず両手で顔を覆った。
どうしようもない虚しさが黒い染みのように身体中に広がって行く。
―――自分の幸せとは何か。
―――いや、そもそも「幸せ」とは何なのか。
浮竹には、最早どうすればその問いに答えることが出来るのか分からなかった。
心が空っぽになっていくような苦痛に似た感覚と戦いながら、浮竹はふと、大学時代古代ギリシャの哲学者達の『幸福』観について勉強したことを思い出した。
古代ギリシャにおいて「幸福」という概念は、「道徳」や「徳」と同じく「人間として最善の生き方」について考える指針として、非常に重要な意味を持っていた。有名な哲学者達は―――ソクラテスもプラトンもアリストテレスもエピキュロスもゼノンも―――皆それぞれの幸福論を説いたのだ。
ギリシャ語で幸福は「エウダイモニア(eudaimonia)」だ。
だが、古代ギリシャ人にとって「エウダイモニア」という言葉には現代人にとっての「幸福」よりももっと深い意味がある。
現代において幸福という言葉は普通、自分の人生に対しての満足感や安堵感といった心地良い「感情」を指す。しかし古代ギリシャ哲学において「幸福」は、人間を人間たらしめるものであり至上の価値を持つとされる。つまり、「エウダイモニア」とは単なる感情を意味するのではなく、「良く生きること」、「生き甲斐のある人生を生きること」という「行為」そのものを指すのである。
そして、ギリシャ哲学者達によれば、人間だけが持つとされる「ロゴス(理性)」を十分に活用することこそが「良く生きること」なのだという。
もっとも、ロゴスを活用すると言うことはつまり真実を追究することであり、哲学することだ、という結論に達するのはどう考えても自分達に都合の良い偏見だが、と浮竹は苦笑した。
「……俺は、良く生きているさ…………」
ぽつりと、そんな呟きが漏れる。
無意識の内に口から零れ出た言葉に浮竹は一瞬驚いて目を見開くが、直ぐに思い直して、「そうだ、俺は幸福なんだ」と唇を噛み締めた。
哲学の道は捨てたけれど、哲学以外の生き甲斐を見付けたのだから。
「俺の生き甲斐は……家族の生活を支えることだ。これ以上価値のある生き方なんて、俺には無い筈なんだ」
でも、もしそれが真実なら、どうしてこんな気持ちになるのだろう。
何故、自分の言葉がこんなにも空虚に聞こえてしまうのだろう。
「違う!!!俺は幸せなんだ!父さんや母さん、秀や小百合達の笑顔が俺の生き甲斐なんだ……!!それが俺の全てなんだ…………」
きつく両手を握り締めながら、浮竹は何度も何度も俺は幸せなんだと繰り返した。
目を開けば、拳が小刻みに震えていた。
自分は幸せなのだ。
自分の幸福は、家族と共にあるのだ。
――――――でも…………
そう思いながらも、心のどこかで全く別の何かを求めている自分がいることに浮竹は気付いていた。
(―――俺は何をしたいのだろう―――
しなければならないことではなく、俺自身が本当にしたいこと―――)
昔の自分は「答え」を渇望していた。
何に対する答えなのか、それすら分かってはいなかったけれど。
ただ、あの頃の浮竹にとっては、自分が「答え」を欲していることだけが確かで。
自分の存在全てが、答えが欲しくて欲しくてたまらないと啼いていた。
探さずにはいられなかった。
だから、哲学を選んだのだ。
哲学ならば、自分の欲しいものを与えてくれると信じていた。
(あの頃の俺、か―――)
今の自分は過去の自分の抜け殻でしかないと思っていた。
とっくの昔に失くしたと思っていた気持ちは、ずっと胸の内に燻っていただけで、消えてしまった訳ではなかったのだ。
「全部、あの男のせいだ。あの男の絵のせいだ」
京楽春水の絵は、浮竹に「本当の望み」を思い出させた。
浮竹の中の情熱を呼び覚まさしたのだ。
(俺は、どうすればいいのだろう・・・・・・?)
何度も繰り替えした問いへの答えは出ないまま、冷えてしまった肩を温めるために、浮竹は湯船に身体を沈めるのだった。
14.03.10
浮竹家の男の子達の名前は、某アニメのキャラから頂きました^^;
いや、本当に思いつかなかったんです(泣)