1
「女であるということは、絶望を生きるということだ」
その言葉を耳にした瞬間の自分は、きっと随分と呆けた顔をしていたに違いない。リリネットがそう結論付けたのは、ハリベルがしばらくリリネットの顔を見詰めた後、溜息を吐くように言葉を続けたからだった。
顔の半分以上が隠されていて表情が見えないせいで、ハリベルがリリネットの反応に何を感じたのかは分からない。こうして会話をしていても、少し低めの彼女の声は淡々としていて感情の起伏が聞き取れないのだ。
きっと、抑揚の無い声で告げられたから、随分と残酷なことを言われたにもかかわらず、理解するまでにかなりの時間がかかってしまったのかもしれない。一つ一つの単語の意味は聞き取れた筈なのに、文としての意味が頭に入ってこなかったのだ。
そう、ハリベルの言葉は残酷だ。
だってそうだろう。もし彼女の言葉が真実ならば、この世界は途方もなく無慈悲で悲しいほどに理不尽ではないか――
2
「やれやれ、肩が凝るねえ」
はっとして声のした方を見れば、対峙している男が隣にいる仲間と談笑していた。
(こんな時にあたしは何を考えてるんだ……)
戦場の真っ只中だというのに、リリネットはたった今まで全く無関係なことを考えていたのだ。驚きと共に少しの自己嫌悪に襲われる。
ついさっきまで死神側の総大将であろう老人が気勢を高めるための演説を行っていたが、そんなものに気圧されたのでは決してない。むしろ、大仰なことだと目の前に現れた死神二人を冷めた気分で眺めていたくらいなのに。
ただ、自分とスタークの行く手を阻むように移動した、桜色の着物を羽織った死神と白い髪の死神二人の息の合った様子に、リリネットの中の何かがちりりと焦げるような気がしたのだ。
初めて目にした死神二人なのに、彼等を見ていると苛ついて仕方ない。心の奥がざわめいて、遠い昔の記憶が呼び起こされるようだ。まだリリネットとスタークが一人だった頃の、失われた筈の記憶と、忘れ去られた筈の思いが。
(しっかりしろ、リリネット!!)
気を引き締めようとぎり、と下唇を噛んでみるが、空座町の上空に降り立った瞬間の張り詰めた緊張感は戻って来ない。黒腔を抜ける直前まで耳のすぐそばで脈打っていた心臓は、いつの間にかトクン、トクンと規則正しい鼓動を刻んでいる。
「いやいや、凝っているのはボクの肩だってば」
「何言ってるんだ。見たことないぞ、お前の肩が凝ってる所なんて」
敵の目の前だというのに、対照的な外見の二人の死神は軽口を叩き合っている。この余裕は一体どこから来るのだろうか。まさか自分達を馬鹿にしているのだろうかという疑問すら脳裡を過ぎる。こんな奇妙な二人組を前にしてスタークのやる気が更に削がれてしまわないかとふとリリネットは不安になった。只でさえスタークはこの戦争に乗り気ではないのだ。相手がこんな奴等では余計に戦意を喪失するのではないだろうか。
「ところで……その子、ここからどかしちゃもらえないかな?」
リリネットの心配を余所に、派手な身形をした方の死神――京楽というらしい――が妙なことを聞いてきた。陣笠の下から覗く視線は真っ直ぐスタークに注がれている。
「……なんでだい?」
と、問い返すスタークの声には不審と警戒心が滲み出ている。当然だ。京楽の言葉は世間話をしているかのような調子だが、彼が敵であることに変わりはない。何を企んでいるのか知らないが、不用意に会話して相手のペースに乗せられることスタークは危惧しているのだろう。こうしていながらも、もう戦いは始まっているのだと改めてリリネットは気合を入れた。
だが、次の瞬間京楽が発した言葉に耳を疑った。
「その子がいたんじゃ全力で戦えない。キミだってそうじゃないの?」
「ンだとォ!?」
四人の間の空間にリリネットの怒号が響き渡る。
相手のペースに乗せられないように、などという用心は京楽の言葉でどこかへ飛んで行ってしまった。ここは戦場で、リリネットは破面だ。破面とは戦士だ。戦場にいる戦士を戦闘から外すように敵に提案されるなど、戦士にとってこれ程の屈辱があるだろうか。しかし、激昂のあまり今にも京楽に掴みかからんとするリリネットを、スタークは
「黙ってろリリネット」
と冷たく制する。まるでリリネットの意見など聞く必要がないとでも言うかのように。
「……っ!!」
リリネットの怒りを無視して会話を続けるスタークと京楽に、リリネットの中に憤りがふつふつと溜まっていく。身体の中を怒りと悔しさが灼熱の炎となって駆け巡る。
まだ刃を交えてもいないのに、リリネットの力量が分かる筈もない。ならば何故、京楽はリリネットを戦闘から外すように言ったのか。リリネットの外見だけで判断したというのか。
(それは君が女だからさ)
胸の奥にハリベルの言葉が響く。
鋼のように硬く、硝子のように澄んだ声は、リリネットの心に漣を生んだ。
3
虚圏に陽は昇らない。
太陽自体が存在しないのだ。
乾いた砂に覆われた地平線。真っ黒な空にぽっかりと開いた空洞のようにのっぺりとした月。
虚ろな者の世界の名の通り、空っぽの世界。
そこでは時間の流れなど無意味だ。
過去に囚われることもなく、未来を信じることもなく、只、今だけを生きる。
「心」を失くした虚ろな存在には、現在だけが全てなのだ。
リリネットは「現在(イマ)」に満足していた。
少なくともその時までは、確かにそう信じていた。
だから、「いいなぁ」なんて言葉がぽろりと自分の口から漏れたことに一番驚いたのはリリネット自身なのだ。ましてやそれをハリベルに聞かれるなんて。
*
その日、リリネットは藍染が十刃を集めて会議を開いている間、スタークの帰りをぼんやりと待っていた。各十刃に与えられている宮殿で待っていればいいのだろうが、スタークのいない部屋はリリネットには広過ぎる。それに、一人では出来ることも限られる。手持ち無沙汰なのを紛らわすために、わざわざ会議が行われている広間の近くまで出向いたのだった。
だが、実を言えば理由はそれだけではない。ハリベルの従属官達――三獣神(トレス・ベスティア)――がそこにいるかもしれないという期待もあってのことだ。そして予想通り、会議室から少し離れた回廊からぎゃあぎゃあとい喧しい声が聞こえてくる。気配を消して三人のいる回廊へ続く廊下の曲がり角からほんの少し顔を出すと、アパッチとミラローズがこめかみをぴくぴくさせながら睨み合っている姿が目に入った。スンスンはそんな二人を数歩離れた場所から冷ややかな目で見詰めている。いつも通りの三人の姿だ。
スタークにも秘密にしていることだが、リリネットはあの三人が好きだった。いや、好きというのは語弊があるかもしれない。別に彼女達と仲良くなりたいと思っている訳でもないし、接点を持ちたいとすら思ってもいないのだから。あんな騒がしい連中と常に一緒にいたら疲れるに決まっている。ただ単純に、彼女達の遣り取り(むしろ口論というべきかもしれないが)を遠くから眺めるのが好きだったのだ。
これはグリムジョーの従属官達にもいえることだが、三獣神を見ていると、そこには共に戦場を潜り抜けてきた者達の間の結束のようなものが存在していると感じることがある。単に強い破面に付き従っている部下同士という関係以上の連帯意識とでもいうべきだろうか。もっとも、自分達の間にそんな絆があるなどとは三獣神は躍起になって否定するだろうけれど。
スタークとリリネットに従属官はいない。二人の力関係を考えればリリネットが従属官のようなものかもしれないが、少なくともリリネットはスタークの従者であるつもりはないし、スタークの方も、時にリリネットを子ども扱いすることはあっても、主人のようにふるまうことはない。
望めば従属官を得られるのは分かっているが、これまでずっと二人だけで生きてきたせいか、リリネットもスタークも自分達が他の誰かと親密になる姿がどうにも想像できなかった。
それに、本音を言えば怖れてもいたのだ。誰かを従属官として自分達の傍に置いたとしても、どのみち二人の霊圧で魂が削られて死んでしまうのではないか、と。自分達のせいで仲間が死んでいくのを見るのはもう嫌だった。
だからリリネットとスタークは従属官を持たない。虚夜宮で二人の身の回りの世話を従者達も、必要以上に近付けない。虚夜宮に迎えられ、十刃の一員となり、「仲間」と呼べる存在を得た。
スタークとリリネット。孤独だった二人に「仲間」が出来た。たとえ親密な関係を築けなくとも、それだけで十分だった。
にもかかわらず、たった今リリネットの口を吐いて出たのは、羨望の呟きだった。
いつもいつも飽きもせずに喧嘩出来るものだと、呆れ半分感心半分の気持ちでアパッチ達を見ていただけなのに、その言葉は意外なほどにごく自然にリリネットの胸の内から零れ落ちた。
「それは、ミラ・ローズ達のことを言っているのか?」
「……え?……って、うわああああああああああああああ」
音もなく視界に落ちた影を不審に思う間もなく、澄んだ鈴の音のような声が頭上から降ってきた。反射的に振り返ってしまったが、その声の主が誰かなんてわざわざ確認しなくても分かる。
「ハ、ハリベル!いつからそこに!?」
動揺のあまり声が上擦っているが、今のリリネットにはそんなことを気にする余裕は無い。十刃の一人ともあれば霊圧を隠して近付くことなど造作もないことだとはいえ、敵がいる訳でもない虚夜宮でまで気配を殺すことはないだろう。と、文句を言いたかったが、単に自分が弱過ぎてハリベルの霊圧を探知出来なかっただけの可能性に思い至って、喉元まで出掛かっていた叫びはぐっと飲み込んだ。リリネットとハリベルの存在に気付いたのか(あれだけの大声を上げれば気付かない方がおかしいが)、三獣神は言い争いを止めてこちらの様子を窺っている。自分達の主と、主の上司(?)の会話に興味津々のようだ。
「怖がらせたか?」
「べ、、別にっ。誰もいないと思ってたから、ちょっとびっくりしただけだよ。それより、アンタ何時からここに?」
同じ十刃のメンバーとはいえ、リリネットとハリベルは今までまともに言葉を交わしたことなどない。基本的に他の破面との遣り取りはスタークが行うため、リリネットが話す必要がなかったのだ。背後に感じる三人分の視線にも居心地の悪さを感じるが、ハリベルと会話をしているという事実の方がリリネットにとってはずっと落ち着かなかった。
それに、こんな所で彼女の部下達を眺めていた自分は、ハリベルの目にどう映っていたのかを考えると顔から血の気が失せる気さえする。しかも、もしさっきの独り言を聞かれていたらとしたら、あらぬ誤解を受けたかもしれない。寂しい奴なのだと同情されるのは真っ平御免だった。
「たった今来た所だ。スタークももうすぐ出てくるだろう」
「そ、そうなんだ……。ありがと」
必死で冷静さを取り繕うリリネットの努力に気付いているのかいないのか、ハリベルはリリネットの視線の先――アパッチ達の方向だ――をちらりと見遣ると、顎をしゃくってみせた。それだけで主の意図する所を読み取ったのか、三人の従者の気配が一瞬にして消え、後に残されたのはハリベルとリリネットだけになった。
(え。何?どういうこと?この状況はハリベルがあたしに用があるってこと!?)
気まずい沈黙が二人の上に落ちる。社交辞令でもいいから何か喋るべきかとめまぐるしく頭を働かせるが、何故、どうして、という疑問符ばかりが浮かんでくる。そもそもリリネットは曲がりなりにも第一刃なのだから、第三刃であるハリベルに対してもっと堂々とした態度を取るべきなのかもしれないが、ハリベルがリリネットの立場をどう理解しているのか分からないためにどう振舞えば良いのか分からない。沈黙が続けば続くほど、居心地の悪さが募るばかりだ。
ハリベルや他の十刃は自分をスタークの従属官として認識しているのか。それとも、自分と同じ十刃の一員として認めているのか、リリネットは未だに判断出来ないでいた。リリネット自身にも分からないでいる。
ハリベルの次の言葉は、まさにリリネットのそんな悩みの核心を突くものだった。
「以前から気になっていたのだが、何故君は藍染様が十刃を召集した時に来ない?」
「え?」
「君は従属官ではない。スタークの片割れだ。君とスタークは二人で第一刃なのだろう?ならば君にも召集に応じる義務がある筈だ」
「それは……そう言われればそうなんだけど……――」
リリネットの立場の複雑さを、一体どう説明すればハリベルは理解してくれるのだろう。リリネット自身にも分からないことを、どう言葉にすればいいのだろうか。
あんたには関係ないことだ、とスタークなら言っただろう。リリネットにはハリベルの質問に答える義務はないのだから。けれど、気紛れかもしれないとはいえ自発的にリリネットに話しかけてくれた彼女に対して素っ気無い態度を取るのは気が引けた。ハリベルはリリネットを十刃の一員と認めていると分かった今では、尚更のことだ。
「二人で第一刃って言っても、あたしは弱いし……それに、スタークはあたしがいると邪魔だって怒るからさ……」
「そんなことは関係ない。君がいなければスタークは帰刃できない。それはつまり、君の存在は彼にとって必要不可欠ということだろう?」
スタークにとってリリネットの存在は必要不可欠だなんて、リリネット自身ですら二人の関係をそんな風に考えたことはない。そのため、ハリベルの言葉に驚くよりも、彼女の真意はどこにあるのかという困惑の方が勝ったのだ。それまでずっとハリベルを直視することを避けて地面を彷徨わせていた視線を恐る恐る上に向けると、射抜くような真っ直ぐな瞳とぶつかった。初めて間近で見たハリベルの瞳は、想像よりもずっと温かな色をしていた。
「彼は君をもっと大切にするべきなのに」
彼女の瞳を揺らすのは、怒り。悲しみ。それとも憐憫なのだろうか。リリネットには分からない。ぼんやりと理解出来たのは、ハリベルは今痛みを感じていて、その痛みはリリネットにも覚えのあるものだということだけだった。
「……スタークはあたしを大事にしてくれてるよ」
そして、リリネットはその痛みの正体を知ることを恐れている。ゆっくりと、自分に言い聞かせるようにしてハリベルの言葉を否定するのは、自分の胸の奥で燻る恐怖から目を逸らすためだ。
「そりゃあ口は悪いし乱暴な所もあるけど、あれでいてホントは優しいんだ。あたしのことを邪魔者扱いしてるっていうか、あれは、何ていうか、あたしのことをちょっと子ども扱いしてるだけなんだよ」
だから、スタークのことを悪く思わないで。
胸の奥から込み上げてくる懇願の言葉を、わざとらしくはは、と笑ってみせることで忘れようとする。ハリベルにスタークのことを誤解して欲しくないのに、スタークは誰よりも仲間を大切にする男だと知ってほしいのに、リリネットには自分の想いを上手く言葉にする術がなかった
スタークが強い仲間を欲しがっていたことをリリネットは知っている。ずっと彼の隣で彼のことを見詰めてきたのだ。彼がどれだけ孤独を恐れているのか、藍染のおかげで十刃の一員になり仲間を得たことをどれだけ喜んでいるのかを、リリネットは知っている。
リリネットはただ、どれだけスタークが十刃の皆を――仲間を――大切に想っているのか伝えたいだけなのだ。
だが、そのための言葉を探せば探すほどリリネットの心に痛みが走る。スタークが仲間を想う気持ちの強さが意味するのは、リリネットではスタークの孤独を癒すことが出来ないという事実だからだ。リリネットでは「仲間」としては不十分だったという現実だ。
己の魂を二つに分けることまでしたのに、自分達の孤独は消えなかったのかと思うと、打ちのめされた気分になった。
「子ども扱い、か……」
「あたしがもっと強くて、ハリベルみたいに大人の外見だったらスタークももうちょっと違う態度かもしれないけどさ」
あはは、と冗談めかして大げさに笑うと、その笑い声は驚くほど空虚に回廊に響いた。
もし、リリネットがハリベルのように強く美しい姿をしていたら、自分とスタークの関係は今とは違っていたのだろうかと想像したことがない訳ではない。もしリリネットがスタークと同じくらいの年齢の外見だったなら、二人にも三獣神のような関係が築けていたのだろうか。あるいは、スタークが子供で、リリネットが成体の姿をしていたらどうだったのだろう。
だが、それは全て想像の域を出ない。リリネットはこの姿で生まれ、この姿のまま生きるしかないのだ。恐らくこれから成長することもないだろう。「もしも」を想像しても仕方がないのだ。
「それはどうかな」
「え……?」
「たとえ君がスタークよりも強く、スタークのように成体の姿をしていたとしても、彼は決して君を同等の存在だとは看做さないだろう」
吐き捨てるようなハリベルの言葉は、氷の刃のようにリリネットを貫いた。
「な、何言ってるのさ……どうして、そんなこと……」
声が震えている。ハリベルが何を言っているのか理解出来ない。いや、頭が理解することを拒否しているのだ。本能が警鐘を鳴らす。これ以上、聞いてはならないと。知りたくなかった真実を知ることになる、と。
「君は女で、スタークは男だ。男は絶対に女を同等、あるいはそれ以上の存在とは認めない。男にとって女とは、常に組み伏せ服従させるための存在なんだ。男と女は決して対等ではありえない。どれほど女が強くなろうとも、女というだけで、男からは蔑みと憎しみの対象になるものだ」
「そんな……そんなこと、スタークは思ってない!スタークはそんな奴じゃない!!」
「いつか君にも分かる時が来る。女であるということは、絶望を生きるということだ、と――――」
「ぜつ、ぼう……?」
機械人形のようにハリベルに言われた言葉を繰り返すが、彼女が何を云わんとしているのかリリネットには理解出来ない。頭の中が真っ白なのだ。唇は乾き、指先がカタカタと震えていることに気付いたが、何故自分の身体がこんな反応を示すのかが分からない。
「十刃が司る死の形に『絶望』が無いのは何故か、考えたことがあるか?それは、絶望では死ねないからだ。絶望は、魂を死に至らしめる程優しくないからだ。絶望によって生きる気力を失ったとしても、惰性で生きることは出来る。心が何もかもを諦めたとしても、身体は生存を維持するために勝手に動くからな。だが、理性を持った生き物の内、そんな生を望むものがどれだけいるというのだ。しかし、我々はそのような形でしか生きられない。『女』として生まれてきてしまったのだから……」
普段の彼女からは考えられないほどの饒舌は、ハリベルなりの優しさなのだろうか。リリネットが不毛な考えを抱かないように、今ここで、徹底的に希望を打ち砕こうとしているのかもしれない。
「スタークが欲している仲間は、彼と同じ位強い『男』だ。君や私では、決して彼の仲間にはなれない。決して仲間とは認められない。いや、仲間どころか女は男に利用され、捕食される側だ」
何の感情も含まれていないハリベルの声は、リリネットは底の見えない暗い淵に立たされているような錯覚を起こさせる。目の前に延々と広がる虚無に、なす術もなく立ち尽くしているような錯覚だ。
「私の司る死の形が『犠牲』なのは何故か分かるか。それは、私が女だからだ。男達の犠牲になって死んでいく、その象徴なんだ」
だから、君もいつかスタークの犠牲となって死んでしまうのだろう。
言外にそう予言されているのだと分かった。
「そんなの……嘘だ。そんなの、あたしは信じない。スタークはあんたのいうような男とは違う……あたしは……あたしは、スタークを信じてる」
そう言いながらも、リリネットははハリベルの予言を馬鹿馬鹿しいと否定することが出来ない自分に気付いていた。信じられない、信じたくないという感情の隙間に、ハリベルが正しいと直感する自分がいるのだ。だが、そんなことは決して認めない。認められない。スタークとリリネットの間には、男と女の区別など超えた絆が存在するのだ。
「あたしは、スタークを信じてる」
かつて自分だった男を、リリネットは信じたかった。
4
結局、リリネットの意向を無視してスタークと京楽は戦闘を始めた。といっても、刀を合わせると同時に会話もしているようだから、敵同士なのに何処かじゃれあっているようにさえ見える。あの京楽とかいう死神は、本当にスタークとは本気でやり合わないつもりなのかもしれない。
(あのオッサン、スタークを舐めてんの?解放しなくたってスタークはプリメーラなんだから、強いに決まってるのに。大体、スタークもどうして本気出してさっさとやっつけちゃわないんだろ。まさか、ホントに面倒臭いから全部終わるまでちんたらやり過ごそうとしてるんじゃないよね?)
まさか、隊長クラスの相手が自分達の霊圧によって消耗するとも思えない。さっさと本気を出せば、それだけ早く決着が着く筈だ。
(……早くこの戦い終わらないかな――)
リリネットは戦場が好きではない。破面の中にはノイトラのように戦うことが好きで好きで仕方がないというタイプもいるが、リリネットとスタークは出来れば無駄な争いは避けたい方だ。それに、そもそも死神と戦う理由がリリネット達にはない。こちらをそっとしておいてさえくれれば、死神とだって戦わずとも共存出来る筈なのだ。二人が今戦場(ここ)にいるのは、仲間をくれた藍染の恩義に報いる、ただそれだけのためだ。
ふと、スタークと京楽が戦っているよりも更に上空を見上げると、吸い込まれそうに透明な青空が視界一杯に飛び込んできた。虚夜宮の紛い物などではなく、本物の青空。眩い黄金の光を放つ、本物の太陽。ああ、綺麗だな――と、素直に感じた。
あの頃のリリネットは、こんな風に誰かと一緒に陽の当たる場所にいられるなんて想像もしなかった。スタークとて同じだろう。「仲間」と呼べる者達と、同じ空の下に立てるとは思いもしなかったのだ。
だからなのだろうか、こんなにもこの戦闘に躊躇してしまうのは。この美しい空の下で、戦闘なんて何の意味があるのかという疑問を拭えないのは。
(十刃の皆、誰も死ななければいいな……いざとなればスターク一人で皆やっつけられるだろうけど、敵だといっても死神だって仲間がいる。誰かの仲間を殺すのはスタークは気が進まないだろう。向こうがさっさと降参してくれれば楽なのに。死神だって死人は出したくない筈だ)
そこまで考えて、不意にもう一人の死神の存在を思い出した。全く殺気がないからすっかり忘れていたが、元々リリネット達と対峙したのは二人組の死神だ。京楽とスタークが戦う以上、リリネットともう一人の死神――浮竹と呼ばれていた――が戦うのが自然の成り行きだろう。
「あんた、一緒に戦わないの」
くるりと背後を振り返ると、暢気に給水塔の上に正座している浮竹と目が合った。リリネットが自分を見ていることに気が付くと、浮竹はにこりと満面の笑みを返す。それは、一瞬ここが戦場で、自分達が敵同士だということを忘れさせるくらい屈託のない笑みだった。
そのあまりにも場違いな笑顔に苛立ちを覚える。浮竹の次の言葉は、リリネットの気分を更に降下させた。
「勿論。二対一じゃ不公平だからね」
至極当然といった返答は、浮竹が心の底からそう信じているからだろう。だが、ここは戦場で、自分達は戦争をしているのだ。何故そんな悠長なことを言ってられるのか、リリネットには理解出来ない。
「そんなこと言ってる場合?スターク強いよ。あのオジサン死んじゃうよ」
「大丈夫!京楽だって強いさ!」
「知らないよ。ホントに死ぬよ。後悔すんだから」
仲間が死ねば悲しいのは死神だって同じだろう。ならば、どんなことをしてでも仲間を守ろうとすべきなのではないか。何故、浮竹は平然と京楽の戦いを見守っていられるのだろうか。京楽という死神の強さに余程自信があるというのか。リリネットは浮竹の真意を見極めることが出来ず、困惑するしかない。
「ありがとう、優しいんだね。そうならないことを祈ってるよ」
「え……」
浮竹の言葉に、リリネットは返す言葉を失った。それもその筈。戦場で、これから戦うかもしれない敵に「優しい」と言われるなんて、一体誰が想像出来るだろうか。だが、リリネットが驚いたのは浮竹の言葉が場違いだったからだけではない。誰かにそんなことを言われること自体初めてだったのだ。
(このオジサン、何だか今まで会ったことのないタイプだ。何だろう、胸がざわざわする――)
相変わらず浮竹はリリネットに向かってにこにこと微笑み続けている。そんな彼を睨み付けることで、リリネットは自分の中に突如として湧いた胸騒ぎを無視しようとした。
内心の動揺を悟られてはいけない。目の前の男は敵で、自分とスタークの仲間を殺そうと企む奴なのだ。敵は、倒さなければならない。
そう何度も自分に言い聞かせる。
「……あーそう。んじゃ、あたしとやろっか!?」
「それはだめだ!」
「は?」
「君はまだ子供じゃないか!本当はこんな戦場にいること自体良くない事なんだ」
あまりに突拍子のない発言に、リリネットは一瞬自分の耳を疑った。先程の発言といい、とても敵に対する態度とは思えない。浮竹が何を考えているのか、リリネットには全く分からなかった。
「子供!あたしが!?あんたねえ!破面に歳なんか……」
「わかってる。だが、駄目なものは駄目だ!」
確かにリリネットの外見は子供――人間で言えば11、2歳くらいだろうか――のものだが、虚や破面に見かけの年齢など全く当てにならないことなど浮竹ならば理解している筈だ。それに、外見だけで判断するのなら、ハリベルと戦っている死神とて子供と呼んでいいだろう。この場にいるくらいだから隊長クラスの実力はあるのだろうが、外見年齢はリリネットと大して変わらない。子供が戦場にいることを憂うのならば、何故あの死神が戦うことを容認しているのだ。何故、リリネットが戦うことを拒否するのか。
憤りで胸がぐつぐつと煮えたぎるようだった。
「僕にとって君は子供だし、しかも女の子だ」
その言葉はリリネットの全身を凍らせるのに十分だった。浮竹はリリネットが子供である以上に、「女」であることを問題視しているのだと、その一言が明らかにしたのだ。あの氷の竜を操る死神には戦場にいる資格があって、リリネットにその資格がないのは、リリネットが子供の外見をしているからではない。リリネットが女だからだ。
京楽がリリネットを戦闘から外そうとしたのも、リリネットが女だからで、スタークもそれを理解していたのだろう。スタークと京楽が戦い始める前の会話で暗黙の了解とされていたのは、女のリリネットが戦場(ここ)にいる資格がないことだったのだ。そして、リリネットだけがその事実に気付いていなかった。
「僕は君とは戦えない!それでも戦うなんてわがままを言うなら、力尽くで帰らせるよ!君はうちに帰って鞠でもついてなさい!!」
どこまでもリリネットを子供扱いする言葉。それはつまり、浮竹がリリネットを対等の戦士だとは認めていない証拠なのだ。
「……ははっ。いいよ、わかったよ」
怒りで身体が小刻みに震える。リリネットとスタークは元は同じ一つの存在だったのに、一体どうしてここまで差を付けられなければならないのかと、あまりの理不尽さに悲鳴を上げてしまいたかった。
スタークも京楽も浮竹も、自分達は戦場にいる資格があると信じて疑わない。戦う資格を持つと自分達が認めた者としか戦わない。そして、おそらく彼等にとっては「戦闘」が言葉の代わりでもあるのだ。命を懸けて刃を交えることが、心を通わすことに等しいのだ。
だが、リリネットにはその会話の中に入る資格がない。初めから奪われていたのだ。
リリネットは、女なのだから――
「そこまでバカにすんなら、やってやろうじゃないの!」
折れた角から剣を勢いよく取り出す。柄に触れた瞬間、震えはぴたりと止まっていた。
この身体には刃が潜み、この胸の内には灼熱の弾丸が籠もっていることを教えてやろう。戦いという言葉しか理解しないというのなら、その言葉でもってリリネットという存在を浮竹の身体に刻んでやろう。
そう決心して、胸に渦巻く怒りとやり場のない憤りを手に握る刀に込めたのだった。
「覚悟しろよ!」
咆哮と共に大地を蹴った瞬間に脳裡を過ぎったのは、虚圏の常闇の空に浮かぶ、冷たい月の光だった。
5
かつてスタークとリリネットだった虚を、無数の視線が貫く。そこに潜むのは畏怖、猜疑、興味、嫌悪。どう楽観視しても好意的なものは一つもない。明らかな敵意ではないものの、不信を剥き出しにした幾多の目に囲まれるのは落ち着かないものだ。
「仲間にしてくれ、だって?」
「うん。あんたらさえよければ、俺をこの群れに入れて欲しいんだ」
かつて二人だったその虚は、飄々とした口振りを崩さない。内心の怯えなど微塵も感じさせなかった。
彼/女の力ならば、ここにいる虚達を一瞬で全滅させられる。それ程の実力の差があるのだ。幾ら四方を囲まれているといっても、自分よりもずっと弱い相手からの攻撃を恐れる必要はない。そう、彼/女は物理的な危険など恐れていなかった。
彼/女が恐怖するのは拒絶だ。誰にも受け入れてもらえず、一人ぼっちで生きること。それを、彼/女は何よりも恐れていた。
「何故俺達なんだ?あんたはヴァストローデだろう?俺達を食糧にでもするつもりか?」
「もしそんなことを考えていたら、こうして交渉なんて面倒なことをしないで問答無用で攻撃しているさ」
「……だろうな」
彼/女に対峙している大型のアジューカスは、鳥のような仮面の下で小さく溜息を吐いた。このアジューカスの群れのリーダーと思われるその虚は、猛禽類を思わせる獰猛な見た目に反して、相当頭が切れるようだ。
「だからこそ余計に分からない。あんたが俺達の仲間になりたいという理由が。
俺達は見ての通り、アジューカスの集まりだ。しかも、どちらかと言えばギリアン寄りの奴の方が多い。つまり、数は多いがアジューカスの中でも大して強くない虚の集団だ。弱いなりにも何とか自分達の身を守ろうと知恵を絞った結果、数に頼るしかないと考えて群れを作った。
だが、あんたは俺達とは違う。あんたは俺達と比べ物にならないくらい強い。仲間なんて必要ないだろう」
確かに大型虚の言葉通り、彼/女に仲間は必要ない。だが、必要としないということは、必ずしも欲しないということと同義ではない。
「……俺は生まれた時からずっと一人だった。だから、誰かの存在が恋しくなった。それだけさ」
さも簡単なことだとでも言うように肩を竦めて見せる。彼/女の気持ちを理解して貰おうなどとは最初から期待していない。ヴァストローデの自分が、「ただ、誰かと一緒にいたい」という単純な望みを抱くなどということを、このアジューカス達に想像出来るとは思えなかった。彼等のように生存競争に終始している間は、一人ぼっちで生きる寂しさなどに気付かなくても済む。誰よりも強くなってしまったからこそ、彼/女は自分が独りである事実に突き当たったのだ。
そんな考えを持っているからか、彼/女はほんの少しだけ弱い虚が羨ましかった。もっとも、あちらからすれば常に生命の危険に晒されて怯えながら生きるよりも、自由気ままに暮らす彼/女の方が余程恵まれているように見えるのかもしれないが。
「用心棒だと思ってくれればいいよ」
ただの強者の気紛れとでも受け取ってもらえればそれで良い。むしろ、内心の不安を悟られることの方が怖かった。
リーダー格の虚はじっと彼/女を見詰めて何か考え込んでいる。他の虚はそんなリーダーの様子を息を潜めて見守っている。その場にいる何百の虚の息遣いが一つ一つ聞き分けられるのではないかと錯覚するほどに、静かだった。これでは自分の早鐘を撞くように高鳴る心臓の音が聞こえてしまうのではないかと、愚かな考えが彼/女の頭を過ぎった。
どれ程の時間が経っただろうか。徐にリーダー格の虚は周囲の虚と何やら目配せをすると、「勝手にしろ」と言い放ち立ち去っていった。まるでそれが合図だったかのように彼/女を取り囲んでいた虚が一匹、また一匹と虚圏の闇に消えていく。
一人残された彼/女の「交渉成立ってことでいいのかな……?」という呟きに答える者は誰もいなかった。
6
結局、彼/女はその地に留まることに決めた。どうせ他に行く当てもないし、出て行けと言われないのなら出て行く必要はないと判断したのだ。
それから彼/女は、出来るだけ目立たない場所を己の定位置と決めると、そこで昼寝をしたり周囲の虚達の様子をぼんやり観察したりして毎日を過ごすようになった。
初めは変わった新入りを警戒していた虚達だが、数ヶ月もすると、このヴァストローデにもかかわらずアジューカスの仲間になりたいと言った奇妙な虚が自分達に危害を加えるつもりがないと確信したのか、少しずつ彼/女の存在に慣れ始めたようだった。好奇心旺盛な虚の中には、彼/女に接触を試みる者もいた。
*
声を掛けたのは、彼/女が先だった。
何日も前から背中に視線を感じていたので、向こうが彼/女に興味津々なのは分かりきっていた。ただ、どうも怯えが消えないのか、彼/女が振り返ると岩陰に身を隠してしまうのだ。
不毛なやりとりの繰り返しに彼/女が遂に我慢が出来なくなって思わず声を掛けた時もそうだった。
「……あのさ」
「……」
「そこに隠れてる奴。出ておいでよ」
「!!!へ?ぼ、ぼくですか?」
「君以外の誰がいるっていうんだ」
彼/女が視線の主を探そうとすれば隠れ、運良く目が合いそうになると逃げ出すという鬼ごっこを何日も続けて来たというのに、ばれていないとでも思ったのだろうか。それに、視線の主の正体を見破ることなど造作もなかった。なにしろ、視線の主は彼/女の10倍はあろうかという図体をしているのだ、そこらの岩で隠し切れる筈もない。
「君さ、ずっと俺のこと見てるけど、何か用?」
「え!い、いえ……その……ぼぼぼぼぼぼぼぼくは」
毛むくじゃらで長毛の大型犬を思わせる風貌の虚は、身体は大きいが気の弱そうな雰囲気が全身から滲み出ている。
「いや、怒ってるんじゃないんだ。ホントにただ、何か用事でもあるのかな、って思っただけだから」
怯えさせないように努めて優しい声を出す。アジューカスも数が多い訳ではないが、彼/女のようなヴァストローデは更に希少なことは百も承知だ。単純に物珍しさから遠巻きに見物していただけということも十分ありえる。見世物のように扱われるのは気分が良くないが、悪気が無いことは分かっているので殊更事を荒立てるつもりはなかった。
それに、どんな理由であれ、こうして勇気を出してここまで接近してくれたこの虚を好ましく思っているのも事実なのだ。
「いえ、あの、その……ここに来てからもう何日も経ってるのに、食事してないみたいだから、おなかすいてないのかな、って……」
犬に似た虚の言葉に、思わず目を瞠る。まさか、そんな気遣いをされてるなんて思いもしなかったのだ。
「君さ、名前は?俺は――――」
「え?ぼくですか?ぼくはレメディオスです」
「そうか。じゃあ、レメディオス。心配してくれるのは有難いが、俺はあまり食事をしなくても大丈夫なように出来てるんだ。それとも……」
会話の途中でふとある可能性に思い当たる。このレメディオスと名乗る虚は、親切を装ってはいるが、本当はまだヴァストローデを信用出来なくて、自分が食べられはしないかと不安なだけなのではないだろうか、と。
「俺がいつ君達を襲うか、探りを入れていたのかな?」
「そんなこと……」
「大丈夫さ。腹が減っても君達の中から狩ることはない」
仲間だから。
そう付け加えるのは何だか気恥ずかしかったので、ぐっと喉の奥に飲み込んだ。とにかく、彼/女はどんなことがあってもこの群れの虚達を傷付けるつもりはないのだと彼等に納得してもらえるまでは、完全に仲間として受け入れられたとはいえないのだ。こんな口約束のようなもので信用して貰えるとは思えないが、それでもきちんと自分の意志を示しておきたかった。
だが、彼/女の言葉を聞いたレメディオスは、思いもかけないことを話し始めた。
「あ、そうか。貴方はまだこの群れの決まりを聞いてないんですね」
「決まり?」
「はい。決まりという程正式なものではないんですけど……」
レメディオスの説明はこうだ。
このアジューカスの群れは、同族との生存競争に敗れた者や、別の種族の虚と共生する方が生存確率が高まると考えてやってきた者など、様々な虚で構成されている。普段はギリアンを狩ったり、群れを襲ったアジューカスを協力して倒した後獲物を分け合ったりすることで飢えを凌いでいるが、本当に食糧難の折には既に捕食されてこれ以上進化の余地のない虚が、自らの身体を差し出して仲間を飢えから救うのだという。身体の一部を失っても、超速再生能力があるためすぐに元に戻る。
「この方法なら、細々とではあるけど殆ど命の危険を感じることなく生きていけます。ぼくみたいに進化の見込みのない者や、もうこれ以上強くならなくてもいいと、進化を追い求めることに疲れてしまった虚にとっては、こうやって曲がりなりにも平穏に生きられる環境は貴重なんです。これなら現世に行く必要もないから死神に遭遇するのを恐れなくてもいいですしね」
そういって、レメディオスは疲れたように空を見上げた。彼/女もつられて視線を上に移した。
頭上には、相変わらず星一つない漆黒の闇が広がっている。煌々と冴えた輝きを放つ月も、こうして見るとまるで空にぽかりと開いた穴のようだ。
どこまでも白い砂で埋め尽くされた無機質な世界。死が支配するこの世界で、レメディオス達はたとえ一時でも死の恐怖から逃れる方法を見付けたのだ。水も緑もないけれど、彼等にとってここは仮初の楽園なのだ。
彼等とならば、孤独を忘れることが出来るかもしれない。その時、彼/女は初めてそう感じた。
*
レメディオスとの会話を切っ掛けに、彼/女は少しずつ群れの他の虚達とも言葉を交わすようになった。勿論、殆どの虚は基本的に彼/女と接触しようとはしない。それでも以前とは明らかに群れの雰囲気が変わったことに彼/女は気付いていた。どうやら彼/女は群れの一員として受け入れられたらしい。
やっと、自分にも仲間が出来た。
そう彼/女が思えるようになった時、それは起こった。
7
はあはあという荒い呼吸音が聴覚を刺激する。背後ではあちこちで刃がぶつかりう音や爆発音が響く。
「こんなのって……」
肩で息をするリリネットとは対照的に、浮竹は先程から髪一本乱さずに涼しげな姿を保っている。
二人の力の差は歴然だった。
浮竹にはリリネットの攻撃が全く通用しない。リリネットが渾身の力を込めて放った虚閃ですら、浮竹の肌に掠り傷一つ付けることが出来なかった。隊長格の死神がここまで強いとは、リリネットは想像もしていなかった。
「そんな――」
リリネットは自分が弱いことを知っていた。スタークと比べるまでもなく、自分の力が十刃の足元にも及ばないことを理解しているつもりだった。
だが、リリネットがリリネットとして戦ったのはほんの数えるほどしかない。これまではスタークが戦い、あるいはリリネットがスタークの銃となって戦ってきた。それゆえに、リリネットは自分が破面としてはどれ程弱い部類に入るのかを、今この瞬間まで肌で感じることはなかったのである。
「俺は今まで何百という虚閃を見てきた……」
白煙が散る中、浮竹が静かに語り始める。静かな声だが、有無を言わせぬ迫力があった。
「だから言うが、君の虚閃は未熟だ。大虚(メノス)のそれにも及ばない。今みたいに素手でも叩き消せるほどにね」
ぎりり、とリリネットは歯を噛み締める。悔しいけれど、浮竹の言葉は事実だった。リリネットの弾丸(セロ)は、スタークがいなければ空砲に等しいのだ。
「悪いことは言わない、もう帰りなさい。これ以上君を相手に戦うことは俺には耐えられない……!」
浮竹の表情は苦悶に歪んでいる。恐らく彼は本当にリリネットと戦うことを憂いているのだ。彼はそういう男だと、リリネットは直感していた。
だが、浮竹が戦いたくないと思う理由は、リリネットには理解出来ない種類のものだ。理解など、決してしたくない種類のものだ。そう思うと、悔しくて悔しくて泣き出しそうだった。
「……それは、やっぱりあたしが弱いから?女だから?だからあたしとは戦えないって言うの?」
腹の奥からやっとの思いで絞り出した声は、リリネットの予想を裏切って消え入りそうなほどにか細い。だが、リリネットにとってそれは絶望の暗闇で誰の耳に届くことなく消えていく断末魔の悲鳴にも等しかった。
自分の悲痛な思いが浮竹に通じる筈がない。その通りだ、だからお前は帰れと再び侮辱されることを覚悟してリリネットは俯いた。涙を流す姿を見られたくはなかった。
だが、浮竹はリリネットの問いにすぐに答えようとはしなかった。怪訝に思って顔を上げると、酷く寂しそうな浮竹の顔が目に入った。
「君は、気付いていないんだね……」
少し経ってから重い口を開いた彼の口調は、先程までと比べて随分歯切れが悪い。どんな言葉を続けるべきか、迷っているようだった。
「こんなことは、本来なら敵である俺が言うべきではないことは分かっているんだ。俺は君が何故藍染に従っているのかも知らない。だから、そもそも口を挟む資格などないのだろう……」
「あんた、さっきから何言って」
「君は」
彼の語気の強さに怯んでリリネットが口を噤むと、浮竹は改めてリリネットに向き直った。真っ直ぐな瞳がリリネットを捉える。浮竹の表情は真剣そのものだ。だが、彼が次に口にしたのは、リリネットの予想を遥かに裏切った、到底この場には似合わない、くだらないとも言える質問だった。
「自分が何故、今こうして戦場にいるのかを理解しているのかい?」
「……はあ?当たり前だろ。あたしは破面であんたは死神なんだよ?戦うのは当然じゃないか」
「そうじゃない、そうじゃないんだ」
一瞬謎掛けのような言葉は何かの罠なのかと警戒するが、二人の実力差を鑑みれば浮竹に下手な小細工など必要ないことは明らかだ。だからこそ、リリネットは浮竹の意図が分からない。侮辱されているのかとも疑ったが、彼の苦しそうな様子を見ると何か別の思惑があるように感じられた。
「一体、何が言いたいのさ」
「……君は俺達が戦うのは当然だと言ったね。だが、果たしてそれは事実だろうか。俺達は、本当に戦う必要があるのか?」
「……どういう意味だよ」
「戦う理由を持つ者は、戦う覚悟をして戦場に立つ。それは子供でも女性でも、どれ程非力な者でも同じだ。戦う理由は大切な誰かを守るためだったり、自分の誇りを守るためだったり様々だろう。一つ確かなのは、戦う理由を持ち、そのために武器を手に取る決意をした者との戦いは絶対に避けられないということだ。どれ程俺が戦うことを拒否しようとも、話し合いで解決することを望んでも、最終的には戦うことになってしまう。戦いは避けられないことを、俺はよく知っている。
戦いたくなくても戦わなければならない時があると知る者は皆、戦士としての覚悟を持っていると俺は信じている。だからこそ、俺も彼等と戦士として向き合う覚悟がある」
その「避けられない戦い」を過去に経験したのだろうか、浮竹の表情は苦悶の色に染まっている。恐らく、その時のことを思い出しているのだろう。リリネットを見据える瞳は、遠い痛みの記憶に揺れていた。
リリネットには浮竹が何を言おうとしているのか、ぼんやりとしか理解出来ない。記憶がある限りでは、リリネットはどうしても戦わなければならないという状況に陥ったことがなかった。破面としてスタークと共に生を受けてからは進んで戦闘を避けてきたし、戦わなくても相手が自分達の強さに怯んで逃げていくことが殆どだったからだ。それに、虚だった時代のおぼろげな記憶を紐解いても、自衛のために仕方なく襲ってくる敵を撃退したことはあっても、自分から戦いを求めたことはなかったように思う。虚としての自分のことはあまり思い出せないが、気付いた時には周囲の誰よりも強く、それ故に戦う必要を感じなかったことは覚えていた。
そう。リリネットには、全てを捨ててでも戦わなければならない理由などない。戦うことで得られるものなど何もない。だからこそ、他の虚や破面が戦う理由が分からない。彼等が何のために武器を取り、何のために殺し合うのか、リリネットには理解不能なのだ。戦うことにどんな意味があるのか、リリネットには全く分からないのだ。
「……つまり、何が言いたいのさ」
誰かが戦う理由どころか、自分が戦う理由すら分からないリリネットは、戦士としては失格だというのか。戦いそのものに意味を見出せないリリネットには、戦士としての覚悟がないというのか。
「俺は、自分の意志に反して戦場にいる者とは戦えない。
再度問おう。君は何故戦う?何のためにその手に剣を握るんだ?」
畳み掛けるような浮竹の質問は、リリネットの胸に真っ直ぐ突き刺さる。
何故リリネットは戦場(ここ)にいるのか――
その問いにリリネットは答えられない。だが、その事実を認めるのは死んでも嫌だった。
「そんなの……そんなの、仲間を守りたいからに決まってるだろ!」
違う。
激情に駆られてそう叫んでも、心の一番深い場所がリリネットの言葉を否定する。リリネットの魂は、その言葉が嘘だと知っている。
仲間を守りたいのは、寂しい思いをしたくないから。一人になりたくないから。
誰かが傍にいてくれるのなら、戦いなんてどうでもいいのだ。
「あんたなんかに、何が分かる!!!!」
胸に巣食う迷いを打ち消すようにリリネットは刀を振るう。
浮竹の澄んだ目に映る自分を、真っ二つに切り裂いてしまいたかった。
8
ある時、何の前触れもなく一体の虚の身体が崩れ落ちた。がしゃん、とまるで陶器の人形が壊れるような音を立てて。
それを機に、一体、また一体と群れの虚が崩れ始めた。初めは皆訳もわからず、新手の敵の仕業か新種の伝染病かとパニックに陥る者が続出した。そんな中リーダーを筆頭に群れの中でも比較的知能の高い虚が対抗策を得ようと知恵を絞ったが、原因も分からないのに有効な解決法など見付かるわけもなく、議論を重ねる間にもどんどん死体の数は増えていった。
群れに蔓延する突然死の原因が彼/女にあると分かったのは、一体何故だろうか。リリネットもスタークもその頃のことは殆ど覚えていないが、恐らく長い時間を費やして様々な可能性が考慮された結果のことだったのだろう。原因が突き止められた頃には、既に群れの半分以上が犠牲になっていた。
彼/女自身の霊圧が仲間の魂を少しずつ削り取っているのだと知った時の感情は、嫌になるくらいはっきりと思い出せる。自分の存在そのものが仲間を持つことを不可能にすると理解した時、彼/女の目の前は真っ暗になった。孤独という名の牢獄からはどう足掻いても逃げられないのだと、残酷な事実を眼前に叩き付けられた気がした。
そして、ただ、どうしようもなく悲しかった。
自分は永遠に独りぼっちなのだと悟った彼/女は、自ら群れを離れようとした。自分がここにいては更に被害が大きくなるだけだ。ほんの短い間だったが自分を仲間として迎え入れてくれた虚達を、これ以上死なせる訳にはいかなかった。
だが、群れのリーダーは出て行こうとする彼女を引き止めた。
何故と問う彼/女に、リーダーは言葉少なに「ここにいろ。お前は俺達の仲間だ。ここに留まる資格がある。それが気に入らない奴は出て行けばいい」と言うだけだった。
勿論リーダーの決断に納得の行かない者は大勢いた。新入りのために死ぬのはごめんだと群れを去る者は後を絶たなかった。しかし、群れを離れては生き残れないと考えたのか、それとも長く住み着いた場所に未練があるのか、群れに残る虚も少なくなかった。
レメディオスもその一人だった。
9
スタークが本気で戦う決意をした。
こんなに感情の高揚したスタークをリリネットは知らない。リリネットの知るスタークはやる気がなくて面倒臭がりで、戦闘に参加するのはいつだって嫌々だった。
だが、今のスタークはどうだ。表情が生き生きとしているだけでなく、身体の動きもきびきびとしている。それに、帰刃により再びスタークの一部になったリリネットには、スタークの興奮が奔流のように流れ込んでくるのだ。スタークの熱狂を直接感じる今、彼がどれ程京楽との戦いを愉しんでいるのかはっきりと理解出来た。
――どうして?
そんな問いが頭の中を嵐のように駆け巡る。
自分達はずっと弱くなりたいと願っていたのではないのか。弱い奴等が、仲間を傷付けることなく群れていられる奴等が羨ましかったのではないのか。そして、それが不可能ならばせめて同じ位強い仲間を求めていたのではないのか。自分達と一緒にいても死なない仲間を。誰かに殺されてしまわない仲間を。
そして何よりも、自分達は戦いを嫌悪していたのではないのかと、リリネットは愕然とした。
戦いなど、仲間の死の可能性を増やすだけだと憎んでいたのではないか。戦いから逃れられない破面の運命を、心の底から呪っていたのではないのか。
だが、そう思っていたのはリリネットだけだったのか。
「いくぜ、リリネット」
遠くでスタークが何か言っている。だが、まるで別人の声を聞いているようだった。今までどこか間延びするような喋り方だった筈が、今でははっきりとした意思を含んだものになっている。
京楽と戦うことでスタークは変わってしまったのか。いや、それとも最初からリリネットはスタークのことなど何も理解していなかったのかもしれない。ふと、そんな疑念が頭を掠めた。
かつてリリネット達だった虚は弱くなりたいと願い、魂を二つに分けた。だが、弱くなるという願いを叶えたのはリリネットだけで、スタークはやはり強いままだった。魂を裂いてまで弱くなろうとしたのに、結局変わることの出来なかったスタークは、弱くなることを諦めたのだろうか。そして、弱くなる代わりに自分と同じくら強い仲間を求め続けていたのだろうか。
リリネットはずっとスタークと自分は一心同体だと思ってきた。だから、自分一人が弱くなっても何の解決にもならないのだと思ってきた。リリネットとスタークの二人が孤独から解き放たれるためには、二人の力を削らなければならないのだ、と。「二人」で弱くならなければ意味がないのだと信じていた。
けれど、いつの間にかリリネットとスタークの心は離れてしまっていたのかもしれない。
スタークは強い。リリネットなどとは比べ物にならないほど強い。そして、強い者は同じくらい強い者に惹かれるものだ。スタークが本当に欲していたのは、戦場で彼と共に戦うことの出来る仲間なのかもしれない。スタークによって守られる存在ではなく、彼の隣に立つことの出来る、あるいは背中を預けあえるような仲間を。
そう、丁度目の前の二人の死神のような仲間を――
ゴン!
「いってええええええ!!!」
突然視界に火花が散った。思いっ切りスタークの頭突きを食らったのだ。
考え事に夢中で全くの無防備だったためか、今の状態(銃形態)でもかなり痛い。
「シカトすんな!」
「痛あ!!痛いなあっ!アタマ割れたらどーすんだよ。スタークのバカ!!」
「うるせーぞ!!てめーが協力的じゃねーのが悪いんだろ!!」
そもそもスタークはリリネットに帰刃の意思があるか確認していないのだ。もしリリネットが渋々戦闘に参加しているのなら、やる気満々の態で行くぞと声を掛けられたとしてもこちらとしては反応に困るだろう。そう反論しようとしたところで突然二人の口論が遮られた。
「喋ってる最中に斬りかかるか?随分――」
京楽が攻撃を仕掛けてきたのだ。スタークが反撃の態勢に入ったため、リリネットとの会話は強制的に打ち切られる形になった。それに、たとえ会話をする余裕があったとしても京楽が攻撃してきた時点でスタークの興味は彼の方に移ってしまっている。
「……続きを話すぜ――随分余裕の無えマネするんだな。らしくないぜ、隊長さん」
「いやあ本トは最初の一太刀殺るつもりだったんだけどね……あれを躱すとは解放は伊達じゃないね」
リリネットにしてみれば、ついさっき会ったばかりの死神に「らしくない」などという言葉を投げかけるスタークの方が余程らしくない。これではまるで、スタークには京楽がどういった男なのか分かっているようではないか。先程までの戦闘で京楽の人となりを理解したとは到底思えない。リリネットと浮竹の場合とは違い、戦闘中のスターク達がまともに言葉を交わせた筈がないのだ。ならば何故、スタークは京楽の性格を知っているような口振りなのだ。
面白くなかった。
今のリリネットには、スタークが京楽との戦いを楽しんでいることが分かるのだ。敵だというのに、スタークは京楽に好意に近い感情を抱いていることが伝わってくるのだ。いや、好意というよりはもっと漠然とした感情――そう、自分に近い存在を見付けた喜びとでも言うのかもしれない。
つきり、と無い筈の心臓が痛んだ。
「無限装弾虚閃光(セロ・メトラジェッタ)」
リリネットのわだかまりなど意にも介さぬかのように、銃口からは次々と虚閃が繰り出される。
スタークが望めば幾らでもリリネットの身体から銃弾を撃ち出すことが出来るのだ。そこにリリネットの意思など必要ない。リリネットがこの戦闘に乗り気であろうとなかろうと、スタークにとっては関係ないのだ。
(そんなことない。関係なくなんてない)
不穏な考えを打ち消すように、リリネットは自分にそう言い聞かせる。リリネットが帰刃を拒否していれば、スタークは100%の力を出すことが出来ないのだ。スタークが全力で戦うにはリリネットが必要なのだ。スタークにはリリネットの存在が必要不可欠だとハリベルも言っていたではないか。
「ちょっ……ちょっと待った!!こんな技ズルじゃないの!?」
何百という虚閃が京楽を襲う。無数の巨大な霊圧の弾丸と比べて、逃げ惑う京楽の姿は塵に等しい。スタークの虚閃は威力もスピードも大きさもリリネットの虚閃と比較にならない。だが、京楽は全てぎりぎりのところでかわしている。彼の実力が並大抵のものではない証だ。
だが、スタークはその場から一歩も動くことなくほぼ無尽蔵に虚閃を撃つことができる。休みなく繰り出される攻撃に京楽の体力は徐々に削られていく。今の彼に反撃する余裕があるようにも見えない。恐らくスタークは京楽に逃げる力がなくなった所で仕留めるつもりなのだろう。
引き金を引くスタークの指の力強い感触は、彼の迷いの無さを表しているようだ。戦いを愉しんでいたとしても、スタークは京楽を倒す気でいる。スタークにとって京楽は敵でしかないのだ。そんな当たり前のことを確認しただけでリリネットは安堵し、そしてそんな自分に苦笑を漏らした。
スタークは変わった敵に遭遇して少しいつもと様子が違うだけだ。京楽を倒せば、きっと今までの二人に戻ることが出来る。
そう信じれば、先程感じた胸の痛みなど忘れることが出来る筈だった。
しかし、リリネットの上向いた気持ちに水を差すかのように、「双魚理」という解号が空気を震わせた。そして、何かがスタークの肩を掠めるように飛んできた。
「何だ……?今のは――……」
いつの間にか周囲に充満していた筈のスタークの虚閃の塊は跡形も無く消えている。残っていたのは不自然な静寂だった。
「浮竹――……」
「文句は言わせないぞ。向こうも二人みたいなもんだ。俺が加勢しても卑怯じゃないだろう」
浮竹は双剣を構えて京楽を守るように立っていた。リリネットには決して抜かなかった浮竹の斬魄刀が始解されている。
「あんた今どうやって虚閃を撃った?」
「さあ、どうやってだろうな。君がもう一度撃てば解るかもしれないぞ!」
「……成程ね。それもそうだ」
「わかってる?罠だよ、スターク、こういうの」
「……うるせーな」
「そうだ、俺はまだ君を家に帰すのを諦めてないからな!」
「うっせー!!」
全く歯が立たなかったために浮竹の本当の強さは分からないが、彼の底知れなさは先程までの会話でリリネットにも少しは理解できているつもりだ。だが、この状況でまだリリネットを戦闘から外したいなどと悠長なことを言う浮竹は不可解を通り越して不気味ですらある。自分達を侮っているのかそれとも底抜けのお人好しなのか分からないが、今のリリネットの姿を見てもまだ彼女を帰そうとするなんて。銃の姿を取ったリリネットは最早武器でしかないと言うのに。
「ほらあ!やっぱり撃ってきた!だから言ったじゃん!!聞いてんの!?スター……」
浮竹は怖ろしい、あの男のペースに乗せられては駄目だと忠告しても、スタークは聞く耳を持たない。リリネットを無視して浮竹に攻撃を仕掛けては、また先程と同じように虚閃を撃ち返されるという繰り返しだ。
スタークの心は、もう完全に京楽と浮竹との戦闘に奪われている。やはり彼等が強いからなのか。強い者は強さに魅かれる運命なのか。
「らしくねえ真似すんなって言ったろ、隊長さん!」
「らしさの押し付けは良くないねえ、十刃さん。それに、らしさの話をするんなら、らしさが無いのが
ボクらしさだよ」
「ちっ、あんたは俺と似たタイプだと思ってたんだがな」
スタークの声には落胆の色が滲んでいる。京楽が自分と似たタイプだから、何だというのか。似ているから、心を通わせることが出来たかもしれないとでもいうのか。
(スターク……あんた、やっぱりこいつらのことを――)
その後に続く言葉を考えるのが怖い。その先を考えてしまえば、スタークはもうリリネットを見ていないのだと認めてしまうことになる気がした。
――――パキン。
再びスタークが銃を構えようとした時、空の割れる音が四人の頭上に響いた。はっとして顔を上げた先では、黒腔の暗闇が口を開こうとしていた。
もう、迷う時間は残されていなかった。
10
「レメディオス!レメディオス!!」
目を閉じて力なく横たわるレメディオスの傍らで、彼/女は必死で叫ぶ。少しでも長くレメディオスの意識を保つために、声の限りを振り絞って大声を出すが、レメディオスはぴくりと瞼を動かすだけで返事をしない。それでも、その僅かな動作からまだレメディオスに息があるのが見て取れる。今ならまだ間に合う筈だと彼/女は更に声を張り上げた。
「レメディオス、聞いてくれ。お前を助ける方法を考えたんだ。上手く行くかどうかは分からないが、試してみる価値はある」
あれから群れの虚は一人、また一人と彼/女の強過ぎる霊圧に耐えられず骨となり、彼/女を囲む骸の山は増え続ける一方だった。数日前に遂に群れのリーダーも死に、残されたのは彼/女とレメディオスの二人だけとなった。リーダーよりもずっと弱い筈のレメディオスが何故ここまで生き残れたのかは分からない。数ヶ月前からレメディオスは彼/女の傍で殆どの時間を眠って過ごしていたから、その分霊圧の消耗が少なかったのかもしれない。だが、それももう限界だ。
レメディオスの霊圧は、今にも尽きようとしていた。
「俺の身体を食え」
すぅ、と小さく深呼吸をすると、レメディオスに聞こえるようにゆっくりと一語一語を丁寧に発音した。
「俺の身体を食えばお前は進化できる。そうすれば、俺の霊圧にも耐えられるようになる筈だ。だから、俺を食え」
――そして生き延びてくれ。
それは最早、懇願に近かった。
やっと見付けた居場所。手に入れた仲間達。それを自分のせいで失ってしまうのは耐えらなかった。
それに、誰かが傍にいる喜びを知ってしまった今、再び一人に戻るなど考えるだけで怖ろしかった。だから、レメディオスを助ける方法があるのなら、万に一つの可能性でも賭けてみたかった。
「……れ…は、無理……だ……」
掠れた声でレメディオスが答えた。薄っすらと目を開けて、声を頼りに彼/女の方へ首を動かそうとするが、目を動かすので精一杯のようだった。その瞳に彼/女を移しているのかすら怪しい。
「どうしてそんなこと言うんだ。やってみなきゃ分からないだろ?」
「僕……カラダ……これ以上もたな……進化、限界……だ……君を……食べてもカラダ……壊れるだけ……」
「そんな……」
そこまで言って、再びレメディオスは目を閉じた。同時に、彼の足元からコトンと乾いた音がした。
「!!レメディオス!ダメだ!」
彼/女との会話に最後の力を使ってしまったのか、レメディオスの白骨化が始まったのだ。彼/女の目の前でレメディオスの身体は爪先から徐々に崩れ落ちていく。
「頼む、逝くな!一人にしないでくれ!!俺を置いていかないでくれ!!」
彼/女がどれ程泣き叫んでもレメディオスの崩壊は止まらない。もう、何をしても間に合わない。また一人に戻ってしまうと思うと、途端に全身の力が抜けて崩れるように膝を突いた。
一人だ――
かしゃんかしゃんと骨が鳴る音と共に、猛烈な寂しさが彼/女を内側から侵食していく。このまま自分も骨となってしまいたかった。そして、長い時間をかけて風に粉々に削られ、虚圏を覆う真っ白な砂の一部になるのだ。
「――」
レメディオスが彼/女の名を呼んだ。はっとして顔を上げると、レメディオスの目は閉じられたままだが唇は微かに動いている。レメディオスにはもう、声を出す力も残っていないのだ。
「レメディオス?」
レメディオスの唇が、ゆっくりと言葉を形作る。何とかしてそれを読み取ろうと、彼/女は目を凝らした。その間にもレメディオスの白骨化は進む。既に下半身は失われていた。
――ありがとう。
それが、レメディオスの最期の言葉だった。
*
彼/女はまた一人になった。
堆く詰まれた死体の山の中心で膝を抱えて蹲り、彼/女は涙を流しながら考える。
何故、皆彼/女の前からいなくなってしまうのか。彼/女は只、誰かに「お前は一人じゃない」と言ってほしいだけなのに。何故誰も彼/女を孤独から救ってくれないのだろうか。彼/女の孤独を分かち合ってくれないのだろうか。
長い長い時間をかけて、彼/女は一つの答えに辿り着いた。
――弱くなりたい。
彼/女の強さが彼/女を孤独にするのなら、強くなどなくていい。寂しさを産むだけの力など、無くなればいい。
だから、彼/女は己の魂を二つに裂いた。
誰よりも強く、誰よりも寂しがり屋の虚は、力を捨てることを選んだのだ。
リリネットとスタークは、孤独から生まれた。
11
まるで、京楽の時間が止まってしまったかのようだった。
全てはほんの一瞬の出来事だったのに、彼のあの時の表情はリリネットの目に焼き付いている。
ゆっくりと口を開けた黒腔からワンダーワイスがフーラと大量のギリアンを引き連れて現れた。フーラの放つ禍々しい霊圧に空気が震え、ワンダーワイスの狂気がこちらにまで伝染しそうだった。
気が付くと、浮竹の胸からワンダーワイスの腕が生えていた。その異様な光景を前にして何が起こったのかリリネットが理解するよりも早く、京楽がワンダーワイスに刀を振り下ろそうとするのが見えた。けれど、スタークもまた京楽の背後に回っていた。
トン、と銃(リリネット)の切っ先が京楽の肩に当てられる。零距離からの虚閃だった。
「悪ぃな」
眼下の街に落下していく二人の死神の姿を見詰めながら、スタークがぽつりと呟いた。浮竹から流れる真っ赤な血と、京楽から立ち昇る白い硝煙が酷く鮮やかだった。
「あの隊長さんがあんな簡単に後ろを取らせるなんてな……白い方の隊長さんがやられて、相当動揺したんだろうな」
「動揺……?」
「ん?今何か言ったか?」
「……ううん。ただ、少し意外だっただけ」
「そうだな……」
スタークには、京楽のあの凍り付いた表情が見えていなかったのかもしれない。あれは、動揺なんて生易しいものではない。そんな言葉で言い尽くせる感情ではない。
あれが絶望した者の表情なのだろうか。いや、あれは絶望よりももっと激しく、もっと冷たい感情だとリリネットは直感していた。いや、恐らく感情ですらない。
あの時の京楽の中にあったのは痛みだけだ。痛みが彼を支配していた。
(ああ、そうか。やっと分かった……)
あの時、リリネットには確かに京楽の魂の悲鳴が聞こえた。彼の魂が無残に引き裂かれる音を聞いた。今なら分かる。リリネットが見たのは、京楽の魂が引き千切られる痛みだったのだ。
浮竹の胸がワンダーワイスに貫かれた時、京楽の心にあったのは浮竹を失うという恐怖だろう。そして恐らく、その恐怖が京楽にあんな表情(かお)をさせた。何故なら、京楽にとって浮竹を失うことは魂を裂かれることに等しいから。
(あれが、誰かを想うということだ……)
リリネットは、自分とスタークは魂をバラバラにする痛みを知っていると思っていた。沢山の虚閃の狼と共に戦う時に感じる痛みを、魂を引き裂く痛みだと思っていた。だが、違うのだ。
魂とは、誰かを想う心だ。誰かを愛する心だ。
誰かを愛しいと感じない魂は、死んでいるのと同じなのだ。魂とは、自分以外の誰かへと開かれているものなのだ。だから、誰かを愛した魂は、たとえその誰かが死んでしまっても寂しくはない。愛した存在が、その魂には永遠に刻み付けられているのだから。その魂は、決して一人にはならないのだから。
やっと分かった。
京楽のあの一瞬の表情が、全てを教えてくれた。あの一瞬に垣間見た京楽の心の痛みは、何よりも雄弁に彼の愛情の深さを語っていたのだ。
リリネットもスタークも、自分達の寂しさを癒してくれる存在を求めてばかりいた。愛されることばかりを望んでいた。抱き締めてくれる腕を求めていた。
だから、気付けなかったのだ。
自分達は、誰かを抱き締める腕を持っているということに。
瓦礫の上に横たわる二つの白い影。京楽と浮竹は、戦う時も二人一緒なら、倒れる時も二人一緒だった。彼等はきっと、本当に孤独とは無縁なのだろう。
スタークはあの二人が羨ましいのだ。京楽に惹かれたのだって、彼等みたな仲間を欲しいと思ったからなのだ。スタークには――いや、スタークとリリネットには、彼等のような関係を築くことは出来なかった。
魂を二つに裂いてまで二人になったのに孤独が癒えなかったのは、リリネットもスタークも遠くを見てばかりいたからだ。誰かに手を差し伸べてもらうことを待つばかりで、自分達から手を伸ばすことをしなかったからだ。
いや、違う。本当は、二人ともとっくに孤独ではなくなっていたのだ。あの日、スタークとリリネットが「スターク」と「リリネット」として生まれた時、スタークは言ってくれた。一緒に行こう、と。二人でなら、どこへでも行けるさ、と。あの時握った手の温かさをリリネットは忘れていない。
リリネットとスタークは手を伸ばし合った。そして、二人で生きていこうと決めた。
あの日、二人は自分以外の誰かを想うことを知ったのだ。
(レメディオス……今、やっと分かったよ。どうしてあんたが最期までアタシ達の傍にいてくれたのか)
傍にいればいつかは死んでしまうと知りながら、それでもレメディオスはリリネット達だった虚の隣にいることを選んでくれた。レメディオスは、こんなにも彼/女を愛してくれていた。彼/女はとっくの昔に孤独の淵から救われていたのだ。
「No.2が死んで一言も無しかよ……」
ワンダーワイスとフーラの出現に形勢は逆転したかと思われたが、死神側にも更に新手の勢力が加わり、その内の一人の能力にバラガンは倒された。リリネットにとってはいけ好かない老人でしかなかったが、スタークにとってはそれでも大切な仲間だったのだろう。
「遣る瀬無えなあ……弔い合戦ってガラじゃ無えんだがな」
「打ち砕け!!『天狗丸』!!!」
だが、感傷に浸る間もなく背後から新手の死神が襲い掛る。巨大な鬼の棍棒のような武器がスタークの眼前に迫っていた。
「効くかよ!そんなモンが!!」
反射的に撃った虚閃もあっさりと跳ね返されてしまう。真正面から攻撃を食らい、スタークは強かに地面に打ちつけられた。受身も取らず建物に突っ込んだスタークは、瓦礫の中で横たわったまま「いてぇ」と呟いたきり動かない。
スタークが戦意を失いかけているのがリリネットには分かった。
バラガンを失ったことで、昔のことを思い出したのだろう。仲間が死ぬことを恐れ、それ故に戦いを放棄しようとしているのだ。
スタークはまた、手を伸ばすことを諦めようとしている。
「スターク!!!」
ありったけの大声でスタークの名を呼んだ。リリネットにはもう、戦うことに迷いは無い。
「バッカじゃないの、スターク!!」
大切な仲間を守るために戦うしかないというのなら、スタークにはその道しか残されていないというのなら、リリネットはスタークと共に戦う。どんな結末が待っていようと、最後までスタークと同じ道を歩むのだと、やっと決心が着いた。
「仲間が死んで減るのがイヤなら、あんたが戦うしかないだろ!!」
仲間を想う気持ちが、スタークを孤独から救ってくれる。そのために戦わなければならないのなら、リリネットは全力でスタークを支援しよう。もう、スタークに寂しい思いなどさせない。
「…そうだな。お前の言う通りだ」
「行こう、スターク。二人なら何だって出来る。どんな相手とだって戦える」
「ああ。一緒に行こうぜ、どこまでも」
――女であるということは、絶望を生きるということだ。
ハリベルの言葉が再び脳裡に響く。
彼女は正しいのかもしれない。スタークは、決してリリネットの方を向いてはくれないのかもしれない。リリネットが女である限り、スタークはリリネットを本当の仲間だと認めることはないのかもしれない。
でも。
それでも、リリネットは絶望などしない。スタークは孤独からリリネットを救ってくれた。自分以外の誰かを大切だと想うことを教えてくれた。その想いは、リリネットの魂に刻まれている。
そしてきっと、リリネットが最期の瞬間を迎えるその時まで、孤独の闇の中でもスタークを導く一筋の光となってくれるだろう。
真っ白に輝く、故郷の月のように――
22.11.2013
タイトルはラテン語でユリのことです。レメディオスはたまたま読んでいた本の女性キャラの名前なので、あまり深い意味はありません…
もうずーっと京浮vsスタリリ戦の終わり方に納得がいってなくて、でも何故こんなにもやもやするのか自分でも分からないまま時間ばかり経っていたのですが、色々本を読んでいる内に最近になって自分なりに気持ちの整理がついた結果のお話です。これを書くために原作を何度も読み返したんですけど、その度にダメージを負いました…